
番台に座っていると、その街の人間の暮らしが、ひととおり見えてしまうものだ。
湯銭を置くときの指の節くれ。暖簾をくぐるときの肩の落とし方。下足箱の木札を握る、その握り方ひとつ。
誰かが今日いいことがあったのか、それとも家に帰りたくない夜なのか、俺には何となく分かった。
いや、分かった気になっていた、と言うべきかもしれない。
なぜなら俺には、人を見た目で値踏みする、ひどく悪い癖があったからだ。
昭和四十年代も終わりに近い頃、俺は城下町の路地裏で、「松ノ湯」という小さな銭湯を継いだ。
祖父の代から三代続いた、煙突の煤けた、古い湯屋だった。
下足箱は黒光りするほど使い込まれ、木札の字は、もう半分、かすれていた。
脱衣場の柱には、祖父の代からの古い体重計が、ことりと、置いてある。
湯気と、石鹸と、ほのかな黴の匂い。それが、俺の生まれ育った、家の匂いだった。
親父は、その匂いの中で、生まれ、その匂いの中で、向こうへ、逝った。
俺も、いずれ、そうなるのだろうと、漠然と、思っていた。
朝はまだ暗いうちに釜へ火を入れ、井戸の水を落とし、ひたすら湯を沸かす。
夕暮れになれば番台に座り、藍の暖簾を表へ出す。
そういう一日が、祖父の代から、ずっと変わらず繰り返されてきた。
湯屋を継いだのは、その冬に、先代だった親父を見送った、すぐあとのことだった。
親父は無口で、頑固で、最後の最後まで、番台を俺に譲ろうとしなかった。
「お前はまだ、湯加減しか見とらん」
床に就いた親父が、かすれた声で俺に遺した言葉のひとつが、それだった。
その時の俺には、何のことだか、さっぱり分からなかった。
湯を沸かし、釜を焚き、客から湯銭を受け取る。
番台で見るべきものなど、その他に、いったい何があるというのか。
そう本気で思っていた。三十を過ぎたばかりの、傲慢な俺は。
親父の弔いの晩、せまい客間に並んだ近所の顔ぶれを見て、俺は少し、驚いた。
「先代には、よう、ぬるめの湯にしてもろうた」
「うちの婆さんが膝を悪うしたときも、気遣うてくれてなあ」
口々にそう言われても、その頃の俺には、まるでぴんと来なかった。
湯加減を変えてやるなど、ただの気まぐれだろう、くらいにしか思っていなかったのだ。
継いで間もない春、ひとりの少年が、うちの暖簾をくぐるようになった。
路地のいちばん奥の、屋根の傾いた家から来る子だった。
歳の頃は、十か十一くらいだったろうか。
洗いざらしの学生服が、痩せた体に、やけに大きく見えた。
襟元はいつも垢じみていて、首筋にも、黒い汚れが残っていた。
湯銭を握る、その手は、爪の間まで黒かった。
そして、置いていく十円玉が、ときどき、足りない気がした。
俺はその子を、どうしても、好きになれなかった。
客商売だというのに、暖簾の奥にその姿を見つけるたび、胸の内で、小さく舌打ちをしていた。
今こうして思い返すと、あの頃の自分の目の濁りようには、ただ、恥じ入るばかりだ。
※
少年は、決まって、閉店間際にやって来た。
客があらかた引けて、湯がいちばん静かになる、その時刻を選ぶように。
暖簾をくぐると、誰とも目を合わせず、まっすぐに、いちばん隅の洗い場へ向かう。
そこにぺたりと座って、背中を丸めて、ゆっくりと体を流すのだった。
洗い場の鏡は湯気で白く曇り、そこに映る少年の輪郭は、いつもどこか、頼りなかった。
体を洗い終えると、少年は、熱い湯にいつまでも浸かっていた。
のぼせて顔を真っ赤にしても、なかなか上がろうとしない。
指の先がふやけて白くなるまで、湯の中で、じっとしている。
「おい坊主、もう仕舞いだ。湯あたりするぞ」
俺が番台から声を荒げると、少年はびくりと首をすくめ、慌てて湯から出ていった。
その背中に、俺はまた、小さな舌打ちを、ひとつ落とすのだった。
秋の深まった、ある晩のことだ。
常連の年寄りが、湯から上がるなり、番台の俺に、顔をしかめてみせた。
「おい、あの奥の家の子な。あの薄汚いのと一緒の湯は、どうもかなわん」
