
この番傘だけは、どうしても、売れなかった。
あかね色の糸で、内側をかがった、小さな一本だ。
四十年あまり、私はこの里で、傘を作って生きてきた。
美濃の、山あいの、和傘の里。
雨の多い土地だ。
今日も、朝から、軒を打つ雨の音がしている。
店を閉じると決めて、道具を、ひとつずつ、片づけている。
竹を割る鉈。糸をかがる小さな鉤。油を引く刷毛。
どれも、祖父の手の脂で、飴色に光っている。
気づけば、私の手も、いつのまにか、あの人の手に、似てきていた。
節くれだって、指の腹が、油で、黒く染まった手だ。
その片づけの途中で、私は、奥の壁にかけたままの、この小さな番傘を、また、見上げた。
子ども用の、短い一本。
骨は、もう、ところどころ、色が抜けている。
けれど、内側のかがり糸だけは、いまも、あかね色のままだ。
この傘を見るたびに、私は、雨の匂いのする、あの昭和の里へ、帰ってしまう。
まだ、私が、ここの子では、なかった頃へ。
※
私が、この里に来たのは、六つの春だった。
両親が、別々の道を、行くことになって。
私は、母方の祖父の家に、預けられた。
玄一という、無口な、番傘職人だった。
駅から、バスを乗り継いで、山をひとつ越えた、奥の里。
着いた日も、雨が降っていた。
祖父は、停留所まで、迎えに来てくれた。
けれど、ほとんど、口を、きかなかった。
「来たか」
それだけ言って、私の小さな鞄を、片手で提げた。
もう一方の手には、大きな番傘を、さしていた。
私を、その傘の下に、入れた。
油を引いた紙の匂いが、つんと、鼻をついた。
雨が、傘の上で、ぱらぱらと、鳴った。
祖父は、何も、話さなかった。
私も、何も、言えなかった。
ただ、その傘の下は、ふしぎと、雨に、濡れなかった。
山道を、二人、黙って、歩いた。
祖父の下駄の音だけが、雨に、響いていた。
都会で生まれた私には、何もかもが、違っていた。
里の子の、ことばの訛り。
着ているものも、履いている靴も、私だけが、浮いていた。
学校へ行けば、里の子たちは、私を、遠巻きに見た。
「町の子は、しゃべり方が、おかしい」
そう言って、笑った。
私は、いつも、輪の外に、立っていた。
祖父の家も、私には、よその家のようだった。
家じゅう、竹と、油の、匂いがした。
朝の暗いうちから、祖父は、作業場で、傘を、張っていた。
細く割った竹を、糸で、ていねいに、かがっていく。
幾十本もの骨が、放射に、ひらいて、ひとつの花のように、なった。
その指先だけが、生き物のように、動いた。
口は、ひとことも、語らないのに。
私が、おはようと言っても、祖父は、手を、止めなかった。
「飯は、炊いてある」
そう言うだけだった。
私は、ひとりで、冷えかけた飯を、食べた。
この人は、傘のことしか、頭にないのだと、思った。
捨てられた私を、しかたなく、引き取っただけなのだと。
夜、布団の中で、私は、声を殺して、泣いた。
両親のいる、町の暮らしが、恋しかった。
※
雨の日の、下校の刻が、いちばん、つらかった。
昇降口の傘立てには、里の子の傘が、ずらりと、ささっていた。
透き通った、ビニールの傘が、ほとんどだった。
その中に、私の番傘だけが、一本、黒く、沈んでいた。
古い紙と、油の匂いが、私には、恥ずかしかった。
みんなが、自分の傘を、さっと開いて、帰っていく。
私は、いつも、最後まで、傘立ての前に、残っていた。
誰もいなくなってから、そっと、番傘を、抜いた。
ひとりで、雨の坂道を、下った。
傘の上で鳴る、雨の音だけが、道連れだった。
あるとき、ひとりの子が、すれ違いざまに、言った。
「番傘なんて、じいくさい」
どっと、笑い声が、起きた。
私は、その日から、雨の日が、もっと、嫌いになった。
傘屋の孫であることが、たまらなく、いやだった。
※
梅雨に入ると、里は、いちにちじゅう、雨に煙った。
傘の里は、この季節が、いちばん忙しい。
干し場には、張りあがった番傘が、ずらりと並んだ。
朱や、藍や、柿渋の、色とりどりの傘。
雨に濡れた紙が、ぴんと張って、つやを帯びた。
