ラムネ瓶のビー玉と幼馴染

朝の光を浴びたアーケード

私は、つい先日、四十年続けた小さな駄菓子屋を畳んだ。

閉店の張り紙を貼ったその日の夕暮れ、最後に客として店に入って来たひとりの痩せた男のことを、私は、ほんとうに、忘れていた。

その男が、四十年前の幼馴染の拓ちゃんだったということを、私は、夜になってから、ようやく思い出したのだ。

私はこの話を、誰に向けて書いているのかわからない。

たぶん、いちばんは、もう答えてくれないあの人に向かって書いているのだと思う。

私が生まれ育ったのは、三重県四日市市の旧東海道沿いの、もう名前を言っても誰も知らないような、小さな商店街である。

豆腐屋と、文房具屋と、肉屋と、理髪店と、私の家の駄菓子屋「八重屋」が、軒を寄せ合うようにして並んでいた。

父は寡黙な人で、母はよく笑う人で、私は二人のたったひとりの娘として、店の奥の四畳半で育てられた。

店の入口の脇には、肩の高さほどもある大きなガラスの瓶があった。

父が、私の生まれた年に古道具屋で見つけて来た、もとは醤油屋の瓶だったらしい。

その中に、五円のラムネ菓子が、いつもこんもりと盛ってあった。

子どもたちは、店に入って来るなり、その瓶のふちに鼻を押し付けて、中を覗き込むのだった。

瓶の表面が、夕方になると赤く染まって、白い菓子粒が、まるで雪の山のように見えた。

拓ちゃんが初めて店に来たのは、私が五歳の春、昭和の終わりの頃だ。

引っ越して来たばかりだという母親に手を引かれて、土間に立っていた。

痩せた、目だけが大きな、おとなしそうな男の子だった。

「八重ちゃん、こちらの坊やと仲良くしてあげてね」と母が私に言った。

私は、ラムネ瓶のふちに人差し指を引っかけて、その子の顔を見上げていた。

それから拓ちゃんは、ほとんど毎日、八重屋に来た。

お小遣いの十円玉一枚を、堅く握りしめて、まずラムネ瓶の前に立つ。

二十分ほど真剣に瓶を覗き込んでから、ようやく一個だけ、ラムネ菓子を選ぶのである。

「拓ちゃんは、何でそんなに長いこと選ぶの」と私が訊いたことがある。

「お母ちゃんが、十円は大事に使えって言うんだよ」と彼は答えた。

その横顔は、五歳の子どもとは思えないくらい、生真面目だった。

夏の日、店先の三和土に二人で座って、私はラムネを飲み、拓ちゃんはラムネ菓子を舐めていた。

ラムネの瓶の中で、青いビー玉がからからと鳴った。

拓ちゃんはそのビー玉を、本当に物欲しそうに見ていた。

「飲み終わったら、ビー玉あげる」と私が言うと、彼はぱっと顔を輝かせた。

父が瓶を割って取り出してくれたビー玉を、拓ちゃんは小さな掌に受けて、しばらく動かなかった。

「八重ちゃん、ありがとう」

その夕方の、しんと静まり返った商店街の砂利道のうえで、彼は、私にお辞儀をしたのだ。

五歳の男の子が、五歳の女の子に対して、深々と、まるで大人のように。

そのお辞儀の角度を、私はその後四十年、ずっと忘れていた、とばかり思っていた。

けれども本当は、私は、覚えていたのだ。

そのことを、私はあの閉店の夜まで、自分でも気づいていなかった。

小学校も、中学校も、私と拓ちゃんは同じだった。

けれども、子どもというのは残酷なもので、四年生にもなると、男の子と女の子が一緒に歩くということが恥ずかしくなる。

私たちは、店ではよく顔を合わせたけれど、学校の廊下ですれ違っても、お互い目を逸らした。

そういう、奇妙な距離の取り方を覚えていく時期というものが、誰にでもあるのだろう。

中学を出ると、拓ちゃんは隣の市の進学校へ通うようになり、ますます会わなくなった。

店に来ても、私が奥にいる時は、母にラムネ菓子だけを買って、すぐに帰ってしまった。

「拓ちゃん、最近背、高くなったね」と母が言うと、彼は、ふん、と短く頷いて、はにかんで出て行った。

高校三年生の冬、彼が東京の大学に進むらしいと、母から聞いた。

私は、その夜、ラムネ瓶の前を通るとき、わざと胸の中で、こんな言葉を呟いてみた。

「拓ちゃん、十円のラムネ菓子、もう食べないんだね」

