
押入れの奥に、鉄の箱がある。
十六ミリの映写機だ。
蓋を閉めたのは昭和三十六年の秋で、それから二十三年、俺は一度も開けなかった。
開けなかった理由を、俺は誰にも話したことがない。
女房にも、倉庫番の同僚にも、話さなかった。
話せば、あの晩の白い布と、その下に並んだ百いくつの顔と、後ろのほうで立っていた小さな影のことまで、順番に出てきてしまう気がした。
だから俺は、押入れの襖を開けるたび、鉄の箱を見ないようにして、正月飾りの箱だけを引きずり出していた。
二十三年、そうしてきた。
俺は今、県庁の物品倉庫で棚番をしている。
朝七時に鍵を開けて、伝票の数を数えて、蛍光管の箱と椅子の脚を数えて、夕方に鍵を閉める。
数えるだけの仕事だ。
若い連中は俺のことを、無口な爺さんだと思っている。
昔は人前で喋る仕事をしていたと言っても、たぶん誰も信じない。
昭和三十三年の春から、俺は巡回映写の仕事をしていた。
県の教育課が持っていた古いトラックの荷台に、映写機と発電機と、巻いた白布と、フィルム缶を十いくつ積んで、山の村を回る。
電気の来ていない村がまだいくらでもあった時代の話だ。
村に着くと、まず公民館の壁か、なければ蔵の白壁に布を張る。
風の強い日は布が波打って、役者の顔が水の中みたいに揺れた。
発電機はよく機嫌を損ねた。
ハンドルを回して、回して、腰が抜けそうになった頃に、ようやく咳をするみたいに動きだす。
一巻が終わるたび、フィルムを掛け替える三分ほどの闇があって、その闇のあいだ、村の子どもらがいっせいに騒ぐ。
俺はその三分が、映画そのものより好きだった。
柚野という村に初めて入ったのも、その年の秋だった。
奥のほうへ川を三つ渡って、それから杉の坂を登りきったところに、屋根が四十いくつ。
蕎麦と炭と、細い棚田。
村の入口に大きな栃の木があって、その根方に子どもが一人、座っていた。
十くらいの、痩せた男の子だった。
トラックを停めると、その子は立ち上がって、荷台の幌をじっと見た。
「手伝ってくれるか」
そう言うと、その子はうなずいて、発電機のハンドルを両手で握った。
回らなかった。
体が軽すぎて、逆に自分が持ち上がる。
それでも三度、四度と食い下がって、四度目に発電機が咳をした。
俺は思わず笑った。
その子は、笑わなかった。
口を横に引いて、目だけで笑った。
声を出さない子だった。
その晩、区長にきいた。
耕作という名で、生まれたときから声が出ない。
耳は聞こえる。
言葉もわかる。
ただ、喉から先に音が来ない。
医者に診せる金も、診せる医者も、この山にはなかった。
「学校にもな、行っとらんのです」
区長はそう言って、湯呑みの底を見た。
翌年から、俺は柚野に年に三度、必ず入るようにした。
春と、盆と、秋。
そのたびに耕作が栃の木の下に座っていて、トラックの音を聞くと立ち上がる。
荷を下ろすのを手伝い、布を張るのを手伝い、それから映写機の横にぺたりと座る。
俺が機械にさわると、耕作の目が動く。
指が動く。
俺の手つきを、空中でなぞっているのだ。
「見とるだけじゃ覚えん」
そう言って、ある雨の日、俺は納屋を借りて機械を全部ばらして見せた。
歯車、爪、レンズ、ランプハウス。
耕作は一つも触らずに、順番だけを目で追った。
俺は送り爪をつまんで、耕作の目の前に持ち上げた。
「ここの爪が一枚でも欠けたら、この機械はもう動かん」
耕作はその小さな金物を、まばたきもせずに見ていた。
それから右手の人差し指を、納屋の土間にあてた。
字を書いた。
土の上に、爪、と。
耕作は字が書けた。
誰に習ったのか、そのときは知らなかった。
知ったのはひと月あとで、区長の家の縁側でのことだ。
耕作は学校に行っていない。
村に来る映画には、たまに字幕のついたものが混じる。
外国物ではない。
耳の遠い年寄りが多い村のために、教育課が字幕入りの巻を回していたのだ。