その光景だけは、子ども心にも、きれいだと、思った。
けれど、私は、その美しさを、素直に、誇れなかった。
みんなの、ぴかぴかの、ビニール傘が、うらやましかった。
町の親類が、送ってくれるのだという、新しい傘が。
私が持たされるのは、祖父の作った、古い番傘だった。
重くて、ごわごわして、子どもの腕には、大きすぎた。
ある朝、私は、その番傘を、わざと、玄関に、置いていった。
濡れて帰るほうが、まだ、ましだと思った。
びしょ濡れで帰ると、祖父は、土間に、立っていた。
私の、濡れた頭を、ひとつ、見た。
何も、言わなかった。
ただ、手ぬぐいを、放って、よこした。
その手ぬぐいは、火鉢で、あたためてあった。
ほんのり、あたたかかった。
けれど、私は、礼も、言わなかった。
その晩、便所に立った私は、作業場の灯りに、気づいた。
こんな刻まで、祖父は、何をしているのだろう。
そっと、障子の隙間から、のぞいた。
祖父は、小さな鍋で、糸を、染めていた。
湯気の中で、その糸が、だんだんと、あかね色に、染まっていった。
夕焼けのような、やわらかな、赤。
祖父は、その糸を、灯りに、かざして、じっと、見ていた。
何のための糸なのか、その時の私には、分からなかった。
見てはいけないものを、見た気がして、私は、布団に、戻った。
とん、とん、と、竹を割る音が、夜更けまで、雨音にまじって、聞こえていた。
※
幾日かして、祖父が、私に、一本の番傘を、差し出した。
子ども用の、小さな番傘だった。
軽く張れるように、骨を、細く削ってあった。
子どもの手にも、ちょうどいい、短い柄。
開いてみると、内側の、かがり糸だけが、あかね色だった。
里の、どの傘にも、ない色。
あの夜、祖父が、湯気の中で染めていた、あの糸だった。
祖父が、私のために、その色を、選んだのだと、すぐ、分かった。
けれど、その頃の私は、ひねくれていた。
素直に、ありがとうの、ひとことが、言えなかった。
「いらない」
私は、そう、言った。
「こんな、古くさい傘、いらない」
祖父の顔が、ほんの少し、こわばった。
それでも、何も、言わなかった。
そのことが、私を、よけいに、苛立たせた。
私は、いちばん、言ってはいけないことを、言った。
「僕は、ここの子じゃない。じいちゃんの傘なんか、いらないんだ」
そう言って、その小さな番傘を、土間に、投げ捨てた。
あかね色の糸が、薄暗い土間で、ぽつんと、光った。
祖父は、しゃがんで、それを、拾った。
泥を、手のひらで、そっと、払った。
そして、ひとことだけ、言った。
「そうか」
低い、かすれた声だった。
祖父は、その傘を持って、作業場の奥へ、消えた。
私は、自分のしたことの大きさも、分からずに、ただ、肩で、息をしていた。
その傘を、それきり、私は、見なくなった。
祖父も、二度と、傘を、よこさなかった。
※
その冬、町から、一度だけ、便りが、来た。
母の、短い、手紙だった。
『元気ですか。いい子に、していますか』
それだけの、数行だった。
会いに来るとは、どこにも、書いてなかった。
私は、その手紙を、何度も、畳んでは、開いた。
ポケットの中で、それは、すぐに、くたくたに、なった。
自分は、どこの子でも、ないのだと、思った。
町の子でも、里の子でも、ない。
そして、祖父の、傘の下にすら、自分から、いられなくした。
言葉は、いつも、傘より、ずっと不器用だった。
私の言葉も、祖父の沈黙も。
※
それでも、歳月は、雨のように、流れた。
変わるきっかけは、一匹の、川魚だった。
夏のはじめ、私は、ひとりで、川べりに、しゃがんでいた。
里の子の、健太という乱暴な子が、近づいてきた。
また、何か言われると、私は、身構えた。
けれど、健太は、川の浅瀬を、指さした。
「あそこに、でかいのが、おる。手で、取れるか」
私は、おそるおそる、手を、入れた。
つるりと、逃げられた。
健太が、腹を抱えて、笑った。
けれど、その笑いは、馬鹿にする笑いでは、なかった。
「貸してみ。こうやるんや」