声に出さなかったのは、声に出してしまえば、それが本当に別れの言葉になってしまうような気がしたからだ。

拓ちゃんが東京に発つ前の日、家の前まで来てくれた。

夕暮れだった。

商店街のアーケードの蛍光灯が、ちか、ちか、と一度瞬いてから、点いた。

「八重ちゃん」と彼は言った。

「八重ちゃんが、もしずっとこの店を続けてくれていたら、僕は、いつかきっと、また食べに帰って来るから」

私は、何と答えたのか、覚えていない。

たぶん、ばか、と笑って、肩を叩いたのだと思う。

あんなに堅い約束を、子どものまんま、彼は本気で言っていたのに、私はそれを、その晩のうちに半分忘れてしまった。

私は短大を出て、地元の信用金庫に勤めた。

三十のとき、見合いをした人と結婚しかけて、結納の二週間前に破談になった。

その理由は、ここでは書かない。

父が長く患って店を畳もうとした時、私は会社を辞めて、八重屋の二代目を継いだ。

父は、その翌々年に逝った。

母は、それから八年生きて、店の奥の四畳半で、静かに息を引き取った。

私には、もう、店しか残っていなかった。

商店街はすでに、半分以上の店がシャッターを下ろしていた。

子どもたちは、もう、十円玉を握って駄菓子屋には来ない。

大きなガラスのラムネ瓶の中には、いつしか中身の入れ替えも追いつかない、底に薄く積もったラムネ菓子だけが残るようになった。

それでも私は、店を開け続けた。

朝、シャッターを上げる音だけが、商店街に響いていた。

私はその音だけで、自分がまだ生きていることを確かめていたのだと思う。

そのあいだに、拓ちゃんのことなど、本当に、思い出さなくなっていった。

東京で、誰かと所帯を持っているのだろう。

そう、なんとなく信じて、私は四十代の半ばを過ぎた。

令和八年の春のことである。

商店街の組合長が、私の店に来て、深々と頭を下げた。

区画の整備計画が決まり、来月末で、この一角はすべて解体されることになった、と。

「八重さん、長いことお疲れさんでした」と組合長は言った。

私は、頷くだけだった。

三日かけて、私は、白い画用紙に「永らくのご愛顧、ありがとうございました」と筆ペンで書いた。

字は何度書き直しても震えた。

その紙を、ガラス戸の内側に、セロハンテープで四隅を留めた。

五月の末の、よく晴れた日の、夕方四時のことだった。

その日に限って、不思議と、お客が一人もこなかった。

私は、商店街にひとりだけ残されたような気がして、店の真ん中に立っていた。

大きなラムネ瓶の中には、底に、ほんの一掴みほどラムネ菓子が残っていた。

取り出して全部、捨てるつもりだった。

そのとき、ガラス戸が、からから、と乾いた音をたてた。

知らない男の人が、立っていた。

痩せていた。

頬がこけて、白いキャップを目深に被っていた。

四十代後半か、五十代の前半に見えた。

その人は、入って来るなりラムネ瓶の前まで歩き、肩の高さの瓶の中を、しばらくのあいだ、じっと覗き込んでいた。

「ラムネ菓子、ひとつ、いただけますか」と、低い声で言った。

私は、ガラス瓶の蓋を開けて、白い菓子粒を一個、紙に包んで渡した。

男の人は、十円玉を、私の掌のうえに置いた。

その十円玉が、新しいものではなく、片側が黒く擦り減った、古い昭和の十円玉だったことを、私はそのときは気にも留めなかった。

男の人は、紙の包みを大事そうに胸ポケットに入れて、ゆっくりとお辞儀をした。

深い、深い、お辞儀だった。

「ありがとうございました」と彼は言って、出て行った。

私は、その後ろ姿を見送りながら、なぜか、胸の奥が、しん、と痛んだ。

けれども、その時点では、まだ、彼が誰だかわからなかったのである。

その夜、私はガラス瓶を抱きかかえるようにして、店の奥に運ぼうとした。

母が大事にしていた、父の遺してくれた、四十年来の瓶である。

瓶の中に、何かが、小さくからん、と鳴った。

菓子粒に紛れて、青いビー玉が、ひとつ、底にころがっていたのだ。

そのビー玉を、私は、知っていた。

父が、五歳の夏に、ラムネの瓶を割って取り出してくれて、私が拓ちゃんに渡したあのビー玉。