「今度から、来る刻限を、分けてくれんか」
俺は、何も言い返さなかった。
それどころか、胸の内で、その年寄りに、深く同調していた。
暖簾の陰で、その子が、じっとこちらを見ていたことに、俺は、気づいていた。
気づいていて、知らんふりを、決め込んだ。
その晩、少年は湯銭を握ったまま、暖簾をくぐらずに、帰っていった。
痩せた背中が、路地の闇に溶けていくのを、俺はただ、見送った。
ほっとした、とさえ、思った。
今でも、あの晩の自分を思うと、湯よりも熱いものが、喉のあたりに、こみ上げてくる。
別の日には、こんなこともあった。
脱衣場で、年寄りが手桶を取り落とし、足元に、からんと転がしてしまった。
真っ先に駆け寄って、それを拾ったのは、あの少年だった。
「ばあちゃん、これ」
そう言って手桶を差し出す姿を見ても、俺は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
点を稼ごうとしているのだろう、くらいにしか、思わなかったのだ。
あの子のささやかな優しさを、俺は、いちいち、悪いほうへ悪いほうへと、捻じ曲げて見ていた。
冬の入り口の、ひどく冷えた晩のことだ。
少年は、薄い上着のまま、震えながら、暖簾を、くぐってきた。
唇が、うっすらと、紫色になっていた。
湯に浸かって、ようやく人心地ついた顔をするのを、俺は番台から、横目で見ていた。
「ぐずぐずするな。湯が冷める」
そう急かしても、少年は、少しでも長く、その温もりに、しがみつこうとした。
今思えば、あの子にとって、うちの湯だけが、唯一の、暖かい場所だったのだ。
それを、俺は、追い立てることしか、しなかった。
湯は、誰のことも、分け隔てなく、温める。
なのに、その湯を守る俺だけが、ひとりの子に、冷たかった。
今思えば、いちばん心の冷えていたのは、番台のこの俺の、ほうだったのだ。
湯を熱くしてやることは、誰にでもできる。
けれど、冷えた心まで温めてやれるかどうかは、また、別のことだった。
あの子は、湯ではなく、誰かに、見ていてほしかっただけなのだ。
そんなある晩、番台の引き出しに溜めた忘れ物の中から、客が置いていった黄ばんだ手拭いが、一本、足りなくなった。
たいした物では、なかった。
けれど俺は、すぐに、あの少年の顔を思い浮かべた。
証拠など、何ひとつ、なかった。
ただ、疑うのに都合のいい子だ、というだけのことだった。
次に少年が来たとき、俺は番台から、わざと、睨みつけてやった。
少年は、何も言わなかった。
いつものように湯銭を置き、いつものように、隅の洗い場へ、音もなく消えていった。
その日も、上がるのは、誰より遅かった。
湯気の向こうで、痩せた背中が、小さく丸まっているのが、ぼんやりと見えた。
「待つ者でも、おるんか。お前は」
そう吐き捨てた俺に、少年は、やはり何も答えなかった。
ただ、湯の面を見つめて、そこにゆらゆらと揺れる自分の影を、じっと、眺めていた。
その横顔が、どんな夜を抱えているのか。
当時の俺は、想像しようとすら、しなかった。
面倒な客。垢じみた子。釣り銭をごまかすかもしれない、薄汚れた少年。
俺の中で、その子はずっと、その程度の存在で、しかなかったのだ。
※
梅雨に入った頃のことだった。
客足の途絶えた昼下がり、俺は番台の下の古い帳面を、片付けようと、引っ張り出した。
先代の親父が、几帳面につけ続けていた、商売の帳面だった。
湯の温度。薪の減り具合。釜の調子。釣り銭の勘定。
そんな細々したことに混じって、親父は、客のことを、短く書き留めていた。
「角の魚屋の婆さん、膝が悪い。上がり湯、ぬるめにしたれ」
「左官の若いの、今日は機嫌がええ。仕事が決まったらしい。よかった、よかった」
無口なくせに、親父という男は、人をこんなにも、よく見ていたのだ。
俺は少し、胸を衝かれる思いで、頁をめくっていった。
そして、ある書き込みのところで、ぴたりと、手が止まった。
