絵馬に書かれた願い

絵馬(フリー写真)

雪の門前町で、絵馬の板を数える冬

山形の庄内、羽黒の門前町で育ちました。

杉並木の石段が二千段を超える山の、その麓の集落です。

冬の風は、上からではなく横から来ます。

傘はほとんど役に立ちません。

肩と首のあいだに雪が入り込んで、そこだけが熱くなったように痛みました。

祖母のトヨは、その町で絵馬の板を仕上げる内職をしていました。

作るのではありません。

木地屋から届いた無地の板に、朱の枠線を一本引き、裏に社の判を押す。

それだけの仕事です。

一枚いくら、の手間賃でした。

私は学校から帰ると、火鉢の横に座らされました。

板を数える係です。

十枚ずつ重ねて、二十の束にする。

二百枚で一箱になりました。

数えられるようになったのが六つのときで、それから冬のあいだじゅう、私はずっと板を数えていたことになります。

絵馬には大きさが三つありました。

大絵馬、中絵馬、そして小絵馬。

小絵馬は掌に乗るほどで、値段もいちばん安い。

子どもが自分の小遣いで買えるのは、これだけでした。

祖母は、その小絵馬の裏に、ときどき、墨で小さな点をひとつ打ちました。

筆の先を、ほんの少し、板に置くだけです。

枠線を引くときの迷いのなさとは違って、その一点だけは、いつも少し遅れて置かれました。

私が理由を訊いても、祖母は答えませんでした。

「数えろ」

それだけ言って、また筆を持ち直すのです。

愛想のない祖母と、団子屋の湯気

祖母は愛想のない人でした。

近所の子には菓子ひとつ出しません。

参拝客に道を訊かれても、指を差して顎を引くだけです。

母は嫁いできた当初、それがつらかったと後になって言いました。

ただ、祖母には妙な癖がありました。

雪の日の夕方になると、必ず一度、社務所まで様子を見に行くのです。

板を納めるのは十日に一度でいいはずでした。

それでも祖母は、両手に何も持たずに、下駄で出ていきました。

「ばあちゃん、なんも持ってねえよ」

「持って行くもんがない日もあるさげの」

意味が分かりませんでした。

帰り道、門前の団子屋の前を通ると、祖母は立ち止まりました。

店先の湯気が、雪に当たって白く崩れます。

店の政江さんが、いつも同じことを言いました。

「トヨさん、また行ってきたのけ」

「うん」

それ以上は続きません。

私は焼き団子を一本もらって、帰り道で全部食べてしまうのが常でした。

指がべたついて、袖で拭くと祖母に叩かれました。

そういう、なんでもない冬でした。

祖母が一度だけ笑ったのを覚えています。

私が板の数を間違えて、十九の束を二十だと言い張った日です。

祖母は黙って束を崩し、私の目の前で、もう一度、十枚ずつ重ねました。

指の腹で板の縁を送るだけの、音のしない数え方でした。

「十九だの」

「合ってた」

「合ってねえ」

私が半べそをかくと、祖母は火鉢の縁を指で二回叩いて、こう言いました。

「数の合わねえ日は、誰かが得してるんでねくて、誰かが損してるんだ」

それから、口の端だけで、少しだけ笑いました。

あのときは、けちな人だと思いました。

いま思えば、あれは冗談でも説教でもなく、この人が四十年やってきたことの、そのままの言葉だったのです。

母が入院した年の、はじめての絵馬

私が九つの冬に、母が入院しました。

胃の手術だと聞かされました。

子どもには、それが軽いことなのか重いことなのか、まるで見当がつきません。

手がかりは、大人の顔色だけでした。

父は毎晩、台所で立ったまま飯を食べるようになりました。

祖母は板を引く手を止めませんでしたが、朱の線が、たまに震えました。

あの震えた線の板は、束に入れずに横へ寄せられていました。

年の暮れ、私は一人で石段を上がりました。

小遣いは持っていませんでした。

正月の分を前借りするような子どもではなかったし、そもそも、絵馬を掛けるのに金がいるという実感が、まだ薄かったのです。

