親方の革砥を継いだ夏

夕暮れのバーバーショップの風景

俺は、続かない男だった。

二十五になるまで、一年以上続いた仕事が一つもなかった。

電子工学の専門学校は二年で投げ出した。最初に勤めた運送会社は四ヶ月、建設現場の手伝いは半月、駅前のパチンコ屋のホールは三週間で逃げ出した。

履歴書の職歴欄は、書き直すたびに短い区切りでびっしりと埋まっていった。

そのころの俺の口癖は、決まっていた。

──ここじゃない。

どこに居ても、何をしていても、心の奥でその一言が鳴っていた。鳴っているうちは何も信じられなくて、信じられないものに身を委ねる気持ちが、どうしても起きなかった。

北関東に、お堀の名残が残る古い城下町がある。

俺の祖父はその町で生まれ育って、戦後に上京して、結局そこには戻らなかった。

祖父には弟が一人いた。それが、田辺源吉という人だった。

俺の大叔父にあたる人で、城下町の商店街で、三代続いた小さな床屋をやっていた。

俺は子どものころに二度だけ、夏休みにその店を訪ねたことがある。

サインポールがカチカチと回り、店の中はシャボンの匂いと、研いだ刃物の冷たい銀色の匂いがして、革張りの椅子が三台、低い天井の下で行儀よく並んでいた。

親方は、何も喋らない人だった。

ただ、俺の顔を覗き込んで、まっすぐな指で頭をくしゃくしゃと撫でた。

その指先が、不思議なくらい冷たくて、それでいて優しかったことだけを、俺はずっと覚えていた。

俺がパチンコ屋を辞めて、また職を探しているころ、母から電話があった。

「源おじさんがね、お前さんに会いたいって言ってるんだよ」

母の声は、いつもより少しだけ慎重だった。

親方が体を壊して、店を畳むことになった、と母は言った。

三代続いた床屋を、自分の代で終わらせるのは寂しいけれど、子どもがいないから仕方がない、と。

「でもね、源おじさんが、お前さんにやって欲しいって、ぽつりと言ったらしいの」

俺は受話器を握ったまま、しばらく何も言えなかった。

床屋など、やったこともない。資格もない。客の頭に刃物を当てるなど、考えただけで指先が震えた。

けれど断る言葉も、なぜか出てこなかった。

続かない男に、これ以上断る権利など残されていない気がした。

「行くよ」と、俺は短く答えた。

受話器の向こうで、母が小さく息を吐いた。

昭和六十三年の春、俺は鞄一つを下げて、城下町に降り立った。

商店街は、思っていた以上に静かだった。

かつて賑わったらしい大通りには、シャッターを下ろしたままの店がぽつぽつと並び、空はやけに高く、風だけがゆるく通り抜けていた。

その並びの真ん中あたりに、「タナベ理髪店」と書かれた古びた看板が見えた。

店の前で、サインポールがいつものリズムで回っていた。子どものころに見たままの、白と青と赤が、なめらかに、ゆっくりと。

俺は、その下でしばらく動けなかった。

戸を引くと、シャボンと刃物の匂いがした。

奥から、親方の妻の八重さんが、前掛けで手を拭きながら出てきた。

髪は真っ白で、背中はもう少し丸まっていたけれど、目だけは驚くほどまっすぐだった。

「来てくれたんだね」

八重さんはそれだけ言って、店の奥の畳の間へ俺を通した。

布団の上で、親方は仰向けになっていた。手は布団の縁を握り、まっすぐに天井を見ていた。

俺が枕元に座ると、親方はゆっくり首を傾けて、俺の顔を見つめた。

そして、しわがれた声で、ひとことだけ言った。

「お前さんなら、できる」

根拠など、どこにもないはずだった。

俺はうつむいて、膝の上で握った両手を、ただ見つめていた。

翌日から、俺の修行が始まった。

親方はもう剃刀を持てる体ではなかった。けれど、頭の中の手順だけは少しも崩れていなかった。

布団に半身を起こした親方が、俺を呼ぶ。

「革砥(かわと)を持ってこい」

言われるまま、店の隅に掛けてあった革砥を外して、両手で運んだ。

長さ五十センチほどの黒い革が、木の握りに張られている。長年使い込まれて、握りの部分は艶光りし、表の革には、わずかに油の匂いが残っていた。

これが、親方の革砥だった。

「いいか」

親方は、震える指で革砥を撫でた。

「革砥は、刃を研ぐもんじゃない。整えるもんだ」

刃をシュッ、シュッと、決まったリズムで滑らせる手の動きを、親方は何度も見せてくれた。震えながら、それでも一定のテンポを崩さずに。

俺はその横で、見様見真似でやってみた。何度やっても、リズムが乱れた。

「焦るな」と親方は言った。「お前さんの心が乱れている音だ」

俺は、自分の心臓の音まで革砥に映っている気がして、思わず手を止めた。

もう一つ、親方は俺に大事なものを預けてくれた。

