母の代筆 二十九通

雨の街並みと伝統的な茶屋

お母ちゃん、と私は、誰もいない仏間で呼びかける。

あんたを呼べる声が、まだ私の喉の奥に、ちゃんと残っているのが、私には信じられない。

私は介護福祉士で、人さんのお母ちゃんを、これまで何百人と看取ってきた女である。たった一人の、自分の母を、看取らなかった女である。

私の名前は、西野咲子という。今年で四十二歳になる。京都市左京区の岩倉にある特別養護老人ホーム『ひだまりの郷』で、介護福祉士の主任をしている。勤続二十五年目だ。

看護学校を出てから、ほかの仕事に就いたことが、私には一度もない。

夜勤明けの体で帰り道、京都市営バスの窓に映った自分の顔を見ると、若い頃に母が和裁の仕立て直しの仕事の合間にこちらを向いた、あの顔と、よく似てきたと思うようになった。

頬の張り。眉の薄さ。何より、口の左の端だけが、ほんの少しだけ下がっている、あの癖。

母も、私と同じ顔で、五十年、和裁の仕立て直しをしていた。

母の名前は、西野美佐子といった。享年、七十一だった。

三年前の冬の終わりに、京都市山科区の特別養護老人ホーム『山科ゆりの園』で、レビー小体型認知症の末に、母は息を引き取った。私は、その瞬間に、間に合わなかった。

言い訳をすれば、夜勤の引き継ぎが長引いて、私が施設長の判断で他棟のヘルプに回らされて、というところまでが、私の言い訳である。残りは言い訳にもならない。

母が死んだ報せを、私は『ひだまりの郷』の事務室の電話で受けた。

受話器を置いて、私は廊下のベンチに座って、しばらく動けなかった。同僚の若い男の子が、肩に手を置いてくれた。

私は、そのとき、泣かなかった。

泣けばいいのに、と自分でも思った。けれども、私には、泣くだけの資格が、もうなかった。

母は、京都市左京区一乗寺の、八瀬比叡山口の方へ抜ける旧道の途中に、小さな借家を借りて、和裁の仕立て直しを五十年やっていた。

父は、私が小学三年生のときに、肝臓を患って亡くなった。父が亡くなったあと、母は針箱ひとつで、私と、五つ下の弟の慎吾を育てた。

母の仕事場は、二階家の一階の、六畳の和室だった。畳の真ん中に針箱を置いて、母は背筋をまっすぐにして、運針をしていた。

夜中に手洗いに起きると、まだ針箱の前に、母の背中が、座っていることが、よくあった。

蛍光灯の輪が、母の白いブラウスの肩に落ちて、母の影が、襖に大きく映っていた。

その影を、私は、子供の頃から、何百回も、何千回も、見て育った。

私が看護学校を出て、介護福祉士になる、と母に告げたとき、母は針を止めて、私の顔をじっと見て、ひとことだけ言った。

「人さんの世話は、ええ仕事や」

それだけだった。

けれども、私には、その一言が、母から受け取った、いちばん大きな贈り物のように思えた。

看護学校の入学式の朝に、母は、私のセーラー服の胸ポケットに、小さな匂い袋を、そっと入れてくれた。

紫地に金糸で蓮華を縫いとった、金襴緞子の、親指の先ほどの小さな袋だった。中に白檀の粒が入っていた。母が、大徳寺の門前の、古い香木屋で買ってくれたものだった。

「ええ匂いやろ。咲子は、ええ匂いの中で、人さんを看取りなさい」

そう言って、母は、襟もとを直してくれた。

私は、その匂い袋を、看護学生のときから、介護福祉士になってからも、ずっと、白衣の左胸ポケットに入れていた。

白檀の香りは、何年経っても、不思議と、薄くならなかった。

あるいは、私の鼻のほうが、その香りに馴染みすぎてしまって、薄くなったことに、気付けなかっただけかもしれない。

母にレビー小体型認知症の診断が下りたのは、母が六十八歳のときだった。

仕立て直しを頼まれた振り袖の袖丈を、何度も同じ寸法で測って、何度も裁ち直して、最後にはお客さんに「もう、頼めへんかもしれません」と、自分から電話を入れた、と、母は、私に頭を下げた。

