宝物ボックス

冬の海は、夏よりもずっと青く見えます。

波の音だけが続く浜辺に立つと、指先はあっという間に冷えてしまいます。

それでも私は毎年、この季節になるとここへ来ます。

コートのポケットから、小さな青いかけらを取り出しました。

海に磨かれた硝子のかけらです。角が取れて、すりガラスのように曇っています。

手のひらの上で、冬の光をわずかに返しています。

これはもう二十年も、私のお守りでした。

そして生涯でただ一度だけ、私の手を離れたことがあります。

その一度のことを、私は今も忘れられずにいます。

私が育ったのは、北国の小さな港町でした。

冬になると鉛色の雲が低く垂れ込め、海は荒れ、家々は潮風で白く霞みます。

夏の観光客が引き上げたあとの浜は、いつもがらんとしていました。

漁船の帰りを告げる汽笛が、夕方になると町のどこにいても届きました。

千夏とは、生まれた家が三軒しか離れていませんでした。

物心ついたときには、もう隣にいた人です。

祖父は元漁師で、船を降りたあとは浜辺で貝や流木を拾って日を過ごしていました。

祖父の指はごつごつとして、いつも潮と煙草の匂いがしました。

ある雪の日、祖父が私の手のひらに、青い硝子のかけらをのせてくれました。

「これはな、海が何年もかけて磨いたもんだ」

「割れた硝子の、尖ったところが全部取れるまで、波がずっと転がしてたんだ」

冷たくて、けれど不思議とあたたかい色でした。

「拾えるのは、めったにないぞ」と祖父は笑いました。

「だからな、見つけたら人にやれ。宝物は、独り占めするもんじゃない」

そのときはまだ、その言葉の意味がよく分かりませんでした。

私はそのかけらに細い紐を通し、首から下げるお守りにしました。

千夏はそれを見て、うらやましそうに言いました。

「いいなあ、それ。海の宝物みたいだね」

「あたしにも拾えるかな」

その日から私たちは、学校の帰りによく浜を歩くようになりました。

寄せては返す波の縁を、うつむいて青いものを探すのです。

けれど海硝子はそう簡単には見つかりません。

割れた瓶が波にさらわれ、砂に転がされ、角が取れて色を失うまでには、長い長い時間がかかるのだそうです。

「気の長い話だね」と千夏が唇をとがらせました。

「うん。だから見つけたら、宝物なんだ」と私は答えました。

雪の深い町でしたから、冬の通学路はいつも往生しました。

ある朝、私は手袋を片方なくして、赤くかじかんだ手を上着に突っ込んでいました。

それに気づいた千夏が、黙って自分の手袋を片方、私に押しつけました。

「はい。片っぽずつな」

「いいよ、悪い」

「いいから。二人で一組。おそろいだと思えば」

千夏の手袋は毛糸が薄くて、けれど内側にぬくもりが残っていました。

私たちはそれぞれ片手だけ手袋をして、もう片方をポケットに入れて歩きました。

白い息が、二つ並んで前へ流れていきました。

その帰り道のことを、なぜだか私はずっと覚えています。

忘れられない朝があります。

大きな台風が町を通り過ぎた、その翌朝のことでした。

海はまだ重くうねっていましたが、空だけは嘘のように晴れていました。

浜には、嵐が沖から運んできたものが、そこら中に打ち上げられていました。

流木、貝殻、割れた浮き玉、そして無数の硝子のかけら。

「今日はきっと、宝物の日だよ」

千夏は長靴のまま、砂に膝をついて夢中で探しました。

濡れた砂の匂いと、まだ塩辛い風の匂いがしました。

やがて千夏が、小さく声を上げました。

手のひらには、めったに見ない赤いかけらがのっていました。

「赤なんて、初めて見た」

「それ、すごいよ。大事にしなよ」と私が言うと、千夏は首を横に振りました。

「ううん。これは半分こ」

割ることなんてできないのに、そう言って笑うのです。

結局その赤いかけらは、千夏が持って帰りました。

私は、それでよかったのだと思っています。

その冬、祖父が静かに息を引き取りました。

眠るように逝った、穏やかな最期でした。

私は葬儀のあいだ、涙をこらえるのに精いっぱいでした。

帰り道、千夏が黙って隣を歩いてくれました。

「おじいちゃん、宝物みたいな人だったね」

千夏がぽつりと言いました。

「うん」とだけ、私は答えました。

それ以上は、声にならなかったのです。

千夏は立ち止まり、私の手にそっと何かをのせました。

あの日、半分こだと言った赤いかけらでした。

「元気出して、っていうお守り」

「……いいのか」

「うん。でも、また今度返してもらうから」

貸し借りばかりの二人でした。

けれど、そのぬくもりだけは、はっきりと手のひらに残りました。

千夏は絵を描くのが好きな子でした。

授業中でも、ノートの隅にいつも海や鳥を描いていました。

色鉛筆の減り方が、私のとはまるで違いました。

一度、私を描いたことがあると言って、けれど見せてくれませんでした。

「下手だから、恥ずかしい」

そう言って、スケッチブックを胸に抱えてしまうのです。

夏には、二人で港の祭りに行きました。

