来ない流氷を告げた朝
昭和のオホーツク沿岸。漁業無線局の見習い通信士だった俺は、顔も知らないまま声だけで知り合った娘に、見栄の嘘ばかりついていた。流氷が好きだと言い合った三年半の終わ…
昭和のオホーツク沿岸。漁業無線局の見習い通信士だった俺は、顔も知らないまま声だけで知り合った娘に、見栄の嘘ばかりついていた。流氷が好きだと言い合った三年半の終わ…
昭和三十四年の奥能登。電気の来ない集落の分校で、十九歳のわたしは毎晩ランプの火屋を磨いていた。ようやく電線が届いた夜、村中に灯りがともるのに、分校だけが暗いまま…
父の種袋には、売れ残りの古い種が入っているのだと思っていました。無口な父を見送り、二十四で小さな種苗店を継いだ春、私は触るなと言われた一番上の棚に手を伸ばします…
昭和三十六年、堤防工事の飯場から転校してきた幼なじみに、私は兄のお下がりの運動靴を貸しました。学級費が消えた日、私は教室で黙りました。四十年後、同じ堤防の改修工…
泣ける話。昭和の山頂測候所で三時間ごとの観測を続けた私と、雪の道を荷を担いで上がってきた歩荷の保坂さん。ひとりで冬を回したあの年、彼は三日に一度登ってきた。四十…
父が遺した十七の巣箱のうち、一箱だけがいつも空だった。三年ぶりに雪を掘り返した私を待っていたのは、いつのまにか増えた三つの箱と、十六の夏にこの高原へ来た青年の話…
夜の峠で車の救援をする私は、十一年前、恋人だった彼にひとつだけ頼まれた。峠の霧が晴れる瞬間を見てきてほしい、と。報告するたび彼が聞いたのは「何時何分?」だけだっ…
二十年前「あんたは向いとらん」と私を切り捨てた元上司が、山の集落で毎週わたしの魚を買い続けた。泣ける話の長編。捌かなくていいと言い続けた理由と、集落に人が並んで…
昭和四十九年、瀬戸内の離島に渡った二十歳の郵便配達員は、船着場に毎日立つ老女から宛名のない一通を託されました。五十年後、閉局の日に封を開けて分かった、あの人が待…
十九で紺屋に弟子入りした私は、二十三年連れ添った兄弟子の帳面を盗み見た。九つの甕の図と、川下へ下る朝の便の時刻。黙って戻した帳面は、その日から一寸だけ左に寄って…
四十年前に私を無視した同級生が、二十年ものあいだ匿名で私の漉いた和紙を頼み続けていた。備考欄にはいつも同じ一行だけ。切り落とされる紙の耳こそが破れた本を継ぐ材料…
十九で畳屋に嫁いだ私は、十年ものあいだ仕事場に入れてもらえなかった。義母は褒めず、教えず、座敷の上座の一枚だけを誰にも踏ませなかった。二十六年ぶりに畳を上げ替え…
兄の口笛を、わたしは四十年間ずっと憎んでいた。石灰の白い町で右脚を失った妹と、一度も手を貸してくれなかった兄。踵の外側だけが減った靴が明かす、半歩先を歩き続けた…
猫と家族の泣ける話。昭和四十七年、雪深い町の活版印刷所で、文選工の伯母は私が拾った子猫の名を十年間ただの一度も呼ばなかった。情のない人だと思っていた。前掛けに入…
炭鉱町の銭湯で、兄はいつも底にひびの入った木桶を選び、壁を三度叩いた。番台の私はそれを妹を急かす苛立ちだと思い込み、三十五年ものあいだ薄情な子どもだと決めつけて…