麦笛が鳴ったら

黄金の時間の田園風景

麦の穂が、朝の風に一斉に頭を垂れた。

私はその金色の波のなかに膝をつき、根を傷めぬよう、雑草を一本ずつ抜いていた。

指の腹に、まだ夜の冷たさを残した土がついた。

爪のあいだに入り込む、湿った土の匂い。

その匂いだけが、私の一日の、確かな始まりだった。

信州の山あいの、ひと家族がやっと食べていけるだけの、痩せた畑である。

その畑を、二年前から、私ひとりで背負っていた。

父は、海の向こうへ発った。

出征の朝、父は私の肩に、節くれだった手を置いた。

「夏、健次を頼む。」

それが、父が私に遺した、最後の言葉だった。

「はい。畑も、あの子も、きっと守ります。」

私はそう答えるのが精一杯で、父の顔を、まともに見られなかった。

見れば、きっと、引き止めてしまいそうだったから。

父からの便りは、最初の半年で、途絶えた。

それきり、一通も、来なかった。

私は、便りの来ない理由を、深く考えないようにしていた。

考えれば、足元が崩れそうだったから。

母は、健次がまだ乳を飲んでいた頃に、流行り病で還らぬ人となっていた。

だから私にとって、弟は弟であると同時に、半分は、私の子のようなものだった。

二十二の私が、十四の健次を、育てている。

おむつを替え、夜泣きをあやし、熱の夜には、一晩じゅう額の手拭いを替えた。

初めて歩いた日のことも、初めて麦の握り飯を頬張った顔も、私はみな覚えている。

あの子は、私の縫った継ぎ接ぎの着物を、文句も言わずに着ていた。

袖が短くなると、私の古い着物をほどいて、また、縫い直した。

針を持つ私の膝で、あの子は、よく寝息を立てていた。

母の代わりに、私がこの子の母なのだと、いつしか思い定めていた。

夜、二人で囲炉裏を囲むとき、私はよく、父や母の話を、あの子に聞かせた。

健次は、会ったこともない母の話を、いつも、せがんだ。

「母ちゃんは、どんな人だった。」

「優しくて、笑うと、あんたにそっくりだった。」

そう言うと、あの子は、嬉しそうに、目を細めた。

あの子の笑い声だけが、がらんとした家を、温めていた。

村の者は、夏ちゃんは気丈だ、としきりに褒めた。

けれど、それは、半分だけ正しかった。

私は、暗がりが、どうしても駄目なのだった。

日が落ちて、納屋の奥や、裏の井戸へ行かねばならぬとき、私の足はいつも竦んだ。

闇の濃さが、肌に貼りつくように感じられた。

幼い頃から、私はそういう質の、臆病な姉だった。

気丈に見えたのは、ただ昼の、光のなかでのことにすぎない。

健次は、私のその弱さを、誰よりもよく知っていた。

「姉ちゃんは、麦畑でも迷うからな。」

あの子は、そう言ってはよく私をからかった。

その口の達者なところだけは、いったい誰に似たのか、分からなかった。

私たちは、貧しくはあったけれど、二人きりの、静かな日々を生きていた。

朝は鶏の声で起き、夜は一つの灯火を分け合って眠った。

季節は、律儀に巡った。

春に種を蒔き、夏に草をむしり、秋に刈り、冬に藁を綯う。

その繰り返しだけが、私と健次を、かろうじて支えていた。

それが、いつまでも続くものだと、私は、思い込んでいた。

麦笛のことを、話さねばならない。

健次がまだ六つか七つの、ひどい泣き虫だった頃のことだ。

あの子は、私の姿が見えなくなると、火がついたように泣いた。

畑の畝の、一本向こうにいるだけで、泣いた。

「姉ちゃんが、いない。」

そう言って、麦の穂のなかに、しゃがみ込んでしまうのだ。

私はある日、青い麦の茎を一本折り、唇に当てて、鳴らしてみせた。

ひゅう、と頼りない音が、朝の畑をわたっていった。

健次は、泣くのも忘れて、その音に聞き入った。

目を真ん丸にして、もう一度、と私の袖を引いた。

「これを吹けば、ね。」

私は、その細い茎を、あの子の小さな掌に握らせた。

「姉ちゃんが、どこにいても、必ず聞きつけて、迎えに行くから。」

「ほんとうに。」

涙のあとの残る顔で、健次は念を押した。

「ほんとうよ。」

私は笑って、あの子の、汗ばんだ頭を撫でた。

それからあの子は、麦笛を、肌身離さず持つようになった。

麦の枯れる季節には、枯れた茎でも鳴らせるよう、自分なりに工夫していた。

音は、いつまでたっても、下手なままだった。

けれど、あの子はそれを、やめなかった。

私はそれを、弟との約束のしるしのように、長いあいだ思っていた。

守ってやっているのは、私のほうだと、疑いもせず、信じていた。

裏の柿の木は、私たち姉弟の、ささやかな宝物だった。

秋になると、あの子は危なっかしく木に登り、いちばん赤い実を、もいでくれた。

「姉ちゃんは、下で待ってろ。落ちてきたら、受け止めるから。」

枝の上から、得意げに、そう言った。

