来ない流氷を告げた朝

雪の海を望む温かな無線小屋

あいつは、海の見える席に座らなかった。

幌志の駅前に、間口の狭い食堂が一軒あった。

硝子戸を開けると奥まで潮の匂いが通っていて、窓からはオホーツクが横一文字に見えた。

誰でも窓際に座る。

冬でも、そうする。

白い海を眺めながら熱いものを食うのは、この町の数少ない贅沢だった。

それなのに、りつは必ず壁を背にした。

「そっちは寒いから」

そう言って、いちばん奥の、板壁に寄せた席に腰を下ろす。

窓際のほうが日が差して暖かいことくらい、二十歳の娘なら誰でも知っている。

俺は気づいていた。

気づいていて、聞かなかった。

聞けば、こちらの嘘まで掘り返される気がしたからだ。

※

昭和四十七年の春に、俺は幌志の漁業無線局へ入った。

二十一だった。

局といっても、坂の途中に建った平屋である。

屋根から鉄塔が一本、空へ突き出ていた。

風の強い日は、その鉄塔が低く唸る。

唸り方で風速がわかるようになるまで、半年かからなかった。

俺の仕事は、朝と晩の定時交信で沖の船と話すことだった。

位置、漁模様、油の残り、風。

船から届く数字を帳面に落とし、必要なものは漁協へ回す。

言葉にすれば簡単だが、実際にやるのは、ほとんど耳の仕事だった。

空電の向こうから来る声は細く、途中で欠ける。

だから通信士は、声を憶える。

顔ではなく、声を。

三十隻の船の、三十通りの息継ぎを、俺はひと冬で憶えた。

そのころの俺には、ほかに憶えるものがなかった。

嘘つきだった、と書いておくべきだと思う。

父は炭鉱を追われて浜へ流れてきた出面取りで、俺は高等学校を二年で辞めていた。

局では下から数えたほうが早い。

打鍵は遅く、書く字は汚い。

誰かに好かれたことは、たぶん一度もなかった。

それでいいと思っていた。

避けられていたわけではない。

ただ、こちらに用のある人間が、どこにもいなかった。

無線には、ひとつだけ都合のいいところがある。

こちらの顔が、相手に見えないことだ。

※

第八福栄丸というのは、枝浦の小さな船だった。

五トンそこそこの、船主が自分で舵を握る類の船である。

その船の陸まわりが、りつだった。

船主の娘で、二十歳。

夜、父親の船と話すために、番屋の無線機の前に座る。

俺が当直に入ると、たいてい彼女の声が最初に来た。

「幌志、幌志。こちら第八福栄丸、陸です」

律儀な子だと思った。

決められた文句を、決められたとおりに読む。

読み終えてから、少しだけ間があく。

その間に、雑談が挟まる。

「今日、しばれるね」

「うん、しばれる」

そんなやりとりが、二十日ばかり続いた。

顔は知らない。

歳も、はじめは知らなかった。

だから俺は、いくらでも嘘がつけた。

高等学校は出たことにした。

打鍵は局でいちばん速いことにした。

親父は船を持っていることにした。

三つ目は言ったあとで少し悔いたが、りつは疑わなかった。

「すごいね」

そう言うだけで、あとは黙って聞いていた。

こちらの話を途中で遮らない子だった。

黙って聞かれると、人は喋る。

俺は、喋った。

自分でも笑ってしまうくらい、大きなことを喋った。

雑音の向こうで、誰かがこちらの話を聞いている。

たったそれだけのことが、あんなに具合のいいものだとは知らなかった。

※

十二月の半ばに、時化が来た。

夕方の定時交信で、第八福栄丸だけが出なかった。

りつの呼び出しが、二分おきに繰り返される。

「第八福栄丸、第八福栄丸。応答願います」

七回目で、声が崩れた。

崩れたのを本人が悔しがったのが、こちらにもわかった。

俺は、周波数を細かく上下させた。

時化の日は、船の機械が熱で少しずれることがある。

指先で目盛りを撫でるようにして、雑音の層を一枚ずつ剥いでいく。

三十分ほどして、その下から声が出た。

「……ほろし……ろく……なみ、たかい……」

福栄丸の親爺さんの息継ぎだった。

間違えようがない。

「見つけた」

俺はマイクにそう言った。

枝浦の番屋から、りつの返事が来るまでに、たっぷり十秒あった。

「見つけた?」

「ああ。生きてる」

