砂時計の三分間

静かな夕暮れの読書タイム

黒板を拭く手つきのまま、私は、何もない台所の壁を、ぼんやりと拭いていた。

教壇を下りて、はじめての春のことだった。

四十年のあいだ、私の手は、いつも、何かでふさがっていた。

白墨の粉。

子らの宿題帳。

湯気の立つ、やかんの取っ手。

そのどれもが、ある朝とつぜん、手のなかから、消えてしまった。

夫が逝って、三年。

この古い家に、私の足音だけが響くようになって、もう、ずいぶんになる。

朝、起きる。

顔を洗う。

湯を沸かす。

そこから先に、することが、何も、見つからなかった。

台所の壁は、もう、どこも、汚れてなどいない。

それでも私は、固く絞った布巾を持って、おなじ場所を、何度も、撫でるように拭いた。

手が、止まっているということが、その頃の私には、こわかったのだと思う。

窓の外で、隣の小学校の鐘が鳴る。

昼休みの、あの賑やかな声が、低い塀を越えて、私の台所まで、流れこんでくる。

その声を聞くたびに、私は、布巾を握る手に、知らず、力を込めていた。

あの輪の中に、もう、私の居場所はないのだ、と。

教え子の数なら、何百人といる。

けれど、その子らはみな、大きくなって、町を出ていった。

暮れに届く年賀状の枚数だけが、私の四十年を、数えていた。

夫がいたころは、それでも、よかった。

二人で縁側に座って、ただ、庭の木の影が伸びていくのを、眺めていればよかった。

今は、その縁側も、広すぎる。

私の隣の座布団は、いつも、平らに、冷たいままだった。

家じゅうの時計が、こちこちと、おなじ音で時を刻んでいる。

その音を、私は、いつしか、ひとつも、聞いていなかった。

時間というものが、私の手のなかで、ただ、こぼれて、流れて、どこへともなく、消えていく。

それを、止める手立てを、私は、持たなかった。

そんな六月の、雨上がりの夕方だった。

濡れた紫陽花の、青くさい匂いを連れて、孫の太一が、玄関の戸を、がらりと開けた。

「ばあちゃん、おる?」

その、つんのめるような声に、止まっていた私の時間が、ふいに、また、ことり、と動きだした。

太一は、その春、小学一年生になったばかりだった。

娘夫婦の家は、私の家から、子どもの足で、十五分ほど。

母親が遅番に出る日は、太一は、学校帰りに、私のところへ寄ることになっていた。

ランドセルを縁側に放り出して、まず、麦茶を一息に飲み干す。

こぼれた一滴が、顎をつたって、シャツに落ちる。

その、ぷは、という息の音だけで、私の家に、急に、灯がともったようだった。

私は、ひさしぶりに、おやつのことを考えるようになった。

ふかし芋。

きなこのおはぎ。

夏には、井戸で冷やした、まくわ瓜。

太一が、ほっぺたをふくらませて頬張る顔を見ているだけで、一日が、ちゃんと終わった気がした。

けれど、太一には、ひとつだけ、苦手なことがあった。

音読である。

国語の教科書を開くと、太一の声は、とたんに、小さく、しぼんでしまう。

「ぼ、ぼ、ぼくは……ぼくは……」

おなじ音を、何度も、つっかえる。

のどの奥のあたりで、言葉が、ひっかかって、出てこなくなるのだ。

学校で、誰かに、その読み方を笑われたらしい、ということは、すぐに知れた。

音読の宿題のプリントを、太一は、いつも、ランドセルの底で、くしゃくしゃに、丸めていた。

「ばあちゃん、せんせい、やったんやろ」

ある日、太一が、庭の蟻の行列を見ながら、ぽつりと言った。

「ぼくの、よみかた、へん?」

私は、その、丸い小さな背中を、しばらく、見ていた。

四十年、私は、何百人もの子に、字の読み方を、教えてきた。

つっかえる子も、たくさん見てきた。

そういう子に、私は、いつも、正しい言葉を、用意できた。

けれど、いちばん大切な、たったひとりの孫の前で、その時の私は、何を言えばいいのか、ひとことも、思いつかなかった。

「へんじゃ、ないよ」

やっと、それだけを、言った。

「ゆっくりで、ええんよ。だれも、おいかけてこんから」

太一は、ふりむいて、私の顔を、じっと見た。

その晩から、私と太一の、小さな約束が、はじまった。

母親の迎えが来るまでの、ほんの、ひとときだけ。

縁側に、二人で並んで、教科書を、声に出して、読む。

急がない。

つっかえても、けっして、笑わない。

ただ、最後の一文まで、いっしょに、読みきる。

それだけの、約束だった。

はじめのうち、太一は、一行を読むのに、何度も、息を継いだ。

「ぼ、ぼくは……ぼくは、もり、もりの……」

そのたびに、私は、つぎの言葉を、先に、言ってやりたくなった。

四十年の癖が、口元まで、出かかる。

けれど、私は、ぐっと、こらえた。

