
俺の家には、昔、一頭の山羊がいた。
名前はユリといった。
今になって思う――あの小さな命がうちに来なければ、俺たち家族は、とうの昔にばらばらにほどけていたのだと。
昭和四十年代。
俺たちは、炭鉱町のはずれにある長屋で暮らしていた。
窓を開ければ、黒いボタ山がいつもそこにそびえていて、町じゅうが薄く石炭の粉をかぶっていた。
晴れた日でも、洗濯物の白さは半日でくすんだ。
そういう町だった。
父は坑夫だった。
地の底で石を掘り、上がってくると顔も手も真っ黒で、白目と歯だけが妙に白く見えた。
夜になると、胸の奥から、湿った重い咳をした。
その咳の音を、俺は子どもの頃から、子守唄のように聞いて育った。
母は町の食堂で、朝の暗いうちから夜遅くまで働いていた。
帰りはいつも、俺たちが眠ったあとだった。
枕元に、握り飯と、冷めた煮物が置いてあることだけが、母がそこにいた証だった。
俺はその年、高校を出て、炭鉱の機械を直す鉄工所に、見習いとして入ったばかりだった。
朝から晩まで油にまみれ、先輩に怒鳴られ、覚えることばかりで、家の中のことなど考える余裕もなかった。
早く一人前になって、この長屋を出ていくことしか、頭になかった。
そして、いちばん下に弟がいた。
名を実といった。
実は生まれつき体が弱く、おまけに、言葉がうまく出てこない子だった。
言いたいことが喉の奥でつかえて、最初の一音が、何度も何度もつっかえる。
「お、お、おにいちゃん」と、それだけ言うのに、ずいぶんと時間がかかった。
学校では、それをからかわれていたらしい。
先生に当てられても声が出ず、教室でただ立ち尽くしていることもあったと、あとで母から聞いた。
だから実は、いつも俯いて、家の隅で膝を抱えているような子どもだった。
俺は俺で自分のことに精一杯で、その小さな背中に、ろくに声もかけてやらなかった。
そんな実が、ある日、隣の家から一頭の子山羊を、こっそり抱えて帰ってきた。
隣のじいさんが飼っていた山羊が子を産んだものの、その一頭だけが乳の飲みが悪く、ひどく小さかった。
このままでは育たないだろうと、川向こうの野に放してしまう、という話だった。
それを物陰で聞いていた実が、誰にも相談せず、自分の上着にくるんで連れ帰ってきたのだ。
両手にすっぽり収まるほどの、痩せた白い塊だった。
当然、家じゅうが反対した。
「うちにそんな余裕があるか」
「明日のおまんまにも困っとるのに、山羊なんぞ飼えるわけがなかろう」
父は地の底のような声でそう言い、母は深いため息をつき、俺も思わず舌打ちをした。
借金を抱えた貧しい家にとって、その小さな山羊は、ただの“余計な口”でしかなかった。
それでも、実は引かなかった。
いつも俯いて、何を言われても黙っている弟が、そのときだけは、つっかえながらも、必死に言った。
「ぼ、ぼくが……ぜ、ぜんぶ、せわするから」
顔を真っ赤にして、握りしめた拳を震わせながら、それだけを繰り返した。
あんなに長い言葉を、実が人前で口にするのを、俺は初めて見た気がした。
結局、誰も本気で追い出すことはできず、子山羊はそのまま、長屋の裏に居ついた。
白い体に、額にひとつだけ、薄茶色の斑があった。
実はその斑を見て、ユリ、と名づけた。
なぜユリなのか、聞いても弟は答えなかった。
ただ、その名を呼ぶときだけ、不思議と、実の言葉はつっかえなかった。
「ユリ」
その二文字だけは、いつもまっすぐに、きれいに、口から出てきた。
それが、嬉しかったのだと思う。
つっかえずに呼べる名前が、世界にひとつだけある、ということが。
※
ある寒い冬の夜のことだった。
鉄工所の残業を終えて、俺が凍えた手をこすりながら長屋の路地を曲がると、暗がりの奥で、何かが鳴いていた。
「メエ……メエ……」
細く、心細い声だった。
裏手の物置の陰で、ユリが体を縮めて、小刻みに震えていた。
吐く息が白く、藁屑の上で、まだ小さなその体だけが、必死に丸まっている。
その晩は、父も母も夜勤で、家には誰もいないはずだった。
なのに、ふと見上げると、長屋の二階の小さな窓に、実の顔があった。
硝子に額を押しつけるようにして、申し訳なさそうに、こちらを見下ろしている。
