北口の大時計の下で二時間待った

夕暮れのからくり時計広場

北口の大時計の覆いが、ようやく外された。

日曜の午後四時。駅前の広場に、百人ほどが集まっていた。

柵の前に小さな舞台ができて、市の職員がマイクの高さを直している。

私は人垣のいちばん後ろに立っていた。

今日は歯科医院の休診日だ。家にいてもよかった。

けれど今朝のニュースで、「北口の大時計、覆い撤去へ」という見出しを見てしまった。

見てしまったら、じっとしていられなかった。

五年近く前の十二月、私はこの時計の下で二時間待った。

あの夜のことを、私は今も、時刻まで覚えている。

同じ広場に立つだけで、足の裏があの冷たさを思い出した。

待ち合わせは、いつも「時計の下」で通じた。

駅前の時計は、この大時計だけなのだと、私はずっと思っていた。

風が冷たい。十月も半ばを過ぎて、マフラーを巻いた人がちらほら見える。

広場の端では、焼き芋の屋台が白い煙を上げていた。

甘い匂いが流れてくる。手袋を忘れた指先は、ポケットの中で冷えていた。

隣に立っていた白髪の男性が、誰にともなく言った。

「この時計はな、昭和三十年代からここにあるんだよ」

「そうなんですか」と、私は小さく返した。

「待ち合わせといえば、北口の大時計の下だった。みんな、ここで待ったもんだ」

みんな、ここで待った。

その言葉が、胸の奥で小さく鳴った。

司会の女性が、短く挨拶をした。

「長らくお待たせいたしました。それでは、除幕です」

青いシートが、ゆっくりと下りてくる。

布のこすれる音がして、文字盤が現れた。

白い盤面に、黒くて太い針。数字は、少し角のある書体だった。

針は、四時十二分を指している。

拍手が起きた。私は手を叩かなかった。

ただ、針の先を見ていた。

隣で、小学生くらいの男の子が母親の袖を引いた。

「あの時計、前からあったの」

「あったよ。ずっと前から」

「なんで、隠してたの」

「工事してたからよ」

母親の答えは、それだけだった。男の子はもう、別のものを見ていた。

工事。

その二文字を、私は五年前の十二月、確かに目にしていたはずなのに。

先に連絡したほうが負け

五年前の私は二十四歳で、航は二十六歳だった。

航は宅配便のドライバーで、朝がとても早かった。

手首には、軍手のゴムの跡が赤い輪になって残っていた。

私は歯科医院に勤めて、三年目だった。

昼休みは十二時から一時間。航の休憩は、荷物次第で、決まった時間がなかった。

だからメッセージは、短いほうがよかった。

「今日、遅い」「了解」。それだけで足りた。

足りていたのだと思う。足りていないことに、気づかなかっただけで。

子どもの頃から、待つのは苦にならなかった。

本を一冊持っていれば、一時間でも平気だった。

航は南口の側に住んでいた。私は北口の側。

駅をはさんで、歩いて二十分の距離だった。

週末ごとにどちらかの部屋に泊まり、月曜の朝は別々の改札から出勤した。

初めて二人で会った日も、北口の大時計の下だった。

航は三十分遅れて、息を切らして走ってきた。

「ごめん。荷物が、ひとつ多かった」

「仕事なら、仕方ないです」

「遅れた罰」

そう言って、航は缶コーヒーを二本、胸の前に差し出した。

一本は私のぶん。もう一本は、自分のぶん。

私はそのときから、航が遅れてくることに慣れた。

遅れても、必ず来る人だった。

同棲の話が出たのは、その年の十一月だった。

不動産屋の前で立ち止まった航が、貼り紙を指さした。

「ここ、駅から近いし、ちょうどいいんじゃないか」

「二人で住むには、ちょっと狭いよ」

「狭いほうが、喧嘩しても逃げられない」

「逃げるつもりなの」

「逃げないって話」

航は笑って、缶コーヒーのプルトップを爪で弾いた。

照れると、手の中のものを鳴らす人だった。

私はあの乾いた音を聞くと、いつも安心した。

その帰り道、航が南口のほうを指さした。

南口のからくり時計は、毎朝前を通るのに、一度も動くところを見たことがないのだと、航は言った。

「八時は、いつも改札にダッシュしてる時間なんだよ」

「じゃあ、今度見に行こうよ」

