
あなたは、雪を描くとき、白い絵の具を使わない人でした。
絵の具箱の白だけが、いつまでも減らない。
そのことを、僕は一度、からかったことがあります。
あなたは笑って、何も答えませんでした。
身延の家と、甲府までの二時間半
僕たちが育ったのは、山梨の身延という町です。
富士川に沿って、細長く家が並んでいるだけの土地でした。
コンビニは一軒。
電車は一時間に一本。
高校の帰り、僕たちはよく川原まで下りて、水切りをしていました。
あなたは水切りが下手でした。
石が一度も跳ねずに、そのまま沈んでいく。
そのたびに、あなたは真面目な顔で言いました。
「いまのは、跳ねるつもりがなかったの」
僕はその言い方が好きでした。
あなたはスケッチブックをいつも鞄に入れていて、待ち時間になると開きました。
描くのは、川の対岸の山。
橋の欄干。
駅のベンチに置き忘れられた傘。
誰かの顔を描いているところは、一度も見たことがありませんでした。
「人は、動くから」
そう言って、あなたは山ばかり描いていました。
あなたがどうして雪を好きなのか、僕は高二の冬にはじめて知りました。
あなたのお父さんは、長野のスキー場のホテルで働いていたのです。
十一月から三月まで、家にいない。
だからあなたは、冬になると毎週、電車とバスを乗り継いで会いに行っていました。
「スキー、そんなに好きなん」
「別に、うまくないよ」
「じゃあ、なんで毎週行くん」
あなたは、少し困った顔をして答えました。
「雪のあるところにしか、いないから」
その冬、お父さんはリフトの点検中に足を傷めて、身延に戻ってきました。
あなたは家族が揃ったことを喜んでいましたが、スキーには行かなくなりました。
行く理由が、なくなったからです。
雪は、あなたにとって季節ではありませんでした。
会える場所の名前でした。
※
梅雨の日に、あなたが最初に打ち明けた相手
あなたの病気が分かったのは、ちょうどいまごろの季節でした。
雨が三日続いて、四日目にようやく晴れた日です。
あなたは僕を、駅前の自販機の前に呼び出しました。
缶のミルクティーを二本買って、一本を僕に渡してから、あなたは言いました。
「私ね、癌が見つかったの」
言い終わってから、あなたは笑いました。
「絶対元気になって帰ってくるから、待っててね」
僕は缶を持ったまま、何も言えませんでした。
あとになって、僕はご両親より先に自分が聞かされたことを知りました。
あなたは家に帰る前に、駅前で僕に会っていたのです。
順番の意味を、僕はずいぶん経ってから考えるようになりました。
いちばん取り乱しそうな相手に、いちばん先に言う。
そうすれば、家に帰ったとき、もう一度笑って言える。
あなたは、そういう人でした。
その日、僕は缶を持ったまま、家まであなたを送りました。
玄関の前で、あなたは僕の袖を一度だけ引きました。
「今日のこと、うちの人には、あとで私から言うから」
「うん」
「先に言っちゃって、ごめんね」
謝られる理由が、僕にはわかりませんでした。
いまはわかります。
あなたは、順番を守れなかったことを、ちゃんと気にしていたのです。
大学に行きなさい、と言った人
身延には大きな病院がありません。
あなたが入院したのは、甲府の病院でした。
僕はそのとき、静岡の大学の一年生でした。
身延から甲府まで、電車で片道二時間半。
静岡からなら、もっとかかります。
それでも僕は、毎週でも行くつもりでいました。
言い出す前に、あなたが先に言いました。
「大学に行きなさい」
「あなたの夢を叶えて」
僕は建築を勉強していて、いつか木の家を建てたいと言っていました。
あなたはその話を、何度でも聞いてくれる人でした。
だから僕は、その言葉を額面どおりに受け取りました。
受け取ってしまったのです。
あなたが本当に嫌だったのは、痩せていく自分を、少しずつ見られることだったのに。
一気に変わった自分を、一度だけ見せるほうがいい。
あなたはたぶん、そこまで計算していました。
※
夏休みの病室で
ようやく夏の休みに入って、僕は甲府へ向かいました。
電車を乗り継いで、病院に着いたのは昼過ぎです。
病室は四人部屋で、あなたのベッドは窓側でした。
カーテンが半分だけ開いていて、外に南アルプスが見えました。
あなたは、もう自分では起き上がれなくなっていました。
それでも僕が入っていくと、首だけをこちらに向けて笑いました。
「ねえ、大学の話、たくさん聞かせて」
僕は話しました。
学食の唐揚げがやたらと大きいこと。
製図室の窓から、銀杏の並木がまっすぐ見えること。
自転車置き場の三列目が、いつも僕の場所になっていること。
どうでもいい話ばかりです。
あなたは全部、目を細めて聞いていました。
同じ部屋の、向かいのベッドのおばあさんが、途中で笑いました。
「若い人の話は、ええねえ」
あなたは、そっちを向いて、少し得意そうな顔をしました。
その顔を、僕はよく覚えています。
窓の外の光が、午後になるにつれて、ベッドの足元のほうへ動いていきました。