太一が、自分の力で、その言葉を、口の外に出すまで、ただ、待った。

「……もりの、なかへ、いきました」

読みきると、太一は、ふう、と、大きく、肩で息をした。

その横顔を見ていると、教えるとは、待つことなのだ、と、はじめて、わかった気がした。

四十年も、教壇に立っていて、私は、それを、知らなかったのだ。

その砂時計を、太一が持ってきたのは、梅雨の明けた、七月のことだった。

小さな、手のひらにのる、木の枠の砂時計。

さかさにすると、白い砂が、さらさらと、三分かけて、落ちていく。

「これ、ばあちゃんに」

太一は、それを、両手で、私の前に、差し出した。

近所の夏祭りの、子ども向けのくじで、当てたのだ、という。

一等の自転車でも、二等のゲームでもなく、いちばん下の、その砂時計を。

「なんで、ばあちゃんに、くれるん」

私が聞くと、太一は、少しのあいだ、口ごもってから、言った。

「ばあちゃん、ひまやって、ゆうてたから」

いつだったか、私は、たしかに、こぼしていた。

「ばあちゃんは、ひまで、こまるわあ」と、笑いながら。

その、なんということもないひとことを、この子は、ずっと、胸の奥に、しまっていたのだ。

私は、その砂時計を、両手で、受け取った。

木の枠は、太一の手の温もりで、ほんのり、温かかった。

その日から、砂時計は、私たちの読書の、小さな相棒に、なった。

「ばあちゃん、ひっくり返して」

縁側に座ると、太一が、まず、そう言う。

私が、ことり、と、砂時計を返す。

白い砂が、音もなく、落ちはじめる。

その三分のあいだだけ、太一は、つっかえながらも、いっしょうけんめい、声を出した。

砂が、すっかり落ちきると、私は、太一の、やわらかい髪に、手をのせた。

「はい。きょうも、はなまる」

太一の顔が、西日よりも赤くなって、くしゃっと、ほころんだ。

その笑顔のために、私は、また、次の日を、待つようになっていた。

夕方になると、私は、台所で、芋を蒸かしながら、柱時計を、ちらちらと、見るようになった。

あの子は、もう、校門を出たろうか。

あの角を、曲がったろうか。

がらり、と戸の開く音がするまで、私の胸は、小さな鈴のように、鳴っていた。

ひとりの家に、待つ、という、温かい時間が、戻ってきたのだ。

砂時計の砂が落ちる、その、わずか三分が、私の一日の、いちばん明るい三分に、なっていた。

夏が過ぎ、秋が来て、太一の音読は、少しずつ、なめらかに、なっていった。

『おおきなかぶ』を、つっかえずに読めた日には、二人で、手をたたいて、よろこんだ。

けれど、私が、気づかないふりを、していたものが、ひとつ、あった。

太一は、すぐに、息を切らした。

縁側まで、小走りに来ただけで、胸のあたりを押さえて、しゃがみこむ。

生まれつき、心臓が、人より少し、弱い子なのだ、ということは、娘から、聞いて知っていた。

「だいじょうぶ。なれてるもん」

太一は、いつも、肩で息をしながら、そう言って、笑った。

その笑顔に、私は、ほんとうは、安心したがっていただけ、なのだと思う。

見て見ぬふりをするのが、いちばん、楽だった。

一度だけ、私は、太一に、聞いたことがある。

「太一は、大きくなったら、なんに、なりたい」

太一は、少し考えて、こう、言った。

「がっこうの、せんせい。ばあちゃんみたいな」

私は、その言葉を、宝物のように、胸の奥に、しまった。

いつか、この子が、教壇に立つ日を、私は、もう、楽しみにしていた。

その日が、来ないかもしれない、ということを、私は、考えないように、していた。

木枯らしの吹きはじめた、十一月の、ある日のことだった。

その日、太一は、めずらしく、教科書を、開こうとしなかった。

「きょうは、よみたくない」

頬を、ぷうっと、ふくらませている。

学校で、また、何か、言われたのかもしれなかった。

私は、つい、長年しみついた、昔の教師の口調に、戻ってしまった。

「太一。約束は、約束、でしょう」

言ってしまってから、私は、しまった、と思った。

その声は、縁側の祖母の声ではなく、教壇の上の、冷たい教師の声だった。

太一の目に、みるみる、大きな涙が、盛りあがった。

「……ばあちゃんの、ばか」

太一は、砂時計を、畳の上に、ことん、と置いて、降りだした雨の中へ、駆け出していった。

小さな背中が、たちまち、雨にけむって、見えなくなった。

私は、追いかける足が、出なかった。

古い縁側に、ひとり、取り残されて、私は、軒から落ちる雨だれの音を、ただ、聞いていた。

畳の上の砂時計は、横倒しのまま、白い砂が、半分のところで、止まっていた。

落ちる先を、なくしたように。

その夜が明けきらないうちに、娘から、電話があった。

