
これは、六十七年生きてきて、誰にも話したことのない話です。
妻にも、子どもにも、話していません。
私はいまだに、他人の家の玄関で、脱いだ靴の爪先を外へ向けてしまいます。
行儀がいいですね、と褒められることもあります。
けれど、そういうことではないのです。
私は子どもの頃、たった一人の幼なじみを、黙って見捨てたことがあります。
この癖は、その子が置いていったものです。
昭和三十六年の春、私は小学五年生でした。
町を流れる川に、堤防を築く工事が始まった年です。
朝から晩まで、杭を打つ音が響いていました。
どぉん、どぉん、と、地面の底から突き上げてくるような音でした。
その音を聞きながら宿題をして、その音を聞きながら眠りました。
今でも工事の柵の前を通ると、あの頃の川の匂いが鼻の奥に戻ってきます。
泥と、水草と、機械油の混じった匂いです。
工事が始まると、川の向こう岸に飯場が建ちました。
トタン屋根の細長い小屋が、三棟。
日本じゅうの現場を転々としている作業員の人たちと、その家族が住んでいました。
町の大人は、あそこの子は、という言い方をしました。
うちの母もそうでした。
私の父は、町役場の土木の係で働いていました。
堤防の工事では、測量の杭を打つ人たちのうしろについて回るのが仕事でした。
雨の日も晴れの日も、同じ色の作業服で帰ってきて、玄関で長靴の泥を落としていました。
四月の終わりに、私のクラスに転校生が来ました。
高津信夫。
先生が黒板にその名前を書いているあいだ、彼はずっと自分の足元を見ていました。
みんなはノブと呼びました。
色が黒くて、背は私より頭ひとつ低くて、声だけが妙に低い子でした。
言葉に少し訛りがありました。
九州の生まれで、父親の仕事について四つの県を回ってきたのだと、あとから聞きました。
教科書は、前の学校のものをそのまま使っていました。
表紙に、前の学校の印が押されたままでした。
ノブは給食の時間になると、決まって同じことをしました。
コッペパンを半分だけ食べて、残りを新聞紙にくるみ、学生服の内側に入れるのです。
脱脂粉乳の匂いが立ちこめる教室で、その紙の音だけがかさかさと乾いて聞こえました。
誰かが笑うと、ノブは黙って背中を丸めました。
私も一度だけ、聞いたことがあります。
「腹、減らないのか」
「減らんよ」
それだけでした。
聞いたのに、それ以上は聞きませんでした。
十一の私は、それでもう十分に優しくしたつもりでいたのです。
※
初めてノブがうちに来たのは、梅雨に入る前の土曜日でした。
算数の宿題を教えてやる、と言い出したのは私です。
本当は、誰かと一緒に帰りたかっただけでした。
ノブは玄関の前で、しばらく動きませんでした。
「上がっていいよ」
「うん」
そう言って、ノブは運動靴を脱ぎました。
そして、脱いだ靴をきちんと揃えて、爪先を外へ向けたのです。
私はそんなことをしたことがありませんでした。
うちでは、脱ぎ散らかした靴を母が並べ直すのが当たり前でした。
「なんで、そっち向きにするんだ」
「こうしとくと、すぐ帰れるけん」
ノブは少し笑って、そう言いました。
すぐ帰れる。
その言葉の意味を、私は考えもしませんでした。
その日から、私たちは学校の帰りに土手へ登るようになりました。
堤防の工事は、川岸を削って、赤茶けた土を一段ずつ積み上げていく仕事でした。
夕方になって機械が止まると、削られたばかりの土の匂いが立ちのぼりました。
雨のあとの土は、握ると指の腹に冷たく貼りつきました。
ノブは工事のことを、町の大人よりも詳しく知っていました。
「あそこの段が三段目。あと二段積んだら、天端まで行く」
「てんば、って何だ」
「いちばん上のこと。人が歩けるとこ」
「じゃあ、そこまで行ったら終わりか」
「終わりよ」
ノブは、乾いた声でそう言いました。
「終わったら、うちは次の現場に行く」
私は、川の水面に浮いた油の輪をぼんやり見ていました。
「ずっとここにいればいいのに」
「親父が仕事しよるところに、俺がおる」
それは、十一の子どもが言う言葉ではありませんでした。
けれどノブは、当たり前のことのように言いました。
夏のあいだ、私たちはよく土手の斜面に寝ころびました。
背中の下で草がつぶれて、青い匂いがしました。
ノブには、寝ころんだまま指で空に線を引く癖がありました。
「それ、何を描いてるんだ」
「地図」
「どこの」
「行ったとこ全部」
私は笑いましたが、ノブは笑いませんでした。
九月の初めに、大きな台風が来ました。
夜通し雨戸が鳴って、朝になると町の低いところが膝まで水に浸かっていました。
学校は休みになり、私は父について土手の様子を見に行きました。
積みかけの堤防の斜面が、雨で一か所えぐれていました。
その泥の中に、腰まで濡れた大人たちが並んで、土嚢を手渡していました。