光がシーツの上を移っていくのが分かるくらい、僕たちはゆっくりしていました。
看護師さんが検温に来て、出ていって、また静かになりました。
そして、話が途切れたときに、ぽつりと言ったのです。
「ゆきをとってきて」
「おねがい、ゆきがみたい」
その一言は、はっきりした声ではありませんでした。
ひらがなで書いたら、そのまま音になるような、平たい言い方でした。
僕は最初、聞き間違いだと思いました。
「ゆき」
「うん、ゆき」
あなたは、それだけ言って、目を閉じました。
スケッチブックを置いていった理由
正直に言えば、僕は困りました。
真夏です。
本州のどこを探しても、雪などあるはずがない。
でも、あなたが雪を好きなことは知っていました。
冬になると、毎週のようにスキーに行っていた人です。
「今から取ってくるよ」
そう言うと、あなたは安心したように笑いました。
僕は病室を出る前に、鞄からスケッチブックを出して、枕元に置きました。
売店で買った、新しいものです。
あなたがいつも使っているのと同じ、少し厚い紙のやつを選びました。
寂しくないように。
雪の次に好きだったものを、たくさん描けるように。
鉛筆も三本、削って置きました。
「行ってくるね」
「うん」
それが、僕たちの最後の会話になりました。
病院を出るとき、僕はナースステーションの前で、あなたのお父さんとすれ違いました。
お父さんは、僕が雪を取りに行くと聞いて、しばらく黙っていました。
それから、財布から一枚の紙を出しました。
山小屋の名前と、人の名前が書いてありました。
「向こうで働いとったころの、知り合いや」
「無理はせんでな」
足を引きずりながら、その人は病室へ戻っていきました。
※
富士山へ
富士山の頂上には、真夏でも雪が残っていると聞いたことがありました。
本当は、その頃にはもう、ほとんど溶けていたのだと思います。
それでも僕は、行くしかありませんでした。
ホームセンターで、いちばん小さいクーラーボックスを買いました。
保冷剤を四つ入れて、リュックの外に括りつけました。
登山靴なんて持っていません。
普段履いているスニーカーで、夜の富士吉田口から登り始めました。
夜の登山道は、ヘッドライトの列が上へ続いていて、遠くから見ると光の川のようでした。
その列の中にいるあいだは、なぜか泣かずにいられました。
足の裏の痛みと、息の苦しさで、頭がいっぱいだったからだと思います。
八合目の手前で、足が止まりました。
息が吸えないのに、汗だけが出る。
山小屋の前に座り込んでいたら、小屋の人が声をかけてくれました。
「兄ちゃん、無理やろ。中入り」
その人は、温かいお茶を出してくれました。
僕は、雪を取りに来たのだと言いました。
言いながら、自分でもばかばかしいと思っていました。
その人は、何も笑いませんでした。
「上のほうの、北の斜面に、たまに残っとる」
「行くなら、明るうなってからにしぃ」
夜が明けてから、僕は登りました。
火口の縁を回って、日の当たらない側に下りたところに、それはありました。
雪というより、氷の粒でした。
灰色の砂利が混じっていて、あなたが好きだった雪とは、まるで違うものです。
手袋を持ってきていませんでした。
素手で、砂利ごと掻き寄せました。
下から出てくる氷は、思っていたよりずっと硬くて、爪の先が割れました。
火口の向こうから風が回ってきて、耳が痛くなりました。
八月なのに、息が白くなりました。
その白いのを見ながら、僕は一度だけ、声に出して名前を呼びました。
それでも僕は、手でかき集めて、クーラーボックスに詰めました。
指の感覚がなくなるまで、詰めました。
下りの道で、僕は一度だけ立ち止まって、クーラーボックスを開けました。
氷の粒は、思っていたより早く小さくなっていました。
僕はふたを閉めて、日陰を選んで歩きました。
バスの中でも、膝の上に抱えたままでした。
隣に座った年配の女の人が、「何が入っとるの」と聞きました。
「雪です」
その人は、ふうん、とだけ言って、それ以上は何も聞きませんでした。
間に合わなかった
山を下りて、電車を乗り継いで、病院に着いたのは夕方でした。
クーラーボックスの中身は、もう半分ほど水になっていました。
それでも、まだ冷たかった。
廊下を走って、病室の前まで来て、僕は足を止めました。
ベッドの周りのカーテンが、全部開いていたからです。
ナースステーションの前を通ったとき、看護師さんが僕の顔を見て、一度立ち上がりかけました。
そして、座り直しました。
あの数秒の意味を、僕はいまでも思い出せます。
あなたのお母さんが、廊下の椅子に座っていました。
僕を見ると、立ち上がって、深く頭を下げました。
「ありがとうございました」
その言い方で、全部わかりました。
僕が病院を出た、その日の夜のうちに、容態が変わったのだそうです。
十九歳でした。
僕は、クーラーボックスを廊下に置いたまま、しばらく立っていました。
最期まで、そばにいればよかった。
その一つだけが、頭の中をぐるぐる回っていました。
※