境内の砂利を踏む音、焼きとうもろこしの匂い、遠くで鳴る太鼓。

千夏は金魚すくいの前でしゃがみ込み、いつまでも動きませんでした。

「一匹も取れないね」と私が笑うと、千夏はむきになりました。

帰り道、防波堤の上で花火が上がるのを二人で見ました。

火薬の匂いが風に流れ、千夏の横顔が一瞬だけ赤く染まりました。

そのとき、胸の奥で何かがことりと音を立てたのを、今でも覚えています。

中学に上がると、千夏はぐんと大人びました。

背が伸び、髪を伸ばし、笑うと目尻に小さなしわができるようになりました。

そのころ私は、自分の気持ちにようやく名前がついたのを感じていました。

けれど、口に出せるはずもありませんでした。

千夏には、隣町の中学に通う付き合っている相手がいる、という話だったからです。

背が高くて、運動ができて、私とは何もかもが違う人だと聞いていました。

それを千夏自身の口から聞かされたとき、私はただ「そうなんだ」とだけ言いました。

胸の奥が重くなって、しばらく声が出ませんでした。

一度、放課後の駅で、千夏がひとり長いこと立っているのを見たことがあります。

「誰か待ってるの」と聞くと、千夏は少しあわてて笑いました。

「うん、まあね」

けれど電車が何本行っても、千夏の相手は現れませんでした。

私はそれを、見なかったことにしました。

家に帰って、お守りの青いかけらを、意味もなく何度も握りました。

それでも千夏は、何かあると私に相談を持ちかけてきました。

恋愛のことなど何ひとつ知らない私に、です。

正直に言えば、その話を聞くのはつらいことでした。

けれど千夏の困った顔を見ると、私はいつも黙って隣に座ってしまうのです。

ある冬の夕暮れ、私たちは港の防波堤に腰かけていました。

沖に漁り火が一つ、また一つと点っていく時間でした。

「彼とね、最近うまくいってないんだ」

千夏はそう言って、膝を抱えました。

潮の匂いが強くて、風が耳を切るように冷たい日でした。

私は気のきいた言葉を、何ひとつ返してやれませんでした。

話が途切れたとき、千夏がふと私の胸元を見ました。

「……ねえ、そのお守り、まだ持ってたんだ」

「うん。ずっと」

「ちょっと見せて」

千夏は身を寄せて、私の首から紐ごとそれを外してしまいました。

青いかけらを夕陽にかざして、目を細めています。

その横顔を、私はただ見ていることしかできませんでした。

そして、千夏はいたずらっぽく笑いました。

「これ、仲直りのしるしに、彼にあげてこようかな」

私は思わず声を上げました。

「おい、それは……」

「大丈夫だって。大事にしてくれるよ」

千夏は立ち上がり、防波堤の先で振り返って手を振りました。

風にさらわれそうな声で、そう言い残して。

私の宝物は、こうして私の手を離れていきました。

追いかけることも、引き止めることも、私にはできませんでした。

あとで彼とどうなったのか、それとなく聞いてみたことがあります。

けれど千夏は、いつも決まって話をそらすのでした。

「いつか返すよ」とだけ、笑って。

春が来る少し前のことでした。

千夏は、家の近くの交差点で車にはねられて、あっけなく逝ってしまいました。

知らせを受けたとき、私は玄関先で立ったまま、しばらく動けませんでした。

雪解けの水が軒から滴る音だけが、やけに大きく聞こえていました。

葬儀の日も、私はどこか現実の外にいるようでした。

ふつうに手を振って別れた人が、もういない。

その事実が、どうしても身体に入ってこないのです。

焼香の煙の向こうで、千夏の母親が深く頭を下げていました。

どうしても気持ちの収まりがつかず、私はその母親に頼みました。

「千夏の……部屋を、見せてもらえませんか」

母親はためらいながらも、静かにうなずいてくれました。

小さいころからよく上がり込んでいた家です。

それでも、その日の廊下はひどく長く感じられました。

千夏の部屋には、懐かしい匂いが残っていました。

日に焼けたカーテン、描きかけの海の絵、閉じられたスケッチブック。

机の上には、まだ乾ききらない絵の具のにおいがありました。

私は立ち尽くして、その一つひとつを見ていました。

ふと、棚の上に古びた菓子の缶があるのに気づきました。

蓋には、幼い字でこう書いてありました。

『たからものボックス』

きっと、小さなころからずっと使っていたのでしょう。

角がへこみ、塗装のあちこちが剥げていました。

私はそっと蓋を開けました。

中には、小さな消しゴムや、短くなった鉛筆、色あせた写真が詰まっていました。

友達とピースをしている写真、砂浜で笑っている写真。

祭りの夜に二人で買った、色あせた金魚すくいのポイもありました。

そして、その一番上に、青い硝子のかけらがありました。

彼にあげると言って、私の首から外していったはずのお守りです。

胸の奥が、どくりと鳴りました。

手が震えて、うまく取り出せませんでした。

よく見ると、缶の中の消しゴムの角や、鉛筆の端に、薄く名前が書かれていました。

かすれて消えかけた、私の名前でした。