いちばん川寄りに立っていた小柄な人が、ノブの父親でした。
ノブは土手の上に立って、それをじっと見ていました。
「あれ、うちの親父」
「知ってる」
「日本一、土嚢を積むのが速い」
ノブがそう言ったとき、私は少しだけ羨ましかったのを覚えています。
うちの父が何の仕事をしているのかを、私は人に説明したことがありませんでした。
十月に、遠足がありました。
前の日の帰り道で、ノブが急に立ち止まりました。
「俺、明日休む」
「なんでだよ」
「靴が、もう履けん」
見ると、ノブの運動靴は、親指の付け根のところが口を開けていました。
帆布が薄くなって、指の形に膨らんでいました。
私はその夜、押し入れから兄のお下がりの運動靴を引っぱり出しました。
底のゴムはまだ厚くて、たわしで洗えばじゅうぶん白くなりました。
内側の踵に、母の字で「加治谷」と墨が入っていました。
翌朝、川べりでそれを渡すと、ノブは長いこと受け取りませんでした。
「返さんといけんやろ」
「いつでもいいよ」
ノブは靴を裏返して、墨の字をじっと見ました。
「名前、消していいや」
「そのままでいい」
「なんで」
「返すとき、どっちのか分からなくなるだろ」
ノブはそれで、やっと笑いました。
その日、ノブは遠足の列のいちばん後ろを歩きました。
新しい靴の踵が、まだ足になじんでいなかったのだと思います。
私は何度も振り返って、白い靴が坂を登ってくるのを確かめました。
家に帰ると、母が台所から言いました。
その少しあとに、私は一度だけ、ノブを疑ったことがあります。
筆箱に入れていた消しゴムが、机の上から消えたのです。
そのとき、私の机の横に立っていたのはノブだけでした。
私は何も言いませんでしたが、放課後、ノブのランドセルの脇をちらりと見ました。
見た、というより、確かめたのです。
消しゴムは、その夜、自分の筆箱の底から出てきました。
紙の切れ端の下で、平たくなっていました。
私はそれを机の上に置いて、しばらく眺めていました。
翌朝、ノブにそのことを話すつもりでいましたが、話しませんでした。
話さなくても済むことだと思ったのです。
その胡麻粒のようなものだけが、私の中に残りました。
「あの子とばかり遊んでるんだって」
「うん」
「うちのもの、なくなったりしないでしょうね」
私は返事をしませんでした。
言い返せばよかったのに、私はただ、麦茶を飲んでいました。
あのときの麦茶の、少し焦げたような味を、私は今でも覚えています。
※
十一月の初めでした。
朝の会のあと、学級費の封筒が先生の机からなくなりました。
前の日に集めたばかりの、茶色い大きな封筒です。
教室の空気が、一瞬で変わりました。
誰が言い出したのかは、もう思い出せません。
けれど、みんなが同じほうを向いていました。
「だってあいつ、パン持って帰ってるじゃん」
その一言で、決まってしまいました。
証拠でもなんでもない、ただそれだけのことでした。
担任の宮田先生が、私たちを一人ずつ立たせて聞きました。
「誰か、心当たりのある者はいるか」
前の席の子が「高津です」と言いました。
その隣の子も「高津だと思います」と言いました。
順番が回ってきて、私は立ち上がりました。
ノブは、私の斜め後ろの席にいました。
背中に、その視線を感じました。
「加治谷。お前はどう思う」
喉の奥が、砂を噛んだように乾きました。
「知りません」
私はそう言って、座りました。
それだけです。
消しゴムのことを思い出したのは、座ってからでした。
違います、と言えばよかったのです。
あいつは弟のためにパンを持って帰っているんだ、と、確かめもしないまま、そう言ってやればよかったのです。
けれど私は、教室じゅうを敵に回すのが怖かった。
ただ、それだけでした。
その日の帰り、ノブは土手に来ませんでした。
次の日も、その次の日も来ませんでした。
私は毎日、土手に登って川の向こうを見ていました。
飯場の煙突からは、まだ細い煙が出ていました。
渡れば済むことでした。
橋は、歩いて七分のところにありました。
それでも私は、その七分を歩きませんでした。
一週間して、担任が朝の会で言いました。
「学級費は、先生の鞄の底から出てきました。先生の間違いでした」
それで終わりでした。
謝る相手は、もう教室にいませんでした。
堤防は、その月のうちに天端まで届きました。
杭を打つ音が止むと、町は妙に静かになりました。
私は日曜日に、初めて一人で川を渡りました。
飯場のあった場所は、平らな更地になっていました。
小屋の柱の跡が、四角い窪みになって並んでいました。
窪みには雨水が溜まって、白い空を映していました。
私は、その水面を長いこと見ていました。
あの白い運動靴は、返ってきませんでした。
