父が捨てなかった種袋

図書室

父の店の一番上の棚には、私が触れてはいけない紙袋が並んでいました。

茶色い、なんの飾りもない小さな紙袋です。

ラベルもなく、値札もついていません。

数えたことはありませんが、四十か五十はあったはずです。

脚立に乗ればすぐ届く高さなのに、私は一度も手を伸ばしたことがありませんでした。

触るな、と言われていたからです。

私がその中身を知ったのは、二十四になった春でした。

知ってしまってから、私は三日ほど店の戸を開けられませんでした。

これは、その紙袋の話です。

柏木種苗店といいます。

北関東の、昔は宿場だったという細長い町の、商店街のいちばん端にありました。

間口は二間ほど。

土間を三方から木の棚が囲み、その棚に紙袋がぎっしり詰まっている、それだけの店です。

大根、人参、蕪、隠元、南瓜、朝顔、白粉花。

袋の口を開けると、種によって匂いが違います。

大根の種は乾いた紙のような匂いがして、南瓜の種はうっすらと甘い匂いがしました。

父はその匂いだけで、袋の中身を言い当てることができました。

父の名は源治といいます。

背が低く、指の節が太く、一年じゅう同じ紺の前掛けをしていました。

冬になると親指の付け根がひび割れて、そこに黒い土がいつまでも残っていました。

そして、驚くほど口をききませんでした。

朝、店の戸を開けるときに「よし」と言う。

夜、戸を閉めるときに「よし」と言う。

その日にあった出来事を、父が私に話したことは一度もありません。

母は私が小学校に上がる前に体を悪くして、それきり奥の間にいる人になりました。

だから私は、父と、店の土間と、真鍮の秤とで育ったようなものです。

量り売りの秤は、丸い真鍮の皿がついた古いものでした。

父が分銅を置くと、皿がすうっと沈んで、それから小さく二度だけ震えて止まります。

その二度の震えを見るのが、子どもの頃の私は好きでした。

「お父ちゃん、まだ止まらん」

「待つんだ」

「いつまで」

「止まるまでだ」

父の返事はいつもそんなふうで、けれど不思議と腹は立ちませんでした。

冬は帳場の脇に石油ストーブを置いて、その上でいつも薬缶が鳴っていました。

種を量る音は、さらさらと、雨よりも細い音がします。

あの音と薬缶の音だけが、うちの店の話し声のようなものでした。

奥の間の母は、床から起き上がれる日と、そうでない日が半分ずつでした。

起き上がれる日には、母は襖を細く開けて、土間の音を聞いていました。

父は夜、母の枕元に座ると、その日に売れた種の名前だけを言いました。

「大根が三軒。南瓜が一軒」

「南瓜は誰」

「川向こうの、若いのだ」

「そう。よかったね」

母がそう言うと、父は「うん」と言って立ち上がります。

父が母に長く話したのを、私はその四つか五つの言葉のほかに知りません。

けれど母は、それで満足そうに目を閉じるのでした。

ある春先のことです。

店に、痩せた男の人が入ってきました。

作業着の膝が乾いた土で白くなっていて、財布を出す手つきがひどくためらいがちでした。

男の人は、いちばん安い大根の種を少しだけ、と言いました。

父は棚から袋を出して、量りもせずに紙に包みました。

それから、こう言ったのです。

「この種はな、蒔いても出んかもしれん」

男の人が顔を上げました。

「だから、銭はいらん」

「そんなわけには」

「出たら、来年また来てくれ。そのときは倍もらう」

男の人は何度も頭を下げて、それでも一度も顔を上げないまま帰っていきました。

私は、その一部始終を帳場の隅から見ていました。

そして、父が嫌いになりました。

うちだって楽ではないのです。

母の薬代がある。棚の種は毎年入れ替えなければならない。

それなのに父は、ときどきああやって銭を受け取らない。

格好をつけているのだと思いました。

私は高校を出ると、そのまま店に入りました。

一度だけ、進学したいと言ったことがあります。

父は湯呑みを置いて、しばらく畳の目を見てから「そうか」とだけ言いました。

その「そうか」が、行くなという意味なのか、行けという意味なのか、私にはわかりませんでした。

わからないまま、私は土間に立ちました。

今思えば、聞けばよかったのです。

けれど二十歳前の私には、父に何かを尋ねるということが、負けのように思えていました。

店に立ってみると、父のやり方はいちいち古くて、いちいち遅いのでした。

ビニールの小袋に入った、発芽率の数字が印刷された種が売れる時代です。

それなのに父は、いまだに藁半紙に包んで量り売りをしていました。

「お父さん、袋のまま売ったほうが早いよ」

「いい」

「なんで」

「量るときに、顔を見るからだ」

意味がわかりませんでした。

あの頃の私は、父の言葉を全部、ただの言い訳だと思っていました。

常連の田島さんという年寄りが、毎年おなじ日に隠元の種を買いに来ました。

