
工房の棚の端に、干し花がある。
10年前から、ずっとそこにある。
誰かに「捨てろ」と言われたこともないし、自分で捨てようと思ったことも、一度もなかった。
小さな空き瓶の中に、乾いてくすんだ白い小花が静かに詰まっている。
窯の灰の匂いに混じって、もう香りはしない。
それでも俺は、そこに置き続けている。
※
俺の名前は真壁浩二。
38歳、独身、岡山・備前の小さな窯元で陶器を作りながら生きている。
父が備前焼の職人で、俺は高校を卒業すると同時に弟子に入り、ずっと土を触ってきた。
観光客が来ることもある。
若い女の子たちが写真を撮りながら「可愛い」と言って帰っていく。
でも俺は不愛想で、声をかけるのが昔から苦手だ。
気がついたら一人になっていた。
仕事だけが続いている。
※
干し花は、10年前にもらったものだ。
奈緒子が誕生日に持ってきてくれた。
「陶芸の工房って、花がないと殺風景でしょ」
そう言いながら、白い小花のブーケを差し出した。
俺はその時、何と言ったんだろう。
「ありがとう」くらいは言ったと思う。
でも喜び方が足りなかったはずだ。
きっと、そうだったと思う。
奈緒子とは、彼女が観光で備前を訪れた時に出会った。
陶芸体験の教室で、隣に座ったのが始まりだった。
器を作るのが好きで、岡山まで来たと言った。
東京から新幹線で一人旅だと聞いて、俺は驚いた。
その日の夜、駅まで送った。
それがきっかけで、月に一度か二度、彼女は備前に来るようになった。
半年後、付き合い始めた。
遠距離だったけれど、当時の俺には「何とかなる」という根拠のない確信があった。
奈緒子も「月に一度は会いに来るから」と言った。
でも、俺は会いに行くことができなかった。
窯を離れることが難しかった。
薪割りの時期、乾燥の管理、父の体が弱ってきた頃。
言い訳はいくらでもあった。
いや、言い訳じゃなく、本当にそういう時期だったのだと今でも思う。
でも、奈緒子には伝わっていなかった。
付き合って2年が経つ頃、彼女から電話がかかってきた。
「会って話したい」
俺は「ちょっと今、忙しい時期で」と言いかけて、黙った。
電話の向こうで、奈緒子が静かに息を吸う音がした。
「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」
それだけ言って、電話は切れた。
俺はしばらく、受話器を握ったまま窯の炎を見ていた。
その次の週末、奈緒子は備前に来なかった。
翌月も、来なかった。
俺は連絡をしなかった。
できなかったのか、しなかったのか、今でも判然としない。
ただ、3ヶ月が過ぎた頃、手紙が届いた。
「元気でいてください」と書いてあった。
それが最後だった。
干し花はその頃から、棚の端に置いたままだ。
枯れた花を瓶に入れたのは、誰でもなく俺だ。
ブーケが萎れ始めた時、捨てることができなくて、そのままガラス瓶に押し込んだ。
水も入れなかったから、数週間でそのまま乾いた。
それが今も、工房にある。
※
秋の初め、工房に女性客が一人で入ってきた。
30代半ばくらいで、落ち着いた雰囲気の人だった。
「見せてもらっていいですか」と言って、棚の器を一つひとつ手に取りながら見ていった。
俺は奥で土を練りながら、そのまま作業を続けた。
どこから来たのかとか、何か探しているのかとか、そういうことを聞くのが俺は昔から苦手だ。
しばらくして、客が言った。
「干し花、まだ置いてあるんですね」
俺は手を止めた。
振り返ると、女性は棚の端の瓶を見ていた。
「え」と声が出た。
「まだあると思わなかった」
声は静かで、笑っているわけでも、泣いているわけでも、なかった。
俺はゆっくり立ち上がって、顔を見た。
髪が短くなっていた。
メガネをかけていた。
でも、確かに奈緒子だった。
「……奈緒子」
「久しぶり」
彼女は少し笑った。
