恩師の体温計

優しい看護のひととき

私の白衣の胸ポケットには、四十年間、一本の古い体温計が入っている。

水銀の、ガラスの体温計だ。

今の病院では、もう誰も使わない。

脇に挟んで、五分。それだけの時間を、今の医療は待ってはくれない。

それでも私は、この一本を、手放したことがない。

アルミの細い筒に納めた体温計は、私が看護師になってから今日まで、ずっと左の胸にあった。

これは、私のものではない。

矢島先生の、ものだった。

私が生まれ育ったのは、北の山あいの、小さな村だった。

戦が終わって、まだ十年と経たぬころのことである。

家は貧しく、私は体の弱い子どもだった。

季節の変わり目になると決まって熱を出し、布団から起き上がれぬ日が続いた。

母は、私が物心のつくころに、病で先に逝った。

父は朝から晩まで山の仕事に出ていて、昼の家には誰もいなかった。

熱を出して寝込んでも、額に手を当ててくれる者は、いなかった。

学校へ行けぬ日が、月の半分を超えることもあった。

山の村の冬は、長かった。

雪が軒まで届く朝には、外の音が、すべて消えた。

私は布団の中で、自分の息の音だけを聞いていた。

天井の木目を、何百回も数えた。

体が熱を持つたびに、世界が、少しずつ遠くなった。

このまま誰にも気づかれず、消えてしまうのではないか。

幼い私は、いつも、そう思っていた。

けれど、坂の下から、決まって足音が聞こえてきた。

一定の、ゆっくりとした、確かな足音だった。

その音が近づくたびに、遠ざかっていた世界が、また少しずつ、私のもとへ戻ってきた。

矢島先生は、その村の小学校で、たった一人、すべての学年を受け持っていた先生だった。

痩せて、背の高い、無口な人だった。

先生は、私が学校を休むたびに、授業のあと、山道を登って私の家まで来た。

村の一番奥、坂を三十分も登った先に、私の家はあった。

先生は、その坂を、毎度、登ってきた。

手には、いつも一冊の薄い帳面と、アルミの筒に納めた体温計があった。

学校に一本しかない、貴重な体温計だった。

「徹、脇を出せ」

先生はそう言って、私の脇に、冷たいガラスを挟んだ。

そして、自分の懐中時計を見ながら、黙って五分を数えた。

五分のあいだ、先生は何も話さなかった。

ただ、私の枕元で、背筋を伸ばして座っていた。

五分が経つと、先生は体温計を抜き、窓の光にかざして、目盛りを読んだ。

そして、帳面に、その日の日付と、数字を書き込んだ。

几帳面な、四角い字だった。

雪の深い日も、先生は来た。

蓑を着て、藁沓を履いて、坂を登ってきた。

戸を開けると、先生の肩には、いつも白いものが積もっていた。

先生は、それを手で払い落としてから、土間で足を拭いた。

そして、囲炉裏の火で指を温めてから、私の脇に、ガラスを挟んだ。

冷たいはずのその指が、私には、なぜか温かく感じられた。

ある日、私は布団の中から、消え入りそうな声で訊いた。

「先生。おれ、もう、起きられんようになるのか」

先生は、帳面から顔を上げなかった。

ただ、鉛筆を止めて、低い声で言った。

「熱は、嘘をつかんよ」

先生は、それから私の顔を見た。

「お前の体は、ちゃんと、生きようとしとる」

「この数字が、それを言うとる」

私は、その帳面に並んだ数字を、ぼんやりと見ていた。

七度八分。八度一分。七度五分。

上がったり下がったりする数字の連なりが、なぜか、私には命そのものに見えた。

一度だけ、熱がひどく上がった夜があった。

目盛りが、四十度の線を、はるかに超えていた。

その夜、先生は、山道を下らなかった。

私の枕元で、夜どおし、濡らした手拭いを、額に当て替え続けた。

朝、熱がようやく引いたとき、先生の目は、赤かった。

「下がったな」

先生は、それだけ言って、帳面に数字を書いた。

私は、その横顔を、今でも、はっきりと覚えている。

先生は、帳面を閉じて、立ち上がった。

「明日も、来る」

それだけ言って、先生は朝靄の残る山道を、また下っていった。

私が看護師になろうと決めたのが、いつのことだったか、はっきりとは覚えていない。

ただ、あの五分間の沈黙と、帳面に並んだ数字のことを、私はずっと忘れられなかった。

熱を測るという、ただそれだけの行いが、あのとき、確かに私を生かしていた。

誰かがそばで、自分の体の声を、黙って聞いてくれること。

それが、どれほどの力を持つかを、私は身をもって知っていた。

男が看護師になることなど、当時はまだ珍しかった。

周りには、ずいぶんと笑われた。

それでも私は、白衣を着た。

夜勤の長い廊下を歩くたびに、私は、あの山道のことを思い出した。

暗がりの中を、灯りを提げて、誰かのもとへ向かう。

それは、坂を登ってくる先生の姿と、どこかで重なっていた。

患者の脇に体温計を挟み、黙って五分を数えるとき。

私はいつも、自分が生かされた、あの五分間に、戻っていた。

そして、左の胸には、いつも一本の体温計を入れていた。

それは、村を出るとき、矢島先生が黙って私に手渡した、あの一本だった。

「これは、もう、お前のものだ」

先生は、それだけ言った。

私は、何も言えなかった。

それから、四十年が過ぎた。

私は、ある地方都市の病院で、看護師長になっていた。

昭和も、終わりに近づいたころのことである。

