藍色のお守りに縫い込まれた許し

バッグ

薬剤師になって十年目の春、白衣のポケットの中で、藍色のお守りの紐が切れた。

小さな布袋が、手のひらに落ちてきた。

白い糸で雑に縫われた縫い目。

その藍色のお守りには、見覚えがあった。

じいちゃんが、最後にまともに話した日、俺に渡してくれたものだ。

七年間、一度も開けなかった。

港の台所の背中

俺が育ったのは、九州の北端にある小さな港町だ。

山が海際まで迫っていて、冬になると北風がまっすぐ吹き込んだ。

岸壁に立つと、塩の匂いの混じった風が頬を叩き、目が自然と細くなる。

祖父は小型の漁船を持っていた。

夜明け前に船を出し、昼前には戻ってくる。

それが、俺の生まれる前からの日課だった。

帰ってくる時間になると、防波堤の向こうに小さな船影が現れる。

エンジン音が近づき、岸壁に縄がかかる。

その瞬間が好きで、小学生の俺はよく波止場まで走った。

じいちゃんは口数の少ない人だった。

褒めることも、励ますことも、謝ることも、全部が不得意だった。

運動会で一等になっても、「そうか」の一言で終わった。

中学のテストで学年一位を取ったときも、「勉強してたのか」とだけ言われた。

それでも、俺が学校から帰ると、決まって台所にいた。

漁で使う仕掛けの糸を繕っていたり、拾ってきた浮きに塗料を塗っていたりした。

太い指が、細い糸をつまむ。

針の穴に糸を通す前に、必ず糸の先を舌で湿らせる。

その癖を、俺は何度も見た。

休みの日には、じいちゃんの船に乗せてもらうこともあった。

朝の海は、墨を流したように黒く、水平線だけが細く白んでいた。

網を上げる腕の筋が、ぎゅっと浮き上がる。

俺が魚を触るのを怖がると、じいちゃんは黙って、手本のようにゆっくり掴んでみせた。

言葉の代わりに、手が教えてくれる人だった。

玄関を開けると、振り返りもせずに言う。

「飯あるぞ」

それが、じいちゃんの迎え方だった。

「女の仕事だろうが」

高校二年の春、俺は薬剤師になりたいと言った。

夕飯のあとだった。

父も母も「そうか」とうなずいた。

薬学部は難しいが、お前なら大丈夫だろう、という顔だった。

じいちゃんだけが、違った。

茶碗を持ったまま、少し間を置いて言った。

「薬剤師は女の仕事だろうが」

食卓が、しんと静まった。

「座ってする仕事を選ぶのか。お前は体を使う仕事に向いとる」

言葉が出なかった。

そのあとで、怒りが来た。

何も言わずに席を立ち、自分の部屋に入った。

翌日も、その翌日も、じいちゃんと目を合わせなかった。

朝飯は、台所を避けて早めに出た。

じいちゃんは何も言わなかった。

謝るでもなく、弁解するでもなく、毎朝台所に座って、仕掛けの糸を繕っていた。

怒りは、時間が経つほど積もっていった。

謝らない人間を許す方法を、当時の俺は知らなかった。

大学は県外に出た。

六年制の薬学部を卒業し、国家試験に受かり、都市部の調剤薬局に就職した。

働き始めると、電話は月に一度あるかないかになった。

帰省も、盆と正月だけになった。

帰っても、じいちゃんとはろくに話さなかった。

天気の話と、港の話を少しして、それで終わりだった。

じいちゃんが何か言いたそうな顔をしたことが、何度かあった気がする。

けれど俺は、先に席を立つようにしていた。

仕事には、誇りを持っていた。

処方箋を確かめ、薬の用法を説明し、副作用に気を配る。

「あなたに説明してもらうと安心する」と、年配の患者さんに言われることも増えた。

「女の仕事だろうが」という言葉が、七年かけて少しずつ否定されていくようだった。

ある日、薬局に、足の悪いおじいさんが来た。

薬の飲み方を、何度聞いても覚えられないのだと言う。

俺は、一回分ずつ薬袋に日付を書き、丸い字で「朝」「夜」と添えた。

おじいさんは、袋を両手で受け取って、拝むように頭を下げた。

「ありがとうなあ、先生」

その背中を見送りながら、なぜか、港の岸壁が目に浮かんだ。

だからこそ、余計に許せなかったのかもしれない。

藍色のお守りと白い糸

じいちゃんが認知症になったと知らされたのは、薬剤師三年目の冬だった。

母から電話があった。

「帰ってこれる?」

声の調子で、急いだほうがいいとわかった。

実家の居間に、じいちゃんは座っていた。

ひと回り小さく見えた。

目が柔らかくなっていた。

港の男の顔ではなく、ただの老人の顔だった。

「俺だよ、じいちゃん。孫の翔也だよ」

じいちゃんは、しばらく俺を見つめた。

「翔也か」

それから、顔が少しだけ崩れた。

「でかくなったな」

もう二十代の終わりだった。

でかくなる年でもないのに、俺は黙ってうなずいた。

その日、じいちゃんはずっと手を動かしていた。

