母がボタンを付ける理由

温かな光に包まれた作業場

朝の九時に、店のシャッターを上げる。

それが、この三週間の、私の仕事の始まりだった。

重いシャッターがガラガラと巻き上がると、ハンガーに掛かったワイシャツの肩が、いっせいに白く目を覚ます。

洗剤と、蒸気と、糊の匂い。

子どもの頃、あれほど逃げ出したかった匂いの真ん中に、いま、私は立っている。

釣り銭の用意をしようとして、カウンターの内側で、肘が何かに当たった。

青い、丸いクッキーの缶だった。

蓋が外れて、中身が土間に散らばった。

ボタンだった。

白いの、黒いの、貝の、金の、布でくるんだの。

四つ穴、二つ穴、足付き。

何百というボタンが、朝の光の中を、思い思いの方向へ転がっていった。

しゃがんで拾いながら、ばかみたいだ、と思った。

クリーニング屋のカウンターに、どうしてボタンの缶なんか置いておくのだろう。

母のやることは、昔から、こういうところがあった。

母が倒れたのは、梅雨入りの前の月曜日だった。

配達から戻って、店の上がり框に腰を掛けたまま、立てなくなったのだという。

見つけたのは隣の金物屋のおばさんで、救急車を呼ぶあいだ、母はずっと「店の鍵を閉めて」と繰り返していたらしい。

命に別状はなかった。

ただ、右半身に力が入らなくなって、リハビリの病院に移った。

針を持つ方の手だった。

東京から駆けつけた夜、母は病院のベッドで、点滴の管をぼんやり眺めて、ごめんねえ、と笑った。

何に謝っているのかと思えば、お得意さんの礼服の納期だった。

自分の右手が動かないことより先に、母はよその家の法事の心配をしていた。

うちは、商店街の角の、小さなクリーニング店だ。

「ことぶきクリーニング」。

祖父が始めて、母が継いだ。

従業員は、母ひとり。

受付も、しみ抜きも、プレスも、配達も、ぜんぶ母ひとり。

東京の会社に休職願を出して戻ってきた私に、できることは少なかった。

クリーニングの仕事は外の工場に回し、私は受け渡しだけの店番をしている。

初日に、仕上がり棚の並びが五十音順ですらないことに気づいて、途方に暮れた。

棚は、お客さんが取りに来る曜日の順に並んでいた。

母の頭の中にしかない地図で、この店は三十年、回ってきたのだった。

それでも店を閉めなかったのは、病室の母が、店の話ばかりするからだった。

私は、母の手が嫌いだった。

指先がいつも白く乾いて、ささくれて、絆創膏がどこかに貼ってある手。

爪は深く切り詰められて、薬品で曇った銀色の指輪が、骨ばった指に食い込んでいた。

小学校の授業参観の日、教室の後ろに並んだお母さんたちの中で、母の手だけが、働く人の手をしていた。

隣の席の子が、振り向いて言った。

「莉子ちゃんのお母さん、お薬の匂いがする」

悪気のない一言だった。

その日から私は、参観日の朝になると、熱があると言うようになった。

母は何も聞かずに、おでこに手を当てて、「じゃあ、お留守番だね」と笑った。

あの手のひらの、乾いた感触。

冷たくて、少しざらついていて、それなのに、妙にあたたかかった。

中学の家庭科で、ボタン付けのテストがあった。

私は、クラスでいちばん早く、いちばんきれいに付けた。

家で母の手元を、いくらでも見ていたからだ。

先生に褒められて、けれど私は、クリーニング店の娘だからとは言わなかった。

言えば、あの洗剤の匂いまで教室に連れてくる気がした。

高校三年の進路面談には、母が店を閉めて来た。

担任の先生が、御家業は、と聞いた。

私は母より先に答えた。

「継ぎません。東京の大学に行きます」

言い切ってから、隣を見られなかった。

母は膝の上で手を重ねて、ただ、そうですか、というように頷いていた。

帰り道、商店街のアーケードの下で、母は一度だけ口を開いた。

「いいよ。莉子の人生だもの」

怒ってくれたら、楽だったのだと思う。

東京へ出る日の朝、玄関で、母が私のスーツの袖に手を伸ばした。

「袖のボタン、緩んでる」

「触らないで」

自分でも驚くほど、尖った声が出た。

洗剤の匂いが、真新しいスーツに移る気がしたのだ。

母は伸ばした手を、エプロンの中に戻した。

「そう。気をつけて行きなさい」

新幹線のホームまで、母は来なかった。

改札の外で、小さく手を振っていた。

あれから五年、帰省は盆と正月だけで、店には一度も立たなかった。

思えば、母の一日は、店の電気を消してからも終わらなかった。

夜、茶の間でテレビを見ながら、母は膝の上で誰かのズボンの裾を上げていた。

番組に笑い声を立てながら、針を持つ手は止まらない。

画面なんて、ほとんど見ていなかったのだと思う。

雨の日は、ビニールを掛けた配達の自転車で、坂の上の団地まで上っていった。

