
思い出すのは、いつも縁側だった。
あの縁側と、白い湯気だった。
俺は今年で七十四になる。
膝がきしみ、朝の冷えが骨の奥まで沁みるようになって久しいが、それでも毎朝、この縁側に座る。
祖母が遺してくれた南部の鉄瓶に水を汲み、七輪に火をかける。
湯が沸くまでの、あの静かな時間が好きだった。
ずっと前から、ずっと今も。
※
昭和三十年代の初め、俺はまだ二十歳になるかならないかだった。
奈良県の吉野の山あいに生まれ、親の田んぼと畑を継ぐことだけが、当たり前のように決まっていた時代だった。
農繁期になると、隣の集落から手伝いの人が集まってきた。
女衆が朝早くから来て、飯をこしらえ、田んぼに入り、日が暮れるまで働いた。
はるこが初めてうちに来たのも、そんな稲刈りの季節のことだった。
小柄で、笑い声の大きな娘だった。
隣の集落の豆腐屋の三女で、村では「はるちゃん」と呼ばれていた。
よく働いた。
田んぼのあぜ道を、俺の母親と肩を並べて歩くはるこの後ろ姿を、俺は何度も見送った。
恋だとは思っていなかった。
ただ、目で追ってしまうのだった。
はるこが笑うたびに、田んぼが少し明るくなるような気がした。
声が大きくて、よく通る声だった。
仕事の段取りを仕切るときは誰よりも頼もしく、冗談を言うときは誰よりも先に笑った。
そういうはるこの隣で、俺はいつも何も言えなかった。
不器用だったわけではなかった、と思う。
ただ、はるこの前に立つと、言葉がどこかへ行ってしまうのだった。
※
はるこが縁側に腰掛けて、俺の煎れたお茶を飲んだのは、初秋のある昼過ぎのことだった。
稲刈りが終わって、みんなが一息ついている頃だった。
鉄瓶の湯気がゆらゆらと立ち上り、縁側に古い秋の光が差し込んでいた。
「源一さん、ここのお茶は美味しいな」
はるこはそう言った。
両手で湯呑みを包むようにして、目を細めて。
俺は何も言えなかった。
ただ、もう一杯どうぞ、とだけ言った。
それだけで、はるこは笑ってくれた。
その笑顔を、どこにも仕舞う場所がなかった。
だから、ずっと胸の中に持ったまま、今もここにある。
祖母が遺した鉄瓶は、かなり年季の入ったものだった。
底に薄く錆が浮いていたが、湯の味はまろやかで、安い番茶でさえ不思議と甘く感じた。
祖母はいつも言っていた。
「大切な人を迎えるとき、この瓶で湯を沸かしなさい。それだけでええ」
子どもの頃には何のことかと思っていた言葉が、その日ようやく腑に落ちた。
はるこが縁側にいる。
それだけで、俺の世界は少し違う色をしていた。
※
それから何年か、はるこは毎年の農繁期にやって来た。
俺はそのたびに、鉄瓶で湯を沸かした。
特別なことは何もなかった。
茶葉は安い番茶で、湯呑みはどこにでもある白いやつだった。
でも、はるこは必ず「ここのお茶は美味しいな」と言った。
おそらく、それは俺への言葉ではなく、縁側の空気や、山の匂いや、疲れた体が一息つく感覚への言葉だったのかもしれない。
それでも俺には、その言葉だけで十分だった。
二年目の秋には、はるこが俺に聞いた。
「源一さんは、なんでここの縁側が好きなん」
俺は答えに詰まった。
「風が通るけん、かな」
そう答えた。
本当のことは、言えなかった。
あなたがここに座るから好きなんや。
そう言える言葉を、俺はまだ持っていなかった。
三年目の夏が終わる頃には、はること話す時間が少し増えた。
村の祭りで隣を歩いたこともあった。
はるこは浴衣姿で、髪をあげていた。
俺は何を話したのか、あまり覚えていない。
覚えているのは、帰り道の提灯の明かりと、はるこの笑い声だけだった。
その夜、家に戻ってからも、しばらく眠れなかった。
眠れない理由がわかっていて、でもそれを言葉にしたら何かが変わる気がして、俺はただ天井を見ていた。
ある秋の台風のとき、川沿いの田んぼが危なくなった。
村中の男が集まって水抜きの作業をして、夜中まで泥の中にいた。
はるこも来た。
女衆には帰れと言ったのに、はるこは「手が足りんやろ」と言って、誰よりも早く泥の中に入った。
雨の音が川の音と混ざり合って、辺りは暗く、松明の光だけが揺れていた。
はるこは俺の隣に立って、土のうを一緒に運んだ。
俺の手と、はるこの手が一度触れた。
一瞬のことだった。
でも、俺はその一瞬を、何十年も覚えている。
冷えた泥水の中で、はるこの手は温かかった。
あの夜、俺は初めてはっきりと思った。
この人と、ここで生きていきたいと。
でも言えなかった。
言葉を出した先が怖かったのだ、と思う。
はるこの笑顔が、別の形に変わることが、怖かったのかもしれない。
※
はるこが大阪の男のところへ嫁ぐと聞いたのは、三年目の秋が終わる頃だった。
「決まったそうやで」と言ったのは母親だった。
俺は田んぼの畔で、その話を聞いた。
ああ、そうか。
それだけ思った。
それだけしか思えなかった。
告白したことはなかった。
する気になれなかったというより、する言葉が、ついに見つからなかった。
はるこには何の非もない。
俺が勝手に、縁側でお茶を出して、勝手に待っていただけだった。
はるこが最後にやって来たのは、十一月の、雨が上がった午後だった。
