書けなかった婚姻届

十年が経った今も、俺はあの婚姻届を捨てられずにいる。抽斗の奥に、押し花になった勿忘草と一緒に、そっとしまってある。

俺の名前だけが書かれた、片側の空いた一枚。彼女の欄は、真っ白なままだ。

あれを見るたびに、俺は自分の愚かさと、彼女のやさしさを、同じ重さで思い出す。

彼女と出会ったのは、俺がバイトを始めた駅前の小さな生花店だった。

彼女は俺より五つ年上で、花を束ねる手つきがいつも静かで、見とれてしまうほどきれいだった。

店に立つと、いつも青い小さな花の匂いと、水を替えたばかりのバケツの冷たい匂いがした。

「勿忘草、好きなんですか。いつも入り口に飾ってますよね」

「うん。枯れても、押し花にすれば残るでしょう。私、消えてしまうものが少し苦手なの」

そう言って笑う彼女の横顔を、俺はもう一度見たくて、毎日その店に通うようになった。

付き合うきっかけは、我ながら情けないほど不器用だった。

「付き合ってる人、いないんですか」

「いないよ。……こんな私と、付き合いたい人なんている?」

「じゃあ、俺と付き合ってください」

彼女は少し驚いた顔をして、それから、泣きそうに笑った。

付き合ってしばらくして、実は最初から気になっていたのだと、彼女は打ち明けてくれた。

俺は舞い上がっていた。年上の、あんなにきれいな人が、自分を選んでくれたのだと。

付き合ってからも、俺たちはよく二人で店番をした。彼女は花の名前と花言葉を、ひとつずつ俺に教えてくれた。

「花には、それぞれ言葉があるの。贈る人の気持ちを、代わりに伝えてくれるのよ」

「じゃあ、勿忘草は」

「……それは、そのうち教えてあげる」

彼女はいたずらっぽく笑って、はぐらかした。その言葉の意味を俺が知るのは、ずっと後のことになる。

雨の日には客足が途絶えて、店の中は花の匂いと、雨のしめった匂いだけで満たされた。

彼女はそういう時間が好きだと言って、売れ残った花で、小さな花束をいくつも作っていた。

「これ、持って帰って。捨てるより、誰かの部屋で咲いたほうが、花も嬉しいでしょう」

差し出された花束は、彼女の手のぬくもりで、少しだけあたたかかった。

ある日、結婚五十年の記念だという老夫婦が、店にやってきた。おじいさんが、おばあさんに贈る花を選んでいた。

「五十年も、よく続きましたねえ」

彼女がそう声をかけると、おじいさんは照れくさそうに笑った。

「なに、ただ、隣にいるだけですよ。それだけのことが、いちばん難しいんだが」

その言葉を、彼女はずいぶん長いあいだ、かみしめるように聞いていた。

二人が帰ったあと、彼女は小さな声で言った。「私も、ただ隣にいられる人生が、よかったなあ」

俺はそのとき、その「よかったなあ」が過去形だったことに、まるで気づいていなかった。

ある日、結婚式に使うブーケの注文が入った。彼女は白い花を一輪ずつ選び、長い時間をかけて束ねていった。

「きれいだね」

「花嫁さんのブーケって、特別なの。人生で一番幸せな日に、持つ花だから」

そう言ったときの彼女の横顔が、少しだけ寂しそうに見えたのを、俺は見逃していた。

できあがったブーケを抱えて、彼女はしばらく、鏡の前に立っていた。何かを、そっと諦めるような目をして。

付き合って初めての夏、俺たちは近くの夏祭りに出かけた。彼女は浴衣を着て、いつもより少し幼く見えた。

屋台の金魚すくいで、俺が何度も失敗するのを、彼女は声をあげて笑った。

「下手だね。ほら、貸して」

彼女はすっと手首を返して、あっけなく一匹すくってみせた。花を束ねる、あの手つきだった。

綿あめの甘い匂いと、遠くの太鼓の音。手をつないで歩いた夜道で触れた、彼女の手の少しの冷たさ。

「こういう夜が、ずっと続けばいいのにね」