カッパの下はいつも汗だくで、それでも預かり物には、雨粒ひとつ付いていなかった。

東京では、事務機器メーカーの営業をしていた。

成績は悪くなかった。

身だしなみがいいね、と褒められるたび、少しだけ得意だった。

アイロンは、出張先のホテルのズボンプレッサーみたいに、誰かに任せるものになっていた。

コピー機を売る私のスーツは、いつも隙なく整っていた。

それが母の店と関係のない、自分ひとりの清潔さだと、信じて疑わなかった。

店番は、覚えることだらけだった。

預かり伝票の書き方。仕上がりの棚の並び順。常連さんの顔と名前。

ボタンの缶は、拾い集めたまま、カウンターの隅に戻しておいた。

捨ててしまおうかとも思ったが、母のものを勝手に動かすのは、何となく憚られた。

最初にその缶の意味を教えてくれたのは、商店街で履物屋をやっていた福田さんだった。

八十近い福田さんは、黒い礼服を抱えて入ってきて、カウンター越しに私の顔をしげしげと見た。

「ああ、莉子ちゃんか。大きゅうなったなあ」

「いらっしゃいませ。お預かりですか」

「うん。法事でな。それと、ボタン、また頼むわ」

「ボタン……ですか」

福田さんは、礼服の袖を持ち上げて見せた。

四つ並んだ袖ボタンの、いちばん端が、糸を伸ばしてぶら下がっていた。

「あんたのお母さんはな、何も言わんでも、こういうのを直して返してくれるんよ」

「料金、おいくらお支払いでした」

「取らんのよ、それが」

福田さんは笑って、それから少しだけ声を落とした。

「女房を見送った朝にな、礼服のボタンが取れとることに気づいたんや」

「朝の六時やで。困り果てて、シャッターの閉まっとるこの店を叩いたら、お母さん、寝間着のまま降りてきてな」

「黙って針箱を出して、その場で付けてくれた。あの青い缶から、うちの礼服に合う黒いボタンを探してな」

「おかげでわしは、女房をちゃんとした袖で見送れたんよ」

福田さんは、ぶら下がったボタンを、いとおしそうに指で揺らした。

「そやからわしは、ボタンが緩むたびに、ここへ持って来ることに決めとるんや」

カウンターの上で、私は福田さんの礼服を受け取った。

袖口の裏に、わずかに色の違う糸の玉留めが、いくつも残っていた。

母が付けて、年月で緩んで、また母が付けた、その繰り返しの痕だった。

そういう客は、福田さんだけではなかった。

八百屋の奥さんは、息子さんの入学式のブレザーの金ボタンを、この缶に救われたと言った。

「前の晩に取れてるのに気づいてね。あの缶から、そっくりの金ボタンが出てきたのよ。魔法の缶って、うちでは呼んでる」

平日の昼に来る、リクルートスーツの青年がいた。

歳は私と、いくつも変わらないように見えた。

その青年は、仕上がりを受け取りながら、照れくさそうに言った。

「このスーツ、お母さんに二回、ボタン直してもらってます。面接の前は、いつもここに出すって決めてて」

夕方、客の途切れた店で、私は青い缶の蓋を開けてみた。

ボタンは、ただ放り込まれているのではなかった。

小さなビニール袋や薬包紙で、色別、形別に、几帳面に分けられていた。

袋のいくつかには、鉛筆の細い字があった。

「福田様 礼服 黒四つ穴」

「山下様 ブレザー 金」

客の服からいつか外れたボタン、付け替えで余ったボタンを、母は三十年、捨てずに貯めてきたのだ。

どの服のボタンが取れても、合うものがすぐ見つかるように。

仕上がりの服のポケットに挟まれていたという、小さなメモ用紙も、引き出しから何枚も出てきた。

「ボタン、取れかけていたので付けておきました。」

それだけの、定規で引いたような字。

その字には、見覚えがあった。

子どもの頃、遠足のおやつの袋に貼ってあった「りこ」の名札と、同じ鉛筆の濃さだった。

私は、高校生の頃に言った自分の言葉を思い出していた。

頼まれてもいない縫い物までして、お金も取らないで、そんなことをしていたら商売にならないよ。

母はあのとき、アイロンから顔も上げずに、「そうだねえ」と言っただけだった。

缶の底に、ひとつだけ、輪ゴムで留めた薬包紙の包みがあった。

他の袋より、丁寧に折られていた。

開くと、灰色がかった貝ボタンが、三つ。

見覚えがあった。

五年前、東京へ持って行ったスーツの、予備ボタンだった。

包み紙の内側に、鉛筆の字があった。

「莉子 就職 春」

息が、一拍、遅れた。

予備ボタンなんて、タグごと捨てた覚えしかなかった。

母は、ごみ箱からそれを拾って、ここに仕舞っていたのだ。

町じゅうの誰かのボタンと、同じ缶に。

いつか娘のボタンが取れる日のために。

そして私は、思い出してしまった。

最終面接の前の日、私は一度だけ帰省していた。