お母さんの、一拍
お母さんは、僕を病院の中庭に連れて行きました。
自販機の前のベンチに二人で座って、しばらく黙っていました。
それから、お母さんは言いました。
「これで、よかったんです」
その前に、一拍ありました。
息を吸って、少し止めて、それから言葉が出た。
いま思えば、お母さん自身がいちばん納得していなかったのだと思います。
それでも、その人は続けました。
「あの子、あなたに心配かけたくなかったんです」
「雪が見たいっていうのは、たぶん、口実です」
僕は、うまく息ができませんでした。
「あの子の彼氏でいてくれて、本当にありがとう」
違うんです、と僕は言いました。
僕のほうこそ、と言いかけて、そこから先が続きませんでした。
「あの子、絵を描いてました」
お母さんは、そのあとで言いました。
「あなたが出ていってすぐに、起こしてくださいって」
「一時間くらい、こう、膝に乗せて」
お母さんは、膝の上に板を置く仕草をしました。
「それで、疲れたから寝るって」
そこで、お母さんの声が一度、途切れました。
あとから、看護師さんに聞いたことがあります。
僕が病室を出たあと、あなたは痛み止めの時間を一度だけ遅らせてほしいと頼んだそうです。
薬が効くと、腕が重くなって、細かいものが持てなくなる。
あなたは、その二時間ほどを、自分で選んで我慢していました。
四十九日のあと、お母さんから小包が届きました。
中に、もう一冊のスケッチブックが入っていました。
僕が置いていったものと同じ型で、こちらは入院してすぐに、お母さんに頼んで買ったものだそうです。
開いてみて、僕は座り込みました。
学食の、やたらと大きい唐揚げ。
製図室の窓から見た、銀杏の並木。
自転車置き場の、三列目。
全部、僕が話しただけの場所でした。
あなたは一度も行ったことがないのに、線がまるで迷っていませんでした。
聞いた話を、何度も頭の中で歩いたのだと思います。
残されていた白
ご両親が、あの部屋の荷物をまとめたとき、僕はスケッチブックを譲ってもらいました。
家に帰って、机の上で開きました。
一枚目に、一面の銀世界がありました。
雪の降る、あなたの好きな世界です。
僕はしばらく、その絵を見ていました。
見ているうちに、おかしなことに気づきました。
白い絵の具の、盛り上がりがないのです。
紙に指を滑らせても、どこにも厚みがない。
灰色と、薄い青と、鉛筆の線だけが、紙の上にありました。
その裏に、鉛筆の字がありました。
「私が居なくなっても、悲しまないで」
「私は、雪と一緒に、いつもあなたの傍に居るから」
「大好きだったよ」
「ありがとう」
ページをめくると、二枚目から先は、全部白紙でした。
描きかけの線も、消しゴムの跡もありません。
あなたは一枚目を描いて、裏に字を書いて、それでもうやめたのです。
あとで看護師さんが教えてくれました。
あなたは前の晩、廊下で主治医の先生とお母さんが話しているのを、扉の隙間から聞いていたそうです。
「知っとったと思いますよ」
そう言われたとき、僕は返す言葉がありませんでした。
その夜、僕はもう一度、一枚目を明かりに透かしてみました。
机の上に置いたままだと、ただの白い紙に見えました。
けれど、明かりのほうへ向けると、塗ったところだけが少し重く沈むのです。
塗っていないところは、光をそのまま通しました。
灰色に塗られているのは、空と、遠くの山と、道の輪郭だけでした。
降っている雪の一粒ずつにも、絵の具は乗っていません。
紙の地の白が、そのまま雪になっていました。
雪は、描かれていたのではなく、残されていました。
白を塗らないのは、紙のいちばん白いところを、残しておくためでした。
周りを塗って、触らない場所をつくる。
それが、あなたの雪の描き方でした。
そのとき、やっと涙が出ました。
※
いまも、雪の日には
身延の家は、いまもあります。
去年の冬、僕は用があって近くまで行き、川原に下りてみました。
水切りをしてみたら、石は一度も跳ねずに沈みました。
「いまのは、跳ねるつもりがなかったの」
誰も聞いていない場所で、僕はそう言ってみました。
言ってから、しばらく川を見ていました。
対岸の山の、日の当たらない側にだけ、薄く雪が残っていました。
あれから十二年が経ちました。
僕は建築の仕事に就いて、いまは木造の家ばかり設計しています。
去年、はじめて雪国の家を任されました。
打ち合わせで現場に行ったとき、屋根の上にきれいな新雪が乗っていて、僕はしばらく動けませんでした。
雪を渡すことは、間に合いませんでした。
それでも、あなたは先に、僕に渡していったのだと思います。
触らない場所を、つくっておく。
周りだけを丁寧に塗って、真ん中は白いままにしておく。
僕はいま、そういう家を建てようとしています。
大切な人の最後の時間については、最後の時を過ごす二人の話も、いまなら少しだけ落ち着いて読めます。
残された言葉の受け取り方については、彼女の遺言を読み返すことがあります。
読んでくださって、ありがとうございました。