鉄瓶のある縁側で

秋の朝の静かなひととき

思い出すのは、いつも縁側だった。

あの縁側と、白い湯気だった。

俺は今年で七十四になる。

膝がきしみ、朝の冷えが骨の奥まで沁みるようになって久しいが、それでも毎朝、この縁側に座る。

祖母が遺してくれた南部の鉄瓶に水を汲み、七輪に火をかける。

湯が沸くまでの、あの静かな時間が好きだった。

ずっと前から、ずっと今も。

昭和三十年代の初め、俺はまだ二十歳になるかならないかだった。

奈良県の吉野の山あいに生まれ、親の田んぼと畑を継ぐことだけが、当たり前のように決まっていた時代だった。

農繁期になると、隣の集落から手伝いの人が集まってきた。

女衆が朝早くから来て、飯をこしらえ、田んぼに入り、日が暮れるまで働いた。

はるこが初めてうちに来たのも、そんな稲刈りの季節のことだった。

小柄で、笑い声の大きな娘だった。

隣の集落の豆腐屋の三女で、村では「はるちゃん」と呼ばれていた。

よく働いた。

田んぼのあぜ道を、俺の母親と肩を並べて歩くはるこの後ろ姿を、俺は何度も見送った。

恋だとは思っていなかった。

ただ、目で追ってしまうのだった。

はるこが笑うたびに、田んぼが少し明るくなるような気がした。

声が大きくて、よく通る声だった。

仕事の段取りを仕切るときは誰よりも頼もしく、冗談を言うときは誰よりも先に笑った。

そういうはるこの隣で、俺はいつも何も言えなかった。

不器用だったわけではなかった、と思う。

ただ、はるこの前に立つと、言葉がどこかへ行ってしまうのだった。

はるこが縁側に腰掛けて、俺の煎れたお茶を飲んだのは、初秋のある昼過ぎのことだった。

稲刈りが終わって、みんなが一息ついている頃だった。

鉄瓶の湯気がゆらゆらと立ち上り、縁側に古い秋の光が差し込んでいた。

「源一さん、ここのお茶は美味しいな」

はるこはそう言った。

両手で湯呑みを包むようにして、目を細めて。

俺は何も言えなかった。

ただ、もう一杯どうぞ、とだけ言った。

それだけで、はるこは笑ってくれた。

その笑顔を、どこにも仕舞う場所がなかった。

だから、ずっと胸の中に持ったまま、今もここにある。

祖母が遺した鉄瓶は、かなり年季の入ったものだった。

底に薄く錆が浮いていたが、湯の味はまろやかで、安い番茶でさえ不思議と甘く感じた。

祖母はいつも言っていた。

「大切な人を迎えるとき、この瓶で湯を沸かしなさい。それだけでええ」

子どもの頃には何のことかと思っていた言葉が、その日ようやく腑に落ちた。

はるこが縁側にいる。

それだけで、俺の世界は少し違う色をしていた。

それから何年か、はるこは毎年の農繁期にやって来た。

俺はそのたびに、鉄瓶で湯を沸かした。

特別なことは何もなかった。

茶葉は安い番茶で、湯呑みはどこにでもある白いやつだった。

でも、はるこは必ず「ここのお茶は美味しいな」と言った。

おそらく、それは俺への言葉ではなく、縁側の空気や、山の匂いや、疲れた体が一息つく感覚への言葉だったのかもしれない。

それでも俺には、その言葉だけで十分だった。

二年目の秋には、はるこが俺に聞いた。

「源一さんは、なんでここの縁側が好きなん」

俺は答えに詰まった。

「風が通るけん、かな」

そう答えた。

本当のことは、言えなかった。

あなたがここに座るから好きなんや。

そう言える言葉を、俺はまだ持っていなかった。

三年目の夏が終わる頃には、はること話す時間が少し増えた。

村の祭りで隣を歩いたこともあった。

はるこは浴衣姿で、髪をあげていた。

俺は何を話したのか、あまり覚えていない。

覚えているのは、帰り道の提灯の明かりと、はるこの笑い声だけだった。

その夜、家に戻ってからも、しばらく眠れなかった。

眠れない理由がわかっていて、でもそれを言葉にしたら何かが変わる気がして、俺はただ天井を見ていた。

ある秋の台風のとき、川沿いの田んぼが危なくなった。

村中の男が集まって水抜きの作業をして、夜中まで泥の中にいた。

はるこも来た。

女衆には帰れと言ったのに、はるこは「手が足りんやろ」と言って、誰よりも早く泥の中に入った。

雨の音が川の音と混ざり合って、辺りは暗く、松明の光だけが揺れていた。

はるこは俺の隣に立って、土のうを一緒に運んだ。

俺の手と、はるこの手が一度触れた。

一瞬のことだった。

でも、俺はその一瞬を、何十年も覚えている。

冷えた泥水の中で、はるこの手は温かかった。

あの夜、俺は初めてはっきりと思った。

この人と、ここで生きていきたいと。

でも言えなかった。

言葉を出した先が怖かったのだ、と思う。

はるこの笑顔が、別の形に変わることが、怖かったのかもしれない。

はるこが大阪の男のところへ嫁ぐと聞いたのは、三年目の秋が終わる頃だった。

「決まったそうやで」と言ったのは母親だった。

俺は田んぼの畔で、その話を聞いた。

ああ、そうか。

それだけ思った。

それだけしか思えなかった。

告白したことはなかった。

する気になれなかったというより、する言葉が、ついに見つからなかった。

はるこには何の非もない。

俺が勝手に、縁側でお茶を出して、勝手に待っていただけだった。

はるこが最後にやって来たのは、十一月の、雨が上がった午後だった。

