妻の菓子木型と一冊の帳面

暖かい冬の菓子作り

のれんを、しまう日が、とうとう来た。

四十年と少し、お堀ばたで灯してきた、小さな店だ。

『花筺』という、和菓子屋。

わたしが、女将だった。

名を、佐和という。

器量よしでもなく、口も達者ではなかった。

嫁に来たときから、わたしはずっと、この店に、もらってもらったのだと思っていた。

夫の清次は、去年の春に、先に逝った。

静かな、眠るような旅立ちだった。

それからのわたしは、ひとりで、せいろの湯気を見ていた。

店を畳むと決めたのは、つい先月のことだ。

歳には、勝てない。

あんこを炊く腕も、もう、震える。

今日は、作業場の道具を、ひとつずつ、片づけている。

木の台。すりこぎ。古いせいろ。

どれも、清次の手の脂で、飴色に光っている。

いちばん奥の棚から、桐の箱が出てきた。

ずいぶん長く、開けていない箱だった。

蓋の埃を、手のひらで払った。

中に、古い菓子木型が、ひとつ、入っていた。

桔梗の花を彫った、木型だ。

手に取ると、木の、乾いたいい匂いがした。

桜の木の、固くて、こまかな木目。

指の腹で、彫りのくぼみを、なぞった。

四十年、毎日のように、ここへあんこを詰めた。

くぼみの底が、つるりと、すり減っている。

その手触りを感じた途端、わたしは、七十二の今を、忘れた。

嫁いだばかりの、二十の春が、よみがえった。

わたしが『花筺』に嫁いだのは、昭和の、まだ若い頃だ。

城下町の、お堀ばたに、その店はあった。

春には、堀の桜が、水に散った。

店は、清次の父の代からの、古い和菓子屋だった。

清次は、その一人息子。

背が高くて、けれど、ひどく無口な人だった。

見合いの席でも、ほとんど、しゃべらなかった。

お茶を、ただ、じっと見ていた。

わたしは、いっそ、断られるものと思っていた。

器量よしの娘が、町には、いくらでもいたからだ。

それなのに、縁談は、まとまった。

「あの子が、いいと言ったので」

清次の母は、ふしぎそうに、そう言った。

わたしには、その理由が、わからなかった。

嫁いだ日、清次は、たった一言、こう言った。

「不便を、かけるかもしれん」

それが、祝言の夜の、すべてだった。

店は、繁盛しているとは、言えなかった。

駅前には、新しい菓子屋が、できていた。

箱の綺麗な、洋風の菓子が、よく売れる時代になっていた。

うちの店は、昔ながらの、きんつばと、最中と、桔梗のかたちの落雁。

地味な、見栄えのしない菓子ばかりだった。

清次は、朝の暗いうちから、あんこを炊いた。

小豆を、ことことと、煮る。

甘い、湯気の匂いが、店じゅうに満ちた。

その匂いで、わたしは毎朝、目を覚ました。

わたしは、店の表に立った。

けれど、口下手なわたしには、客あしらいが、うまくできなかった。

「もう少し、愛想よくな」

近所のおかみさんに、よく言われた。

そのたびに、わたしは、うつむいた。

器量も、口も、だめなわたしを、清次は、どう思っているのだろう。

そう思うと、夜、眠れなかった。

あるとき、わたしは、思いきって、聞いてみた。

「わたしで、よかったの」

清次は、しばらく、黙っていた。

それから、ぼそりと、言った。

「あんこの炊き方、覚えるのが、早かった」

それだけだった。

わたしは、笑っていいのか、泣いていいのか、わからなかった。

けれど、その晩、布団の中で、わたしは、すこしだけ、泣いた。

うれし涙だったのだと、今ならわかる。

あの頃は、その正体すら、わからなかった。

嫁いで、ひと月もすると、わたしは、あんこの番を、任されるようになった。

小豆を、焦がさぬよう、木べらで、ことことと混ぜる。

火加減を、ほんの少し間違えると、味が、にごる。

清次は、わたしの炊いたあんこを、黙って、なめた。

「もう少し、火を、弱く」

そう言うだけで、叱りはしなかった。

わたしは、何百回と、失敗した。

そのたびに、清次は、ただ、もう一度、と言った。

半年が過ぎる頃、はじめて、清次が、こう言った。

「うまい」

たった、ひとことだった。

けれど、わたしは、その日のあんこの色を、今でも、覚えている。