私はそれを、返してもらえなかった、とは思いませんでした。
返しに来られないようにしたのは自分だと、知っていたからです。
※
それから四十年以上が過ぎました。
私は市役所に入り、いちばん長く建設課にいました。
道路の補修や、水路の付け替えの図面を、来る日も来る日も引いていました。
定年まであと二年という年に、あの堤防の改修の担当になりました。
昭和三十六年に積まれた土の、内側を今の基準で作り直す工事です。
住民説明会の日、私は資料を配りながら、施工業者の名簿を何気なく見ました。
作業員の欄に、高津、という二文字がありました。
よくある名字です。
それでも、指が止まりました。
説明会が終わって、椅子を片づけていると、後ろから声がしました。
「加治谷さん」
作業服の、白髪の男の人でした。
顔じゅうに日焼けの皺が寄っていて、私よりずっと年上に見えました。
「はい」
「杉戸河岸小学校の、加治谷弘之さん」
その低い声を、私は間違えようがありませんでした。
「ノブか」
「そう呼ばれたんは、四十何年ぶりかね」
私は、椅子を持ったまま立ち尽くしていました。
言わなければならないことが、喉の途中でつかえていました。
「あのとき、俺は」
「覚えとるよ」
ノブは、私の言葉を最後まで聞きませんでした。
「みんなが順番に、高津です、高津です、言うたやろ」
「うん」
「お前だけが、知りません、言うたろ」
ノブは、少しだけ笑いました。
「俺はあれで、こいつは味方じゃ、と思うたよ」
私は、首を振ることも頷くこともできませんでした。
味方などではなかったのです。
ただ、名前を口にするのが怖かっただけでした。
四十年、私はその一言を自分の罪として抱えてきたのに、ノブはそれを反対側から読んでいたのです。
「違うんだ、俺は」
「ええよ」
ノブは、足元に置いていた作業袋の口を開けました。
中から出てきたのは、片方だけの運動靴でした。
帆布は色が抜けて、灰色とも黄色ともつかない色になっていました。
底のゴムは踵の外側だけが斜めにすり減って、爪先には黒い接着剤の跡がありました。
ノブはそれを裏返して、内側の踵を私に向けました。
薄く、けれど確かに、加治谷、と読めました。
「四十年、俺はお前の名前を履いて歩いとった」
会議室の蛍光灯が、じじ、と鳴りました。
「片方は、三年目の現場でどっかに落とした」
「探したんやけど、出てこんかった」
「これだけは、どうしても捨てられんかった」
私は、その靴に手を伸ばすことができませんでした。
「なんで」
やっと出たのは、そんな言葉でした。
「なんで、あのときパンを持って帰ってたんだ」
ノブは、少し驚いた顔をしました。
それから、当たり前のことを説明するみたいに言いました。
「弟がおったんよ。勝美いうて、二つ下の」
「学校に行っとらんかったけん、パンの味を知らんまま大きゅうなるのは、かわいそうやろ」
私は、五年生の教室に立っている自分を見ていました。
知りません、と言った自分を。
知ろうともしなかった自分を。
「勝美は、途中から学校に行けるようになった」
「今は九州で、孫が三人おる」
ノブは、それだけ言いました。
「あの日、俺が学校に行かんかったんは、お前らのせいやない」
ノブは、そう言い足しました。
「飯場を畳むんは、もう決まっとった」
「けど、あの日から行きとうなくなったんは、ほんとよ」
それは、赦しであって、赦しではありませんでした。
私はその両方を、まっすぐ受け取るしかありませんでした。
ノブは靴を袋に戻しかけて、手を止めました。
「返そうか」
私は、首を振りました。
「まだ、いい」
「まだ歩けるだろ、それ」
ノブは靴を見て、それからゆっくり袋の口を閉じました。
「そうやね」
「まだ歩ける」
※
改修の工事は、翌年の秋に終わりました。
新しい天端は、昔よりも一段高くなりました。
私が定年で市役所を出た日、家に帰ると、玄関の三和土に見慣れないものがありました。
片方だけの運動靴が、爪先を外へ向けて揃えてありました。
「工事の方が、届けにみえたわよ」
妻がそう言いました。
「上がってくださいって言ったんだけど、玄関で帰られて」
私は、しゃがんでその靴を持ち上げました。
底のゴムは、四十年ぶんだけ薄くなっていました。
内側の踵の墨は、目を近づけないと読めないほど薄くなっていました。
それでも、三文字はまだそこにありました。
私はその靴を、下駄箱の上に置きました。
妻は、その靴が誰のものかを聞きませんでした。
長く一緒にいると、聞かないほうがいいことが分かるようになるのだと思います。
私は今日も、玄関で靴の爪先を外へ向けます。
「またやってる」
妻が、後ろで笑いました。
「どなたか、いらっしゃるの」
「うん」
「まだ、来ると思う」
下駄箱の上の片方の靴も、爪先だけは、いつも外を向いています。