耕作は、それを読んでいた。
音のない口の動きと、画面の下に出る字を、何年もかけて突き合わせていた。
「あの子は、映画で字を覚えたんですわ」
区長はそう言って、少し笑った。
笑ったあとで、笑ったことを恥じるような顔をした。
村の誰も、耕作が字を書けることを知らなかった。
指で書くからだ。
紙にも、鉛筆にも、耕作は触らない。
畳に書き、壁に書き、俺の作業着の背中にも書いた。
書いた字はすぐ消える。
消えるから、誰も読まない。
読まなくていいと思っている顔で、耕作は書いていた。
三年目の盆に、俺は腹をこわした。
前の村で出された鮎が悪かったらしい。
上映の途中で、脂汗が出た。
掛け替えの闇のあいだに、俺は耕作の肩を叩いて、外へ出た。
裏の畑で、しばらく蹲っていた。
戻ったら怒鳴られる覚悟だった。
戻ったら、映画は動いていた。
白布の上で、役者が歩いていた。
映写機の横に、耕作が座っていた。
背筋を伸ばして、右手をレバーに、左手をフィルムの巻きに添えていた。
爪送りの音が、いつもより静かだった。
俺が回すより静かだった。
その晩、村の誰も、映写技師が入れ替わっていたことに気づかなかった。
俺は耕作の隣に座って、何も言わなかった。
言葉より先に、手が出た。
耕作の頭を、一度だけ、乱暴に撫でた。
耕作は前を向いたまま、レバーから手を離さなかった。
離したら止まると知っていたからだ。
※
俺が繰り返し掛けた映画に、旅の一座の話があった。
筋はもう覚えていない。
ただ、終わりのほうで、旅役者が世話になった村を出ていく場面がある。
橋の上で振り返って、男が言う。
「また、来る」
それだけの台詞だ。
耕作はその場面が来ると、必ず口を動かした。
音は出ない。
口の形だけが、ま、た、く、る、と動く。
俺は最初、笑って見ていた。
三度目か四度目に、笑えなくなった。
耕作は、その台詞を練習していた。
いつか誰かに言うために、口の形を覚えようとしていたのだと、俺はずっと後になって思うようになった。
盆に入ったとき、耕作の家に呼ばれて、麦茶を飲んだ。
母親は炭焼きの手伝いで指の節が太く、耕作のことを話すとき、なぜか声をひそめた。
「この子は、何も言わんですから」
そう言った。
その言い方が、俺は嫌だった。
嫌だと思ったくせに、俺も同じことをした。
そのことに気づくのは、もっとあとだ。
秋、村に着くと、栃の木の下に耕作がいなかった。
公民館の前に人が集まって、白い紙を囲んでいた。
ダムの図面だった。
奥津川に堰を作る。
柚野は、湖の底になる。
工期は三年。
移転先は、県道沿いの造成地と、あとは町の営団住宅。
四十いくつの屋根が、ばらばらの方角へ散ることになった。
耕作の家は、町の営団住宅に決まったと聞いた。
母親が繊維工場に入るのだという。
俺はそれを聞いて、つい軽い口をきいた。
「町なら医者もある。喉も、診てもらえるかもしれんな」
言ったあとで、区長が黙ったのがわかった。
耕作の喉は、医者でどうにかなるものではない。
村の者は誰でも知っていた。
知らなかったのは、年に三度しか来ない俺だけだ。
そのとき耕作が、少し離れた縁側にいた。
聞こえていたはずだ。
耳は、聞こえるのだから。
その晩の上映は、人がまばらだった。
映画どころではないのだ。
それでも耕作は来た。
映写機の横に座って、いつもの場所に、いつもの座り方で座った。
俺は掛け替えの闇のあいだに言った。
「柚野は、来年の秋が最後になるな」
耕作の指が動いた。
俺の作業着の背中に、字を書いていた。
長い字だった。
一文字ではなかった。
俺はそのとき、フィルムの巻き癖が悪くて、爪送りが暴れていた。
音でわかる。
指先で押さえて、機械の腹に耳をあてていた。
背中の字が邪魔だった。
「あとにしてくれ」
そう言って、俺は肩越しに手を払った。