「そのうちな」

そのうち、が航の口癖だった。

十二月に入って、航の会社から内示が出た。

春から、大阪の営業所に移る話だった。

私がそれを知ったのは、航の口からではない。

航の同僚が、勤め先の医院の受付で、何気なく口にしたのだ。

木曜の夜、私は電話をかけた。

その前の水曜の昼休み、休憩室で何度も口の中で練習した。

「行っていいよ」。たった六文字なのに、舌の上で石みたいに重かった。

「転勤の話、いつ私に言うつもりだったの」

受話器の向こうで、航が息を止めたのが分かった。

「決まってから、言うつもりだった」

「決まってからじゃ、遅いでしょ」

「相談したら、真帆は行くなって言うだろ」

「言わないよ」

「言うよ」

「言わないってば」

「じゃあ、言ってみろよ。行っていいって」

私は、言えなかった。

沈黙が、二十秒ほど続いた。

先に口を開いたのは、航だった。

「土曜の六時。時計の下な」

「……うん」

「その日は、連絡しない」

「なにそれ」

「先に連絡したほうが負け。会いたかったら、来ればいい」

「子どもみたい」

「来れば会えるだろ。時計の下に」

電話を切ったあと、私は笑っていた。

笑いながら、少しだけ苛立っていた。

土曜までの二日間、私は一度も自分からスマホを鳴らさなかった。

航も、鳴らさなかった。

金曜の夜は、部屋の掃除をした。航が泊まりに来ても、来なくても、いいように。

洗面台のコップには、航の歯ブラシが立ったままだった。

捨てようとして、やめた。

負けるものか、と思った。

それが全部の始まりだったのだと、今は思う。

覆われた北口の大時計

土曜日、十二月十八日。

仕事を定時に上がって、いったん家に帰り、服を替えた。

去年の誕生日に航が選んでくれた、グレーのコートを着た。

背中には、使い捨てのカイロを貼った。

五時五十分、北口に着いた。

北口の大時計は、青いシートに包まれていた。

足場が組まれ、時計の頭だけが、四角く切った窓から覗いている。

文字盤の時刻は、ちゃんと読めた。だから私は、何とも思わなかった。

工事のフェンスには、白い字で「ご迷惑をおかけします」とあった。

ほかに、何か読んだ覚えはない。

広場の端で、コンビニの肉まんが湯気を上げていた。

甘い醤油の匂いが、冷たい空気に混ざって流れてくる。

私は自動販売機でココアを買った。

缶が熱くて、両手で包んだ。

六時。

大時計の針が、まっすぐ真上を向いた。鐘は鳴らない。

航は来なかった。

来ないな、と思っただけだった。あの人は、遅れてくる人だ。

十分、二十分。帰宅する人が、バスの列に吸い込まれていく。

靴音と、バスのアイドリングと、駅の発車メロディ。

それが交互に、寄せては引いた。

六時半に、予約した店へ電話をした。

「すみません、少し遅れます」

「承知しました。七時までは、お席をお取りしております」

七時に、もう一度かけた。

「すみません。キャンセルで、お願いします」

声が、思ったより普通に出た。

窓から覗く文字盤は、夜になると内側から白く光った。

その光だけが、動かない私の味方みたいだった。

秒針を探したけれど、この大時計に秒針はなかった。

止まっているみたいで、動いている。

動いているみたいで、止まっている。

制服姿の高校生が、窓の前で手を振った。

向こうから、同じ制服の男の子が走ってくる。

二人は何も言わず、笑って、並んで歩いていった。

ああいうのでいいのに、と思った。

遅れても、走ってきて、笑えばいいのに。

スマホは、何度も開いた。

航とのトーク画面。いちばん下は、木曜の電話のあとに私が送った「おやすみ」だった。

「今どこ」と打って、消した。

先に連絡したほうが負け。

七時半、足の裏が痛くなって、花壇の縁に腰をかけた。

ココアはとっくに冷めて、甘い泥のようになっていた。

コンビニで肉まんを買い直した。熱すぎて、二口で諦めた。

口の中に残った甘さが、ココアのそれと混ざった。

今日こそ「行っていいよ」を言うつもりだった。

言ってから、行かないでと泣くつもりだった。

八時を過ぎると、広場から人が減った。