授与所には人がいませんでした。

小絵馬が籠に積んであって、横に賽銭箱のような木の箱が置いてありました。

私は一枚取りました。

箱には、何も入れませんでした。

入れなかったのではなく、入れるものがなかったのです。

備え付けの筆ペンは、寒さでインクが出ませんでした。

何度も紙にこすりつけて、やっと薄い字が書けました。

「おかあさんの びょうきを なおしてください」

それだけです。

名前も、住所も、書きませんでした。

掛け金に紐を通して、そのまま石段を駆け下りました。

誰かに見られる前に、遠くへ行きたかったのを覚えています。

母は、春に退院しました。

私はそのことと絵馬とを、結びつけて考えたりはしませんでした。

子どもというのは、願いが叶うと、願ったこと自体を忘れてしまうものです。

母の病室と、父の立ち食い

母が入院していた冬のことを、もう少し書いておきます。

鶴岡の病院までは、雪の日はバスで一時間半かかりました。

父は仕事を抜けられず、行けるのは日曜だけでした。

その代わり、平日の夜になると、台所で立ったまま飯を食べるようになりました。

座ると、そのまま動けなくなるからだと、あとで祖母が教えてくれました。

私は病室で、母の膝の上のタオルばかり見ていました。

顔を見ると、痩せたことに気づいてしまうからです。

母は、私の帽子の紐を結び直しながら、いつも同じことを訊きました。

「ばあちゃんの手伝い、してるか」

「してる」

「何枚だ」

「きのうは、四百」

「そら、たいしたもんだ」

本当は、その日は二百枚も数えていませんでした。

嘘をついたのは、母に安心してほしかったからではありません。

私が数えた分だけ母が良くなるような、そういう馬鹿げた計算を、頭のどこかでしていたからです。

子どもの祈りというのは、たいてい、そういう形をしています。

帰りのバスの窓は、内側から白く曇りました。

指で丸を描くと、その中だけ、雪の野が見えました。

あの丸を、いくつ描いたか覚えていません。

石段を上がったのは、その帰り道です。

四十年後、祖母の道具箱を開ける

祖母が九十六で寝付いたのは、私が五十を過ぎた年でした。

私はとうに東京に出ていて、盆と正月に帰るだけの人間になっていました。

介護のために三か月ほど戻ったとき、納屋の隅から祖母の道具箱が出てきました。

朱の入った小皿。

穂先の潰れた筆が七本。

社の判と、朱肉。

そして、板が一枚も入っていない代わりに、帳面が二冊ありました。

数の帳面と、もう一冊。

もう一冊のほうには、日付と、数字だけが並んでいました。

五十、五十、百、五十、五十。

金額です。

合計の欄はありません。

ただ、日付だけが、雪の季節に偏っていました。

私はそれを持って、社務所へ行きました。

宮司の三浦さんは、私より十ほど上で、子どものころから知っている人です。

帳面を見て、三浦さんは、少し笑いました。

「これ、うちの箱の帳面だ」

「うちの箱、というと」

「絵馬の代を入れる箱よ。あれ、鍵もねえべ」

「はい」

「たまに、足りねえ日があんのさ」

私は、まだ意味が分かりませんでした。

三浦さんは、帳面の数字を指でなぞりました。

「トヨさんな、夕方に来て、数だけ勘定して帰るんだ」

「数、ですか」

「籠から減った小絵馬の数と、箱の中身。それが合わねえ日に、自分で足してた」

下駄の音を思い出しました。

両手に何も持たずに、雪の中を出ていく背中です。

持って行くもんがない日もある、という言葉の意味が、四十年遅れて届きました。

持って行くのではなく、置いて帰る日があったのです。

点の打ってある絵馬は、焼かない

私は、もうひとつ訊かなければなりませんでした。

裏の点のことです。

三浦さんは、お焚き上げの話から始めました。

掛けられた絵馬は、年に一度、境内で焚き上げる。

紐を切って、束にして、火に入れる。