私は、はらはらしながら、その小さな足の裏を、見上げていた。

もいだ柿は、決まって、半分こにした。

甘く熟れた実の、とろりとした冷たさを、今も、舌が覚えている。

健次は、私が縫い物で指を刺すと、決まって、自分の唾を、つけてくれた。

「こうすれば、すぐ治る。」

どこで覚えたのか、得意げに、そう言った。

小さな手が、私の指を、そっと、包んだ。

年が改まるごとに、村から若い男たちが、一人、また一人と消えていった。

田畑には、女と、年寄りと、子どもだけが、残された。

配給の米は薄くなり、麦の粥に、大根を刻んで嵩を増した。

鍋の底で、白い大根が、頼りなく泳いでいた。

それでも健次は、よく働いた。

私の半分の背丈しかなかった子が、いつのまにか、私の肩を越していた。

鍬を振るうその肩のあたりに、ふと、父の面影が差すようになった。

あの子は、自分の配給の芋を、こっそり私の椀に移すことがあった。

「おれは、畑でつまみ食いしてるから。」

そう言って、笑った。

嘘だと、私は、知っていた。

知っていて、知らないふりをして、私はその芋を食べた。

喉の奥が、熱くなるのを、こらえながら。

空襲警報の鳴る夜が、少しずつ、増えていった。

灯火を消し、暗い部屋で、私たちは身を寄せ、警報の止むのを待った。

私は、闇のなかで、いつも小さく、震えていた。

そんなとき、健次は決まって、私の手を、ぎゅっと握った。

「姉ちゃん、おれがいるから。」

そう言って、低い声で、何でもない畑の話をした。

今年の麦は、去年より穂が重い。

裏の柿は、今年は生り年だ。

その声を聞いていると、不思議と、震えが止まった。

けれど私は、弟に聞かせてもらっているのだとは、思わなかった。

姉である自分が、弟を、安心させているのだと、思い込んでいた。

ある晩、囲炉裏のそばで、健次がぽつりと、言った。

「おれも、お国の役に立ちたいんだ。」

私は、刻んでいた大根の手を、思わず止めた。

「あんたは、まだ子どもよ。」

声が、自分でも驚くほど、尖った。

「畑を守るのが、あんたの役目でしょう。」

健次は黙って、火の奥を、見ていた。

赤い熾火が、あの子の頬を、下から照らしていた。

「子ども扱いするな。」

低い声が、囲炉裏の煙の向こうから、返ってきた。

その横顔が、もう私の知っている泣き虫ではないことを、私は認めたくなかった。

言い争いのあと、私たちは三日ほど、ろくに口をきかなかった。

けれど、その夜も。

私が裏の井戸へ水を汲みに出られずに、戸口で立ち竦んでいると。

健次が、黙って桶を提げて、外へ出ていった。

暗がりの苦手な姉のために、それだけは、喧嘩のあとでも、欠かさなかった。

戻ってきたあの子の肩で、汲みたての水が、月の色に揺れていた。

「ほら。」

あの子は、ぶっきらぼうに、桶を置いた。

その手の甲が、夜の冷たさで、赤くなっていた。

私は、ありがとうの一言を、とうとう、言えなかった。

健次が志願したと知ったのは、すべてが、決まったあとだった。

年を、偽ったのだ。

村の役場で、十五を、十七と書いた。

私が気づいたときには、もう、何ひとつ翻せなかった。

「なぜ、黙っていたの。」

私は、声を荒らげた。

「姉ちゃんは、止めるに決まってる。」

健次は、困ったように、笑った。

その笑い方が、父に、そっくりだった。

その夜、私は、あの子の旅支度を、黙って整えた。

継ぎの当たった肌着を畳み、乏しい干し芋を、布に包んだ。

涙が落ちて、肌着に滲みを作らぬよう、私は、何度も天井を仰いだ。

発つ朝、麦はちょうど、刈り入れ前の、いちばん重く実った時季だった。

穂の一つひとつが、朝日を弾いて、まぶしかった。

村のはずれの、小さな停車場まで、送った。

停車場の柱に、出征兵士の名を記した、白い幟が、はためいていた。

そのなかに、健次の名も、墨くろぐろと、記されていた。

幼いあの子の手を引いて歩いた、同じ道だった。

同じように、息子や弟を送る、女たちがいた。

みな、申し合わせたように、無理に、笑っていた。

言葉が、どうしても、喉の奥でつかえて、出てこなかった。

私は、上着の隠しから、一本の枯れた麦の茎を、取り出した。

あの子が幼い頃に握っていた、あの麦笛だった。

いつのまにか、私のほうが、それを守り袋に入れて、持っていたのだ。

「これを。」

私は、健次の掌に、それを押しつけた。

「向こうで寂しくなったら、これを吹きなさい。」

「聞こえたら、姉ちゃんが、必ず迎えに行くから。」

健次は、それを受け取って、しばらくじっと、見ていた。

そして、いつもの憎まれ口を、ひとつだけ、言った。

「姉ちゃんこそ、暗がりで、泣くなよ。」

汽笛が、鳴った。

あの子の背中が、煤けた車窓の奥へ、吸い込まれていった。