寝間着のまま、ずっとユリを見ていたのだろう。
やがて、きしむ階段を、おそるおそる下りてくる足音がした。
裸足のまま路地に出てきた実は、白い息を吐きながら、ぽつりと言った。
「お、おにいちゃん……ユリ、さむそうで……かわいそうや」
足の裏が霜で赤くなっているのに、本人は、それにも気づいていないようだった。
その声は、つっかえながらも、まっすぐに、俺の胸に届いた。
その一言が、なぜだか俺の胸の、固くなっていた場所を、そっと押した。
明日も早いだとか、寒いだとか、そういう言い訳が、不思議とどこかへ消えていた。
俺は黙って物置から坑木の端材を引っぱり出し、釘を口にくわえて、小さな小屋を組みはじめた。
凍えた指はうまく動かず、何度も金槌で自分の指を打った。
暗くて、寸法もいい加減で、できあがったのは、傾いた不格好な箱だった。
それでも、なぜか手は止まらなかった。
実はどこからか、すり切れた古い毛布を抱えてきて、出来上がったばかりの小屋の底に、皺をのばしながら、丁寧に敷いた。
指がかじかんでいるのに、何度も何度も、毛布の端を整えていた。
ユリは、まるで笑っているかのような顔で、その中に、すとんと収まった。
実は、そのまるい背中を、何度も、何度も、手のひらで撫でていた。
つっかえる言葉の代わりに、その手が、ありったけのものをユリに伝えているようだった。
言葉は、時に不器用だ――それでも、手は嘘をつかない。
その夜、月明かりの下でユリを撫でる弟の横顔を見て、俺はようやく気づいた。
この子と山羊のあいだには、俺たちの誰も入っていけない、言葉のいらない深い絆が、もうとっくに結ばれていたのだと。
そして、その絆を、俺たちは“余計な口”の一言で、危うく野へ放そうとしていたのだ。
※
その夜を境に、うちは少しずつ、変わっていった。
あれほど反対していた父が、いちばん先に変わった。
地の底で咳をしながら働いて帰ってくると、父はまず黙ってユリの小屋を覗き、餌を足してやるようになった。
はじめは照れくさそうに、誰も見ていないのを確かめてから。
やがて、堂々と。
ある日曜には、坑道で使う鑿と金槌を持ち出して、一枚板から、ユリのための飼い葉桶を削りはじめた。
無口な父が、縁側で胡座をかき、目を細めて、慣れない手つきで木を削る。
削り屑が膝の上に降り積もり、咳をしては、また削る。
半日かけて削り上げた桶の縁には、小刀で、ひどく不格好に「ユリ」と彫り込まれていた。
線は曲がり、字の大きさもばらばらだった。
その三文字を見たとき、実が、声を上げて笑った。
つっかえることも忘れて、腹を抱えて、笑った。
父も、つられて、黒い顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
あんなに笑う父を見たのは、いつ以来だったろう。
母は、食堂から野菜の切れ端をもらってきては、ユリの朝飯にした。
「ほら、今日はええもんがあるよ」と、ユリにだけは、機嫌よく話しかけた。
散歩は、手の空いた者が代わるがわる、ボタ山の裾の、枯れ草の道へ連れていった。
いつのまにか、それぞれの役割が自然と決まり、ユリは、家族の真ん中にいた。
飯を囲めば、まずユリの話が出た。
今日はあれを食べた、こんな悪さをした、と。
気づけば、互いに顔を背けがちだった俺たちが、ユリを真ん中にして、同じ方を向いて笑っていた。
※
ユリが来て二度目の冬、そのユリが、ひどく弱ったことがあった。
何を食べたのか、腹を下し、餌に口をつけず、寝床から立ち上がれなくなった。
獣医など、この町にはいなかった。
あったとしても、呼ぶ金など、うちにはなかった。
その夜、家族四人が、誰からともなく裏の小屋に集まった。
父は仕事を早く切り上げて帰り、湯たんぽ代わりに、温めた石を布にくるんでユリの腹に当てた。
母は食堂で習ったという、米のとぎ汁に塩を溶いたものを、匙で少しずつ口に運んだ。
俺は、すきま風が入らないよう、小屋のまわりに筵を立てかけた。
そして実は、一晩じゅう、ユリの頭を膝にのせて、ただ、撫で続けていた。
「ユリ、いかんといて。ユリ、どこにも、いかんといて」
