干し花の残った場所

陶芸工房の午後の光

工房の棚の端に、干し花がある。

10年前から、ずっとそこにある。

誰かに「捨てろ」と言われたこともないし、自分で捨てようと思ったことも、一度もなかった。

小さな空き瓶の中に、乾いてくすんだ白い小花が静かに詰まっている。

窯の灰の匂いに混じって、もう香りはしない。

それでも俺は、そこに置き続けている。

俺の名前は真壁浩二。

38歳、独身、岡山・備前の小さな窯元で陶器を作りながら生きている。

父が備前焼の職人で、俺は高校を卒業すると同時に弟子に入り、ずっと土を触ってきた。

観光客が来ることもある。

若い女の子たちが写真を撮りながら「可愛い」と言って帰っていく。

でも俺は不愛想で、声をかけるのが昔から苦手だ。

気がついたら一人になっていた。

仕事だけが続いている。

干し花は、10年前にもらったものだ。

奈緒子が誕生日に持ってきてくれた。

「陶芸の工房って、花がないと殺風景でしょ」

そう言いながら、白い小花のブーケを差し出した。

俺はその時、何と言ったんだろう。

「ありがとう」くらいは言ったと思う。

でも喜び方が足りなかったはずだ。

きっと、そうだったと思う。

奈緒子とは、彼女が観光で備前を訪れた時に出会った。

陶芸体験の教室で、隣に座ったのが始まりだった。

器を作るのが好きで、岡山まで来たと言った。

東京から新幹線で一人旅だと聞いて、俺は驚いた。

その日の夜、駅まで送った。

それがきっかけで、月に一度か二度、彼女は備前に来るようになった。

半年後、付き合い始めた。

遠距離だったけれど、当時の俺には「何とかなる」という根拠のない確信があった。

奈緒子も「月に一度は会いに来るから」と言った。

でも、俺は会いに行くことができなかった。

窯を離れることが難しかった。

薪割りの時期、乾燥の管理、父の体が弱ってきた頃。

言い訳はいくらでもあった。

いや、言い訳じゃなく、本当にそういう時期だったのだと今でも思う。

でも、奈緒子には伝わっていなかった。

付き合って2年が経つ頃、彼女から電話がかかってきた。

「会って話したい」

俺は「ちょっと今、忙しい時期で」と言いかけて、黙った。

電話の向こうで、奈緒子が静かに息を吸う音がした。

「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」

それだけ言って、電話は切れた。

俺はしばらく、受話器を握ったまま窯の炎を見ていた。

その次の週末、奈緒子は備前に来なかった。

翌月も、来なかった。

俺は連絡をしなかった。

できなかったのか、しなかったのか、今でも判然としない。

ただ、3ヶ月が過ぎた頃、手紙が届いた。

「元気でいてください」と書いてあった。

それが最後だった。

干し花はその頃から、棚の端に置いたままだ。

枯れた花を瓶に入れたのは、誰でもなく俺だ。

ブーケが萎れ始めた時、捨てることができなくて、そのままガラス瓶に押し込んだ。

水も入れなかったから、数週間でそのまま乾いた。

それが今も、工房にある。

秋の初め、工房に女性客が一人で入ってきた。

30代半ばくらいで、落ち着いた雰囲気の人だった。

「見せてもらっていいですか」と言って、棚の器を一つひとつ手に取りながら見ていった。

俺は奥で土を練りながら、そのまま作業を続けた。

どこから来たのかとか、何か探しているのかとか、そういうことを聞くのが俺は昔から苦手だ。

しばらくして、客が言った。

「干し花、まだ置いてあるんですね」

俺は手を止めた。

振り返ると、女性は棚の端の瓶を見ていた。

「え」と声が出た。

「まだあると思わなかった」

声は静かで、笑っているわけでも、泣いているわけでも、なかった。

俺はゆっくり立ち上がって、顔を見た。

髪が短くなっていた。

メガネをかけていた。

でも、確かに奈緒子だった。

「……奈緒子」

「久しぶり」

彼女は少し笑った。