膝の上に藍色の布切れを広げ、白い糸で何かを縫っている。

器用な手つきではない。

何度も針を刺し直して、それでも丁寧に縫い続けていた。

母が「何を作ってるの」と聞くと、短く答えた。

「お守りだ」

しばらくして、縫いかけのそれを、俺に差し出した。

「持ってけ」

縫い目は粗く、角が揃っていなかった。

中に何かを挟んで縫っているようだったが、何かはわからなかった。

「ありがとう」と受け取った。

本当は、どうしていいかわからなかった。

捨てることもできず、白衣のポケットの底に、そっと入れた。

そのまま七年が過ぎた。

じいちゃんは、その翌年の秋に、静かに逝った。

肺炎だった。

入院して二週間も経たないうちに、眠るように息を引き取った。

通夜の席で、漁師仲間の老人が、猪口を置いてぽつりと言った。

「あの人の財布にな、薬局の名刺が入っとったんよ」

「お前さんの名前の入ったやつよ。何べんも出しては眺めとった」

俺は、返事ができなかった。

そのときは、ただの偶然だと思おうとした。

思おうとしたのだと、今ならわかる。

最後に会った日、じいちゃんは俺の名前をもう呼ばなかった。

目だけが、こちらを見ていた。

「来たよ」とだけ言って、俺は横に座った。

じいちゃんの手は、思っていたより小さかった。

甲の皮膚が薄くなっていた。

何十年も海水と漁網にさらされた手が、こんなに細くなっている。

その手を握れないまま、面会の時間が終わった。

切れた紐とメモ

じいちゃんが逝って、六年が過ぎた。

薬局の窓口で、俺は今日も薬袋を渡している。

港町の出身だと話すと、年配の患者さんに「海のきれいなところだね」と言われる。

そんなとき、俺は少しだけ懐かしくなる。

早朝の岸壁。

北風の匂い。

防波堤の向こうから、エンジン音が近づいてくる朝のこと。

そして、その春の一日。

白衣のポケットの中で、ぷつりと紐が切れる感触があった。

手を入れると、藍色の小さな布袋が出てきた。

縫い目が開いている。

中から、細く折りたたまれた紙が一枚、するりと落ちた。

休憩室で、その紙を開いた。

七年分の折り目と、白衣のポケットの熱で、しわくちゃになっていた。

紙の端に、糸の先を湿らせたような、小さな染みがあった。

針の穴に糸を通す前の、あの癖だ。

じいちゃんの字だった。

震えのある不揃いな文字が、鉛筆で書かれていた。

「薬剤師はえらい仕事だ。体が悪くなった時、正しい薬を出してくれる人がおるから俺たちは助かる。お前がそれをするときいた時、なんでか知らんが嬉しかった。でもそういうことがうまく言えん。港の男はてれかくしにひどいことを言う。ゆるしてくれ。」

句読点は少なく、漢字も怪しいところがあった。

それでも、わかった。

自分の字で、自分の言葉で書いたものだ。

言葉が出にくくなった頃に、針と糸でこの藍色のお守りへ縫い込んだのだ。

俺は椅子に座ったまま、動けなかった。

マグカップのコーヒーが、冷えていく。

何度も、何度も、その字を読んだ。

「てれかくしにひどいことを言う」

あの夕飯の夜を思い出した。

俺が席を立ったとき、じいちゃんはどんな顔をしていたのだろう。

電話が減り、帰省が減っても、じいちゃんは何を感じていたのだろう。

謝らなかったんじゃない。

謝れなかったのだ。

十数年のあいだ、ずっと。

言葉がうまく出なくなってから、やっと、縫い込んだ。

あの頃、じいちゃんが台所にいた理由が、今ならわかる。

「飯あるぞ」と言い続けた理由も。

「でかくなったな」と言ったときの、崩れた顔の意味も。

波止場へ走った子どもの頃を、俺は急に思い出していた。

じいちゃんは、あの頃からうれしかったのだ。

ただ、それをうまく言えない人だったのだ。

目の前が滲んだ。

薬局の休憩室で、俺は声を出さずに泣いた。

今も仕事をしながら、じいちゃんのことを思う。

手の不自由な患者さんに、袋を開けて説明するとき、ふと、あの最後の日の手を思い出す。

薬剤師として人の体を支えることが、じいちゃんへの約束のような気がしている。

言葉では交わしていない、約束だ。

メモは、財布の中に入れてある。

ほどけた藍色のお守りは、別の小袋に包んで、引き出しにしまった。

夜明け前に船を出していた港の男のことを、これからもずっと思い続けると思う。

ゆるしてくれ、と書いてくれた人のことを。

家族の沈黙を描いた話として、大好きなおじいちゃんもあわせてどうぞ。

時を経て届く思いを描いた物語に、変わらないものがあります。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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