保温ボタンはいつも点いている
夜勤の夫と入れ違いに暮らして七年。帰宅した私を待つのは、いつも四十一度の湯と、橙色に点いた保温ボタンの小さな灯だった。ところが台風で早く帰った夜、浴槽は空っぽで…
読んでいるうちに、胸がじわりと温かくなる話を集めました。日常の中に隠れた誰かの優しさ、見えないところで続けられた愛情、言葉にならなかった想い。泣けるというより、しみじみと何かが伝わってくる——そんな感動する話をお届けします。
夜勤の夫と入れ違いに暮らして七年。帰宅した私を待つのは、いつも四十一度の湯と、橙色に点いた保温ボタンの小さな灯だった。ところが台風で早く帰った夜、浴槽は空っぽで…
駅そばの窓に立って三年。五時五分になると、店長は誰も頼まない月見を一杯作り、下りが出たあとに伸びたまま食べる。閉店の朝、私はその丼を持って跨線橋を渡り、二番ホー…
深夜三時半に出庫する塵芥収集車。先輩運転手の松原は、ある県営住宅の前で毎朝一分だけ圧縮レバーを切る。朝四時の圧縮音が止まる理由を、語り手は二年間訊けなかった。仕…
夜10時、佐渡の柿畑から届くビデオ通話。画面の中の彼は、いつも左の耳にだけ片耳のイヤホンを挿していた。聞き逃されるたびに笑い合った2年のあいだに、私は少しずつ片…
父の教習車は、冬でも助手席側の窓が指二本ぶん開いていた。所内でいちばん合格率の低い指導員だった父を、私は腕が悪いのだと思っていた。閉所の決まった教習所で古い配車…
母の煮物は、私が高校2年の春から急に濃くなった。しょっぱい、と何度も言った。母は笑うだけで、味つけを戻さない。22年後、手首を痛めた母の代わりに台所へ立った私は…
大学の食堂で、私の前に置かれる茶碗だけがいつも重かった。底の厚い茶碗は7つしかなく、みんなが避けた外れくじなのだと思っていた。3年間そう思い込んだまま、私は一度…
遠足の広場で包みを開けると、私のおにぎりだけが白かった。海苔がない。手抜きだと言った翌年から巻かれるようになったが、それはいつも裏返しの海苔だった。祖母は下手な…
今日は三袋な。兄は毎晩そう言って白い袋を提げて帰ってきた。家には製氷機があるのに、兄は夏のあいだ毎日コンビニの氷を買って帰る。私はそれを十年、無駄遣いだと思って…
砥石はいつ行っても濡れていた。誰も褒めない場所で手を動かし続けた人たちの、仕事の泣ける話を十四編ならべました。職人、恩師、同じ職場にいた人、そして誰かの夜を静か…
海沿いの営業所に入って二年目、私はまだ誰からも名前で呼ばれなかった。誰も乗っていないのに、夕方の便で辻堂前のボタンが鳴る。配線の不良だと思った私に、定年間近の先…
母の鞄には、よく晴れた日にも折りたたみ傘が入っていた。第二日曜だけは用事があると言って、私の誘いはいつも断られた。母が入院した週、財布に残っていた交通系ICカー…
毎月第1火曜の夕方だけ、先生は9本だけ塗らせる客としてやって来た。右手の薬指はいつも「そこはいいから」と折り曲げて、私に触らせない。3年で36回。手の震えで筆を…
雨の日、片方の肩ベルトが切れたランドセルを抱えた男の子が、父の小さな店に立っていた。ランドセルの修理の代金を、父は一度も受け取らない。ただ甘いだけの人だと思って…
婚約者の長い療養で結婚式をあきらめた私と、注文の止まったウェディングドレスを十一年間しつけ糸のまま守り続けた仕立て屋の物語。袖口の白い糸に隠されていた約束と、病…