そのあと、りつは何も言わなかった。

無線が繋がったまま、風の音だけが二つの浜を行き来した。

翌週、りつが局まで来た。

紙袋に、砂糖のかかった揚げパンが六つ入っていた。

「これしか買えなかった」

顔を見たのは、それがはじめてだった。

思っていたより背が低くて、長靴を履いていた。

こちらを見るなり、口より先に眉が動いた。

「思ってたより、ふつうだね」

「そっちも」

そう返したら、りつは声を出して笑った。

無線の声より、半分ほど低い笑い方だった。

機械を通すと、人の声は少し高くなるものらしい。

そのことを、俺はその日はじめて知った。

※

それから、休みが合えば幌志で会うようになった。

駅前の食堂で、かけそばを食う。

海沿いの道を、意味もなく歩く。

冬が近づくと、その道はいつも風が正面から来た。

りつは、風の中でも歩調を変えない子だった。

製氷工場の裏を通るのが、二人の道順だった。

そこには氷を削ったときの粉が山になって捨ててある。

りつはときどき立ち止まって、その粉を指ですくって舐めた。

「しょっぱい」

海水で作るから当たり前だと言うと、知ってる、と返ってきた。

知っていて、毎回舐めるのだと。

一度だけ、当直の夜に、りつを局へ入れたことがある。

規則では駄目だ。

それでも局長が根室へ出張の週で、俺は少し大きくなっていた。

受信機の前に座らせて、日が落ちてから混み合う周波数を聞かせた。

雑音の中に、いくつもの声が重なっている。

「これ、誰?」

「金比羅丸。西の泊の船だ」

「じゃあ、これは」

「第三清宝。親爺さんが風邪ひいてる」

りつは目を丸くした。

「わかるの」

「声だけは、わかる」

そのとき、りつが妙な顔をした。

何か言いかけて、やめた顔だった。

俺は聞かなかった。

聞かない癖が、あのころの俺にはついていた。

十一月の終わりに、沖が白く見えた日がある。

流氷ではない。

波頭が光っていただけだ。

それでもりつは足を止めて、しばらく沖を見ていた。

「流氷、好き」

そう言った。

そのとき、りつの声が半音だけ高くなったのを、俺は聞いた。

聞いて、憶えて、そのまま忘れた。

通信士の耳というのは、妙なところで働く。

その少しあとのことだ。

夕方の食堂で、りつが丼に手をつけずにいた。

「腹、減ってないのか」

「うん、減ってない」

やはり、半音高かった。

財布を見られたくないのだと、すぐにわかった。

俺は自分の丼から玉子をひとつ移して、何も言わなかった。

りつも、何も言わずに食べた。

あの子は、嘘が下手だった。

嘘の下手な人間は、たいてい、嘘をつく回数が少ない。

付き合うことになった日に、決めたことがひとつある。

言い出したのは、りつのほうだった。

「嘘と隠し事は、なし」

番屋の前の、雪のない砂利道でそう言われた。

俺は、返事に一拍遅れた。

「わかった」

そう言ったこと自体が、たぶん、その日いちばん大きな嘘だった。

※

翌年の秋、俺は第二級の試験を受けることになっていた。

受かれば見習いが取れる。

給料も上がる。

りつには、ずいぶん前から言ってあった。

言ってあった、というより、言いふらしてあった。

試験の会場は網走だった。

結果は、法規で落ちた。

俺は、その日のうちに嘘を決めた。

「試験、来月に延びた」

「そうなんだ」

「その日は釧路の親戚のとこ、行ってくる」

りつは、そう、とだけ言った。

十日後の日曜に、二人で沖を見に行く約束をしていた。

その日、俺は釧路には行かなかった。

局の宿直室で、法規の本を開いたまま寝ていた。

ばれたのは、局長のせいだ。

漁協の寄り合いで、うちの若いのが落ちましてね、とりつの父親に笑いながら喋ったらしい。

悪気はなかったと思う。

この町では、人の失敗は、天気と同じくらい当たり前の話題だった。

日曜の朝、波止場へ行くと、りつが先に来ていた。

肩が上がっていた。

「なんで嘘ついたの」

風の音のほうがずっと大きかったのに、その声だけはよく聞こえた。

「落ちたなら、落ちたって言えばいいでしょう」

俺は、何も言えなかった。