足元のタイルの目地を、数えた。百二十七まで数えて、やめた。

怒りは、いつのまにか別のものに変わっていた。

事故にあったのではないか、と思った。思って、すぐに打ち消した。

事故なら、誰かから連絡が来る。

来ないのは、来ないつもりだからだ。

私は、そう決めつけることにした。そのほうが、楽だった。

八時九分。

私は親指を動かした。

「来ないんだね。さよなら」

送信を押した瞬間、既読がついた。

画面を開いていたのだ、と思った。

開いていたくせに、来なかったのだ、と思った。

一分後、返事が届いた。

「分かった」

三文字だった。句点もなかった。

私はスマホをコートのポケットに押し込み、バスに乗った。

泣いたのは、家の湯船の中だった。

春になって、航は大阪へ行ったらしい。

それきり、連絡は取っていない。

五年目の展示パネル

式典が終わると、人垣がほどけた。

広場の隅に、白いテントが張ってあった。

「駅前再開発のあゆみ」と、手書き風の看板が出ている。

無料の甘酒が配られていた。

紙コップの縁が熱くて、持ち方に困った。

テントの中には、パネルが十数枚並んでいた。

完成予想図、古い駅舎の写真、工事の職人たちの集合写真。

五年分の工事の記録が、写真と日付だけで淡々と並んでいる。

人の事情は、どこにも写っていなかった。

私は、流し見しながら歩いた。

年表の端に、「二〇二四年三月 南北自由通路が開通」とあった。

それまで駅の北と南は、遠回りの跨線橋でしかつながっていなかったらしい。

「二〇二一年十二月六日 北口大時計に覆いを設置」

その見出しの下に、写真が二枚あった。

一枚は、見覚えのある青いシート。

もう一枚は、大きなポスターだった。

赤い矢印と、からくり時計のイラスト。

「北口の大時計は工事のため覆われています。待ち合わせは、南口からくり時計広場をご利用ください」

私は、その文字を読んだ。

もう一度、読んだ。

十二月六日。私が航と約束をした日の、十二日前だ。

その十二日間、私は毎朝、青いシートを横目に通り過ぎた。

工事か、としか思わなかった。待ち合わせの場所が変わるなんて、考えもしなかった。

写真の下に、小さな字の注記があった。

「掲示場所:南口改札前、南口バス乗り場。※北口側は工事車両の出入りのため、掲示できませんでした」

甘酒の紙コップが、指の中でへこんだ。

ポスターの赤い矢印の先を、指でなぞりかけて、やめた。

パネルの隣に、駅員の言葉が貼られていた。

「北口で待ち合わせていた皆さまへ。南口でお待ちしておりました」

お待ちしておりました。

その一行だけが、胸のいちばん深いところに、まっすぐ落ちた。

「懐かしいでしょう」

白い腕章をつけた年配の女性が、横から声をかけてきた。

「あの頃は、待ち合わせの方が南口に回ってくださって、助かったんですよ」

「……そうなんですか」

「北口側には貼れなかったので、気づかない方も多くて。申し訳なかったです」

「いえ」

女性は私の顔を見て、少しだけ声を落とした。

「お待ち合わせ、だったんですか」

「……はい。五年前に」

私は頭を下げた。何に対して謝られたのか、分からないまま。

感想ノートに、付箋が何枚も貼られていた。

「ここで初デートでした」「孫と待ち合わせ」「やっと外れた!」

私は一枚を手に取り、ペンのキャップを外して、何も書かずに戻した。

北口の私は、あのポスターを見ていない。

南口の航は、見ていた。

航はきっと、私も見たと思ったのだ。

私たちは、二人とも、時間には間に合っていた。

駅前の時計は、二つあった。

この五年間、私はそれを一度も考えたことがなかった。

南口のからくり時計

自由通路を、南口のほうへ歩いた。

壁には、子どもたちの描いた絵が並んでいる。

天井の照明が、一定の間隔で足元を白く洗っていく。

五年前、この通路はなかった。

南口の広場は、北口よりずっと小さかった。

からくり時計は、広場の真ん中に立っていた。

木の柱の上に、三角屋根の小さな家がのっている。

文字盤は、その屋根の下だった。

足元の石畳に、ベンチがひとつ。

