
川霧は、朝いちばんに、蔵の屋根から消える。
そのはずだった。
この谷では、十一月の末から三月の初めまで、夜のあいだに川から霧が這い上がってくる。
朝、谷じゅうが白い綿に沈んでいるのに、蔵の屋根の上だけが、まるく晴れる。
釜場で火を焚いているからだ。
湯気が霧を押しのけて、瓦の色が先に現れる。
谷がまだ眠っているのに、蔵だけが息をしている──わたしは、それを見るのが好きだった。
今朝も、霧は屋根の上に居座ったままだった。
火を入れていないからだ。
去年の暮れから、この蔵は一度も湯気を上げていない。
わたしは八十二になる。
膝が言うことをきかなくなって、麹室の梯子を上がれなくなった。
子はいない。
蔵人も、最後のひとりが一昨年に手を引いた。
この谷で酒を造ってきた綾井の蔵は、この冬で畳むことになっている。
役場の人が言うには、建物は残してもいいらしい。
資料館にするとか、そういう話だ。
杉玉を吊る鉤だけが、軒の下で錆びている。
釜場の隅に、櫂棒が一本、立てかけてある。
長さは、わたしの背丈より少し高い。
柄のところが、飴色に艶を持っている。
四代分の手が、そこを握ったからだ。
柄の平らな面には、名が彫ってある。
いちばん上が、蔵を起こした人の名。
その下に、二つ、三つと続いて、四つめが「弥助」。
わたしを育てた男の名だ。
弥助の名の下には、まだ、なにも彫られていない。
木肌が、そこだけ白い。
この二十年、わたしはその白いところを、ときどき指でなぞった。
なぞるだけで、鑿は持たなかった。
血が繋がっていないからではない。
そう思うことにしていた。
その朝、谷の道を、若い男がひとり上がってきた。
霧の中から、肩から先だけが浮かんで見えた。
役場の人にしては、若すぎた。
男は蔵の前で立ちどまり、軒を見上げ、それから深く頭を下げた。
まだ一言も交わしていないのに、頭を下げたのだ。
わたしは、その角度に、覚えがあるような気がした。
※
わたしがこの谷に来たのは、昭和二十二年の秋だった。
十六だった。
親は、いない。
正しく言えば、いたのだけれど、いなくなった。
町が焼けた年に、母とはぐれた。
父は南の島に行ったきりで、戻らぬ人となった。
遠縁だという人の家を、二年かけて三つ渡り歩いて、四つめが綾井の蔵だった。
渡されたときの荷物は、風呂敷ひとつ。
中身は、着替えと、母の櫛だった。
弥助は、蔵の土間に立ったわたしを、上から下まで見た。
五十くらいの、痩せた男だった。
目が、笑わない。
「手を出せ」
それが、最初に言われた言葉だった。
わたしは、両手を前に出した。
弥助は、わたしの手のひらを、自分の親指で押した。
親指の腹が、やすりのように硬かった。
「冷たいな」
そう言って、弥助は自分の手のひらでわたしの手を包んだ。
包んだまま、しばらく黙っていた。
「まあ、温くはなる」
それだけだった。
その晩から、わたしは蔵に住んだ。
※
麹室は、蔵のいちばん奥にある。
杉の板で囲われた、窓のない部屋だ。
入ると、顔が濡れる。
甘い匂いが、鼻の奥に張りつく。
弥助は、そこにわたしを座らせた。
「温度計は使うな」
そう言われた。
「手で覚えろ。手が覚えたら、目をつぶっても判る」
米の山に手を差し込む。
指の先から、手首まで沈める。
ぬるい。
それだけしか判らない。
「三十二度」
弥助が言う。
わたしには、ぬるい、しか判らない。
次の日も、その次の日も、手を差し込んだ。
ひと月経った朝、わたしは米の山に手を入れて、言った。
「三十四度」
弥助は温度計を差した。
三十四度と、少し。
弥助はなにも言わなかった。
ただ、麹室を出るとき、板戸を閉める音が、いつもよりゆっくりだった。
それが、褒められたということだと、わたしは後になって知った。
※
弥助は、なんでも帳面につける男だった。
米が何俵入った。
薪が何束。
誰それに樽をひとつ貸した。
釘を一本もらった。