艶のある、深い、小豆色。

その色が、なぜだか、誇らしかった。

暮らしは、ずっと、楽ではなかった。

桜の散る頃に売れた菓子の銭で、夏を越す。

そんな、綱渡りのような年が、続いた。

ある冬の、雪の深い晩のことだ。

その日は、一日じゅう、客がひとりも来なかった。

売れ残った菓子が、棚に、寂しく並んでいた。

夕餉の膳に、おかずは、たくわんだけだった。

わたしは、申し訳なくて、顔が上げられなかった。

清次は、黙って、表へ出ていった。

しばらくして、戻ってきた。

手に、紙の袋を、ひとつ、提げていた。

角の店の、あんぱんだった。

ひとつだけ。

「半分こ、しよう」

清次は、それを、二つに割った。

大きいほうを、わたしに、よこした。

「わたしは、いいのに」

「いいから、食え」

火鉢のそばで、二人、あんぱんを食べた。

冷えた指を、火鉢にかざしながら。

甘い、あんこの味が、しみた。

「うちのあんこの、ほうが、うまいな」

清次が、ぽつりと、言った。

わたしは、思わず、噴き出した。

清次も、めずらしく、笑った。

白い息が、二人のあいだで、ゆれた。

あんなに、ひもじい晩だったのに。

なぜだろう。

その夜のことだけは、今でも、あたたかく、思い出せる。

その冬の終わり、わたしは、一度だけ、家を出ようと、思ったことがある。

駅前の新しい菓子屋が、評判で、うちの客は、月ごとに、減っていた。

わたしのような、不器用な嫁が、いるせいだ。

そう、思い込んでいた。

器量よしの嫁なら、口の達者な嫁なら、店は、もっと、もっただろう。

わたしがいなくなれば、清次は、もっといい人を、もらえる。

そう考えると、夜ごと、胸が、苦しかった。

荷物を、こっそり、まとめた朝があった。

けれど、作業場をのぞくと、清次が、いつものように、あんこを炊いていた。

暗いうちから、ひとり、木べらを、動かしていた。

その背中が、いやに、小さく見えた。

湯気の向こうで、その背中は、まるで、何かに、耐えているようだった。

わたしは、まとめた荷物を、そっと、元に戻した。

あの背中を、置いていくことが、どうしても、できなかった。

結局、わたしは、その理由を、四十年、口にしなかった。

清次も、わたしが荷物をまとめたことなど、知らないはずだった。

そう、思っていた。

けれど、その頃のわたしは、それを、幸せとは、思わなかった。

ただ、苦労ばかりかけている、と思っていた。

器量よしの嫁なら、もっと店を、繁盛させただろうに。

気立てのいい嫁なら、もっと客を、呼んだだろうに。

わたしは、清次に、もらってもらった身だ。

その負い目が、いつも、胸の底にあった。

桔梗の木型で、落雁を作るのは、わたしの役目になった。

白い粉を、木型に詰める。

とんと打って、抜く。

桔梗のかたちが、ぽろりと、生まれる。

「この木型、いい木型だね」

わたしが言うと、清次は、手を止めた。

「行商から、安く買ったやつだ」

そう言って、また、あんこを炊きはじめた。

わたしは、その菓子木型を、毎日、使った。

桔梗の花を、来る日も来る日も、抜き続けた。

祝いごとの席には、その落雁が、よく出た。

「花筺さんの桔梗は、品がいい」

そう言ってくれる、年寄りの客が、いた。

その一言が、口下手なわたしの、ささやかな誇りだった。

町に、祭りのある年だった。

城の広場で、大きな婚礼があると、急な注文が、入った。

桔梗の落雁を、三百。

うちのような小さな店には、ありがたい、けれど、骨の折れる仕事だった。

わたしと清次は、二晩、ほとんど眠らずに、木型を打ち続けた。

とん、とん、と、桔梗を抜く音が、夜更けの作業場に、響いた。

白い粉が、二人の髪にも、肩にも、積もった。

「雪みたいだね」

わたしが言うと、清次は、めずらしく、手を止めた。

「祝言の日も、雪だったな」

そう、ぽつりと、言った。

わたしは、驚いた。

あの人が、祝言の日のことを、覚えていたとは、思わなかったからだ。

明け方、三百の桔梗が、ようやく、ならんだ。

白い花が、板の上に、いちめんに、咲いていた。

朝日が差して、その白が、ほんのり、桃色に染まった。