「頭が悪いのが嫌だなんて、私、一回も言ってない」

りつの目が濡れていた。

「嘘つきが、いちばん嫌い」

そう言って、走って行った。

波止場の縁に、雫がいくつか落ちた。

濡れたコンクリートは、もともとどこもかしこも濡れている。

だから、ただの飛沫だったのかもしれない。

それでも俺は、そう思うことにした。

嫌われても構わない。

前まではそう思っていたはずだ。

なのに、その日から一週間、飯の味がしなかった。

一度手にしたものを手放すのは、はじめから持っていないより、ずっと骨が折れる。

十日ほどして、俺は枝浦へ行った。

謝るつもりだった。

番屋の前でりつを呼び出すと、先に頭を下げたのは向こうだった。

「ごめん。私、怒りすぎた」

こっちが謝りに来たのだと言っても、聞かなかった。

「あの日、沖を見に行きたかったから」

流氷が好きだから、と、りつは言った。

その声が半音高かったかどうか、俺は憶えていない。

風の強い日だった。

そういうことにして、俺はその日、頭を下げそこねた。

自分はやはり駄目な人間だと、心底思った。

それきり、俺は嘘をやめた。

やめた、と言い切れるくらいには、やめた。

法規も憶えた。

翌年の春に、二級は通った。

合格の紙を最初に見せたのは、りつだった。

「知ってた」

そう言われた。

その声は、低かった。

※

昭和五十年の秋に、りつが倒れた。

番屋の階段で、二段だけ落ちた。

打ち身だと本人は言った。

けれど痣の消え方がおかしいと、母親が町医者へ連れて行った。

血が作られなくなる病だと言われたのは、それから半月後のことだ。

網走の病院へ移った。

俺は当直明けに汽車へ乗り、面会時間の終わりぎりぎりに病室へ入る、というのを繰り返した。

年が明けて、医者に呼ばれた。

春までは難しいでしょう、と言われた。

そのあと何を話したのか、憶えていない。

廊下の窓が白かったことだけ憶えている。

その冬、流氷は沖で止まった。

例年なら一月の二十日過ぎに岸へ着く。

その年は、二十日を過ぎても、三十日を過ぎても、水平線の上に白い帯が浮いているだけだった。

南寄りの風が続いていた。

局には毎日、沖の船から氷の縁の位置が入ってくる。

近づいては、離れる。

俺は数字を帳面に落としながら、何度も窓を見た。

病室には、壁の高いところに有線放送の箱がついていた。

木でできた、四角い代物だ。

朝と夕方、町の連絡や漁協の放送が、そこから流れる。

流氷の接岸の報せも、そこから流れることになっていた。

「流氷、来た?」

面会のたびに、りつはそれを聞いた。

そのころにはもう、体を起こすのがしんどそうだった。

「まだだ」

「そう」

「今年は、風が悪い」

「そう」

正月には、りつの母親が病室に来ていた。

みかんを剥いて、白い筋を一本ずつ取っていた。

窓のカーテンは、朝から引かれたままだった。

「明るいと、眠れないんだって」

母親はそう言って笑った。

雲ひとつない日だった。

カーテンの向こうは、たぶん、海の縁までよく見えたと思う。

俺は、そのことを何とも思わなかった。

何とも思わなかったことを、あとで長いこと悔いた。

二月に入って、りつの声が細くなった。

俺の顔を見て、名前を呼ぶまでに、少し間が要るようになった。

それでも、その質問だけは毎回した。

「流氷、来た?」

※

二月の十一日だったと思う。

その日の朝、俺は当直だった。

沖の船からの報告では、氷の縁は岸から十二キロのところにあった。

風は、南。

近づく見込みは、ない。

俺は、マイクの前に座っていた。

有線放送への切り替え盤が、手を伸ばせば届くところにある。

局から町の有線に流していいのは、緊急の連絡だけだ。

規則はわかっていた。

わかっていて、俺はつまみを回した。

「幌志漁業無線局からお知らせします」

自分の声が、天井のスピーカーから返ってきた。

「本日午前、幌志沖に流氷が接岸しました」

言い終わってから、指が震えているのに気づいた。

三年ぶりの嘘だった。

たぶん、生涯でいちばん大きな嘘だった。

その日の午後、俺は網走の病院へ行った。