10年分の時間が、その笑顔の隙間に詰まっているような気がした。
※
俺は土を洗って手を拭いた。
こんな時に何を言えばいいのか、昔から本当にわからない。
ただ「茶でも」と言ったら、奈緒子は「うん」と言った。
その「うん」の声が、10年前と同じだった。
茶を淹れて、工房の隅の古いベンチに二人で並んで座った。
奈緒子は今、横浜に住んでいると言った。
夫がいて、5歳の娘がいると言った。
旅行で岡山に来たついでに、備前に寄ってみたと言った。
「来るつもりなかったんだけど、駅から気がついたらこっちに歩いてた」
俺は「元気そうだ」と言った。
奈緒子は「真壁くんも」と言った。
長い時間が過ぎて、それでもまだ近くにいる気がした。
「ここ、あんまり変わってないね」
「親父が死んで、俺が一人でやるようになった」
「そう……そうか、ごめんね」
「謝ることじゃない」
しばらく、二人とも黙っていた。
窯の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
「あの干し花」と奈緒子が言った。
「あれ、私が持ってきたやつでしょ」
「そう」
「捨てなかったんだ」
「捨てられなかった」
言ってから、言いすぎたかと思った。
でも奈緒子は、黙ってもう一口、お茶を飲んだ。
「あの頃、声かけてくれるの、ずっと待ってたよ」
静かな声だった。
「来ない?って。会いに来てくれないの?って」
「言わなかっただろ」
「言えなかった」
奈緒子は笑った。
泣いているような笑い方だった。
「真壁くんも不器用だったけど、私もそうだったんだよね」
奈緒子は手の中の湯呑みをしばらく眺めていた。
「娘の名前、花って書いて『はな』にしたんだ」
「そうか」
「花が好きだから」
俺は何も言わなかった。
でも頭の中で、棚の干し花と、奈緒子の娘の名前が、静かに重なった。
俺は返す言葉が見つからなかった。
ただ、10年前の電話の声を思い出した。
「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」
あの言葉の本当の意味を、今、やっとわかった気がした。
疲れたのは、待つことに疲れたのだ。
俺を待つことに。
※
奈緒子が立ち上がる時、「いくら?」と聞いた。
湯呑みの値段を伝えると、財布を出しながら言った。
「ここに来てよかった」
俺は受け取ったお金を握ったまま、少し黙った。
「俺も」
短くそれだけ言った。
奈緒子はちょっと驚いたような顔をしてから、また笑った。
「真壁くん、ちょっと喋れるようになったじゃん」
「10年も経てば」
二人で小さく笑った。
その笑い声が、工房の中にしばらく残った。
奈緒子は1時間ほどいて、帰っていった。
器を選ぶのに時間がかかって、結局、小ぶりな湯呑みを二つ買っていった。
「娘に見せたくて」と言った。
「こういうの好きになってくれたら嬉しいな、って」
工房の外まで見送った。
奈緒子は振り向いて、軽く手を振った。
「また来るね」
「ああ」
また来るという言葉が、社交辞令なのかどうか、俺にはわからなかった。
でも、それでよかった。
また来たら、また茶を出すだけだ。
工房に戻ると、棚の端の瓶が目に入った。
干し花はまだそこにある。
奈緒子がそれを見て、「まだあるんですね」と言った顔を思い出した。
怒った顔でも、悲しい顔でも、なかった。
ただ、静かに驚いていた。
そしてどこか、安心したようにも見えた。
瓶を棚から下ろして、少し眺めてから、また同じ場所に置いた。
次に捨てる気がしたら、その時に捨てればいい。
今日じゃなくてもいい。
夕暮れの光が工房の中に差し込んで、干し花の影が壁に伸びた。
俺はまた土を練り始めた。
手の中で、ひんやりとした土が形を変えていく。
今日も、窯の匂いがする。
何も変わらない。
でも、何かが少しだけ、軽くなった気がした。