健太の手が、私の手を、つかんで、川底へ、導いた。
冷たい水と、ぬるりとした石の感触。
その日、私は、はじめて、魚を、一匹、つかんだ。
「町の子のくせに、やるやんか」
健太が、白い歯を、見せた。
その日から、私は、輪の、内側に、いた。
秋の、雨の日のことだ。
下校の刻、健太が、私の番傘を、見上げて、言った。
「おまえの傘、ええなあ」
私は、おどろいて、健太の顔を、見た。
「これ、じいさんが、作ったんやろ。丈夫で、ええわ。おれのビニール傘、すぐ、破れる」
そう言って、健太は、私の番傘の下に、頭を、寄せてきた。
二人で、ひとつの傘に、入って、坂道を、下った。
油の匂いも、ぱらぱらと鳴る雨の音も、その日は、恥ずかしくなかった。
むしろ、すこし、誇らしかった。
帰って、私は、はじめて、祖父に、言った。
「じいちゃんの傘、丈夫やって、ほめられたよ」
祖父は、ふん、と、鼻を鳴らしただけだった。
けれど、竹を割る、その背中が、ほんの少し、うれしそうに、見えた。
里のことばを、話すように、なった。
気づけば、傘屋の孫として、この里に、なじんでいた。
そして、自分でも、ふしぎなほど、傘を、好きになっていた。
学校から帰ると、私は、祖父の隣に、座った。
竹を割る、その手元を、飽きずに、見ていた。
「やってみるか」
あるとき、祖父が、ぼそりと、言った。
私は、はじめて、竹に、鉈を入れた。
うまく、割れなかった。
祖父は、私の手に、自分の手を、重ねた。
節くれだった、大きな、あたたかい手だった。
「焦るな。竹の、目を、読め」
その手の、あたたかさを、私は、今でも、覚えている。
その日から、私は、祖父の弟子に、なった。
傘の張り方を。糸のかがり方を。油の引き方を。
祖父は、口下手なまま、手で、教えた。
叱ることは、なかった。
ただ、何度でも、もう一度、と、言った。
私は、何百本と、しくじった。
そのたびに、祖父は、黙って、やり直させた。
※
はじめて、一本の番傘を、独りで、張りあげた日のことだ。
骨は、ゆがんで、紙も、ところどころ、しわが寄っていた。
それでも、傘の形には、なっていた。
祖父は、それを、手に取って、ひらいて、閉じて、また、ひらいた。
長いあいだ、黙って、眺めていた。
「……張れたな」
たった、ひとことだった。
けれど、私は、その傘を、今でも、覚えている。
不格好な、私の、はじめての一本。
その夜、祖父は、めずらしく、湯呑みを、ふたつ、出した。
ひとつを、私の前に、置いた。
中身は、白湯だった。
二人で、黙って、それを、飲んだ。
雨が、その夜も、軒を、打っていた。
その秋、大きな野分が、里を、襲った夜があった。
干し場には、まだ、張りあげた番傘が、幾本も、残っていた。
「廉、来い」
祖父が、はじめて、私の名を、呼んで、走った。
二人、土砂降りの中へ、飛び出した。
風で、傘が、飛ばされそうに、なる。
祖父は、自分の合羽を、脱いで、番傘の上に、かぶせた。
自分は、ずぶ濡れに、なりながら。
「傘は、濡らすな。濡れた紙は、もう、戻らん」
私たちは、何度も、母屋と干し場を、往復した。
ようやく、すべての傘を、軒下に、取り込んだ。
祖父の白髪から、雨が、したたっていた。
けれど、その顔は、どこか、満ち足りて、見えた。
「よう、手伝うた」
はじめて、祖父に、ほめられた、気がした。
濡れた肩が、寒かったはずなのに。
なぜだか、その夜のことも、今でも、あたたかく、思い出せる。
糸を、かがれるように、なった頃。
私は、ふと、思い出して、聞いた。
「じいちゃん。あかね色の糸って、なんで、染めるの」
祖父の手が、一瞬、止まった。
「……古い、注文の、残りだ」
そう言って、また、手を、動かした。
私は、それ以上、聞かなかった。
あの、投げ捨てた小さな傘のことは、二人とも、口にしなかった。
胸の奥に、小さな棘のように、それは、刺さったままだった。
※
祖父の背は、年ごとに、丸くなった。
傘を張る指は、それでも、止まらなかった。
雨の季節になると、暗いうちから、竹を割る音が、聞こえた。