ぽつりと落ちたその言葉の重さに、俺はあのとき、気づいてやれなかった。ただの照れ隠しだと思って、笑って聞き流していた。

けれど、彼女には、どうしても越えさせてくれない一線があった。

二人きりで過ごす夜、俺が近づこうとすると、彼女はいつも静かに身を引いた。

「ごめん……それだけは、どうしても駄目なの」

「なんで。俺のこと、好きじゃないの」

「好きよ。好きだから、なの。……ごめんね」

その理由を、彼女は決して話してくれなかった。俺はまだ、人の痛みを想像できるほど大人ではなかった。

断られるたびに、俺の中で身勝手な苛立ちだけが積もっていった。

今ならわかる。あのとき彼女は、俺に触れられるのがいやだったのではない。自分の胸の傷を見られて、俺に去られることが、ただこわかっただけなのだ。

彼女はいつも、薄い布を首元にかけていた。真夏でも、それを外そうとはしなかった。

「暑くないの、それ」

「私の、お守りみたいなものなの」

俺はその言葉を、深く考えもしなかった。目の前の人が、どれだけのものを一人で抱えているか、想像すらしなかった。

デートの帰り、俺が少し不機嫌になると、彼女はきまって自分を責めた。

「ごめんね。私が、ちゃんとできないから」

「別に、いいよ」

そう言い捨てる俺の横で、彼女はいつも、うつむいて小さくなっていた。若さとは、時に、こんなにも人を鈍くさせる。

情けない話だが、俺はほかの女の子と関係を持った。ほんの腹いせのような、幼稚な裏切りだった。

それが彼女に知られたとき、彼女は怒らなかった。ただ、静かにこう言っただけだった。

「私のほうが、あなたに我慢させていたんだもの。……仕方ないよ」

その言葉に俺は救われたつもりでいた。今思えば、あれは救いなどではなかった。

彼女は、自分を責めることで、俺を責めずにいてくれただけだった。

俺は友達に、年上は心が広くていいなどと、へらへら笑って話していた。心底、馬鹿だった。

ある日、彼女から一通の手紙が届いた。

『好きな人ができたの。だから、別れてほしい』

そんなものか、と俺は思った。引き止めることも、理由を問うこともしなかった。

こうして俺たちは、あっけなく別れた。俺はしばらく、清々したような顔さえしていた。

別れて半月ほど経った頃、俺は彼女の妹に呼び出された。俺と同い年の、気の強い子だった。

「お姉ちゃんには、黙っててって言われてるんだけど……もう、言わせて」

待ち合わせた喫茶店で、妹は膝の上で拳を握りしめていた。

「あのね。お姉ちゃん、昔、大きな心臓の手術をしたの。胸に、大きな傷があるのよ」

俺は、言葉を失った。

「それを見せたくなくて、あなたに全部を委ねられなかったの。嫌われるのが、こわかったのよ」

妹の話は、そこで終わらなかった。

「その病気が、また悪くなったの。今、入院してる。もう、あまり時間がないって」

「好きな人ができたっていうのは……」

「嘘に決まってるでしょう。今でも、あなたのことだけなんだから」

妹は、そこで初めて声を詰まらせた。

「あなたと付き合ってた頃のお姉ちゃん、本当に幸せそうだった。私、あんな姉、はじめて見た」

「知ってる? お姉ちゃん、あなたと別れたあと、毎晩あなたの写真を見て泣いてたのよ」

「……知らなかった」

「知るわけないよね。全部、隠してたんだから。あなたに、心配をかけたくないって」

妹は、俺をにらむように見て、それから、泣き笑いのような顔になった。

「お願い。もう一度だけ、お姉ちゃんに会ってあげて。あの人、それだけを待ってるから」

喫茶店の窓の外で、街の音が遠く聞こえた。俺の耳には、もう何も入ってこなかった。

気づけば、俺は病院へ向かって走っていた。自分のしてきたことの重さに、途中で何度も足がもつれた。

