
湖のほとりのペンション
その日、俺は裏磐梯の桧原湖のほとりへ向かっていた。
往診の依頼だった。
個人で営んでいるペンションの飼い犬が、三日前から餌を食べないという。
電話の声は若い男のもので、少し焦っていた。
犬種はゴールデンレトリバー、七歳。
中年に差しかかる年齢だ。
念のため、点滴のセットと血液検査のキットを鞄に入れた。
カーナビが示したのは、県道から逸れる細い道だった。
五月の風が窓から入って、湖面の匂いを運んでくる。
澄んだ空気に、水草の甘さがかすかに混じっていた。
道の両側には白樺が並び、木漏れ日が路面にまだらな影を落としている。
ペンションは、湖を見下ろす斜面に建っていた。
木造の二階建てで、壁に蔦が這い、看板の字は色褪せている。
庭先に、手入れされたラベンダーが数株。
悪くない場所だと思った。
静かで、空が広い。
車を降りたとき、玄関のドアが開いた。
出てきたのは、弟の拓海だった。
八年ぶりだった。
俺は言葉を失った。
拓海も、数秒のあいだ動けないでいた。
髪が少し長くなり、頬のあたりが痩せている。
日に焼けた肌は、あの頃よりずっと大人びて見えた。
東京でスーツを着ていた頃の面影は、ほとんどなかった。
「……兄貴か」
「拓海」
それだけで、会話は途切れた。
湖の方から風が吹いて、玄関脇のウィンドチャイムが小さく鳴った。
※
八年前の冬に起きたこと
父が亡くなったのは八年前の冬だ。
末期の肺の病で、最後の三か月は実家で過ごした。
母はとうに他界していたから、介護は俺と拓海の二人で回すしかなかった。
俺は隣町で動物病院を開いたばかりで、診療と往診の合間に実家へ通った。
拓海は東京で会社勤めをしていて、帰ってこられるのは月に一度が精一杯だった。
父の容態が悪くなるにつれ、俺たちの間にも亀裂が走った。
毎日点滴を替え、背中をさすり、夜中に何度も起きる。
俺の神経は、削れるだけ削れていた。
月に一度しか帰らない拓海に、俺は苛立った。
拓海が帰ってくるたび、父は嬉しそうな顔をした。
それがまた、俺の胸を刺した。
拓海は拓海で、何もできない自分を持て余していたのだと思う。
ある夜、父が苦しんでいるのを見て「痛み止めを増やせないのか」と言ってきた。
医師の判断だと説明しても、納得しなかった。
口論になった。
「獣医のくせに」
拓海はそう言った。
動物は診られるのに、父ひとり楽にしてやれないのか、と。
あの言葉は、いまでも喉の奥に刺さっている。
俺が一番恐れていたことを、弟に言葉にされた夜だった。
本当は二人とも、父を失う恐怖に耐えられなかっただけだ。
葬儀の日、親戚が帰ったあとの台所で、俺は拓海に言った。
「お前は何もしなかったな」
拓海は言い返さなかった。
唇を噛んで、こちらを見ただけだった。
その目に浮かんでいたものを、あの頃の俺は読み取れなかった。
翌日、拓海は実家から荷物をまとめて出ていった。
玄関に掛かっていた父のダッフルコートだけを持って。
※
タケルという名前の犬
「犬は奥にいる」
拓海は短くそう言って、俺を居間に通した。
暖炉の前に、痩せたゴールデンレトリバーが横たわっていた。
毛布の上で、尻尾だけがかすかに動く。
目はこちらを見ている。
人懐こい、穏やかな目だった。
俺は鞄を開き、聴診器を犬の腹に当てた。
腸の蠕動音が弱い。
触診すると、腹部にやや張りがある。
口の粘膜が乾き気味で、脱水の兆候が出ていた。
軽い胃腸炎だろう。
点滴で水分と電解質を補えば、数日で戻る。
「大丈夫だ。点滴を打てば良くなる」
拓海は、ほっとしたように長い息を吐いた。
その表情には、ただの飼い主以上のものがあった。
この犬は、拓海にとって家族なのだ。
「……助かる」
針を刺し、ゆっくり液を落としながら、俺は部屋を見回した。