父はその人が入ってくると、聞きもしないで棚に手を伸ばします。

「田島さん、去年のは」

「よう出た。孫が莢を数えとった」

「そうか」

父はそれだけ言って、いつもより気持ち多めに紙へ流し込みました。

秤の目盛りを、わざと少し行き過ぎさせるのです。

私が「それ、多いよ」と言うと、父は聞こえないふりをしました。

二十一の年の秋に、大きな台風が来ました。

町の東側の畑がまるごと水をかぶって、稲も葉物も、全部倒れました。

その年の冬、父は店の棚の種を、ほとんど銭にしませんでした。

畑に行く人が来るたび、紙に包んで、黙って押しつけるように渡すのです。

帳面の売上の欄が、何日も空白のまま続きました。

私はとうとう、帳面を父の前に置きました。

「お父さん、これ見て。うちが先に潰れるよ」

「潰れんよ」

「なんでそんなことが言えるの」

父は帳面を見ませんでした。

湯呑みを両手で包んで、しばらく黙ってから、こう言いました。

「畑が空いとるのが、いちばんいかん」

それきりでした。

私はその晩、布団を頭までかぶって泣きました。

母の薬代の封筒が、その月だけ薄くなっていたのを知っていたからです。

いちばん腹が立ったのは、あの一番上の棚です。

売り物にならなくなった古い種を、父は捨てずに取ってあるのだと私は思っていました。

埃をかぶった袋が四十いくつも並んでいるのは、店として恥ずかしいことでした。

「あれ、片付けていい?」

「触るな」

父がはっきりした声を出したのは、あのときが初めてでした。

あんまり強い言い方だったので、私は返事もできませんでした。

もうひとつ、父には妙な決まりがありました。

三月の第三日曜だけ、父は店に木札を下げて出かけました。

木札には「本日休業」と、父の下手な字が彫ってあります。

朝の暗いうちに自転車で出て、帰ってくるのは日が落ちてからでした。

どこへ行くのか、一度だけ聞いたことがあります。

「ちょっとな」

それだけでした。

競馬か、それとも女の人か、と私は勝手なことを考えていました。

実際、そう思うほうが楽だったのです。

父を憎んでいるほうが、あの狭い土間の中で息がしやすかったのです。

父の具合が悪くなったのは、私が二十三の秋でした。

畑まわりの配達から帰ってきて、土間に座り込んだきり立てなくなったのです。

入院してからの父は、驚くほど小さくなりました。

それでも口はききません。

私が病室で林檎を剥いていると、父は天井を見たまま言いました。

「棚な」

「棚がどうしたの」

「いちばん上」

「うん」

「……いや、いい」

そこで父は目を閉じてしまいました。

私は林檎の皮を長く長く、途切れないように剥きながら、続きを待ちました。

皮が輪になって膝に落ちても、父はもう何も言いませんでした。

年が明けて、雪の少ない冬の終わりに、私は父を見送りました。

お別れの席で私が驚いたのは、人の多さです。

商店街の人たちだけではありません。

見たことのない、日に焼けた顔の人たちが、次々に町の外から来ました。

みんな古い作業着の上にだけ黒いものを羽織って、線香をあげて、何も言わずに帰っていきました。

一人だけ、帰りぎわに私の手を握った年寄りがいました。

「あんた、源治さんの娘さんか」

「はい」

「そうか。そうか」

その人は、それだけ言って泣きました。

手のひらが厚くて、乾いていて、少しだけ土の匂いがしました。

どちら様ですかと、私は聞けませんでした。

店を継ぐと決めたのは、四十九日が過ぎてからです。

ほかにできることがなかった、というのが正直なところでした。

三月の、まだ風の冷たい朝でした。

私は脚立を出して、あの一番上の棚に手を伸ばしました。

もう、触るなと言う人はいません。

指先に触れた紙袋は、埃をかぶっているのに、なぜだかふっくらとしていました。

一つ下ろして、口を開けます。

中に、種はありませんでした。

父の種袋には、種がひと粒も入っていなかったのです。

入っていたのは、四つ折りにした小さな紙が一枚きりでした。

開くと、父の下手な字がありました。

「昭和三十一年 沢田さんとこ 大根 出た」

それだけ。

私はしばらく、その一行の意味がわかりませんでした。

二つ目を下ろします。

「昭和三十二年 室井さんとこ 人参 出た」

三つ目。

「昭和三十三年 森さんとこ 南瓜 出んかった」

手が止まりました。

出んかった。

その五文字だけ、字が濃いのです。

何度も上からなぞったように、紙が薄く毛羽立っていました。

私は袋を抱えたまま、隣の荒物屋のおばさんのところへ走りました。

おばさんは紙を受け取ると、老眼鏡をずらして、それから長いため息をつきました。

「あんた、これ、源治さんが配って歩いた種だよ」

「配って」

「戦争のあと、この辺は食うもんがなかったろう。源治さんのお父っつぁんが種屋だったからね、あの人、リヤカーで種を配って歩いたんだ」

「売らずに?」