ただし、と三浦さんは言いました。

「点の打ってある絵馬は、焼かずに残す。それが、うちの決まりでした」

「残して、どうするんです」

「掛けとくのさ。願いが済むまで」

「済んだかどうかは、どうやって」

「分かるわけねえべ」

三浦さんは、少し困った顔をしました。

「分かんねえから、掛けとくんだ」

祖母が点を打っていたのは、代金の入っていない絵馬にだけでした。

金を払わずに掛けられた願いは、粗末だから焼く、ではありません。

逆でした。

払えないほど急いだ願いなのだから、まだ済んでいないと見なして、焼かずに置く。

祖母は、代を自分で足し、その板の裏に点を打ち、焼かれない側へ回していたのです。

「トヨさんは、板を作る人だからな」

三浦さんは言いました。

「どの板が誰の手を通って行ったか、あの人だけが知ってた」

四十一枚のうちの、一枚だけ大人の字

掛け所の絵馬を数えているとき、一枚だけ、大人の字のものがありました。

楷書で、丁寧に、こう書いてありました。

「この子の願いが、届きますように」

名前はありません。

裏を返すと、やはり点がひとつ打ってありました。

三浦さんに見せると、しばらく黙ってから、こう言いました。

「トヨさんの字だな」

「祖母の、ですか」

「うん。判を押すときの、あの人の手の癖が出てる」

祖母は、代を足すだけでは足りないと思った日に、自分でも一枚買っていたのです。

自分の願いは書きませんでした。

誰の子とも書きませんでした。

ただ、届きますように、とだけ。

そして、その板の裏にも、自分で点を打って、焼かれない側へ回していました。

祖母は、自分の絵馬にも、代を払っていたことになります。

内職の手間賃で作った板を、内職の手間賃で買って、掛けていたわけです。

採算という言葉が、頭の中でひどく間の抜けたものに聞こえました。

いちばん奥の掛け所

点の絵馬は、社殿の裏手の、いちばん奥の掛け所にありました。

参拝路からは見えません。

雪囲いの板の陰に、細い横木が渡してあって、そこに掛かっていました。

数えたら、四十一枚ありました。

どれも小絵馬でした。

字は、ほとんどが拙いものでした。

ひらがなばかりの願いや、鏡文字の混じった願いが並んでいました。

私はその中に、薄い字の一枚を見つけました。

寒さでインクの出なかった筆ペンの、かすれた線です。

「おかあさんの びょうきを なおしてください」

裏を返しました。

点が、ひとつ。

私は、しゃがみ込んでしまいました。

雪の匂いがしました。

四十年、この板は焼かれずにここにありました。

母はとうに退院して、七十を過ぎて、今も台所に立っています。

願いは済んでいたのです。

それでも、済んだと言いに来た者がいなかったから、掛かったままでした。

祖母は、あの日の五十円を、自分の内職の手間賃から足していました。

そして、孫の字だと分かっていて、一度も、そのことを言いませんでした。

言えば、私が自分を責めると思ったのでしょう。

祖母は、代金の入っていない絵馬にだけ、点を打っていました。

その中の一枚が、自分の家の子どものものだったことを、あの人は四十年、黙って抱えていたことになります。

通夜の膳に、五十円玉が並んだ

祖母の通夜は、雪の降る晩でした。

門前の集会所を借りました。

愛想のない人でしたから、来る人は少ないだろうと父は言っていました。

実際には、座敷に入りきりませんでした。

四十代、五十代の人が多く、私の知らない顔ばかりでした。

焼香が済んだあと、受付を手伝っていた従姉が、妙な顔で私を呼びました。

香典盆の隅に、五十円玉が何枚も置いてあったのです。

袋にも入れず、そのまま。

数えたら、十七枚ありました。

誰が置いたのか、最後まで分かりませんでした。

ただ、団子屋の政江さんが、湯呑みを配りながら、ひとりごとのように言いました。

「みんな、覚えてるんだの」