そういうことを、すべて、細い筆で書いた。
帳面は、蔵の帳場の、低い机の上にいつも開いてあった。
紙は薄く、墨は薄く、字はやたらと小さい。
その年の冬、蔵の裏の家のばあさんが、湯呑みを持って土間に立った。
孫が熱を出した、と言う。
薬がない時分だ。
体を温めるものを、と思って来たらしい。
弥助は、樽から一合ばかり掬って、ばあさんの湯呑みに注いだ。
ばあさんは、何度も頭を下げて帰っていった。
わたしは、帳場に行って、筆を取った。
そういうものだと思っていたからだ。
誰それに一合、と書こうとした。
弥助が、後ろから言った。
「これは、付けんでええ」
わたしは筆を持ったまま、振り返った。
「なんで」
「付けたら、返ってくる」
意味が判らなかった。
「返ってきたら、それで終いになる」
弥助は、それだけ言って、釜場に戻っていった。
わたしは、筆を硯に戻した。
帳面のその行は、白いままになった。
※
櫂棒のことも、その冬に教わった。
大きな桶の中で、米と麹と水が、少しずつ酒に変わっていく。
それを、櫂で混ぜる。
混ぜる、というより、切る。
桶の底まで棒を差し込んで、手前に引く。
ごぼ、と重たい音がして、白い泡が割れる。
「軽く持て」
弥助が言う。
「力を入れたら、酒が驚く」
酒が驚く、という言い方が、わたしはおかしくて、少し笑った。
弥助は笑わなかった。
櫂を桶から引き上げると、丁寧に湯で洗い、布で拭き、釜場の隅に立てかけた。
そのとき、弥助はわたしの顔を見ずに言った。
「櫂は、酒にしかつけん」
「他のもんに使うたら、どうなるん」
「使わん」
それきりだった。
木の柄の、四つめの名の下の白いところを、弥助はときどき布で拭いていた。
なにも彫っていないところを、それでも拭くのだ。
※
その秋、大きな台風が来た。
谷の川が、二日で人の背丈ほど太った。
三日目の朝、下の佐田の鉄橋が落ちた、という話が上がってきた。
橋が落ちれば、汽車は止まる。
あの時分、汽車で北へ運ばれていたのは、荷ではなく、人だった。
南の海を渡ってきた船から降りて、生まれた土地を目指して、汽車の屋根にまでしがみついていた人たちだ。
佐田の駅で、その人たちが降ろされた。
駅には屋根しかない。
雨は、まだ降っていた。
夕方になって、谷の道を、人が上がってきた。
ひとり、ふたりではなかった。
暗くなってから、また上がってきた。
皆、蔵の灯りを目指してきた、と言った。
谷の下から見上げると、この蔵の窓だけが、明るいのだ。
寒造りの時分は、夜通し火を焚いている。
だから、明るい。
それだけの理由で、二十人余りが、この蔵に集まった。
着ているものは、ほとんど布ではなかった。
足は、泥というより、土の色をしていた。
子どもが四人。
そのうち二人は、もう歩いていなかった。
背負われていた。
弥助は、釜場の戸を開け放した。
「入れ」
それだけ言った。
釜場は、蔵でいちばん温かい。
床が、火のせいでほんのり温い。
人が二十人も入ると、湯気で、隣の顔が見えなくなった。
匂いが、変わった。
蔵の匂いは、麹と、杉と、水の匂いだ。
そこへ、汗と、潮と、長いこと洗っていない布の匂いが混ざった。
わたしは、その匂いを知っていた。
二年かけて三つの家を渡り歩いたとき、自分から出ていた匂いだ。
柱の陰に、赤ん坊を背負った女がいた。
二十歳そこそこに見えた。
背中の子が、泣かないのだ。
目は開いている。
けれど、声を出さない。
泣く力が、残っていないのだと、後で判った。
弥助は、その子を女の背から下ろさせた。
下ろして、自分の膝に乗せた。
白湯を、指の先につけて、子の唇に置いた。
置いて、待つ。
また置いて、待つ。
それを、半刻ばかり続けた。
子の喉が、ひとつ、鳴った。
女が、両手で顔を覆った。
弥助は、女のほうを見なかった。
ただ、指を白湯につけて、また唇に置いた。
※
米が、なかった。
あの年は、酒を造るための米が、国から降りてこなかった。