病室に入ると、りつはこちらを見ていた。

「聞いた?」

「聞いた」

「来たね」

「来た」

「……ありがとう」

半音、高かった。

俺は、そこで動けなくなった。

あの声を、俺は知っている。

丼に手をつけなかった夕方の声だ。

沖の白い波頭を見て、好きだと言った日の声だ。

りつは、気づいている。

気づいていて、礼を言っている。

そう思った次の瞬間に、もっと厄介なことに気づいた。

あの声は、その日にはじまったものではない。

ずっと前から、同じところで、同じだけ高くなっていた。

俺は、ベッドの向きを直そうとした。

窓は、海の側にある。

頭の向きを変えれば、寝たまま外が見えるはずだった。

「窓、そのままでいい」

りつが言った。

はっきりした声だった。

その日、いちばんはっきりしていた。

「海、見たくない」

食堂の、いちばん奥の席が浮かんだ。

板壁を背にして座る、長靴の娘。

そっちは寒いから、と言った顔が浮かんだ。

寒いわけがなかった。

「兄さんが、いるから」

りつはそう言った。

昭和三十九年の二月、枝浦の船が二隻、氷に閉じ込められた。

一隻は戻った。

もう一隻は、戻らなかった。

りつは十二だった。

その船に、六つ上の兄が乗っていた。

「流氷、嫌い」

そう言ってから、りつは少しだけ笑った。

「ごめんね。嘘ついてた」

流氷が好きだと言ったのは、俺のほうが先だった。

局に入った年の暮れ、無線の向こうの誰かに、俺はそう言ったのだ。

観測の当番が回ってくるのが誇らしくて、意味のわからない自慢をした。

流氷が好きだ、あれをいちばん先に見つけるのが俺の仕事だ、と。

そのあとで、りつが言った。

私も好き、と。

三年半、あの子はそれを続けた。

沖が白く光る日には足を止め、二月には氷の話に付き合い、好きだと言うたびに、声を半音だけ上げていた。

嘘と隠し事は、なし。

そう言い出したのは、りつのほうだった。

あれは、俺に向けて言った言葉ではなかったのだ。

「嘘つきが、いちばん嫌い」

波止場で泣きながらそう言ったとき、あの子が見ていたのは、俺ではなかった。

俺は、何を言えばいいのかわからなかった。

謝るのは違う気がした。

礼を言うのも、違った。

しばらく黙って、それから、いちばん要らないことを言った。

「明日、また来る」

「うん」

りつは目を閉じた。

閉じたまま、少しだけ口の端を上げた。

「……嘘つき」

そう言われた。

俺の人生で、あれがいちばん、褒められた言葉だった。

※

りつが向こうへ渡ったのは、その月の末である。

流氷は、結局その年、岸まで来なかった。

三月に入って、白い帯は北へ流れて、消えた。

有線の件は、始末書を一枚書いて、それきりになった。

局長は理由を聞かなかった。

いい人だった、と今は思う。

局は平成のはじめに閉じた。

漁船が衛星で話をするようになって、鉄塔の仕事はなくなった。

鉄塔は十年ほど立っていたが、それも倒された。

坂の途中に、四角い基礎だけが残っている。

俺は六十九になった。

女房をもらい、子も二人育てた。

そのことを恥じたことは、一度もない。

りつの名前を、家で口にしたこともない。

ただ、一月の終わりになると、車で坂を上がる。

古い機械を、物置から下ろしてある。

もう、どこにも繋がっていない周波数だ。

誰も聞いていない。

それでも俺は、毎年おなじことを言う。

「幌志漁業無線局からお知らせします」

「本日午前、幌志沖に流氷が接岸しました」

言い終わると、空電だけが返ってくる。

雑音というのは、よく聞くと、いろんな音が入っている。

その中に半音高い声を探すのは、通信士の悪い癖だ。

坂を下りて、駅前の食堂へ寄る。

主人は代替わりしたが、硝子戸も、板壁も、あのころのままだ。

俺は窓際に座る。

いつも窓際だ。

寒くても、そうする。

海の見える席にしか、俺はもう座らない。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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