つっかえながら、お経のように、その子はそればかりを繰り返した。
いつもは言葉に詰まる弟が、その夜だけは、止まらなかった。
明け方、ユリが、ぴくりと耳を動かした。
そして、か細い声で、一度だけ「メエ」と鳴いた。
その声を聞いた瞬間、父が、ふっと肩の力を抜いて、洟をすすった。
四人とも、誰も何も言わなかった。
ただ、寒い小屋の中で、しばらく身を寄せ合っていた。
あの一晩で、俺たちは確かに、ひとつの家族になったのだと思う。
その春、実は学校で、初めて作文を読み上げたという。
題は、「ぼくの山羊のユリ」。
つっかえても、笑われても、最後まで読みきったと、担任の先生がわざわざ家まで知らせに来た。
母は、その作文をきれいに畳んで、簞笥の奥に、ずっとしまっていた。
※
やがて父の抱えていた借金も少しずつ片づき、長屋の中は、前より、ずっと明るくなった。
とはいえ、暮らしは平穏ばかりではなかった。
夫婦げんかもした。
兄弟げんかもした。
母が台所で背中を丸めて泣いていた夜もあったし、俺が鉄工所をやめたいと荒れた時期もあった。
実が中学で居場所をなくして、しばらく学校へ行けなくなった季節もあった。
そのすべてのそばに、ユリは何も言わず、ただ静かに、いてくれた。
困った夜には、誰からともなく裏の小屋へ行き、あのまるい背中に、そっと手を当てた。
温かかった。
言葉にできない胸のつかえが、その温もりに触れているうちに、ゆっくりとほどけていった。
ただ、それだけのことが、俺たちを何度も、もう一度立ち上がらせた。
あれが、俺たちの家族の時間だったのだと思う。
※
時は、容赦なく流れていった。
言葉のつっかえと、少しずつ折り合いをつけられるようになった実は、やがて町を出て、遠くの工場へ働きに行った。
駅まで見送ったあの朝、ユリは長屋の木戸の前に立って、空に向かって、長く、長く鳴いた。
まるで、いちばん古い友を送り出すように。
それから数年して、炭鉱が閉まり、胸を病んでいた父が、静かに旅立った。
父が長屋を出て、戻らぬ人となったあの日も、ユリは同じように空を見上げて、寂しげに鳴いた。
母も、やがて町で所帯を持ち直し、家を出ていった。
出ていく日、母はユリの首にしばらく顔をうずめて、それから、何も言わずに背を向けた。
気づけば、長屋に残ったのは、俺とユリ――二人だけになっていた。
まさか自分が、山羊とこんなにも長く寄り添うことになるとは、思ってもみなかった。
あんなに「飼えるか」と舌打ちをしていた、あの俺が、だ。
仕事から帰ると、まずユリの小屋を覗く。
あの夜の父と、まるで同じように。
今となっては、自分でも信じられない。
なあ、ユリ。
あれから、十六年が過ぎた。
去年の夏の終わり、ユリは裏の小屋で、静かに、眠るように動かなくなった。
もう立ち上がることも、鳴くこともなく、ただ穏やかな顔で、戻らぬ眠りについていた。
その額には、出会ったあの日と同じ、薄茶色の斑が、まだ残っていた。
俺は、冷たくなったその背中を、あの遠い冬の夜に実がそうしたように、何度も、何度も撫でた。
不思議と、涙よりも先に、たくさんの声が胸によみがえった。
父の咳。母の鼻歌。つっかえながら作文を読む弟。そして、十六年分の「メエ」という鳴き声。
そのどれもが、ユリのいた、あの長屋の音だった。
今、俺は仏壇に、父の位牌と、あの不格好な飼い葉桶を並べている。
縁に彫られた「ユリ」の三文字は、十六年分の手の脂で、飴色に光っている。
家族がほどけそうだったあの冬、ユリがいてくれたから、俺たちはもう一度、ひとつの輪になれた。
ユリと過ごしたあの家族の時間は、もう二度と戻らない。
それでも、桶の縁を指でなぞるたび、父の笑い声と、まっすぐに「ユリ」と呼んだ弟の声が、今も胸の奥で、よみがえる。
先日、街で所帯を持った実から、久しぶりに電話があった。
受話器の向こうで、あいつは、つっかえることなく、こう言った。
「ユリは、おれたちの、たからものやったな」
ああ、そうだな、と俺は答えた。
それ以上は、言葉にならなかった。
ありがとう、ユリ。
うちの、家族になってくれて――本当に、ありがとう。