ある春の日、私の受け持つ病棟に、一人の老人が入院してきた。

痩せて、背の高い人だった。

入院の書類に書かれた名前を見て、私は、しばらく動けなかった。

矢島──。

まさかと思った。

けれど、年齢も、生まれ在所の村の名も、すべてが、あの先生のものだった。

私は、震える手で、病室の戸を引いた。

ベッドの上に、矢島先生がいた。

三十年以上の歳月が、その顔に深い皺を刻んでいた。

先生は、まっすぐに天井を見ていた。

「先生」と、私は呼んだ。

先生は、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

けれど、その目に、私を映す光は、なかった。

「どなたかな」

先生は、穏やかに、そう言った。

担当の医師が、後で、静かに教えてくれた。

先生の記憶は、もう、ほとんど残っていないのだと。

近しい人の顔も、自分の来し方も、潮が引くように消えていくのだと。

私は、廊下の窓辺で、しばらく立ち尽くした。

三十年ぶりに再会した恩師は、もう、私を覚えてはいなかった。

あの山道を、毎日登ってきてくれた人が。

私の脇に、冷たいガラスを挟んでくれた人が。

それでも私は、毎朝、先生の病室へ通った。

検温の時間になると、私は自分の胸ポケットから、あの古い体温計を取り出した。

病棟には、もっと新しい、電子の体温計がいくらでもあった。

数秒で、正確な数字が出る。

けれど私は、先生のときだけは、あのアルミの筒の、水銀の一本を使った。

「矢島さん、脇を出してくださいね」

先生は、素直に、痩せた腕を上げた。

私は、冷たいガラスを、先生の脇に、そっと挟んだ。

そして、枕元に座り、黙って五分を数えた。

昔、先生が私にしてくれたのと、同じように。

五分のあいだ、私は何も話さなかった。

ただ、背筋を伸ばして、先生のそばに座っていた。

窓の外で、桜が散っていた。

若い看護師たちは、私のやり方を、不思議そうに見ていた。

電子の体温計を使えば数秒で済む検温に、なぜ五分もかけるのか。

一人が、遠慮がちに、その理由を訊いてきた。

私は、うまく答えられなかった。

ただ、「この人には、この時間が、要るんだ」と、それだけ言った。

検温の五分は、私にとって、ただ熱を測るための時間ではなかった。

それは、四十年前に先生がくれた五分を、今度は私が、先生に返す時間だった。

私は、検温のたびに、小さな帳面に、先生の体温を書き留めた。

日付と、数字を。

几帳面な四角い字を真似て、私は鉛筆を走らせた。

七度二分。六度九分。七度一分。

その数字の連なりを、私は毎日、先生の枕元で読み上げた。

「今日は、七度二分です。先生、ちゃんと、生きておられます」

先生は、ぼんやりと天井を見ていた。

私の言葉が届いているのか、それは分からなかった。

先生が、私の名を呼ぶことは、なかった。

「どなたかな」という言葉だけが、毎朝、返ってきた。

それでも、検温の五分だけは、先生は静かだった。

目を閉じて、まるで遠い日の何かを、思い出そうとするように。

梅雨に入った、ある朝のことだった。

その日も、私は先生の脇に、冷たいガラスを挟んだ。

枕元に座り、いつものように、五分を数えはじめた。

雨が、窓を静かに叩いていた。

三分ほど経ったころ、先生が、ふいに口を開いた。

目を閉じたまま、低い、しわがれた声だった。

「……熱は、嘘をつかんよ」

私は、数えるのを、やめた。

先生は、目を閉じたまま、続けた。

「徹。お前の体は、ちゃんと、生きようとしとる」

私の名が、その口から、こぼれた。

三十年の歳月を越えて、先生は、確かに私の名を呼んだ。

私は、先生の脇から、体温計を抜くことが、できなかった。

ただ、その痩せた腕を、両手で包んだ。

先生の目から、一筋、雨とは違うものが、こめかみを伝って落ちた。

「先生」

私は、それだけ言うのが、精一杯だった。

「おれ、生きました。先生のおかげで、ちゃんと、生きました」

先生は、もう何も言わなかった。

けれど、その手が、私の手を、かすかに握り返した。

山道を登ってきた、あの冷たくて優しい指が、四十年越しに、もう一度、私の手の中にあった。

矢島先生が、静かに旅立ったのは、その梅雨が明けたころだった。

眠るように、穏やかな顔だったと、夜勤の看護師が教えてくれた。

私は、先生の枕元に座り、最後にもう一度、あの帳面を開いた。

三十年前の、先生の四角い字。

その続きに並ぶ、私の不揃いな字。

二つの筆跡が、一冊の帳面の中で、静かに重なっていた。

先生が三十年かけて綴った命の記録に、私の四十日が、そっと書き足されていた。

私は、先生の脇に、もう一度だけ、冷たいガラスを挟んだ。

そして、黙って、五分を数えた。

答えの返らぬ五分を、私は、背筋を伸ばして、数え終えた。

私の胸ポケットには、今も、あの一本の体温計が入っている。

水銀の、ガラスの体温計だ。

今の病院では、もう誰も使わない。

それでも私は、この一本を、手放すことができない。

熱は、嘘をつかない。

私の体も、今日も、ちゃんと、生きようとしている。

先生が、そう教えてくれた。

山あいの村の、あの坂道の上で。

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