木の床は丁寧にワックスがかけてある。
古い本棚には、山岳ガイドと野鳥図鑑が並んでいた。
湖に面した大きな窓から、対岸の山並みが一望できる。
壁には、宿泊客が撮ったらしい写真が何枚か飾ってあった。
湖の夕焼け。
雪をかぶった桟橋。
満開の桜。
どれも穏やかで、静かな風景だった。
本棚の下の段に、雑誌が何冊か横に寝かせてあった。
背表紙を見て、俺は手を止めた。
獣医師会が出している、部数の少ない専門誌だ。
一般の書店には並ばない。
四年前の号に、俺は小さな報告を書いている。
高齢犬の在宅輸液についての、二ページの記事だった。
その号が、いちばん上にあった。
俺は何も言わなかった。
拓海も、そこには目をやらなかった。
そして玄関の横のフックに、あのダッフルコートが掛かっていた。
茶色い生地は色が落ちて飴色に変わり、袖口は擦り切れている。
だが、丁寧にブラシをかけた跡があった。
虫食いもない。
防虫剤の匂いがかすかにする。
八年、大切にされてきたのだと分かった。
トグルボタンが三つ。
一番上のボタンだけが、欠けていた。
俺は無意識にジーンズのポケットに手を入れた。
財布の中に八年間あったものに、指先が触れた。
点滴が終わる頃、拓海がコーヒーを持ってきた。
マグカップを黙って差し出す。
ミルクも砂糖もない、ブラックのままだった。
俺の好みを、まだ覚えている。
「いつからここに」
「六年前。東京を辞めて、この辺をうろうろしてたら、空き家があって」
「一人で」
「こいつがいる」
拓海は犬のそばに座り込んで、頭をゆっくり撫でた。
犬が甘えるように鼻を鳴らす。
点滴のおかげか、目に力が戻りつつあった。
「名前は」
拓海は犬の耳の後ろを掻きながら、何でもないように言った。
「タケル」
俺の手が止まった。
父と同じ名前だった。
診察のあいだ、拓海はずっと後ろに立っていた。
点滴のパックの残りを、何度も見上げている。
飼い主というのは、たいていそうする。
減っていく液の量を見ていれば、何かをしている気になるからだ。
俺は二十年、その背中を診察台の向こう側から見てきた。
「触ってていいぞ」
俺が言うと、拓海は犬の前足に手を置いた。
犬が一度だけ、尾を振った。
「兄貴、犬って、痛いとき鳴かないんだな」
「鳴かないやつのほうが多い」
「どうやって分かるんだ」
「顔じゃなくて、姿勢を見る」
拓海は、しばらく黙っていた。
「親父も、鳴かなかったな」
俺は答えられなかった。
あの三か月、父は一度も痛いと言わなかった。
言わなかったから、俺は分からなかった。
姿勢を見ればよかったのだと、いまなら分かる。
※
一番上の穴に通してあった糸
子供の頃、父のダッフルコートは俺たち兄弟にとって特別なものだった。
冬になると父はそれを着て、俺と拓海を交互に抱き上げた。
コートの中は温かくて、煙草と石鹸の匂いがした。
父は町の郵便局の外務員で、冬もそのコートで自転車に乗っていた。
日曜の朝、三人で駅前の商店街に出かけるとき、俺は右のポケットに手を突っ込んだ。
拓海は左のポケットに手を入れて歩いた。
ポケットの中で、拓海はいつも俺の指を握ってきた。
小さくて冷たい指だった。
ボタンを引きちぎったのは、俺が小学三年の冬だ。
拓海がコートの裾にぶら下がり、俺がボタンを掴んで引っ張った。
「俺が先に着る」
「やだ、拓海が先」
二人で力いっぱい引っ張ったら、一番上のトグルが根元から外れた。
俺がとっさに拾って隠した。
拓海は泣いた。
父は二人の頭を順番に撫でて「そのうち直すよ」と笑った。
結局直さないまま、ボタンが三つのコートで何度も冬を越した。
あのボタンは俺の机の引き出しに入ったまま、中学で財布に移った。
そのまま二十年以上、一緒にいる。
お守りのようなものだった。
何のお守りかと聞かれれば、うまく答えられなかったと思う。