母が頭を下げたのを見たのは、私は、その一度だけだ。

幻視が始まって、夜中に廊下を歩き回るようになって、私と弟と、ヘルパーさんと三人で支えても、もう自宅では難しい、と医師に言われて、母は、山科の『山科ゆりの園』に入ることになった。

私の職場は左京区の岩倉で、山科までは、車で四十分かかった。けれども、そんな距離は、本当は、距離ではなかった。

私は、月に二度、三度と、しか、山科の母のもとに行かなくなった。

そのうち、月に一度になった。

母が亡くなる前の最後の三か月は、私は、一度も、母の顔を見に、山科に行かなかった。

言い訳は、いくらでも、私の中で、用意してあった。

『ひだまりの郷』では、感染対策が厳しく残っていて、別の施設に勤める職員は、面会の前後に七日間、自分の現場のシフトを外さないといけなかった。主任の私が、七日連続でシフトを抜けるのは、現場が回らない。

でも、本当のところは、それだけではなかった。

私は、母の顔を、見るのが、こわかった。

もう私のことを、咲子と呼んでくれない母の顔を。

もう私のことを、よその施設の介護士さんやと、まちがえて、丁寧にお辞儀をしてしまう母の顔を。

私は、よその家のお母ちゃんを看取るのは、平気だった。よその家のお母ちゃんの、白くなった指を、握ることもできた。けれども、自分の母の、痩せて軽くなった指を、握りに行く勇気が、私には、どうしても、出なかった。

私は、卑怯な娘だった、と、いま、声に出して言える。あの頃は、声に出して、それを認めることが、できなかった。

母が亡くなった日、私は山科に着いたのが、午前三時を回っていた。

母が息を引き取ったのは、午前二時十二分だった、と、夜勤の松浦さんという介護福祉士の人が、教えてくれた。

松浦さんは、母と私が同じ職業であることを知っていて、私の顔を見て、深く頭を下げてくれた。

「西野さん、咲ちゃんのこと、最後まで、心配してはりました」

と、松浦さんは言った。

その「咲ちゃん」という呼び方は、母が私を呼ぶときの呼び方そのままで、私の喉の奥が、初めて、震えた。

母の枕元の小さな引き出しの中に、白いハンカチが一枚と、紫地に金糸で蓮華を縫った、私のと、同じ匂い袋が、一つ、入っていた。

母は、自分の分のおなじ匂い袋を、四十年以上、隠し持っていたのだ、と、私は、そのときになって、初めて知った。

白檀の匂いが、薄く、引き出しの中に、立った。

私は、母の額に、手を当てた。

もう、温かくはなかった。

けれども、不思議と、冷たくも、なかった。

葬儀は、家族葬で済ませた。

泣いたのは、弟の慎吾だけだった。私は、火葬場の控室でも、骨上げのときも、泣かなかった。

私は、人さんのお母ちゃんを送り出してきた、その同じ手で、母の骨を箸で挟んだ。喉仏は、よく残っていた、と、係の人が、ていねいに教えてくれた。

私は、頷いて、ただ、頷いて、それから家に帰った。

二年が、経った。

一乗寺の借家は、家主の好意で、月々の家賃を払い続け、そのままにしてあった。母の針箱も、和裁の道具も、半分ほどの反物も、そのまま、二階家の一階の和室に、置かれたままだった。