払った手が、耕作の手にあたった。
小さな音がした。
耕作の指の先に、機械油がついていた。
俺の作業着の油だ。
その油のついた指を、耕作はしばらく見ていた。
それから膝の上で、指を握りこんだ。
その晩、耕作は最後まで機械の横にいたが、二度と字を書かなかった。
※
翌年の秋。
柚野の最後の上映会だった。
村を出る家はもう半分が出ていて、それでも当日は、出ていった家の者まで戻ってきた。
公民館の前庭に筵を敷いて、百いくつの顔が並んだ。
俺は白布を張りながら、少し浮かれていた。
こういう晩のために自分の仕事があるのだと、そのときは本気で思っていた。
日が落ちて、発電機を回した。
回った。
ランプが点いた。
映写機に一巻目を掛けて、スイッチを入れた。
動かなかった。
歯車は回る。
だがフィルムが送られない。
送り爪が、噛まない。
俺は焦って、蓋を開けて、閉めて、また開けた。
暗がりで機構を覗き込んでも、何がどうなっているのかわからなかった。
前庭の百いくつの顔が、こちらを見ていた。
区長が来て、俺の肩に手を置いた。
「まあ、しょうがない」
しょうがない、という言葉が、あんなに冷たいものだとは知らなかった。
筵が一枚ずつ巻かれて、人が減っていった。
最後まで残った婆さんが、握り飯を二つ、新聞紙に包んで置いていった。
俺は機械を積んで、暗い坂を下りた。
栃の木の下に、耕作が立っていた。
トラックのライトに、白い顔が浮かんだ。
俺は窓を開けなかった。
言うべき台詞は、決まっていた。
橋の上の旅役者と同じ台詞だ。
四文字。
それだけ言えばよかった。
俺は言わなかった。
言えばまた来なければならないと思った。
来れば、あの晩の失敗をもう一度思い出さねばならないと思った。
俺はハンドルを握り直して、坂を下りきった。
バックミラーに、栃の木も、白い顔も、映らなかった。
それきりだ。
柚野は翌々年に水を入れられて、湖の底になった。
俺は巡回映写の仕事を辞めて、県庁の物品倉庫に移った。
テレビが村々に入りはじめた頃で、辞めどきだと自分に言い聞かせた。
押入れの鉄の箱は、そのまま二十三年、開けなかった。
※
昭和五十九年の二月に、小包が届いた。
差出人の欄に、見覚えのない住所と、耕作、とだけあった。
姓はなかった。
包みを開けると、十六ミリのフィルム缶が一つ。
缶の蓋に、油性の字で、柚野、と書いてあった。
俺はその晩、押入れを開けた。
鉄の箱の蓋を開けるとき、蝶番が、鳴かなかった。
誰かが油を差したまま仕舞ったのだ。
俺だ。
二十三年前の俺が、ちゃんと油を差してから閉じていた。
自分の手癖が、自分を殴った。
居間の壁にシーツを画鋲で留めて、俺は久しぶりにフィルムを掛けた。
音のない映像だった。
村が映っていた。
水が来る前の、柚野だ。
引き払いかけの家の前で、婆さんが茶碗を布に包んでいる。
駄菓子屋の硝子戸が、外されて壁に立てかけてある。
犬が、誰もいない道の真ん中で寝ている。
棚田の畦に、稲架がまだ組んだままになっている。
一人ひとりの顔が、正面から映っていた。
みんな、カメラを見て、少し困った顔で笑っている。
撮っている者に向かって、何か言っている。
音は入っていないから、何を言っているかはわからない。
わからないのに、俺には聞こえるような気がした。
四十いくつの家の、ほとんど全部が映っていた。
最後に、栃の木が映った。
その根方に、少年が入ってきた。
十四か、十五になっていた。
背が伸びて、肩の骨が張っていた。
耕作は、カメラの正面に立った。
しばらく、何もしなかった。
風で、栃の葉が一斉に裏返った。
それから耕作の口が動いた。
ま。
た。
く。
る。
俺が言うはずだった台詞を、あの子の唇が代わりに動かしていた。
画面が白く飛んで、フィルムが終わった。
送りの爪が空回りする音だけが、暗い居間に残った。
俺は立ち上がれなかった。