路地の奥の、あの少年のことが、年を追うように、記されていたのだ。
いちばん古い頁には、こうあった。
「奥の家の坊、よう笑う子や。湯に入ると、鼻歌をうたう。聞いとるこっちまで、気持ちようなる」
俺は、自分の目を、疑った。
笑いもしない、あの垢じみた少年のことだとは、とても、すぐには信じられなかった。
震える指で、頁を繰った。次の年だ。
「坊の母御、床に就いたらしい。近頃は、薬湯ばかり買うていく。湯銭の足りん日は、黙って通したれ」
足りなかった、あの十円玉。
親父はとうに気づいていて、知らんふりをして、その子を、湯に入れてやっていたのだ。
さらに、頁を繰った。その次の年。
「坊の母御、とうとう、向こうへ行ってしもうた。坊、誰も待つ者のおらん家に、帰りとうないんやろ。仕舞いまで、ゆっくり湯に入れてやれ」
閉店間際にやって来て、のぼせるほど長湯をして、帰りたがらなかった、その理由が、そこにあった。
帰る家に、もう、迎えてくれる人が、いなかったのだ。
そして、最後の頁は、ひときわ、短かった。
「坊の父御、近頃は酒に逃げてばかりや。家の中が、荒れとる。坊、痣を作って来る日がある。何も聞かんでええ。ただ、湯を熱うしたれ」
帳面を持つ俺の手が、震えていた。
俺が、だらしないと決めつけていた子は、痣を湯で温めるために、毎晩、うちの暖簾をくぐっていたのだ。
そして俺は、その背中に、舌打ちを浴びせ続けていた。
あの秋の晩、湯にも入れずに帰した、痩せた背中を、思い出した。
一緒の湯はかなわん、と言った年寄りに、俺は、黙って頷いたのだった。
痣を温めに来ていた子を、俺は、湯にすら、入れてやらなかった。
帳面を閉じて、俺はしばらく、番台に、突っ伏していた。
梅雨の雨音が、屋根を、絶え間なく、叩いていた。
その音が、まるで、誰かの、声を忍ばせたすすり泣きのように、聞こえた。
親父なら、どうしただろうか。
その答えは、帳面の中に、もう、書いてあった。
「何も聞かんでええ。ただ、湯を熱うしたれ」
※
だめだと決めつけていた子が、突然、生身の人間として、俺の前に、立ち上がってきた。
深い悲しみを抱えて、それでも歯を食いしばって、たったひとりで生き抜いている、ひとりの少年として。
それは、番台に座って三年、俺が、生まれて初めて「人を見た」瞬間だったのだと思う。
親父が、最後まで番台を譲らなかった意味が、ようやく、胸の底に落ちた。
湯を沸かすだけなら、誰にでも、できる。
番台に座るというのは、暖簾をくぐる一人ひとりの暮らしを、黙って見守るということ、だったのだ。
「お前はまだ、湯加減しか見とらん」
親父の最後の言葉が、湯気の向こうから、もう一度、聞こえた気がした。
その晩、俺は閉店の札を裏返したあと、隅で湯に浸かっている少年に、思いきって、声を掛けた。
「おい坊主。俺はこのあと、しばらく、釜の薪を片付ける。手伝わんか」
少年は、湯の中で、身をこわばらせた。
「駄賃に、湯をな、一番風呂で使わせてやる。誰もおらん、きれいな、熱い湯や」
少年は、はじめて、俺の顔を、まっすぐに見た。
そして、ほんの少しだけ、口元を、ゆるめた。
親父が帳面に書いた、「よう笑う子」の片鱗が、たしかに、そこにあった。
それから少年は、毎晩のように、釜場の手伝いに、来るようになった。
赤い火の番をしながら、ぽつり、ぽつりと、話すようになった。
「おっちゃんとこの湯、この町でいちばん、あったかい」
「そうか」
「学校の先生は、僕の字、汚いって言う」
「俺の字のほうが、よっぽど汚いわ」
そう言ってやると、少年は、くっ、と喉の奥で、笑った。
「僕な、大きくなったら、医者になりたいんや」
「医者か。ええな」
「人の、痛いとこが分かる、医者になる」
「……そうか。きっと、なれる」
火明かりに照らされたその横顔を、俺はただ、黙って見ていた。
別の晩には、少年は、ぽつりと、こんなことを言った。
「お父ちゃんは、お酒を飲むと、人が変わるんや」
「でも、しらふのときは、僕の頭、撫でてくれる」