「きれいだねえ」

「ああ」

二人で、長いあいだ、その花畑を、眺めていた。

疲れていたはずなのに、不思議と、つらくはなかった。

婚礼の家から、あとで、丁寧な礼が、届いた。

「あんなに品のいい桔梗は、見たことがない」と。

清次は、その言葉を、わたしに、渡した。

「お前の、手柄だ」

そう言って、奥へ、引っ込んでいった。

わたしは、その背中に、頭を、下げた。

けれど、声には、出せなかった。

ありがとう、の、ひとことが。

口下手なのは、わたしも、同じだった。

歳月は、堀の水のように、流れた。

子が生まれ、その子も、町を出ていった。

孫の、あかりが生まれた。

清次の背は、少しずつ、丸くなった。

あんこを炊く手は、それでも、止まらなかった。

暗いうちから、ことことと、小豆を煮る。

その匂いだけは、四十年、変わらなかった。

去年の春、清次は、作業場で、静かに、座り込んだ。

せいろの湯気の、向こうで。

そのまま、眠るように、向こうへ、旅立った。

苦しむ顔は、しなかった。

あんこの匂いの中で、戻らぬ人と、なった。

葬儀のあと、わたしは、店を開ける気力を、なくした。

のれんを下ろしたまま、奥の間で、何日も過ごした。

あの無口な人は、最後まで、本心を、言わなかった。

わたしのことを、どう思っていたのか。

もらってやった、厄介な嫁だと、思っていたのか。

それを、確かめる術は、もう、なかった。

あの人が向こうへ旅立つ、ほんの数日前のことだ。

めずらしく、清次が、わたしの淹れた茶を、ゆっくりと、飲んでいた。

「なあ、佐和」

「なんですか」

あの人は、何か、言いかけて、口を、つぐんだ。

「いや」

「なんですか、言いかけて」

「……桔梗の落雁、もう一度、食いたいな」

それだけ、言った。

わたしは、次の朝、桔梗の落雁を、作った。

あの人は、それを、ひとつ、口に入れて、目を、閉じた。

「うまい」

半年ぶりに、聞く、その言葉だった。

あれが、あの人の言った、最後の「うまい」になった。

言いかけて、つぐんだ、あのひとことが、何だったのか。

わたしは、ずっと、知りたかった。

今、この帳面を読んで、ようやく、わかった気がする。

店を畳もうと決めて、道具の片づけを、はじめた。

そして、今日。

桐の箱の、桔梗の木型を、手に取ったのだ。

木型の下の、小さな引き出しを、開けてみた。

四十年、開けたことのない、引き出しだった。

奥に、何かが、つかえていた。

指を入れて、引き出すと——

小さな、すり切れた帳面が、出てきた。

表紙に、清次の字で、ただ一文字。

「佐」とだけ、書いてあった。

わたしの、名の、はじめの字だった。

ちょうど、そのとき、店の戸が、叩かれた。

畳むと聞いて、と、ひとりの年寄りが、立っていた。

木型師の、徳市さんだった。

清次の、幼なじみ。

もう、九十に近い。

「最後に、ひと目、店をな」

そう言って、作業場に、上がってもらった。

わたしが手にしている木型を見て、徳市さんは、目を細めた。

「ああ、その桔梗か。よう、もったなあ」

「行商から、買ったものだと、聞いていますけど」

わたしが言うと、徳市さんは、ふしぎな顔をした。

それから、首を、横に振った。

「行商なんぞ、来とらんよ」

「えっ」

「それは、清次が、彫ったんだ」

わたしは、木型を、取り落としそうになった。

「あいつ、お前さんが嫁に来る前の年の冬、毎晩、わしの仕事場に、通うてきてな」

徳市さんは、遠くを見るように、語った。

「木型を、彫りたいと言う。何のためかは、言わん。ただ、桔梗を、彫りたいと」

「桔梗を……」

「不器用な男でなあ。指を、何度も切って。それでも、毎晩、来た」

「ひと冬、かかったよ。ようやっと、一枚、彫り上げた」

徳市さんは、わたしの手の中の木型を、いとおしそうに、見た。

「彫り上げた晩に、あいつ、はじめて、わけを言うた」

「嫁にくる人が、桔梗の花が、好きだと聞いた、と」

わたしは、声が、出なかった。

桔梗が好きだと、いつか、見合いの席で、わたしは、言ったかもしれない。

覚えていないほどの、ひとことを。

あの無口な人が、覚えていた。