人が食べる米すら足りないのだから、当たり前だ。
蔵にあったのは、大豆の粕と、麦が少し。
それを粥にして、初めの晩は凌いだ。
二晩目も、そうした。
三晩目の朝、米櫃の底が、板の色をしていた。
わたしは、それを弥助に言いに行った。
弥助は、帳場に座って、帳面を見ていた。
「もう、食べさせるもんが、ありません」
弥助は、しばらく黙っていた。
それから立ち上がって、麹室の奥へ入っていった。
わたしも、ついていった。
麹室の、いちばん奥の板が、外れるようになっていた。
知らなかった。
その裏に、俵がひとつ、立っていた。
白い米だ。
翌年、酒を造るために、弥助が三年かけて、少しずつ隠してきた米だった。
これがなければ、綾井の蔵は、来年の酒を仕込めない。
仕込めなければ、蔵は終わる。
わたしは、口を開けたまま、俵を見ていた。
弥助が、俵を担いだ。
痩せた背中が、少し傾いた。
「ちょっと」
わたしは、袖を掴んだ。
「それ、来年の」
「知っとる」
「そんなら」
「ゆき」
名を呼ばれたのは、初めてだった。
「今日食べんもんに、来年はない」
弥助は、袖を掴んだわたしの手を、そっと外した。
指が、あの日と同じで、硬かった。
※
大釜に、水を張った。
米を、全部入れた。
一俵を、二十数人で分けるのだから、粥というより、白い湯だった。
沸いてくると、米が底に沈んで焦げる。
混ぜるものが、いる。
杓子では、届かない。
釜が、深すぎるのだ。
弥助は、釜場の隅に立てかけてあった櫂棒を、手に取った。
わたしは、息を止めた。
櫂は、酒にしかつけん。
四代の手が握って、飴色になった柄だ。
弥助は、その櫂棒を釜に突っ込んで、粥を練った。
ごぼ、と、桶のときと同じ音がした。
けれど、白い泡は割れなかった。
ただ、米が回った。
弥助の手つきは、酒を混ぜるときと、寸分も変わらなかった。
軽く持って、底から手前に引く。
力を入れたら、驚くとでもいうように。
わたしは、その背中を見ていた。
湯気で、輪郭が溶けていた。
※
椀は、足りなかった。
蔵にあるのは、蔵人が使う分だけだ。
だから、順に回した。
弥助は、分け方に、やたらとうるさかった。
子どもが先。
それは判る。
次が、背負われてきた者。
その次が、女。
それも判る。
けれど弥助は、椀に注ぐたびに、必ず同じ高さで止めた。
目で測るのではない。
櫂の柄に、指を当てて測るのだ。
一杯ずつ、寸分違わず、同じところで止めた。
三十人近く、そうやって注いだ。
誰の椀も、まったく同じ量だった。
最後に、弥助は自分の椀に注いだ。
釜の底を、櫂で掻いた。
残っていたのは、椀の底が透けるほどだった。
それを、弥助は、他の誰とも同じように、両手で持って飲んだ。
啜る音を立てなかった。
※
その晩、釜場の隅で、若い男が座り込んでいた。
二十歳を少し出たくらいだった。
膝を抱えて、椀を両手で持ったまま、ずっと動かなかった。
「冷めるよ」
わたしが言うと、男は顔を上げた。
目が、赤かった。
「これ、飲んでしもうたら」
そこで、声が途切れた。
「飲んでしもうたら、明日、なんも無いようになる」
わたしは、なんと言えばいいのか判らなかった。
そこへ、弥助が来た。
男の前にしゃがんで、男の椀の縁を、指で軽く叩いた。
「飲め」
「けど」
「明日のことは、明日の米が考える」
男は、笑うような、泣くような顔をした。
それから、椀を傾けた。
飲み終えると、男は畳に額をつけて、頭を下げた。
深く、長く、下げた。
弥助は、その頭を見ずに、もう釜のほうへ歩き出していた。
男が名を言った。
多田久蔵、と。
弥助は、振り返らずに手だけを上げた。
それが、聞いた、という意味なのか、要らん、という意味なのか、わたしには判らなかった。
※
橋は、十日で仮に架かった。
人は、順に谷を降りていった。
最後の一組が出ていった朝、蔵には、なにも残っていなかった。
米も、麦も、大豆の粕も。