10年分の時間が、その笑顔の隙間に詰まっているような気がした。

俺は土を洗って手を拭いた。

こんな時に何を言えばいいのか、昔から本当にわからない。

ただ「茶でも」と言ったら、奈緒子は「うん」と言った。

その「うん」の声が、10年前と同じだった。

茶を淹れて、工房の隅の古いベンチに二人で並んで座った。

奈緒子は今、横浜に住んでいると言った。

夫がいて、5歳の娘がいると言った。

旅行で岡山に来たついでに、備前に寄ってみたと言った。

「来るつもりなかったんだけど、駅から気がついたらこっちに歩いてた」

俺は「元気そうだ」と言った。

奈緒子は「真壁くんも」と言った。

長い時間が過ぎて、それでもまだ近くにいる気がした。

「ここ、あんまり変わってないね」

「親父が死んで、俺が一人でやるようになった」

「そう……そうか、ごめんね」

「謝ることじゃない」

しばらく、二人とも黙っていた。

窯の外で、風が木の葉を揺らす音がした。

「あの干し花」と奈緒子が言った。

「あれ、私が持ってきたやつでしょ」

「そう」

「捨てなかったんだ」

「捨てられなかった」

言ってから、言いすぎたかと思った。

でも奈緒子は、黙ってもう一口、お茶を飲んだ。

「あの頃、声かけてくれるの、ずっと待ってたよ」

静かな声だった。

「来ない?って。会いに来てくれないの?って」

「言わなかっただろ」

「言えなかった」

奈緒子は笑った。

泣いているような笑い方だった。

「真壁くんも不器用だったけど、私もそうだったんだよね」

奈緒子は手の中の湯呑みをしばらく眺めていた。

「娘の名前、花って書いて『はな』にしたんだ」

「そうか」

「花が好きだから」

俺は何も言わなかった。

でも頭の中で、棚の干し花と、奈緒子の娘の名前が、静かに重なった。

俺は返す言葉が見つからなかった。

ただ、10年前の電話の声を思い出した。

「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」

あの言葉の本当の意味を、今、やっとわかった気がした。

疲れたのは、待つことに疲れたのだ。

俺を待つことに。

奈緒子が立ち上がる時、「いくら?」と聞いた。

湯呑みの値段を伝えると、財布を出しながら言った。

「ここに来てよかった」

俺は受け取ったお金を握ったまま、少し黙った。

「俺も」

短くそれだけ言った。

奈緒子はちょっと驚いたような顔をしてから、また笑った。

「真壁くん、ちょっと喋れるようになったじゃん」

「10年も経てば」

二人で小さく笑った。

その笑い声が、工房の中にしばらく残った。

奈緒子は1時間ほどいて、帰っていった。

器を選ぶのに時間がかかって、結局、小ぶりな湯呑みを二つ買っていった。

「娘に見せたくて」と言った。

「こういうの好きになってくれたら嬉しいな、って」

工房の外まで見送った。

奈緒子は振り向いて、軽く手を振った。

「また来るね」

「ああ」

また来るという言葉が、社交辞令なのかどうか、俺にはわからなかった。

でも、それでよかった。

また来たら、また茶を出すだけだ。

工房に戻ると、棚の端の瓶が目に入った。

干し花はまだそこにある。

奈緒子がそれを見て、「まだあるんですね」と言った顔を思い出した。

怒った顔でも、悲しい顔でも、なかった。

ただ、静かに驚いていた。

そしてどこか、安心したようにも見えた。

瓶を棚から下ろして、少し眺めてから、また同じ場所に置いた。

次に捨てる気がしたら、その時に捨てればいい。

今日じゃなくてもいい。

夕暮れの光が工房の中に差し込んで、干し花の影が壁に伸びた。

俺はまた土を練り始めた。

手の中で、ひんやりとした土が形を変えていく。

今日も、窯の匂いがする。

何も変わらない。

でも、何かが少しだけ、軽くなった気がした。

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