「何をです」

「子どもんとき、金持ってねえで絵馬掛けたこと」

「祖母が足してたことを、知ってたんですか」

「知らねえよ。誰も知らねえ」

政江さんは、盆を持ったまま、少し笑いました。

「知らねえけど、あとになって、なんぼか気になるもんだ。返す先が分からねくて、ずっと持ってる人がいるのさ」

返す先が分からないまま、四十年、五十年と、五十円玉のことを覚えていた人が十七人いた。

そう考えると、あの掛け所の四十一枚という数が、急に軽くなりました。

掛かっているのは、済んでいない願いばかりではなかったのです。

済んだあとで、誰に言えばいいのか分からなくなった感謝が、あそこに掛かっていました。

私は、その十七枚を、賽銭箱ではなく、絵馬の代を入れる木の箱のほうへ入れました。

八百五十円です。

小絵馬にすれば、十七枚分でした。

数える手を、もう一度

祖母は、その年の三月に逝きました。

最後の一週間はほとんど眠っていて、話らしい話はできませんでした。

ただ一度、私が手を握ったとき、指先が動きました。

数えるときの動きでした。

十枚ずつ重ねて、二十の束にする、あの手つきです。

私は「二百枚、いったよ」と言いました。

祖母は、目を開けませんでしたが、口の端が少し動いたように見えました。

今、私は東京の勤めを辞めて、この町に戻っています。

木地屋から届く無地の板に、朱の枠線を一本引いています。

祖母の筆はもう使えないので、新しいものを使っています。

それでも、線の引き終わりで筆を少し持ち上げる癖は、いつのまにか同じになりました。

先週、雪の日の夕方に社務所へ行きました。

籠から減った小絵馬は、七枚。

箱の中は、六枚分でした。

五十円玉を一枚、足しました。

掛け所を回って、拙い字の一枚を探しました。

「ばあちゃんのあしがなおりますように」

裏を返して、筆の先を、ほんの少し置きました。

点が、ひとつ。

この板は、焼かれません。

済んだかどうかは、分かりません。

分からないから、掛けておくのです。

母には、この話をまだしていません。

あの絵馬のことを知れば、母は自分の病気のせいだと考えるでしょう。

そういう人です。

先日、電話でこう言われました。

「あんた、こっち帰って何やってんの」

「板に線引いてる」

「儲かんの、それ」

「ぜんぜん」

母は笑って、それからしばらく黙って、こう言いました。

「ばあちゃんも、そう言ってた」

受話器の向こうで、水を止める音がしました。

台所に立っている音です。

その音を聞きながら、私は、点の打ってある一枚のことを考えていました。

石段を下りると、団子屋の湯気が、雪に当たって白く崩れていました。

政江さんの娘さんが、店先に出ていました。

「また行ってきたのけ」

「うん」

それ以上は、続きませんでした。

私は焼き団子を一本もらって、帰り道で全部食べました。

指がべたついて、袖で拭いてから、叩く人がもういないことに気づきました。

他人の願い事を眺めるのは、あまり良い趣味ではないと、昔の私は思っていました。

今は、少し違います。

あの掛け所には、名前も住所もない願いが、四十枚以上も残っています。

誰のものかは分かりません。

どんな事情かも、知りようがありません。

それでも、叶うように祈ります。

本当に、心から祈ります。

祖母がそうしていたように、雪の日の夕方に、両手に何も持たずに、石段を上がりながら。

祖母のような人が、どの町にも一人はいるのだと思うようになりました。祖母の愛情の深さについては、こちらの話も静かに胸に残ります

そして、病を抱えながら家族を支える母の強さについては、この一編を思い出さずにいられません。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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