夜、ハンガーに掛けたスーツの袖口で、ボタンがひとつ、緩んで下がっているのに気づいた。

明日の朝、自分でやろう。

そう思って、寝た。

朝、ボタンは、しっかりと付いていた。

糸も新しかった。

寝ぼけて見間違えたのだと、自分の記憶のほうを疑った。

緩んでいたと思ったのは気のせいで、最初から何ともなかったのだと。

五年間、そう思い込んでいた。

あの朝、私は鏡の前で何度も袖を確かめて、胸を張って家を出た。

玄関で母が、行ってらっしゃい、と言った。

あれはきっと、夜なべ明けの声だった。

気のせいなんかでは、なかったのだ。

「触らないで」と言われた手が、娘の眠っている間に、そっと針を入れて、糸を切って、何も言わずに朝を迎えていた。

私はその足で、病院へ行った。

面会時間の終わりかけの病室で、母はベッドに身体を起こして、窓の外を見ていた。

リハビリ帰りの髪が、少し乱れていた。

枕元には、店の預かり伝票の綴りが置いてあった。

動かない右手の代わりに左手で書いたらしい、頼りない線の覚え書きが、何枚も挟まっていた。

見舞いのたびに母が聞くのは、自分の身体のことではなく、仕上がり棚のことばかりだった。

「お店、どうかした」

母は私の顔を見るなり、店の心配をした。

私は薬包紙の包みを、掛け布団の上に置いた。

母は、ああ、という顔をした。

「なんで、これ」

「だって、あんた、捨てるんだもの」

「ボタンくらい、自分で付けられるよ」

「知ってるよ」

「じゃあ、なんで。面接の朝のだって、お母さんでしょう」

母はしばらく黙って、動きにくい右手を、左手でゆっくりさすった。

それから、窓の外の、夕方の色に染まりはじめた町を見たまま、言った。

「ボタンが取れたままだと、人はね、俯いて歩くようになるんよ」

「袖や胸元を気にして、手で隠して、下を向いて歩くの。大事な日に、そんなふうに歩いてほしくないでしょう」

「だから、胸を張って歩いてほしい人の服には、勝手に針を入れたくなるの。商売にならなくても」

母は、そこで初めて私を見て、笑った。

「あんたの面接の朝はね、糸を切るとき、手が震えたよ。起きちゃったら、また怒られるから」

怒られるから、と言って母は笑ったのだ。

私は、何も言えなかった。

五年前の、玄関先の尖った声が、耳の奥で自分に返ってきた。

私が東京で胸を張って歩いた最初の朝は、母の震える指が作ったものだった。

窓の外で、夕焼けが商店街のアーケードの屋根を染めはじめていた。

あの屋根の下を、母のボタンを付けた人たちが、今日も胸を張って歩いている。

私は、掛け布団の上の母の右手を、両手で取った。

乾いて、ささくれて、針の痕がいくつも残る、小さな手だった。

嫌いだと思っていた手だった。

その手が、誰の手より、たくさんの人の背中を伸ばしてきた。

「お店、ちゃんと開けてるよ」

声が、震えないように言うので精一杯だった。

「ボタンの缶も、そのままにしてある」

母は、うん、と言った。

それから、私の手の中で、動きにくいはずの指を、ゆっくりと握り返した。

その力の弱さに、私はとうとう、下を向いた。

俯かないでほしいと願い続けた人の前で、私は俯いて、泣いた。

七月の半ばに、退院の日が決まった。

右手は、時間をかければ針が持てるところまで戻るらしい。

「リハビリの先生がね、縫い物は一番いい訓練だって」

電話口の母の声は、どこか嬉しそうだった。

私は会社に、休職を延ばす手続きをした。

その先のことは、まだ母には言っていない。

言えば母は、莉子の人生だもの、とまた言うに決まっているからだ。

今朝も、九時にシャッターを上げた。

ワイシャツの肩が、いっせいに目を覚ます。

洗剤と、蒸気と、糊の匂い。

この匂いの中で、母はずっと、町の人の大事な朝を支えてきた。

昼前に、あのリクルートスーツの青年が来た。

「内定、出ました」

仕上がったスーツを胸に抱えて、深々と頭を下げた。

「お母さんに、伝えてください。ボタンのおかげですって」

必ず伝えます、と言って、私も深く頭を下げ返した。

夕方、店じまいの前に、私は針箱を開けた。

自分の白いブラウスの、二つ目のボタンが、朝から緩んでいたのだ。

母の針は、まだ私には重い。

それでも、不格好に玉留めをして、引いた糸は、ちゃんと張っていた。

余った予備のボタンを、薬包紙に包む。

鉛筆で、小さく書いた。

「莉子 店番の夏」

青い缶の蓋を開けて、町じゅうのボタンの上に、そっと足した。

缶を振ると、じゃらりと、鳴った。

それは母が三十年かけて貯めてきた、この町の、胸を張って歩く音だった。

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