「売れやしないよ。誰も銭なんか持ってないんだから」

おばさんは、私の手の中の紙をとんとんと指で叩きました。

「でもね、あの頃の種は古いのしか手に入らなくてね。蒔いても出ないのがあったんだよ」

その先を、おばさんは言いませんでした。

言わなくてもわかりました。

出なかった家は、その年、畑に何も立たなかったということです。

店に戻って、私は紙袋を全部下ろしました。

四十七袋ありました。

土間に並べて、一つずつ開けていきます。

「出た」が三十九袋。

「出んかった」が八袋。

父が一番上の棚に置いていたのは、出た袋も出なかった袋も、全部でした。

捨てられなかったのだと思います。

どちらも、どうしても捨てられなかったのだと思います。

「出んかった」の八枚を、私は土間に並べて何度も読みました。

昭和二十四年、坂内さんとこ、菜っ葉。

昭和二十六年、日野さんとこ、大根。

昭和二十九年、三沢さんとこ、隠元。

どの紙も、その四文字だけが黒々としています。

インクが濃いのではなく、何年もかけて上からなぞった濃さでした。

父は毎年これを開けて、同じ場所を、同じ順番になぞっていたのだと思います。

私はそこで、お別れの席に来た日焼けの人たちの顔を思い出しました。

手を握って泣いた年寄りは、あの八軒のうちのどこかの人だったのかもしれません。

八袋のうちの一枚には、こう書いてありました。

「昭和三十三年 森さんとこ 南瓜 出んかった 三月十六日」

日付が入っているのは、四十七枚のうちその一枚だけでした。

私は帳場の引き出しから古い暦を出して、めくりました。

昭和三十三年の三月十六日は、第三日曜でした。

三月の第三日曜は、種を配って歩いた家をまわる日だったのです。

出た家にも、出なかった家にも、父は毎年、あの自転車で行っていました。

何をしていたのだろうと思いました。

頭を下げていたのだろうか。

それとも、何も言わずに畑を見て、帰ってきただけなのだろうか。

聞ける人は、もういません。

棚のいちばん奥、壁に寄りかかるようにして、もう一つ袋がありました。

四十八袋目です。

ほかの袋より紙が新しく、口を折り返したところがきれいに揃っていました。

私は指が震えて、二度、開けそこないました。

中の紙には、こうありました。

「昭和三十四年 佐和 出た」

佐和は、私です。

昭和三十四年は、私が生まれた年です。

私は、父がいちばん長く待った種だったのです。

土間に座り込んで、私は声を上げて泣きました。

あの人は、四十年、待っていたのです。

出るか出ないかわからないものに、毎年頭を下げに行きながら。

そして出たものについては、たった一行しか書き残さなかった。

「量るときに、顔を見るからだ」

あの言葉の意味が、そのときやっとわかりました。

父は、種を売っていたのではありません。

その種が芽を出したかどうかを確かめに来る人の顔を、次の年に見ていたのです。

目盛りを行き過ぎさせていたのも、銭を受け取らなかったのも、全部そこにつながっていました。

私はそれを、四年も隣で見ていて、何ひとつ気づかなかったのです。

それから五年が経ちました。

私は今も、柏木種苗店の土間に立っています。

ビニール袋の種も置きましたが、量り売りはやめていません。

真鍮の秤の皿は、分銅を置くと今でも小さく二度震えて止まります。

先週、若い人が来ました。

借りた畑を始めるのだけれど、何も知らないのだ、と言います。

手が白くて、財布を出す手つきがためらいがちでした。

私は大根の種を藁半紙に包んで、こう言いました。

「出んかもしれません。それでも、よかったら」

その人は少し笑って、来年また来ますと言いました。

帰っていく背中を見送ってから、私は小さな紙に一行だけ書きました。

年と、名前と、蒔くものの名前です。

父の種袋は、今も一番上の棚にあります。

今は私が、その一番上の棚に、新しい紙袋を足しています。

四十九袋目には、まだ、出たとも出んかったとも書いてありません。

春の風が土間に入ってきて、棚の紙袋の口を少しだけ揺らします。

そのたびに、あの人の「よし」という声が聞こえる気がするのです。

去年の三月、私は初めて第三日曜に店を閉めました。

父の自転車はもうありませんから、軽トラで行きました。

八軒のうち、家が残っていたのは三軒だけでした。

畑はどこも、春の草が伸びるにまかせてありました。

私は畦に立って、父がここで何を見ていたのかを考えました。

詫びていたのではないのだと、そのとき思いました。

出なかった年のことを、忘れないでいるためだったのだと思います。

忘れないでいる人が一人でもいれば、その畑はまだ、誰かの畑のままでいられます。

帰りの道で、私は声に出して「よし」と言ってみました。

父の声には、ちっとも似ていませんでした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。