「……そうか」
「お母ちゃんが元気やった頃は、三人で、よう銭湯に行った」
「こことは別の、もっと大きい湯や」
「お母ちゃん、湯上がりにいつも、髪に油つけてた。ええ匂いやった」
俺は、火を見つめたまま、黙って、聞いていた。
かける言葉など、ひとつも、見つからなかった。
ただ、釜の火が、少年の頬を、赤く、照らしていた。
気の利いたことなど、俺には、何も言えなかった。
ただ湯加減を見て、火を足して、「ほう」と相槌を打つ。それだけだった。
それでも少年は、日に日に、背筋が、伸びていった。
垢じみていた襟が、いつからか、自分で洗ったのだろう、白く、なっていた。
見ていてやる、ということ。
ただ、それだけのことが、ひとりの子を、こんなにも、変えていくのか。
俺は番台に座るたび、親父の遺した帳面の重みを、手のひらに、思い出すようになった。
釜場には、薪のはぜる、ぱちぱちという音と、二人の息づかいだけが、あった。
少年は、火ばさみの使い方を、驚くほど早く、覚えた。
「こうやろ、おっちゃん」
「おう、上手いもんや」
褒めてやると、少年は、誇らしげに、鼻の頭を、ごしごしと、こすった。
「おっちゃんは、なんで、銭湯のおっちゃんに、なったん」
「親父が、これしか、継ぐもんを残さんかったからや」
「ふうん。ええ仕事やと、僕は思う」
「みんな、あったかい顔して、帰っていくもん」
その言葉に、俺は、不意に、胸を突かれた。
あったかい顔。そんなものを、俺は番台から、ちゃんと、見ていただろうか。
その年の暮れ、町に粉雪の舞った、ある晩のことだ。
閉店間際に来た少年が、湯から上がると、俺の胸に、小さな包みを、押しつけてきた。
「おっちゃん、これ」
それだけ言うと、顔を真っ赤にして、走って、帰ってしまった。
番台の灯りの下で開けてみると、それは、古びた、小さな硝子の瓶だった。
栓を抜くと、つんと甘い、どこか懐かしい匂いが、立ちのぼった。
椿油だった。
女の人が、髪を結うときに使う、あの油だ。
瓶の底には、もう、ほんのひと匙ほどしか、残っていなかった。
これは、あの子の母御が使っていたものに違いない、と、俺にはすぐ、分かった。
先に逝ってしまった母親が遺した、たったひとつの、匂いの形見だったのだ。
その、何より大切なものを、あの子は、この俺に、差し出したのだった。
湯上がりの、ほのかに上気した頬を、俺は、思い出す。
あの子は、きっと、何日も、迷ったのだろう。
母の匂いの残る、最後のひと匙を、誰に託すべきかを。
そして、選んだのが、この、無愛想な番台の男だったのだ。
睨みつけ、舌打ちをし、湯にも入れずに帰した、この俺に。
※
俺は、その油を、ほんのひとしずく、自分の手の甲に、取った。
そして、雪の積もりはじめた路地を、奥の傾いた家まで、歩いていった。
凍えた戸を叩くと、灯りの乏しい部屋で、少年がひとり、膝を抱えて、本を読んでいた。
父御は、その晩も、帰っていないようだった。
俺の顔を見た少年は、はっと立ち上がり、駆け寄ってきた。
そして、俺の手の甲の匂いに気づくと、その場に、くずおれるように、泣き出した。
「ああ……お母さんの匂いだ」
絞り出すような、その声だけは、今でも、俺の耳の奥に、はっきりと残っている。
「今日は……今日は、いちばん、ええクリスマスや」
俺は、何も、言えなかった。
ただ、痩せた肩に手を置いて、その子が泣き止むまで、そばに、座っていた。
凍えた部屋の中で、椿油の甘い匂いだけが、ぽつりと、灯りのように、漂っていた。
部屋の隅には、母御のものらしい、小さな鏡台が、ぽつんと、残されていた。
その鏡は、長いこと拭かれず、白く、曇っていた。
言葉は、いつだって、不器用だ。
それでも、この匂いだけは、まっすぐに、この子の母親のところまで、届いたのだと思う。
見えない手が、この子の頭を、そっと撫でているような気が、たしかに、した。
※
翌年、少年は中学に上がり、松ノ湯から少し離れた町へ、越していった。