祖父の指は、年とともに、ふるえるように、なった。
細い竹ひごを、糸でかがる手元が、危うくなった。
「貸して。僕が、やるよ」
私が言うと、祖父は、少しだけ、不服そうな顔をした。
それでも、糸を、私に、渡した。
節くれだった手が、私の手元を、じっと、見ていた。
「……うまく、なったな」
ぽつりと、そう言った。
私は、手を、止めなかった。
止めたら、こらえているものが、こぼれそうだったからだ。
その頃から、祖父は、奥の間で、何かを、こつこつと、こしらえるように、なった。
のぞこうとすると、いやがって、襖を、閉めた。
何を作っているのか、私は、知らなかった。
今なら、分かる。
あれが、最後の、あかね色の一本だったのだ。
私が、いっぱしの職人に、なった頃。
祖父は、作業場で、糸をかがる手を止めたまま、静かに、座り込んだ。
張りかけの番傘を、膝に、抱えるようにして。
苦しむ様子は、なかった。
油と、竹の匂いの中で、眠るように、向こうへ、旅立った。
戻らぬ人と、なった。
あの無口な人は、最後まで、私を、どう思っていたのか。
厄介な、押しつけられた孫だと、思っていたのか。
それとも──。
確かめる術は、もう、ないのだと、思っていた。
見送りのあと、私は、長いあいだ、作業場に、入れなかった。
あの背中が、もう、ないことが、信じられなかった。
店を、どうするか。
迷ったまま、季節が、いくつか、過ぎた。
そして、私は、ようやく、蔵の片づけに、手をつけた。
※
蔵の、いちばん奥。
古い葛籠の、そのまた奥に、それは、立てかけてあった。
布に、ていねいに、包まれた、細長いもの。
ひとつ、ふたつ、では、なかった。
布を解くと、小さな番傘が、ずらりと、並んでいた。
どれも、子ども用の、短い柄。
大きさが、少しずつ、違う。
いちばん小さいものから、だんだんと、大きくなっていた。
そして、どの傘も、内側の、かがり糸だけが、あかね色だった。
私は、息を、のんだ。
一本ずつ、柄に、小さな紙が、結んであった。
解いてみると、年が、書いてあった。
昭和の、あの年。あの年。あの年。
私が、六つだった年から、ひとつも、欠けずに。
傘の骨の、開く幅が、年ごとに、すこしずつ、広がっていた。
それは、私が、両手を、広げられるように、なっていった、その幅だった。
祖父は、私の背丈を、傘の大きさで、数えていたのだ。
柱の、背くらべの、傷の代わりに。
一本、また一本と、開いてみる。
いちばん小さな一本を、開く。
六つの、あの年。雨の坂道を、ひとりで、下った年だ。
すこし、大きな一本を、開く。
健太と、川で、魚を、つかんだ年。
もう一本。
はじめて、竹に、鉈を入れた、あの年。
番傘の、ひとつひとつが、私の、過ぎた日々だった。
祖父は、その一年を、傘の中に、閉じ込めて、いたのだ。
私が、見ていなかった、私の歳月を。
六つの年から、毎年、ひとつずつ。
祖父は、私のための番傘を、作り続けて、いたのだ。
渡しも、せずに。
蔵の奥に、しまったまま。
そのいちばん奥に、ひときわ、古い一本が、あった。
泥の跡が、かすかに、残っていた。
あの日、私が、土間に、投げ捨てた、あの傘だった。
祖父が、拾って、泥を払った、あの、小さな番傘。
私は、震える手で、それを、開いた。
あかね色の糸の、その内側。
親骨の一本に、墨で、字が、書いてあった。
祖父の、無骨な字だった。
「廉は、わしの子だ。」
私は、その場に、膝を、ついた。
墨の字を、指の腹で、そっと、なぞった。
かすれて、けれど、確かな、祖父の筆だった。
四十年ものあいだ、番傘のいちばん奥で、その一行は、私を、待っていた。
渡せないまま。
声に、できないまま。
あの日、土間に光った、あかね色が、目の裏に、よみがえった。
ただ、雨の音だけが、蔵の屋根を、打っていた。
※
傘を、抱えたまま、私は、動けなかった。
あの日、私が、いちばん残酷な言葉を、投げた、あの日。
「僕は、ここの子じゃない」と。
祖父は、それを、ぜんぶ、聞いていた。