太一が、夜中に、高い熱を出して、ひどく、苦しがっている、と。

幼いころから、何度も、くり返してきた、あの発作だった。

けれど、受話器ごしの娘の声は、いつもと、どこか、ちがっていた。

私は、傘もささずに、家を飛び出して、病院まで、走った。

七十をすぎた足が、こんなにも動くものか、と、自分でも、おどろくほどに。

白い廊下の、固い長椅子に座って、私は、ただ、両手を、組んでいた。

四十年、子らに、あれほど、たくさんの言葉を教えてきた私が、その時、祈る言葉を、ひとつも、思い出せなかった。

待っているあいだ、私の鞄の底には、あの砂時計が、入っていた。

家を飛び出すとき、無意識に、握りしめて、出てきたのだ。

私は、それを、ただ、固く、握っていた。

白い砂は、傾けないかぎり、落ちもせず、ただ、片側に、静かに、たまったままだった。

昼をすぎて、短い面会だけが、許された。

いくつもの管に、つながれた太一は、私が思っていたよりも、ずっと、ずっと、小さく、見えた。

「ばあちゃん」

枕の上から、細い声が、私を呼んだ。

「きのうは……ごめんな」

私は、首を、何度も、横に振った。

あやまらなければ、ならないのは、私のほうだった。

「あんな、ばあちゃん」

太一は、酸素のマスクの奥で、一生けんめい、つぎの言葉を、探していた。

つっかえながら、それでも、最後まで、言おうとして。

「あの、すなどけい……なんで、ばあちゃんに、あげたか……まだ、ゆうてなかったやろ」

私は、その、小さな手を、そっと、両手で、包んだ。

太一は、ひとつ、息を吸って、はっきりと、言った。

「ばあちゃんが、ひとりにならんように、買うてん」

窓の外で、冬のはじまりの陽が、白く、つめたく、光っていた。

「すなが、おちてるあいだは……ばあちゃん、ひとりやないやろ」

私は、息が、できなくなった。

あの三分間は、太一の、音読の練習のためだと、私は、ずっと、思いこんでいた。

ちがった。

あの子は、ひとりぼっちの、この私のために、あの砂時計を、選んだのだ。

くじの、いちばん下の段から、たった一つだけを。

つっかえながら本を読んでいたのは、太一だと、私は、思っていた。

ちがった。

ほんとうに、言葉につかえて、立ちすくんでいたのは、夫を亡くし、教え子も去り、ひとり、台所の壁を拭いていた、この私のほうだった。

その私の三分を、この小さな手が、ずっと、灯しつづけてくれていたのだ。

私は、握った、その手の甲に、額を、押しあてた。

四十年、つかえることなく言葉を教えてきた、この口から、その時、たった、ひとつの言葉だけが、太一とおなじように、つっかえながら、こぼれ落ちた。

「ありがとう……ありがとう、太一」

太一は、桜のつぼみが、ふくらみはじめた、春のはじめの朝に、空へ、還っていった。

まるで、長い長い音読を、最後の一文まで、しずかに、読みおえた子のように。

とても、おだやかな、朝だった。

それから、いくつもの春が、過ぎていった。

今でも、私の縁側には、あの小さな砂時計が、置いてある。

木の枠は、私の手で、毎日撫でるものだから、すっかり、飴色に、なった。

娘は、いちど、新しい仏壇を買おうか、と、言ってくれた。

立派な、金色の。

けれど、私は、首を、横に振った。

太一に会うのに、私には、この、小さな砂時計が、ひとつ、あれば、それで、よかった。

夕方になると、私は、ひとり、太一の使っていた、あの国語の教科書を、開く。

あの子が、つっかえながら、いちばん好きだと言った、『ごんぎつね』の、ページを。

そして、ことり、と、砂時計を、ひっくり返す。

白い砂が、さらさらと、また、落ちはじめる。

その音は、太一の、あの、つっかえながらの声に、どこか、よく似ている。

その三分のあいだだけ、私は、声に出して、本を読む。

つっかえても、いい。

急がなくても、いい。

だって、砂が落ちきるまでは、私は、ひとりでは、ないのだから。

四十年、私は、子らに、時間は、たいせつにしなさい、と、教えてきた。

けれど、ほんとうのことを、私は、何も、わかっていなかった。

時間とは、たいせつな、だれかと、分けあう、そのひとときのことだったのだ。

それを、私に教えてくれたのは、つっかえながら本を読む、あの、小さな先生だった。

窓の外では、隣の小学校の鐘が、今日も、変わらず、鳴っている。

砂が、最後のひとつぶまで、落ちきる。

私は、だれもいない、隣の座布団に、そっと、手をのせる。

「はい。きょうも、はなまる」

夕日のさす縁側で、私は、ひとり、そう、つぶやく。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。