病室のドアを開けると、彼女はベッドの上で、驚いた顔をした。

別人のように痩せて、あの花を束ねていた手が、細く白くなっていた。

「ごめん。俺が、全部悪かった」

「どうして来たの。私のことなんか、忘れてよかったのに」

「忘れられるわけ、ないだろ。お前じゃなきゃ、駄目なんだよ」

彼女の目から、大粒の涙がこぼれた。枕の上で、それはいつまでも止まらなかった。

「……ありがとう。もう一度、あなたに会えた」

俺は、その細い手を、両手でくるむように握った。もう二度と、離すものかと思った。

その日から、俺は毎日、仕事帰りに病室へ寄った。彼女は俺が来ると、痩せた頬で精いっぱい笑ってみせた。

「無理して来なくていいのよ。あなたにも、あなたの生活があるんだから」

「無理じゃないよ。ここが、いちばん来たい場所なんだ」

その言葉に、彼女は少し驚いた顔をして、それから、ありがとう、と小さくつぶやいた。

それから俺は、毎日のように病室へ通った。売店で買った勿忘草を、窓辺の空き瓶に挿すのが日課になった。

青い小さな花を見るたびに、彼女は少女のように笑った。

体調のいい日は、彼女はベッドの上で、俺が買ってきた花を小さく束ね直してくれた。

「やっぱり、こうしたほうがきれい。手が、覚えてるのね」

細くなった指先は、それでも花に触れると、昔と同じように迷いがなかった。

点滴の管と、消毒液の匂いのなかで、その一角だけが、あの生花店の空気に戻ったようだった。

「退院したら、また店に立てるかな」

「立てるよ。俺も手伝う。今度こそ、ちゃんと」

彼女は、そう、とだけ言って、窓の外を見た。その横顔に、俺はもう、何も言えなかった。

ある夜、俺は思いきって、首元の布のことを尋ねた。彼女は少し迷って、それから静かに布を外した。

鎖骨の下に、まっすぐ伸びる古い傷痕があった。俺は、そっとそこに手を当てた。

「なんで、こんな大事なこと、隠してたんだよ」

「……あなたに、きれいなままの私だけを、覚えていてほしかったの」

俺は言葉が出ず、ただその傷を、壊れ物に触れるように撫でることしかできなかった。

窓辺の勿忘草は、日ごとに数を増やしていった。彼女の時間が、それと引き換えに減っていくかのように。

ある日、俺は一枚の紙を、彼女の前に置いた。婚姻届だった。

「俺の欄は、もう書いてある。お前は、元気になってから書けばいい。二人で、結婚しよう」

彼女は、今まで見たことのないような、やわらかい笑顔を見せた。

「うれしい……。こんなに幸せなの、生まれて初めてかもしれない」

けれど、彼女はペンを取らなかった。ただ、静かに首を横に振った。

「ごめんね。これは、書けない」

「なんでだよ。ここに置いとくから、いつでもいいんだ。絶対、書けよ」

俺は、半ば叫ぶように、そう言った。彼女は、ごめんね、とだけ繰り返した。

婚姻届は、それから彼女のベッドの脇の棚に、ずっと置かれたままだった。俺は面会のたびに、まだ書かないのか、と冗談めかして催促した。

「元気になったら、いちばんに書くからね」

彼女はいつもそう言って、細い指で、その紙をそっと撫でた。俺は、その約束を、心のどこかで本気で信じていた。

信じていたかった、というほうが、正しいのかもしれない。

その半月後、彼女は静かに息を引き取った。

俺は、葬式には出られなかった。彼女がいなくなったという事実を、どうしても受け入れたくなかった。

何をする気も起きず、俺は抜け殻のように日々を過ごした。

彼女のいない生花店の前を、俺は何度も通り過ぎた。入り口には、もう勿忘草は飾られていなかった。

あの青い花を束ねる手を、俺はもう二度と見ることができない。そう思うと、道の途中で立ち止まってしまうことが、何度もあった。