家を引き払う、と、弟と話し合いがついたのが、母の三回忌のあと、今年の春先のことである。

梅雨の入る前の、六月の最初の土曜日、私と慎吾は、一乗寺の家の片付けに入った。

古い反物を、一反ずつ広げては畳み直して、母が大切にしまっていた仕立て見本の束を、慎吾と二人で、何時間もかけて整理した。

母の鏡台の引き出しは、いちばん最後に手を付けることにしていた。私には、なぜか、それが、わかっていた。

夕方近くになって、私は、鏡台の前に座った。

一番上の引き出しには、皺の寄ったハンカチと、母の眼鏡が一つ。二番目には、家計簿が三冊。三番目――いちばん奥の、深い引き出しに、桐の薄い文箱が、入っていた。

蓋には、何も書かれていなかった。

私は、その文箱を、両手で、そっと取り出した。

蓋を開けると、和紙の便箋の束が、二十九通、几帳面にひもで結ばれて、入っていた。

一番上の便箋の表書きには、母の几帳面な細い字で、こう書かれていた。

『山科ゆりの園 介護福祉士 松浦智美様 へ』

差出人の欄には、こう書いてあった。

『西野美佐子の娘 西野咲子 より』

私は、その一行を見て、息が止まった。

私は、その手紙を、書いた覚えが、なかった。

便箋の中身を、私は、震える指で、ひらいた。

『松浦様 いつも母がお世話になっております。仕事の都合でなかなか面会に伺えず、申し訳ございません。母は、若い頃から、和裁の仕立て直しを五十年やっておりまして、人の襟元を整えるのが好きな人でした。もし、母が眠れない夜には、首元のシーツを、ほんの少しだけ、内側へ折り込んでいただけると、安心して眠れるかと思います。お忙しいところ、何卒よろしくお願い申し上げます。 西野咲子』

私は、その文章を、一行ずつ、何度も、読み返した。

私は、こんな手紙を、書いていない。

けれども、便箋の中身は、紛れもなく、私が書いたかのような口調で、私の母のことを、まるで娘が母を案じるように、丁寧に、丁寧に、書かれていた。

そして、私には、すぐに、わかってしまった。

その細い、几帳面な、和裁の運針で覚えた筆致は、私の字ではなかった。

母の字だった。

母が、忙しくて来られない娘を、施設のスタッフの前で庇うために、娘になりすまして、自分の暮らす施設へ宛てて、手紙を、書き続けていたのだった。

二十九通。

母が施設に入った最初の一年から、亡くなる直前まで。ほぼ毎月、母は、私の名前を借りて、私の代わりに、自分のことを案じる手紙を、自分の暮らす施設へ、送り続けていた。

私は、便箋を膝の上に置いて、声を上げた。

声を、上げた。

あの夜勤明けの廊下のベンチでも、母の枕元でも、火葬場の控室でも、骨を挟む箸先でも、出てこなかった声が、桐の薄い文箱の前で、ようやく、私の喉から、出てきた。

私は、よその家のお母ちゃんを、何百人と看取ってきた介護福祉士で、自分の母にだけは、一度も、自分の文字で、手紙を書かなかった、卑怯な娘だった。

私の代わりに、私の手紙を書いてくれていたのは、私の母だった。

二十九通目――いちばん最後の便箋の、最後の一行だけが、他とは違っていた。

本文は、いつもの通り、娘になりすました口調で、施設の松浦さんへの感謝が、丁寧に綴られていた。

けれども、便箋のいちばん下、二段下げて、別の筆で、一行だけが書き足されていた。

母の、本当の字だった。

仕立て直しの母の運針を、そのままうつしたような、震える、けれども強い、母の本当の筆で、こう書いてあった。

「咲ちゃん、来てくれて、ありがとう」

私は、来なかった。

最後の三か月、私は、一度も、行かなかった。

それでも、母は、私が来てくれたことに、ありがとう、と書き残していた。

母には、私が、来ていたのだろう。

母には、私が、毎週、便箋を書き、毎月、訪ねていく、立派な娘に、見えていたのだろう。

母は、最後の最後まで、私の代わりに、私を、立派な娘に、仕立て直していてくれたのだった。

あの二十九通は、ぜんぶ、母の代筆だった。

翌朝、私は、白衣の左胸ポケットから、四十年前の匂い袋を取り出した。

白檀の香りは、もう、ほとんどしなかった。

けれども、それは、香りが消えたのではなくて、私の鼻が、母の匂いに、馴染みすぎてしまっただけのことだ、と、私には、わかった。

私は、夜勤明けの足で、京都市バスに乗って、大徳寺の門前まで行った。

母が、四十数年前に、私のセーラー服のポケットに入れてくれた、あの香木屋は、今も同じ場所で、暖簾を出していた。

私は、もう一つだけ、紫地に金糸の、小さな匂い袋を買って、それを、左胸の、母の匂い袋の隣に、そっと入れた。

店先を出て、振り返って、私は、暖簾に向かって、深く、頭を下げた。

お母ちゃん、と私は、声に出さずに、心の中だけで、もう一度、呼んだ。

あんたは、最後まで、私の代わりに、私の手紙を、書いてくれてはった。

私は、これから、あんたの代わりに、よその家のお母ちゃんを、看取っていく。

そうやって、あんたに、書いてもらった分の手紙を、いつか、自分の文字で、書き直していくしか、私には、ないのだ。

白檀の匂いが、京都の梅雨入りの、湿った風の中に、確かに、たった。

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