時刻は、五時五十七分。

私はベンチに腰をかけた。座面は、冷たかった。

ここに、航は座らなかっただろう、と思った。

待つときは、立っている人だった。

航が南口の改札を出たのは、五時五十分ごろだったはずだ。

まず目に入ったのは、あのポスターだったと思う。

その赤い矢印の前で、航は私の顔を思い浮かべたのではないか。

真帆なら、読んでいる、と。

北口から来る人は、遠回りの跨線橋を渡って、こちらへ降りてくる。

階段の上に人影が現れるたび、航は顔を上げたのだと思う。

コートの色を見て、違うと分かって、また時計を見上げた。

それを、二時間。

あの夜、私が一度でも跨線橋を渡っていたら。

でも私は、渡らなかった。渡る理由が、なかった。

航もきっと、北口をのぞきに来る理由がなかった。

ベンチの脇の説明板に、こうあった。

九時から二十時まで、毎正時に人形が動きます。

六時になった。

屋根の扉が、ゆっくり開いた。

小さな木の楽隊が、レールの上を滑って出てくる。

トランペットを構えた熊。太鼓を叩く兎。

後ろで、傘をさした猫が体を揺らしている。

聞き覚えのない短い曲が、オルゴールの音で広場に落ちた。

一分ほどで、人形たちは扉の奥へ戻っていった。

私は、息を止めていたことに気づいた。

初めて見た。

人形が戻ったあとの広場は、前より静かに感じられた。

音が止むと、待つ時間だけが残る。

私は数えた。

航が六時前から立っていたとして、人形が動くのは六時、七時、八時。

私が北口でココアを握っていた、あの同じ時間に。

毎朝前を通るのに一度も見たことがないと言っていたからくり時計が、三度、動くのを。

航は、ひとりで見ていたことになる。

スマホを取り出して、五年前のトークを開いた。

二十時九分。「来ないんだね。さよなら」

二十時十分。「分かった」

送信を押した瞬間、既読がついた。

画面を開いていたのは、ここに立っていたからだ。

来ない私を待ちながら、何度も私のトーク画面を開いたのだろう。

何か打って、消して、また開いて。

私と、同じことをしていた。

私は北口で、航は南口で。

背中合わせの二つの時計の下で、同じ意地を張っていた。

あの返信の速さを、私はずっと、未練のない人の速さだと思っていた。

違う。待っている人の、指の速さだった。

「分かった」を打ったとき、航はまだ、南口の時計の下に立っていた。

二十時の人形

七時の人形は、ひとりで見送った。

家族連れが、笑いながら広場を横切っていく。

私は売店の自動販売機で、缶コーヒーを買った。

プルトップを、爪で弾いた。

乾いた音が、小さく鳴った。

あの人の癖は、いつのまにか私の指に移っていた。

ブラックの苦味が、舌の奥に長く残った。

帰りの会社員がひとり、足を止めて人形を見上げ、スマホで撮って去っていった。

私は、立ち上がらなかった。

立って待つのは、航の役目だったから。

二十時。

最後の人形が、扉から出てきた。

熊がトランペットを構える。兎が太鼓を叩く。

三度目でも、人形は同じ顔をしていた。

曲が終わり、扉が閉まった。広場の照明が、ひとつ落ちた。

幼い男の子が、父親の手を引いた。

「もう一回見たい」

「今日はもう終わり。明日、また動くから」

「あした、また?」

「そう。明日も、あさっても」

男の子は、納得したように頷いた。

待っていなくても、時計は動く。

航の三度は、航だけの三度だった。

「そのうちな」と笑った航の声が、耳の奥で聞こえた。

そのうち、は、五年かかった。

スマホを開いて、トーク画面に指を置いた。

「南口だったんだね」と、打った。

送信は、押さなかった。

先に連絡したほうが負け。

そんな約束を、私はまだ破っていない。

自由通路を、北口へ戻った。

覆いの外れた北口の大時計は、二十時十二分を指していた。

時計の下には、もう誰も立っていなかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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