釜場の、あの小さな手伝いは、それで終わった。
けれど、年の暮れになると、決まって一枚のはがきが、番台に、届くようになった。
「松ノ湯のおっちゃんへ。僕は、おっちゃんの湯で、育ててもろうたと思うています」
大学に入った年の暮れには、こんなはがきが来た。
「念願の大学に受かりました。勉強とアルバイトで、毎日くたくたです」
「でも、つらいときは、松ノ湯のあったかい湯を、思い出します」
俺は、番台の引き出しを開けて、これまでのはがきを、そっと、並べ直した。
高校の卒業を控えた年には、こう書かれていた。
「奨学金をもらえることになりました。医学部に進みます。痛みの分かる医者に、きっと、なります」
俺は、読み書きが、得意なほうではない。
それでも、そのはがきだけは、何度も、何度も、読み返した。
番台の引き出しに、一枚、また一枚と、大切に、しまっていった。
はがきの文字は、年を追うごとに、少しずつ、大人びていった。
その変わりようを見るのが、俺の、ささやかな楽しみに、なっていた。
便りが、途切れた年も、あった。
そんな年は、俺は、柄にもなく、気を揉んだ。
それでも、年が明ければ、また、はがきが届く。
「ご無沙汰しました。生きるのに、精一杯でした」
その一行に、俺は、ただ、胸を撫で下ろした。
気づけば、俺の髪にも、白いものが、増えていた。
町の銭湯は、一軒、また一軒と暖簾を下ろし、松ノ湯の客も、めっきり、減った。
それでも俺は、毎晩、番台に座り続けた。
いつか、あの子から便りが来る。その日のためだけに、湯を沸かしているような気さえ、した。
十年が、過ぎた。
松ノ湯の煙突からのぼる煙も、世の移ろいとともに、だいぶ、細くなった頃だ。
ある年の暮れ、いつもより分厚い封筒が、届いた。
中には、白い洋紙の便りが、一枚、入っていた。
あの子は、ほんとうに、医者に、なっていた。
そして、こう、記されていた。
「父の荒れた手の下で過ごした日々があったから、僕は、患者さんの痛みが分かる気がするのです」
「あの頃の僕を、おっちゃんは、見限らずに、いてくれました」
便りの終わりには、こう、あった。
「番台に座るおっちゃんは、僕にとって、母のような人でした」
俺は、しばらく、番台から、動けなかった。
母のような、と書かれて、無骨な男の胸の奥が、不意に、熱く、なった。
※
その翌年の春、最後の便りが、届いた。
それは、一枚の、結婚式の招待状だった。
端正な文字で式の日取りが記され、その隅に、ひとことだけ、書き添えられていた。
「母の席に、座っていただけませんか」
俺は、招待状を持つ手が震えるのを、どうにも、止められなかった。
あの、垢じみた襟の、少年が。
閉店間際に、誰も待つ者のいない家に帰りたくなくて、隅でひとり、長湯をしていた、あの子が。
いま、母の席に、この俺を、呼んでいる。
※
式の朝、俺は簞笥の奥から、あの椿油の小瓶を、取り出した。
十年以上が過ぎても、栓を抜けば、あの甘い匂いが、かすかに、残っていた。
俺はそれを、ほんのひとしずく、手の甲に、取った。
母の匂いを連れて、母の席へ、向かうために。
式場の、母の席に座った俺の隣で、あの子は、もう、立派な大人になっていた。
白い衣裳の花嫁に、あの子は、そっと、頭を下げた。
そして、俺のほうを振り返り、あの晩と同じ顔で、ほんの少しだけ、笑った。
椿油の、かすかな匂いが、二人の間を、静かに、つないでいた。
番台を継いだ日、俺は、人を値踏みすることしか知らない、傲慢な男だった。
その俺に、人を見るということを教えてくれたのは、ほかでもない、あの子だった。
松ノ湯の番台には、いまも、先代の遺した帳面が、置いてある。
その最後の頁に、俺は、震える字で、一行だけ、書き足した。
「奥の家の坊。立派な医者になった。母の席に、この俺を、呼んでくれた」
湯気の向こうに、いつかの少年の、丸めた小さな背中が、見える気が、する。
今夜も俺は、椿油の匂いを、ほんのかすかに、まとって、番台に座っている。