そして、ひと冬、指を切りながら、それを、彫った。

行商から買った、と、嘘をついて。

四十年、わたしは、それと知らずに、毎日、その桔梗を、抜いていた。

「不器用なほど、長くもつのよ」

徳市さんは、そう言って、笑った。

「器用に削った木型は、すぐに割れる。あいつのは、ぶ厚うて、不格好でな。じゃが、四十年、もった」

わたしは、木型を、胸に、押し当てた。

桜の木の匂いが、した。

その匂いの奥に、あの人の、手の匂いがした気が、した。

徳市さんが帰ったあと、わたしは、火鉢のそばに座り、帳面を、開いた。

帳面には、こまかな字が、並んでいた。

日付も、何もない。

ただ、思い出したように、ぽつぽつと、書いてあった。

「あんこの炊き方、覚えるのが、早い。筋がいい」

嫁いで、すぐの頃の、ことだろう。

「桔梗を抜く手つきが、だんだん、様になってきた」

わたしが、木型を、使いはじめた頃だ。

「客に、頭を下げるとき、こちらが、恥ずかしくなるほど、ていねいだ」

愛想がないと、言われていた、あの頃。

あの人は、そんなふうに、見ていてくれたのか。

頁を、めくる手が、震えた。

雪の晩の、ことも、書いてあった。

「あんぱんを半分こした。大きいほうを、渡した」

「うちのあんこのほうが、うまいと言うたら、あれが、噴き出して、笑った」

「あんぱんを半分こした、あの夜の顔が、わたしの一番の自慢でした」

わたしは、その一行で、息が、できなくなった。

自慢。

器量でも、愛想でもなく。

ひもじい晩に、噴き出して笑った、わたしの、あの顔を。

あの人は、一番の自慢だと、書いていた。

頁は、まだ、続いていた。

「子が生まれた日。佐和の手を、はじめて、握った」

そんなことが、あっただろうか。

覚えていない。

あの無口な人が、わたしの手を、握ったことなど。

けれど、あの人は、それを、書きとめていた。

「祭りの夜、桔梗を三百。二人で、雪のようだと笑うた。あれが、わしの、宝の夜だ」

あの、眠らずに打ち続けた、明け方。

つらいだけの夜だと、わたしは、思っていた。

あの人は、宝の夜だと、書いていた。

「佐和は、自分のことを、もらってもらった身だと言う」

「店の隅で、いつも、すまなそうな顔をする」

「そのたびに、わしは、何か言うてやりたいのに、ことばが、出ん」

わたしは、頁を、両手で、押さえた。

見えていたのだ。

わたしの、あの、うつむいた顔を。

言ってほしかった言葉を、あの人もまた、言えずに、いたのだ。

「不器用な男で、すまん」

そう、小さく、書いてあった。

そして、その下に、こうも、あった。

「あの冬の朝、佐和が、荷物を、まとめていた」

わたしは、息を、のんだ。

知って、いたのだ。

あの朝、こっそりまとめた荷物を、あの人は、見ていた。

「引き止める、ことばが、出んかった」

「ただ、いつもより、長く、あんこを炊いた」

「戻ってくれと、祈りながら」

「佐和が、荷を解いた音がしたとき、わしは、木べらを握る手が、震えた」

あの朝の、小さく見えた背中。

あれは、耐えていたのではない。

祈って、いたのだ。

わたしが、戻るのを。

四十年、わたしは、何も、知らずにいた。

口下手な二人は、いちばん大事なことを、いつも、言えずにいた。

けれど、あの人は、それを、ぜんぶ、この帳面に、書いていた。

渡せないまま、木型の引き出しの奥に、しまって。

頁の、いちばん終わりに、こう、あった。

「世間は、わしが、佐和を、もらってやったと言う」

「ちがう」

「もらってやったんじゃない。もらってもらったのは、わたしの方だ」

わたしは、帳面を、握りしめた。

四十年、わたしが、ずっと、思っていたことだった。

もらってもらったのは、わたしの方だ、と。

その同じ言葉を、あの人もまた、四十年、胸に、抱えていた。

ことばにできないまま。

桔梗の木型に、彫り込んだまま。

負い目だと、思っていた。

不釣り合いな、厄介な嫁だと、思っていた。

違った。

わたしは、あの無口な人にとって、一番の、宝物だったのだ。

火鉢の炭が、ぱちりと、爆ぜた。

窓の外には、季節はずれの、淡い雪が、舞いはじめていた。