そして、何も、言い返さずに。
拾った傘の、骨の内側に、墨で、こう、書いた。
廉は、わしの子だ、と。
言葉では、言えなかったのだ。
あの不器用な人は、傘の、いちばん奥にだけ、それを、書いた。
そして、毎年、私の背丈に合わせて、新しい一本を、作り続けた。
あかね色の糸で。
その晩、里の、年寄りの行商の女が、線香をあげに、来てくれた。
スエさんという、祖父の古い知り合いだった。
私が、あかね色の傘を、抱えているのを見て、スエさんは、目を、細めた。
「ああ、その、あかね色か」
「スエさん。これ、知っているの」
「知っとるとも」
スエさんは、囲炉裏のそばに、座った。
「玄一さんはな、わしに、こう言うたよ」
「あかね色の糸を、孫の傘にだけ、入れるんだと」
「なんで、と聞いたらな」
スエさんは、火を、見つめた。
「『大勢の傘の中でも、あの子が、自分の傘を、迷わず見つけられるように』と」
私は、言葉が、出なかった。
「『町から来て、輪の外に、立っとる子だ』と」
「『せめて、傘の下だけは、迷子に、せん』と」
「あの無口な人が、わしの前で、それだけは、はっきり、言うたよ」
雨が、軒を、打っていた。
あの日、傘の下に、入れてくれた、祖父の手を、思い出した。
油の匂いと、ぱらぱらと鳴る、雨の音。
あれは、ただ、濡れないように、では、なかったのだ。
輪の外にいた私を、せめて、自分の傘の下にだけは、入れておこうとした。
祖父の、不器用な、精いっぱいの、腕だったのだ。
「おまえは、わしの傘の下の子だ」
祖父は、ずっと、そう、言っていた。
言葉ではなく、あかね色の糸で。
毎年、ひとつずつ、増えていく、小さな番傘で。
※
スエさんが、帰ったあと。
私は、いちばん古い、あの傘を、手に、外へ、出た。
雨は、まだ、降っていた。
昭和のあの日と、同じ、やわらかい、山の雨だった。
子ども用の、小さな傘を、私は、頭の上に、開いた。
骨が、軋んだ。
古い紙が、雨を受けて、ぱらぱらと、鳴った。
大人になった私には、小さすぎて、肩が、半分、濡れた。
それでも、私は、その傘を、さしていた。
あかね色の糸が、雨の暗がりの中で、ぽつんと、灯っていた。
六つの私が、この下に、立っていた。
輪の外で、ひとりだと、思い込んでいた、あの子が。
でも、ひとりでは、なかった。
この、あかね色の下に、ずっと、祖父の手が、あった。
「じいちゃん」
私は、雨の中で、呼んだ。
返事は、なかった。
ただ、雨が、傘を、やさしく、叩いた。
その音が、まるで、あの人の、低い声のように、聞こえた。
そうか、と。
あの日と、同じ、ひとことのように。
※
店を、閉じる日が、来た。
けれど、私は、もう、寂しくは、なかった。
蔵から出てきた、あの、あかね色の番傘たちを、私は、一本も、手放さないと、決めた。
奥の壁に、いちばん古い、子ども用の一本を、かけた。
そして、私は、まだ、傘を、作っている。
店は、閉じても。
注文を受けて、年に、幾本かは、張る。
その、どれにも、私は、内側に、あかね色の糸を、一本、入れる。
誰にも、気づかれない、傘のいちばん奥に。
輪の外で、ひとりだと、思っている子が、どこかに、いるのなら。
その子が、いつか、自分の傘を、迷わず、見つけられるように。
祖父が、私に、してくれたように。
番傘は、雨の日にしか、ひらかない。
晴れた日は、たたまれて、軒の隅で、じっと、待っている。
祖父の愛も、そういうものだったのだ。
晴れた日には、見えない。
けれど、いちばん、つらい雨の日に、いつも、頭の上に、ひらいていた。
それに気づくのに、四十年も、かかってしまった。
じいちゃん。
あなたは、言葉では、何も、言わなかったね。
でも、あの、あかね色の糸が、ぜんぶ、教えてくれたよ。
僕は、ちゃんと、あんたの、傘の下の子だった。
そして、今も、ずっと。
あんたの、子だよ。
この一本だけは、これからも、ずっと、売らずに、置いておく。
あなたが、彫るように書いた、あの一行と、ともに。
軒の雨が、あかね色の番傘の上で、また、やさしく、鳴った。