その冬、綾井の蔵は、酒を仕込まなかった。
四代目にして、初めてのことだった。
春になって、弥助は町の酒屋を三軒回って、頭を下げて、米を分けてもらってきた。
頭を下げるところを、わたしは初めて見た。
蔵は、なんとか、続いた。
弥助は、あの冬のことを、一度も口にしなかった。
誰それを助けた、という話を、村でしたこともない。
わたしが四十を過ぎて、蔵の仕事のほとんどを任されるようになっても、その話は出なかった。
ただ一度だけ、櫂を洗いながら、弥助が言ったことがある。
「あれは、よう回った」
粥のことだと判るまでに、わたしは三日かかった。
※
弥助は、二十年前の春に、旅立った。
八十九だった。
最後の三日は、蔵の帳場に布団を敷いて、そこにいた。
帳面が見えるところがいい、と言うからだ。
先に逝った人の顔を、わたしは知らない。
弥助には、身内がいなかった。
いなかったから、わたしを置いたのだと、ずっと思っていた。
四十九日が済んで、わたしは帳場の帳面を、初めから終いまで繰った。
五十年分あった。
米が何俵、薪が何束、樽をひとつ貸した、釘を一本もらった。
細い筆で、びっしり書いてあった。
昭和二十二年の頁に、指が止まった。
秋の終わりから、冬。
あの二十日ばかり。
帳面は、あの冬の頁だけが、白いままだった。
俵ひとつ。
粥、三十杯。
そのどれも、書いていない。
付けたら、返ってくる。
返ってきたら、それで終いになる。
わたしは、帳場の畳に座ったまま、白い頁を、長いこと見ていた。
弥助は、あの二十日を、終いにしなかったのだ。
※
男は、蔵の土間で、もう一度頭を下げた。
「多田と言います」
わたしは、その名を、口の中で転がした。
五十年ぶりに聞く音だった。
「祖父の名は、久蔵といいます」
男は、風呂敷から、椀をひとつ出した。
欠けても、割れてもいない、ただの古い椀だった。
蔵にいくらでもある、蔵人の椀だ。
「持って帰ってしもうたんです。返しに来るつもりで、ずっと持っとったんです」
祖父は、その椀のことを、家族に一度も話さなかったのだという。
ただ、正月に酒を注ぐたび、必ずこう言ったらしい。
綾井の酒だけは、いつか飲め、と。
理由は、言わなかった。
孫が理由を知ったのは、久蔵が旅立ったあと、簞笥の底からその椀が出てきたときだった。
椀の底に、綾井、とだけ、鉛筆で書いてあった。
「探すのに、十一年かかりました」
男は、そう言って、笑った。
笑うと、少しだけ、あの晩の若い男に似ていた。
わたしは、湯を沸かして、茶を出した。
男は、茶を飲まずに言った。
「ここで、酒を教えてもらえませんか」
わたしは、しばらく黙っていた。
助けた、と思ったことは、一度もない。
弥助も、思っていなかったはずだ。
忘れていた、のではない。
初めから、勘定に入れていなかったのだ。
入れていない側は、覚えていない。
入れられた側だけが、五十年、覚えている。
そういうものらしい。
わたしは立ち上がって、釜場に行った。
櫂棒を取って、土間に戻った。
男に、柄を向けて、差し出した。
「軽う持ちなさい」
男は、両手で受け取った。
「力を入れたら、酒が驚くけん」
男は、櫂棒の柄を見ていた。
四つの名と、その下の、白い木肌を。
「ここ、空いとります」
「うん」
「なんで、彫らんかったんですか」
わたしは、答えなかった。
答えの代わりに、鑿を取りに行った。
※
その年の十一月の末に、綾井の蔵は、火を入れた。
蔵人は、二人。
八十二の女と、二十九の男だ。
釜が沸くまでに、ずいぶん時間がかかった。
けれど、沸いた。
今朝、川霧は、蔵の屋根からいちばん先に消えた。
谷はまだ白い綿の底に沈んでいて、瓦の色だけが、まるく浮かんでいる。
下から見上げれば、この蔵の窓だけが、明るいはずだ。
それだけの理由で、誰かがまた、この道を上がってくるかもしれない。
そのときは、櫂で、粥を練ればいい。
帳面には、付けなくていい。