帰り支度をしながら、俺はもう一度コートの前に立った。
そして、それに気づいた。
一番上の穴には、ボタンのかわりに、麻の糸が一本、輪にして通してあった。
結び方は雑ではない。
端が焼き止めしてある。
糸は、まだ白かった。
八年前の糸なら、こうはならない。
飴色の生地の上で、そこだけが新しかった。
※
父の配達区域の家
その週の終わり、俺はもう一度ペンションへ行った。
タケルの経過を診るためだ。
犬は餌を食べ始めていて、玄関まで迎えに出てきた。
診察のあと、拓海が湖のほとりを案内してくれた。
桟橋の板が一枚だけ新しい。
ペンションの客は、夏より秋のほうが多いのだという。
紅葉と、渡り鳥を見に来る人がいる。
拓海は、湖の鳥の名前をひととおり覚えていた。
父も、鳥の名前をよく知っていた。
配達の途中で覚えたのだと言っていた。
覚え方まで似るのだと、俺はそのとき思った。
拓海が去年替えたのだという。
「タケルは、どこから来たんだ」
俺が訊くと、拓海は湖を見たまま答えた。
「本宮の、佐久間さんとこ」
その名前に、聞き覚えがあった。
父の同僚だった人だ。
いや、正確には、父の配達区域にあった家である。
「親父が最後に配達に行った家だ」
拓海はそう言った。
「入院する前の日。年賀状の受付の時期でさ」
その家で、その冬に子犬が生まれていた。
父は、その話を最後の入院中に一度だけした。
俺はそれを覚えていなかった。
拓海は覚えていた。
「六年前に電話して、まだいるか訊いたんだ」
「いたのか」
「二匹残ってた。一匹もらった」
俺は言葉が出なかった。
拓海が東京を辞めたのは、犬を引き取るためではない。
順番は逆だ。
辞めてから、父の最後の配達先を探し当てたのだ。
その晩、俺はペンションに泊まった。
客のいない季節で、二階の部屋が空いていた。
寝る前に、拓海が古い箱を持ってきた。
中に、辞令の写しが入っていた。
退職の日付は、葬儀の四日後だった。
「三か月前から、上と話してたんだ」
拓海は畳に座って、箱の縁を指でなぞった。
「戻って、親父の面倒みるつもりだった」
「なんで言わなかった」
「決まるまで言うと、兄貴が期待するだろ」
俺は天井を見た。
期待して、また裏切られたら、と拓海は思ったのだ。
八年前、俺が投げつけた言葉のことを思い出した。
お前は何もしなかったな。
あのとき、拓海は辞令を待っていた。
病院に戻った翌週、俺は本宮の佐久間さんに電話をかけた。
番号は、拓海が書いて渡してくれた。
八十過ぎの、声の大きい人だった。
「ああ、竹村さんの息子さんか」
父の名は竹村武。
局では、たけちゃんと呼ばれていたらしい。
「最後の日はね、雪でしたよ」
年賀状の受付で、局員が総出で回っていた時期だという。
父は自転車を押して坂を上がってきた。
「玄関先で、犬が生まれとるでしょう、って言ったら、見せてくれって」
父は土間に上がり込んで、生まれて十日の子犬を掌に乗せた。
「そんで、こう言うんです。うちの上のが獣医でしてね、って」
俺は受話器を持ち替えた。
「自慢しとりましたよ。ずいぶん長いこと」
「そうですか」
「その日の配達、うちで三十分は止まっとったな」
その三十分のあとで、父は局に戻り、翌週に入院した。
父が最後にした仕事は、他人の家の土間で息子の話をすることだった。
俺はその話を、八年知らなかった。
知っていたのは、拓海だけだ。
拓海はそれを、六年前に電話一本で確かめに行った。
「弟さんも、同じこと訊いてきましたよ」
佐久間さんは笑った。
「兄貴の話、親父しとりませんでしたか、って」
※
あの夜、誰が言った言葉だったのか
二日目の晩、俺たちは薪ストーブの前で飲んだ。
拓海は強くない。
缶を二本空けたあたりで、目の焦点が少しずれた。