革表紙の、分厚い帳面だった。

表紙は手垢で黒く光り、角は丸まり、背の糸は何度も結び直されていた。

「これを読め」

親方はそれだけ言って、俺の膝の上にそっと置いた。

帳面の中には、何十人もの常連客の名前と、髪質、好み、家族の話題、来店の周期までが、几帳面な字でびっしりと書かれていた。

「山田勘太郎さん。もみあげは長め。襟足はやや浅めに。耳の上を強く刈ると怒る」

「大山ふじ江さん。首筋の剃り、特に丁寧に。長男の自慢話を必ず聞くこと」

「久保田さん。酒屋の主人。指は強めに揉む。先代の話は嫌がるので避けよ」

俺は、帳面のページを一枚一枚めくりながら、まだ会ったこともない常連客の暮らしぶりが、頭の中で立ち上がっていくのを感じた。

これが、親方が三十年かけて作り上げた、町の家族の記録だった。

夏の終わり、親方は静かに眠るように、向こうへ旅立った。

朝、八重さんが起こしに行ったら、布団の中で、ただ穏やかな顔をしていたのだという。

泣き声は、家のどこにもなかった。

八重さんは涙を見せず、ただ親方の枕元に座り、その白い手をそっと包んで、

「お疲れさま、あんた」

と、一言だけ言った。

俺は、後ろの障子の影で、こらえきれずに膝をついた。

通夜の夜、線香の煙が細く立ちのぼる中、八重さんは俺の隣に座り、低い声で言った。

「あの人がね、お前さんにやって欲しいって言った理由を、教えてあげる」

俺は、目だけを動かして八重さんを見た。

「うちの人もね、若いころは続かない人だったんだよ」

八重さんの目元には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

「東京の床屋を半年で逃げ出して、その次は工場、その次は港の荷役。何をやっても、続かなかったのよ」

「うちの人の親父さんが、ある日、この革砥を黙って渡してね、『これだけは、お前のもんだ』って言ったの。──それから、ぴたりと止まったの。逃げるのが」

俺は、自分の膝の上に置いた手を、じっと見ていた。

親方の革砥は、その夜、店の壁にひっそりと掛かったままだった。木の握りの艶は、薄暗い線香の灯りを受けて、ぼんやりと光っていた。

「もう、これはあんたのもんだよ」

八重さんは、革砥のほうに目を向けて、ぽつりと言った。

「うちの人の手のかたちも、もう、革のどこかに馴染んでいる。あんたが握れば、あんたの手のかたちが、これからゆっくり、上乗せされていく」

親方の指先の冷たさが、四十年越しに、もう一度俺の頭を撫でていく気がした。

「やってみる」と、俺は呟いた。誰に言ったのでもなかった。

翌週から、俺は一人で、店の戸を開けた。

最初の一ヶ月、客はほとんど来なかった。

常連の人たちは、店の前を一度通って、サインポールを横目で見て、それでも入ってこなかった。

俺はそのたびに、後ろめたさで床のタイルを見つめた。

朝、店を開ける前に、必ず革砥を磨いた。

親方が教えてくれた通りに、シュッ、シュッ、と決まったリズムで。

手のひらの汗が革に染みると、革は黒く深まり、握りの艶はさらに増した。

その音だけが、俺の一日の合図だった。

夕方、店を閉めたあと、帳面を開いて、まだ会えていない常連の名前を声に出して読んだ。

山田勘太郎、大山ふじ江、久保田、佐々木、藤巻──。

顔も知らない人たちの暮らしが、夜の静けさの中で、ぼんやりと俺の頭に住み始めた。

ひと月が経ち、最初に戸を引いたのは、痩せた老人だった。

白いシャツに、紺色のステテコ。腰は少し曲がっていた。

「山田だ」

俺は思わず、立ち上がった。帳面の名前と、目の前の人物が、ぴたりと重なった。

「もみあげは、長めに、ですね」

俺の声が震えていたのを、山田さんは気づかないふりをしてくれた。

椅子に腰を下ろした山田さんに、白い布を巻き、ぬるい湯で頭を濡らした。

鏡の中の山田さんは、目を閉じていた。

俺は革砥で剃刀を整え、もみあげの位置に当てた。手が震えそうになるのを、革砥のリズムが押さえてくれた。

シャリ、シャリ、シャリ。

音が、店の中に低く響いた。

俺の頭の中では、親方の声が同じリズムで鳴っていた。

仕上げに椅子を起こしたとき、山田さんは目を開けて、鏡の中の自分をじっと見つめた。

「源さんの音は、まだ忘れてねえ。お前さんの音は、源さんとは違う。──だが、悪くねえ」

俺は、頭を深く下げた。礼の言葉が、喉に詰まって出てこなかった。

そこから少しずつ、人が戻ってきた。

大山ふじ江さんは、首筋を剃るあいだ、長男が東京の銀行で出世した話を、こちらが促す前から滔々と語った。俺は手を止めて、相槌を打った。それだけで、ふじ江さんは涙ぐんだ。