挨拶回りをしていると母親から聞いた。
俺は鉄瓶に湯を沸かした。
最後だとわかっていた。
でも、いつもと同じことしかできなかった。
湯呑みに番茶を注いで、縁側に出して、隣に座った。
山が遠く霞んでいた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「達者でな」
俺が言ったのは、それだけだった。
はるこは笑った。
「源一さんも」
それだけだった。
はるこは帰り道、一度も振り返らなかった。
背中がだんだん小さくなって、杉の木の影に消えた。
俺は湯呑みを二つ並べたまま、縁側に座り続けた。
はるこが飲んだ残りの一杯が、冷えていくのを見ていた。
言えなかった言葉が、湯呑みの中に沈んでいくような気がした。
俺は、ずっとお茶を出して待っとったんや。
あの日、誰にも言えなかった言葉だった。
※
それから五十年近くが経った。
俺は結婚しなかった。
したくなかったわけではなかった。
ただ、縁側でお茶を出す相手が、いつの間にかはるこしかいなくなっていた。
おかしな話だと、自分でもわかっていた。
でも、そういうことだった。
親が逝き、兄が逝き、集落の人間もひとりふたりと減っていった。
田んぼは半分を人に貸して、あとは庭を細々と耕している。
鉄瓶だけは、祖母の代からのものをそのまま使い続けた。
ひびが入りそうになるたびに、職人のところへ持っていった。
「これだけ古ければ、もう替えたらどうですか」
そう言われるたびに、俺は首を横に振った。
替える気にはなれなかった。
この鉄瓶じゃないといかんのだ、と思っていた。
うまく説明できる理由は、自分でもなかった。
あるいは、うまく説明できる気持ちを、言葉にしたくなかっただけかもしれない。
縁側の板は何度か張り替えたが、向きは変えなかった。
はるこが座っていた場所から、山が見えるままにしておきたかった。
山は変わらなかった。
吉野の秋は今も深く、紅葉が燃えるように色づく。
俺はひとりで、毎朝その山を眺めながらお茶を飲んだ。
誰も来なかった。
誰かが来るとも思っていなかった。
それでも、湯呑みはいつも二つ出した。
なぜそうしていたのかは、自分でもよくわからない。
ただ、そうするのが当たり前になっていた。
※
初秋のある午前、縁側で七輪に火をかけていたら、裏口のほうで声がした。
見知らぬ若い女だった。
三十代くらいだろうか、黒いコートを着て、丁寧に頭を下げた。
「突然すみません。鈴田はるこの、娘です」
俺は返事ができなかった。
「母が、去年の春に亡くなりまして」
はるこが、死んだ。
胸の中で何かがゆっくりと落ちる音がした。
音というより、感触だった。
静かな、重いものが、どこか遠くへ落ちていく感触。
「形見の整理をしていたら、ずっと話していたことがありまして」
娘は続けた。
「吉野の農家の縁側で、本当に美味しいお茶をごちそうになったことがある、と。晩年までよく話していたそうなんです。一度お礼を言いに行かないといけない、と言い続けていたと聞いて……」
俺は縁側の端に目を落とした。
五十年近く前に、湯呑みを置いた場所を、まだ覚えていた。
はるこが飲んだ場所を。
「お茶、飲んでいきなさい」
俺はそう言った。
娘は少し驚いた顔をして、それでも縁側に上がってくれた。
鉄瓶が、静かに沸き始めた。
湯気が白く立ち上って、秋の冷たい空気に溶けていった。
俺は二つの湯呑みに番茶を注いだ。
いつもの番茶だった。
特別なものは何もなかった。
「本当に美味しい」
娘は、はると同じように、両手で湯呑みを包んで言った。
俺は笑った。
声にならない笑いだったが、笑った。
俺は、ずっとお茶を出して待っとったんや。
はるこには、一度も言えなかった言葉だった。
娘は小一時間ほど縁側に座って、はるこの晩年の話をしてくれた。
大阪で子どもを三人育て、旦那さんとは早くに死別したこと。
晩年は娘と同居していたが、よく「奈良の山に、縁側のある農家があって」と話していたこと。
「あそこのお茶の味が、忘れられない」と言っていたこと。
俺は黙って聞いた。
はるこが覚えていてくれた。
ただそれだけのことが、胸の中でじわりと広がった。
日が傾き始めた頃、娘は立ち上がった。
「長居してしまって、すみません」
「ええんや。遠いとこ、来てくれた」
「母も、きっと喜んでいると思います」
娘はもう一度深く頭を下げて、山道を下っていった。
俺はその背中を見送った。
はるこも、こんな背中をして歩いていったのだろうか。
あの十一月の午後、杉の木の影に消えるまで。
一度も振り返らなかった、あの背中を。
※
娘が帰ってからも、しばらく縁側に座っていた。
秋の山は静かだった。
鉄瓶の火は、まだ消えていなかった。
空になった湯呑みが、二つ並んでいた。
俺は、もう一度湯を沸かした。
誰のためでもない。
でも、誰かのために、そうしたかった。
三杯目の番茶を、もう一つの湯呑みに注いだ。
縁側の端、はるこがいつも座っていた場所に。
湯気がまた白く立ち上って、秋の空気に溶けていった。
俺は長い間、その湯気を眺めていた。
はるこの笑顔が、その向こうにあった。
今も、そこにある。