「兄貴、ひとつだけ言っていいか」
俺は頷いた。
「あのとき言ったやつ。獣医のくせに、ってやつ」
俺は缶を置いた。
八年、その言葉のことを考えなかった日はない。
「あれ、俺が考えたんじゃないんだ」
「どういうことだ」
拓海は、ストーブの中の火を見たまま話した。
父が痛みで眠れなかった夜のことだという。
拓海が一人で付いていた。
父は半分眠ったまま、天井に向かって何か言った。
「うちのは獣医なのに、俺ひとり楽にしてやれんのか、って」
俺は動けなかった。
「朝になって、親父、覚えてないふりしてた」
「言ったのは覚えてたのか」
「たぶん。兄貴には言うなよ、って一回だけ言われた」
拓海は缶の縁を親指でなぞった。
「俺、それを一人で持っとくのが無理だった」
だから、口論の夜に俺へ投げた。
父の言葉を、自分の言葉の形にして。
「兄貴に言った瞬間に、しまったと思った」
「なんで八年、黙ってた」
「言い訳になるから」
薪が一本、崩れる音がした。
俺は自分の手のひらを見た。
八年、俺はその言葉を弟のものだと思って背負ってきた。
拓海は八年、父の言葉を弟の言葉にしてしまった自分を背負っていた。
同じ一行を、二人で別々に持っていた。
「親父は、なんであんなこと言ったんだろうな」
俺がそう言うと、拓海は初めてこちらを見た。
「甘えてたんだと思う。息子だから」
その一言で、俺は少し息ができるようになった。
父は俺を頼っていたのだ。
頼り方を、間違えただけだった。
拓海が知っていたこと
翌朝、湖に霧が出ていた。
俺は玄関でコートを見ていた。
拓海が後ろから来て、隣に立った。
「その糸、なんだ」
俺は訊いた。
拓海は少し黙って、それから言った。
「毎年、冬の前に替えてる」
「なんで替える」
「古いと、切れるから」
「切れて、困るのか」
拓海は答えなかった。
代わりに、コートの一番上の穴に指を入れた。
糸を替えていたのは、いつでも縫えるようにしておくためだった。
俺は財布を出した。
八年、いや二十年以上、そこにあった木のトグルを取り出した。
角が丸くなり、紐はとうに切れている。
掌に載せて、拓海に見せた。
拓海は驚かなかった。
ただ、少しだけ息を吐いた。
「やっぱり持ってたか」
「知ってたのか」
「小三のとき、兄貴の引き出し開けた」
拓海は湖のほうを向いた。
「入ってた。黙ってた」
「なんで黙ってた」
「言ったら、返せって言ってるみたいになるだろ」
俺はコートの穴に指をかけた。
糸の輪が、指の腹にわずかに引っかかる。
八年、この家には毎年冬が来た。
そのたびに、拓海はこの糸を替えていた。
誰も縫いに来ない穴のために。
糸だけが、八回、新しくなっていた。
俺の病院は、五月から七月がいちばん忙しい。
予防接種とフィラリアの時期が重なるからだ。
それでも俺は、その二か月で三度、湖へ行った。
行くたびに、拓海は何も言わずコーヒーを出した。
ブラックのままだ。
タケルは、俺の車の音を覚えたらしい。
坂の下でエンジンを切っても、玄関で待っている。
「こいつ、耳だけは若い」
拓海がそう言って笑った。
八年ぶりに、弟が笑うのを見た。
俺は診察鞄を置いて、しばらくその顔を見ていた。
※
縫い直す
帰り道、俺は車を湖のほとりに停めた。
エンジンを切ると、波の音だけが聞こえた。
遠くでカイツブリが鳴いている。
湖面は朝の光を受けて白く、対岸の稜線が薄く沈んでいた。
俺が壊したものは、俺が直す。
コートも、拓海との間に空いた穴も。
次に来るときは、糸ではなく針を持ってこよう。
兄弟のあいだに残った物のことなら、兄の口笛と踵だけ減った靴という話にも似た形が出てくる。
ボタンを付ける手のことは、母がボタンを付ける理由のほうが詳しい。
五月の風が頬を撫でた。
あのダッフルコートの内側みたいに、温かい風だった。