掌のうえで光って、夕方の砂利道で、五歳の男の子が深々とお辞儀をしてくれた、あの青い小さな玉。

四十年ぶりに、それは、私のラムネ瓶の底に帰って来ていた。

私は、ビー玉を握りしめたまま、店の上がり框に座り込んだ。

言葉が、出なかった。

あの痩せた男の人が、いつ、ビー玉を瓶の中に落として行ったのか、私には、わからなかった。

けれども、誰だったのかは、もう、わかってしまった。

翌朝、私は、震える手で、商店街の組合長に電話をした。

そして、組合長から、教えてもらったのだ。

「拓ちゃん、ちょっと前に、こっちに帰って来てな」と組合長は言った。

「東京の病院じゃ、もう、できることはあんまり無いんやと」

「実家、もう更地になっとるけども、最後にひと月だけ、駅前の市営住宅にひとりで戻って来とったらしい」

私は、受話器を握ったまま、店の床に、ゆっくりと、座り込んだ。

市営住宅の三階の、奥の部屋を、私は組合長と一緒に訪ねた。

けれども、拓ちゃんは、もうそこには居なかった。

三日前の朝、近所の人が異変に気づいて、救急車を呼んだ。

その日の昼に、彼は、市民病院で、永い眠りに就いたという。

身寄りはなかった。

東京で結婚していたという話は、まったくの私の思い違いで、拓ちゃんは、ずっとひとりだったらしい。

大家さんが、片付けに行こうとしていた部屋を、私と組合長とで、もう少しだけ待ってもらうことにした。

畳の隅に、薄い段ボール箱がひとつだけ置いてあった。

箱の中には、東京の大学の卒業証書と、安いネクタイ三本と、皺くちゃのカーディガンと、それから、一冊の古びた手帳が入っていた。

その手帳の、いちばん最後のページに、彼の細い、けれども端正な字で、こう書いてあった。

「八重ちゃんの店だけは、四十年、ぼくの中で、ずっと開いていた」

そのすぐ下に、もう一行、震える鉛筆で、こうあった。

「ラムネ瓶のビー玉、お返ししました」

その晩、私はひとりで、店に戻った。

シャッターを下ろすのは、本当はその夜のはずだった。

けれども私は、その日、シャッターを下ろさなかった。

店の電気は、ぜんぶ点けたままだった。

大きなラムネ瓶の前に、私は、丸い小さな椅子を持って来て、座った。

ビー玉を、瓶の底に、もう一度そっと置いた。

瓶の硬いガラスの底で、それは、からん、と、鳴った。

五歳の夏の、店先の三和土の音と、寸分違わない音だった。

私は、四十年、お辞儀を返していなかったのだということに、そのとき、気がついた。

五歳のあの夕方、深々とお辞儀をした拓ちゃんに、私は、何も返していなかった。

ただ、ばか、と言っただけだった。

私は、ラムネ瓶に向かって、椅子から立ち上がり、両手を膝に揃えて、ゆっくりと、深く、頭を下げた。

「拓ちゃん、ありがとうね」

声が、店の天井に当たって、四方の棚に、しずかに、しみ込んでいくのがわかった。

翌朝、私は、ガラスのラムネ瓶を、両腕で抱えて、商店街の砂利道に出た。

瓶は、想像よりも、ずっと、重かった。

四十年分の、私の昼と夜の重さが、その中に、たしかに在った。

朝の早い時刻だった。

解体の重機が来るまでには、まだ、一時間ほどあった。

夏の入口の、青く澄んだ朝日が、アーケードの天窓から、斜めに差し込んで来ていた。

私は、誰も居ない商店街の真ん中に立って、瓶の中の青いビー玉を、ゆっくりと一回、揺らした。

瓶の底で、からん、と、また音がした。

私は、その音に向かって、もう一度、深く、頭を下げた。

四十年遅れの、たった一回の、「おかえり」だった。

もう、誰にも届かないけれど、私は、この街で、まだ、これから生きていくつもりである。

拓ちゃんが、子どものまんま、ずっと信じていてくれた約束を、こんなふうに守ったぶんだけは、たぶん、私は、それなりにきちんと生きていけるのだと、思う。

瓶の底のビー玉が、夏の朝日にすかして、いちど、深い青色に、光った。

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