窓のなかで、あの子が、何か言ったように見えた。

けれど、汽車の音にかき消されて、それは、聞き取れなかった。

私は、麦の穂のあいだに立ち尽くしたまま、いつまでも、手を挙げていた。

挙げたその手が、自分のものではないように、冷たかった。

汽車の影が、線路の果てに消えても、私はまだ、その場を動けなかった。

健次は、還らなかった。

報せは、麦が二度実り、二度刈られたあとの、冷たい雨の日に届いた。

白い布に包まれて戻ったのは、紙きれのように軽い、小さな箱だった。

私は、涙が出なかった。

涙の出し方を、どこかに、置き忘れてしまったようだった。

ただ、毎朝、畑に出て、麦の世話をした。

そうしていないと、自分が何者なのか、分からなくなりそうだった。

私は、あの子の使っていた欠けた茶碗を、洗わずに、棚に伏せたままにしていた。

いつか、ひょっこり帰ってきて、また使うような気が、していたから。

麦を刈るたびに、私は、停車場で見送った、あの子の背中を、思い出した。

刈り入れの鎌が、ひどく重く、感じられた。

村の女たちは、私を気の毒がって、何かと声をかけてくれた。

けれど、その優しさが、かえって、胸に刺さった。

夜になると、私は、あの子の麦笛の音を、幾度も、耳の奥に探した。

けれど、聞こえてくるのは、風が麦の穂を鳴らす、乾いた音ばかりだった。

やがて戦が終わり、村に、少しずつ、男たちが戻ってきた。

そのなかに、健次と同じ部隊にいたという、若者がひとり、訪ねてきた。

日に焼けた、痩せた青年だった。

青年は、囲炉裏のそばに、ぎごちなく、座った。

出してやれる茶も、ろくに、なかった。

「健次さんは、よく、姉さんの話を、していました。」

その人は、訥々と、そう言った。

「うちの姉ちゃんは、暗がりが怖いんだ、と。」

「だから、早く帰らないと、と。」

私は、湯呑みを持つ手が、震えるのを、抑えられなかった。

「あいつは、いつも、妙な草笛を吹いていました。」

青年は、目を伏せて、そう言った。

「下手くそで、みんなに、笑われていました。」

私の胸の奥で、何かが、つきりと、痛んだ。

その人は、すり切れた小さな手帳を、私に差し出した。

健次が、向こうで綴っていたものだ、という。

震える指で、私は、頁を繰った。

その隅に、鉛筆の薄い字で、こう書かれていた。

姉ちゃんは、暗がりが怖い。

おれがいないと、夜の井戸にも、行けない。

早く帰って、迎えに行ってやらないと。

その一行を読んだとき、私は、ようやく、思い出した。

麦笛を、ほんとうに最初に吹いたのは、いったい、誰だったのかを。

あれは、健次が、まだ三つか四つの頃。

日の落ちた畑の畦道を、私は母に言いつけられて、歩いていた。

暗がりが怖くて、足が竦んで、一歩も、前に進めずにいた。

そのとき、私の冷たい手を、ぎゅっと引いたのは。

ほんの、幼い弟だった。

あの子は、覚えたばかりの麦笛を、ひゅう、ひゅう、と、鳴らした。

そして、暗い畦道の先で、こちらを振り返って、言ったのだ。

「姉ちゃん、こっちだよ。」

音のするほうへ行けば、迷わない。

健次は、月明かりのなかで、得意げに、笑っていた。

あの晩のことを、私は、長いあいだ、忘れていた。

自分が守る側だと、信じて、疑わなかったから。

迎えに行く、と約束していたのは、私のほうだと、ずっと、思っていた。

けれど、ちがった。

暗がりのなかで、いつも先に立って音を鳴らし、私を導いていたのは。

あの、小さな弟の、ほうだった。

私が、弟を守って生きてきたのではない。

弟が、臆病な姉を、その小さな背中で、ずっと、守っていたのだ。

私は、紙きれのように軽い箱を抱いて、声を上げて、泣いた。

忘れていたはずの涙が、土の匂いのする頬を、止めどなく、伝った。

二年分の涙が、一度に、溢れた。

青年は、深く頭を下げて、帰っていった。

その背中を見送りながら、私は、手帳を、固く胸に抱いた。

頁からは、かすかに、潮の匂いがした。

あの子が、ついぞ帰れなかった海の、匂いだったのかもしれない。

あれから、長い、長い歳月が、流れた。

私は、この畑で、ひとり、老いた。

麦は今年も実り、朝の風に、変わらず、金色の波を立てている。

裏の柿の木も、いまだに、秋には赤い実をつける。

私は畝のあいだに膝をつき、青い茎を一本、折る。

皺の寄った唇に当て、ゆっくりと、息を吹き込む。

ひゅう、と。

あの日と同じ、頼りない音が、畑を、わたっていく。

その音のするほうへ、私はもう、迷わずに、歩いていける。

暗がりは、もう、怖くない。

先に立って鳴らしてくれる、小さな麦笛の音が、いつも、私の前にあるから。

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