缶を膝に乗せたまま、しばらく、シーツの白いところを見ていた。
やがて缶の底に、布の包みがあるのに気づいた。
古い手ぬぐいを小さく畳んだものだった。
開くと、金物が一枚。
送り爪だった。
俺の映写機の、送り爪だ。
包みの下に、便箋が一枚あった。
字は、鉛筆だった。
震えのある、大人の字だった。
〈あの晩、機械をこわしたのはおれです〉
〈ゆのが水にしずんだら、センセはもう来ないと思いました〉
〈こわれていれば、なおしに来ると思いました〉
〈爪を一まいぬきました〉
〈ずっと、返せませんでした〉
俺は便箋を膝に置いたまま、動けなかった。
ここの爪が一枚でも欠けたら、この機械はもう動かん。
そう教えたのは俺だ。
耕作は、それを覚えていた。
覚えていたから、正確に、一枚だけ抜いた。
百いくつの顔の前で俺に恥をかかせるためではない。
俺をもう一度、あの坂の上へ登らせるためだ。
十三の子どもの、たった一つの手だった。
そして俺は、直しに行かなかった。
窓も開けなかった。
四文字を言わなかった。
便箋の裏に、もう一行あった。
〈フィルムは、あのあと一人で回してとりました〉
〈カメラは、こわれた映写機とひきかえに、町の写真屋がかしてくれました〉
俺は、鉄の箱の蓋に手を置いた。
指の腹に、二十三年ぶんの埃がついた。
台所で女房が茶を淹れる音がしていた。
俺は便箋をもう一度、頭から読んだ。
〈こわれていれば、なおしに来ると思いました〉
この一行を、耕作は何度書き直したのだろうと思った。
指で書けば消える。
鉛筆で書けば、残る。
残るものに書くまでに、二十三年かかったのだ。
俺はそのあいだ、押入れの襖を毎年開けて、正月飾りの箱だけを引きずり出していた。
※
三月の終わりに、俺は車で山へ入った。
奥津湖の展望台までは、舗装された道が通っていた。
昔、川を三つ渡った道は、水の下だ。
杉の坂も、栃の木も、公民館の前庭も、全部その下にある。
湖は、思っていたより静かだった。
風が出ると、水の面に細かい鱗が立つ。
展望台の柵のところに、男が一人、立っていた。
背の高い、肩の骨の張った男だった。
俺は名前を呼ばなかった。
呼んでも、返事は返らない。
男は振り返って、俺を見た。
口を横に引いて、目だけで笑った。
三十六になった耕作だった。
俺たちは、しばらく黙って水を見ていた。
黙っていることが、二人には少しも苦にならなかった。
やがて耕作が、右手を上げた。
人差し指を、空にあてた。
書きはじめた。
空に書く字は、土に書く字よりずっと消えるのが早い。
書いたそばから消えていく。
それでも耕作は、ゆっくり書いた。
俺が読めるように、ゆっくり書いた。
俺は今度は、目を逸らさなかった。
肩越しに手を払わなかった。
あとにしてくれ、とも言わなかった。
一画ずつ、最後まで読んだ。
〈きてくれて ありがとう〉
二十三年前、俺の作業着の背中に書かれていたのも、たぶん、これだったのだと思う。
長い字だった。
俺は、読まなかった。
耕作の指が下りたあと、俺は自分の人差し指を上げた。
字は下手だ。
空に書くのは初めてだ。
それでも、書いた。
〈また くる〉
耕作はそれを、まばたきもせずに見ていた。
納屋の土間で、小さな金物を見ていたときと同じ顔だった。
それから、うなずいた。
帰りの車に、鉄の箱を積んでいた。
送り爪は、もう元の場所に戻してある。
嵌めるとき、指が震えて、三度落とした。
四度目に、噛んだ。
歯車が回り、爪が布を送るように動いた。
音が、鳴いた。
二十三年ぶりの音だった。
俺はそれを、湖の見える駐車場で、一人で聞いた。
来年の春、あの男を助手席に乗せて、どこか電気の通っていない山へ行こうと思う。
もうそんな村は、日本のどこにも残っていないのかもしれない。
それでも、白い布を張れる壁が一枚あればいい。
回すのは、俺ではなく、あいつだ。