夜になると、彼女の声が耳の奥でよみがえった。ごめんね、と繰り返した、あの静かな声が。

しばらくして、彼女の妹から、一通の封筒が届いた。

中には、あの婚姻届と、彼女の手紙が入っていた。手紙には、押し花になった勿忘草が、一輪そえられていた。

『この手紙を読んでいる頃、私はもう、この世にいないと思います』

『あなたと過ごした時間は、本当に、本当に幸せでした』

『あなたに全部を知ってほしかった。私の全部を、見てほしかった。それだけが、心残りです』

『婚姻届、本当にうれしかった。飛び上がるくらい、うれしかったの』

『でも、これは書けない。あなたには、いつか本当に好きな人と、その紙を書いてほしいから』

『お墓参りには、来ないでね。あなたに新しい大切な人ができたら、そのときだけ、来て』

『それが、私を忘れられた証拠になるでしょう。それが、私の最後のお願い』

『勿忘草の花言葉、覚えてる? 私を忘れないで、なの。……本当は、忘れないでほしかった。ずるい女で、ごめんね』

『今まで、本当にありがとう。あなたに出会えたことが、私の人生で、一番の幸せでした。大好きだよ』

俺は、その場に座り込んで、子どもみたいに泣いた。

忘れてほしいと言いながら、忘れないでと願う。彼女はその矛盾を、最後まで一人で抱えていた。

勿忘草は、枯れても、押し花にすれば残る。あの日の彼女の言葉が、今になって胸を刺した。

彼女は、消えてしまうものが苦手だと言っていた。だから自分の想いだけは、この一輪に託して、残していったのだ。

それから俺は、何度もその手紙を読み返した。読むたびに、彼女のやさしさの深さに、打ちのめされた。

忘れてほしいと書いた同じ手紙に、忘れないでほしいと、花言葉でそっと書き添える。そのずるさが、いとおしくてたまらなかった。

彼女は最後まで、自分の幸せよりも、俺の幸せを願っていた。俺が新しい人と笑える日を、心から祈っていたのだ。

あんなに身勝手だった俺に、彼女はどうして、そこまでしてくれたのだろう。答えは、もう誰にも聞けない。

あれから十年が経つ。俺は、まだ一度も、彼女の墓参りに行けていない。

行けば、彼女の願いどおり、本当に好きな人ができたと認めることになる。俺には、まだそれができない。

何度か、墓地の入り口まで足を運んだことはある。けれど、いつも門の前で引き返してしまう。

彼女に胸を張って会えるだけの何かを、俺はまだ、手に入れられていない。

今は別の花屋になったあの店の前を通ると、入り口には、季節の花が飾られている。

青い勿忘草を見かけた日は、決まって足が止まる。そして、彼女の「そのうち教えてあげる」という声を思い出す。

結局、花言葉を教わったのは、あの最後の手紙でだった。いちばん残酷で、いちばんやさしい教え方で。

けれど、抽斗の奥の勿忘草は、十年経っても、あの日の青いままだ。

いつか、胸を張って墓前に立てる日が来たら、俺はこの押し花を持っていくと決めている。

お前を忘れたわけじゃない。ただ、お前がくれた幸せのぶんだけ、前を向けるようになった、と。

そう言える日まで、俺はこの空いたままの婚姻届を、大切に持ち続けるつもりだ。

もしいつか、彼女に恥じない自分になれたなら。そのときは、この空いた欄を手に、青い花を抱えて、あの人に会いに行こうと思う。

書けなかった婚姻届の意味を、そこでようやく、笑って報告できる気がするのだ。

それまでは、まだ少しだけ、この痛みごと、あの人を胸の奥にしまっておきたい。空いたままの婚姻届と、色褪せない一輪の勿忘草とともに。

お読みいただき、ありがとうございました。

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