嫁いだ年の冬と、同じ、やわらかい雪だった。

その晩、孫娘の、あかりが、店に来た。

畳むのを、手伝いに、来てくれたのだ。

けれど、あかりは、作業場を見回して、ぽつりと、言った。

「ばあちゃん。わたし、この店、継ぎたい」

わたしは、驚いて、あかりの顔を、見た。

「こんな、はやらない、古い店を」

「うん。じいちゃんのあんこと、ばあちゃんの桔梗、わたし、好きだもの」

わたしは、しばらく、言葉が、出なかった。

それから、桐の箱から、桔梗の木型を、取り出した。

あかりの手のひらに、そっと、のせた。

「これはね、じいちゃんが、ばあちゃんのために、彫った木型なんだよ」

「ひと冬、指を切りながら、独りで、彫ったの」

あかりは、その木型を、両手で、受け取った。

くぼみの底を、不思議そうに、指で、なぞった。

「すり減ってる」

「四十年、ばあちゃんが、毎日、使ったからね」

わたしは、白い粉を、木型に詰めて、見せた。

とんと打って、抜く。

桔梗の花が、ぽろりと、生まれた。

四十年前と、同じ、かたちで。

「わあ」

あかりが、声を、あげた。

その手つきは、ぎこちなくて、わたしの、嫁いだ頃に、よく似ていた。

「最初は、うまく抜けないよ。でも、それでいいの」

わたしは、笑って、言った。

「不器用なほど、長くもつんだって。じいちゃんが、そう言ってた」

あかりは、何度も、何度も、木型を、打った。

はじめは、欠けた桔梗ばかりだった。

けれど、十も打つ頃には、すこしずつ、花のかたちに、なってきた。

その横顔を見ていて、わたしは、ふと、思った。

清次が、わたしのあんこを、黙って見ていた、あの頃のことを。

下手でも、もう一度、と言い続けた、あの声を。

わたしは今、あの人と、同じことを、している。

受け継ぐというのは、こういうことなのかもしれない。

ことばではなく、手の動きと、まなざしで、渡していくもの。

「ばあちゃん、これ、見て」

あかりが、きれいに抜けた桔梗を、ひとつ、差し出した。

白い花が、てのひらの上で、ほんのり、光っていた。

「上手」

わたしが言うと、あかりは、はにかんで、笑った。

その笑顔が、嫁いだ頃の、わたしに、よく似ていた。

窓の外には、雪が、静かに、降り続けていた。

お堀の水に、白いものが、溶けていく。

あんこを炊く匂いが、また、この店に、戻ってくる。

そう思うと、胸の奥が、あたたかかった。

その晩、あかりが帰ったあと、わたしは、ひとり、作業場に、座った。

桔梗の木型を、もう一度、手に取った。

くぼみの底の、すり減ったところを、指で、なぞる。

四十年分の、わたしの手と、ひと冬かけて彫った、あの人の手と。

二つの手が、この一枚の木型の上で、ずっと、重なっていたのだ。

それと知らずに。

ことばに、しないまま。

桜の木の匂いを、胸いっぱいに、吸い込んだ。

あの人の、あんこを炊く背中が、湯気の向こうに、見えた気が、した。

「うまい」と、また、聞こえた気が、した。

のれんを、しまう日。

けれど、わたしは、もう、寂しくは、なかった。

清次さん。

あなたが彫った桔梗は、まだ、ちゃんと、咲いていますよ。

そして、これから先も、この子の手で、咲き続けます。

あなたは、もらってもらったのは自分の方だと、書いていたね。

でも、それは、わたしの言葉でもあったの。

四十年、口下手な二人が、同じことを、思っていた。

なんて、おかしな夫婦だろう。

苦労ばかりの、貧しい歳月だったけれど。

あんぱんを、半分こした、あの雪の晩から、今日まで。

桔梗の木型を、来る日も来る日も、打ち続けた、その歳月。

もらってもらったと、思っていた、その日々が。

ほんとうは、二人で、互いを、宝にしていた日々だった。

あなたが彫った桔梗の、一枚の木型が、それを、教えてくれました。

だから、清次さん。

もう一度だけ、あなたに、言わせてください。

四十年、ありがとう。

わたしは、幸せでした。

桔梗の花が、白い粉の中から、ひとつ、またひとつと、生まれた。

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