挨拶回りをしていると母親から聞いた。

俺は鉄瓶に湯を沸かした。

最後だとわかっていた。

でも、いつもと同じことしかできなかった。

湯呑みに番茶を注いで、縁側に出して、隣に座った。

山が遠く霞んでいた。

しばらく、二人とも黙っていた。

「達者でな」

俺が言ったのは、それだけだった。

はるこは笑った。

「源一さんも」

それだけだった。

はるこは帰り道、一度も振り返らなかった。

背中がだんだん小さくなって、杉の木の影に消えた。

俺は湯呑みを二つ並べたまま、縁側に座り続けた。

はるこが飲んだ残りの一杯が、冷えていくのを見ていた。

言えなかった言葉が、湯呑みの中に沈んでいくような気がした。

俺は、ずっとお茶を出して待っとったんや。

あの日、誰にも言えなかった言葉だった。

それから五十年近くが経った。

俺は結婚しなかった。

したくなかったわけではなかった。

ただ、縁側でお茶を出す相手が、いつの間にかはるこしかいなくなっていた。

おかしな話だと、自分でもわかっていた。

でも、そういうことだった。

親が逝き、兄が逝き、集落の人間もひとりふたりと減っていった。

田んぼは半分を人に貸して、あとは庭を細々と耕している。

鉄瓶だけは、祖母の代からのものをそのまま使い続けた。

ひびが入りそうになるたびに、職人のところへ持っていった。

「これだけ古ければ、もう替えたらどうですか」

そう言われるたびに、俺は首を横に振った。

替える気にはなれなかった。

この鉄瓶じゃないといかんのだ、と思っていた。

うまく説明できる理由は、自分でもなかった。

あるいは、うまく説明できる気持ちを、言葉にしたくなかっただけかもしれない。

縁側の板は何度か張り替えたが、向きは変えなかった。

はるこが座っていた場所から、山が見えるままにしておきたかった。

山は変わらなかった。

吉野の秋は今も深く、紅葉が燃えるように色づく。

俺はひとりで、毎朝その山を眺めながらお茶を飲んだ。

誰も来なかった。

誰かが来るとも思っていなかった。

それでも、湯呑みはいつも二つ出した。

なぜそうしていたのかは、自分でもよくわからない。

ただ、そうするのが当たり前になっていた。

初秋のある午前、縁側で七輪に火をかけていたら、裏口のほうで声がした。

見知らぬ若い女だった。

三十代くらいだろうか、黒いコートを着て、丁寧に頭を下げた。

「突然すみません。鈴田はるこの、娘です」

俺は返事ができなかった。

「母が、去年の春に亡くなりまして」

はるこが、死んだ。

胸の中で何かがゆっくりと落ちる音がした。

音というより、感触だった。

静かな、重いものが、どこか遠くへ落ちていく感触。

「形見の整理をしていたら、ずっと話していたことがありまして」

娘は続けた。

「吉野の農家の縁側で、本当に美味しいお茶をごちそうになったことがある、と。晩年までよく話していたそうなんです。一度お礼を言いに行かないといけない、と言い続けていたと聞いて……」

俺は縁側の端に目を落とした。

五十年近く前に、湯呑みを置いた場所を、まだ覚えていた。

はるこが飲んだ場所を。

「お茶、飲んでいきなさい」

俺はそう言った。

娘は少し驚いた顔をして、それでも縁側に上がってくれた。

鉄瓶が、静かに沸き始めた。

湯気が白く立ち上って、秋の冷たい空気に溶けていった。

俺は二つの湯呑みに番茶を注いだ。

いつもの番茶だった。

特別なものは何もなかった。

「本当に美味しい」

娘は、はると同じように、両手で湯呑みを包んで言った。

俺は笑った。

声にならない笑いだったが、笑った。

俺は、ずっとお茶を出して待っとったんや。

はるこには、一度も言えなかった言葉だった。

娘は小一時間ほど縁側に座って、はるこの晩年の話をしてくれた。

大阪で子どもを三人育て、旦那さんとは早くに死別したこと。

晩年は娘と同居していたが、よく「奈良の山に、縁側のある農家があって」と話していたこと。

「あそこのお茶の味が、忘れられない」と言っていたこと。

俺は黙って聞いた。

はるこが覚えていてくれた。

ただそれだけのことが、胸の中でじわりと広がった。

日が傾き始めた頃、娘は立ち上がった。

「長居してしまって、すみません」

「ええんや。遠いとこ、来てくれた」

「母も、きっと喜んでいると思います」

娘はもう一度深く頭を下げて、山道を下っていった。

俺はその背中を見送った。

はるこも、こんな背中をして歩いていったのだろうか。

あの十一月の午後、杉の木の影に消えるまで。

一度も振り返らなかった、あの背中を。

娘が帰ってからも、しばらく縁側に座っていた。

秋の山は静かだった。

鉄瓶の火は、まだ消えていなかった。

空になった湯呑みが、二つ並んでいた。

俺は、もう一度湯を沸かした。

誰のためでもない。

でも、誰かのために、そうしたかった。

三杯目の番茶を、もう一つの湯呑みに注いだ。

縁側の端、はるこがいつも座っていた場所に。

湯気がまた白く立ち上って、秋の空気に溶けていった。

俺は長い間、その湯気を眺めていた。

はるこの笑顔が、その向こうにあった。

今も、そこにある。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。