酒屋の久保田さんは、肩を揉むときに低く唸る癖があった。先代の話は避けると、帳面に書いてあった通り、俺は天気と相撲の話だけをした。

畳屋の佐々木さんは、自分で持ち込んだ古いラジオを店の隅で鳴らした。昭和の終わりの歌謡曲が、店の中で柔らかく揺れた。

常連が一人増えるたびに、俺は帳面の隅に新しい行を書き足した。来店日。雑談の話題。新しい好み。家族のこと。

親方の几帳面な字の続きに、俺の不揃いな字が、おそるおそる並んでいった。

帳面は、少しずつ厚くなった。

そして、あの日のことだ。

昭和六十四年が、ほんの数日だけ続いて、平成になった。その春が過ぎ、夏が来た。

八月の終わり、関東に大きな台風が直撃した日のことだった。

朝から、雨は横殴りで降っていた。風で看板が外れた家もあった。商店街のシャッターは、午前のうちにほとんどが下りた。

八重さんは奥の畳の間から顔を出して、

「今日はもう、閉めちまいなよ」

と言った。

俺は迷った。客が来るはずなどない。それでも、戸を閉める前に、いつもの通り、革砥を磨いていた。

シュッ、シュッ。

店の中には、雨と革砥の音だけがあった。

そのとき、午前十一時を過ぎたあたり、外から長靴のはねる音が近づいてきた。

戸が、ゆっくり引かれた。

傘の柄をつかんだまま、ずぶ濡れの山田さんが立っていた。

「やってるかい」

俺は驚いて、立ち上がった。

「山田さん、こんな日に──」

山田さんは、片手で雨を払いながら、低く言った。

「革砥の音が、聞こえた気がしてな」

そんなはずはなかった。雨と風で、店の中の音が外に聞こえるわけがない。

けれど、山田さんはそう言って、革張りの椅子に腰を下ろした。

俺は震える手で、白い布を巻き、ぬるい湯で頭を濡らした。

続いて、戸が引かれた。

畳屋の佐々木さんが、長靴で水を引きずって入ってきた。

「停電したから、髭剃りに来た」

それだけ言って、二台目の椅子に腰を下ろした。

その次は、酒屋の久保田さんだった。

「うちはもう、商売はあがったりだから」

と、まるで言い訳のような顔で笑い、三台目の椅子に座った。

大山ふじ江さんも来た。八十を過ぎた人が、よくこんな日に外に出たものだ。傘の中で、ふじ江さんは肩で息をしていた。

「順番、待たせてもらうわよ」

近所の床屋仲間の藤巻さんまで来た。同業の店を、こんな日に訪ねるなど、普段ならありえない話だ。

シャッターを下ろしたままの商店街の、ただ一軒、明かりが灯った床屋の中に、七人の客が、長靴で水を滴らせながら、静かに並んだ。

店の外では、台風が低く唸っていた。

店の中では、ラジオが鳴らない代わりに、革砥の音だけが、シュッ、シュッ、と響いていた。

七人の客の濡れた肩から、湯気のような熱が立ちのぼっていた。

白いシャツが雨で半透明になった山田さんの背中。

長靴の中で水音を鳴らしている佐々木さんの足元。

傘の柄を膝に立てかけ、息を整えているふじ江さんの白い髪。

誰も、なぜここに来たのかを、はっきりとは言わなかった。

ただ、列の中ほどで、藤巻さんがぽつりと言った。