小学校のころ、二人でおそろいのように名前を書いた、あの文房具でした。

千夏は、それを一つも捨てずに、ここにしまっていたのです。

私が忘れてしまっていたものを、全部。

缶の底には、あの台風の朝の、赤いかけらもありました。

半分こだと言った、あのかけらです。

缶の隅には、小さく折りたたまれた紙が何枚も入っていました。

開いてみると、それは私に宛てた手紙でした。

けれど、どれも投函された跡はありませんでした。

「今日も、言えませんでした」

どの手紙も、決まってそんな一行から始まっていました。

季節の話、学校の話、他愛のない一日の記録。

そして最後は、いつも同じ言葉で結ばれていました。

「明日こそ、ちゃんと言います」

その明日は、とうとう来なかったのです。

棚の上のスケッチブックが、ふと目に留まりました。

見てはいけない気もしましたが、私は手に取りました。

ページをめくると、そこには海の絵の合間に、いくつもの横顔がありました。

防波堤に腰かけた少年、浜でうつむいて何かを探す少年。

どれも、私でした。

最後のページの一枚には、日付と一言だけが書き添えてありました。

『今日も言えなかった』

背後で、母親が小さく声を漏らしました。

「あの子、あなたのことばっかり話してた」

私は振り向けませんでした。

「彼氏なんて、ほんとはいなかったのよ」

「あなたに気をつかわせたくなくて、いるふりをしてただけ」

母親の声が、途中から涙に濡れていました。

私は青いかけらを握りしめたまま、その場にしゃがみ込みました。

あの防波堤の夕暮れ、千夏はこれを彼に渡したのではありませんでした。

自分の宝物の箱に、そっとしまっていたのです。

仲直りのしるしだと笑ったのは、本当は、手放したくなかったからでした。

言えなかったのは、私だけではなかったのです。

駅でひとり待っていた相手も、はじめからいなかったのでしょう。

こらえていたものが、一度にあふれて止まりませんでした。

割れて尖っていた何かが、ようやく角を失って、静かに崩れていくようでした。

「あの子ね、あなたが気をつかうのが分かってたの」

母親は、涙をぬぐいながら続けました。

「好きだって言えば、あなたはきっと、無理をして応えようとするって」

「だから、いないはずの彼氏を作って、線を引いてたのよ」

「不器用な子でした。ほんとうに」

私はうつむいたまま、何度もうなずくことしかできませんでした。

守られていたのは、私のほうだったのです。

今、私は浜辺で子どもたちに海硝子の話をすることがあります。

割れた瓶が、長い時間をかけて宝物に変わるのだという話です。

「拾ったら、独り占めしちゃだめだよ」

祖父の言葉を、私はそのまま渡します。

子どもたちは目を輝かせて、波の縁に散っていきます。

その小さな背中を見ていると、千夏の後ろ姿がよぎることがあります。

防波堤の先で振り返って、手を振ったあの姿が。

私はもう、あの日ほど若くはありません。

それでも、胸の底のかけらだけは、少しも角が取れてくれないのです。

それから何か月かして、千夏の母親が私の家を訪ねてきました。

風呂敷に包んだ、あのスケッチブックを差し出して。

「持っていて。あの子も、きっとそのつもりだったと思うから」

私は両手で、それを受け取りました。

あれから二十年が過ぎました。

私は今も、この港町で暮らしています。

青いかけらは、あの日から私の手に戻り、ふたたびお守りになりました。

赤いかけらも、一緒にポケットに入れて持ち歩いています。

冬になるとこうして浜に来て、波の縁を歩きます。

うつむいて、青いものを探しながら。

割れた硝子が宝物に変わるまでには、気の長い時間がかかります。

尖った痛みが丸くなるのも、きっと同じなのでしょう。

言えなかった言葉は、今も私の胸の底で、静かに転がり続けています。

それでも、憎らしいほど青いこの色を、私は手放せずにいます。

「いつか返すよ」と千夏は言いました。

あの言葉の続きを、私はまだ聞けていません。

祖父は言いました。宝物は、独り占めするものではないと。

だから私は、この話をあなたに渡します。

それでも、あの一冬の記憶があるだけで、私はまだ歩いていけます。

冷たい風の中でも、掌のかけらは、ほんのりと青く光ってくれるのです。

読んでくださって、ありがとうございました。

海は今も、割れたものを黙って磨いています。

私の掌の中で、青いかけらがひとつ、冬の光にまたたきました。

あの手袋のことを、私はときどき思い出します。

片方ずつ分け合えば、冷たさは半分になるのだと、千夏は知っていたのでしょう。

痛みも、きっと同じだったはずなのに。

私は結局、自分の片方を、あの子に渡せませんでした。

せめてこの話を読んでくださったあなたに、伝えたいことがあります。

言いそびれた言葉があるなら、どうか今日のうちに。

波が硝子を磨くほどの時間は、私たちには残されていないのかもしれません。

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