「源さんが、こんな日にこそ店を開けてた、っていう話を、思い出してな」

店の中に、誰かの細い息が漏れた。誰のものか、俺には分からなかった。

俺は、最初に山田さんの椅子に向き直った。

剃刀を革砥で整え、頬に当てる。

指先が、まだわずかに震えていた。

山田さんは目を閉じたまま、低い声で言った。

「お前さん、勘違いするなよ」

俺は、剃刀を止めた。

「俺たちはな、安いから、近いから、ここに来てるんじゃねえ」

店の中の誰もが、その声に黙った。雨の音と、革砥に残る微かな油の匂いだけが、その沈黙を埋めていた。

山田さんは、ゆっくり目を開けて、鏡越しに俺を見た。

「親方の音じゃない。お前の音だ。だから、来た」

そのひとことで、俺の中で、何かが崩れた。

剃刀を握る指が、いつのまにか震えなくなっていた。

頬に当てた刃が、なめらかに走った。シャリ、シャリ、シャリ──。

俺は、手の甲で、頬を一度だけ拭った。

その湿り気が涙だと気づいたのは、二台目の佐々木さんの頭を洗いはじめてからのことだった。

その日、俺は七人の客の頭を、一人ずつ、丁寧に手入れした。

誰も、急かさなかった。

誰も、値段の話をしなかった。

順番を待つ間、客同士で、平成という新しい年号の話をしたり、孫の話をしたり、台風で飛んでいったブリキの看板の話をしたりしていた。

奥の畳の間からは、八重さんがそっと顔を出して、客の一人ひとりに、湯のみで熱いほうじ茶を運んだ。

八重さんは、決して泣かなかった。けれど、湯のみを運ぶ手は、いつもより少しだけ、震えていた。

俺が最後の客、藤巻さんの剃り跡にタオルを当てたとき、外の風は、ふと弱まった。

窓の外を見ると、空のどこか高いところで、雲の隙間から薄い光が差し込んでいた。

商店街には、まだ誰も歩いていなかった。

けれど、その光は、間違いなく、夕方の光だった。

客たちを送り出したあと、俺は店の中を一人で片付けた。

椅子の埃を払い、鏡を磨き、床のタイルに落ちた髪を箒で集めた。

最後に、革砥を壁の釘から外して、両手で持った。

三十年の油と、新しい指の脂とが、革の上で混じっていた。

俺は、もう一度、親方の革砥を磨いた。

シュッ、シュッ。

音が、静まりつつある町の空気に、低くしみ込んでいった。

窓の外で、サインポールが、いつものリズムで回っていた。白と青と赤が、ゆっくりと、ゆっくりと。

奥の畳の間で、八重さんが、棚の上の遺影に向かって、小さく頭を下げているのが見えた。

俺は声をかけずに、ただ、革砥を磨き続けた。

俺は、続かない男だった。

けれど、その夕方、店の隅で革砥を握っていた俺の指は、もう、どこにも行こうとしていなかった。

親方の革砥は、俺の手の中で、これまでよりも少しだけ、深い艶を放っていた。

俺は、まだ、ここに居る。

続かない男のまま、それでも、ここに居る。

そう思ったとき、商店街の遠くで、誰かが小さく、子どもの名前を呼んでいる声が聞こえた。

嵐の去ったあとの、静かな夕方の、いつもの声だった。

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