祖父が染めてくれた名前

おじいさん

祖父のことが怖かった、という記憶は、今でもはっきりと残っている。

下町の商店街で染物の仕事をしていた祖父は、言葉が少なく、笑うことがほとんどなかった。

私が幼い頃、商店街の奥にあった祖父の店に連れて行かれると、いつも緊張した。

薄暗い作業場に、藍の匂いが沁み込んでいた。

祖父は仕事をしながら、一度も振り返らなかった。

「うろちょろするな」

それだけ言って、また仕事に戻る。

私は祖父の背中を見つめながら、早くここから出たいとばかり思っていた。

祖父の作業台には、いつも複数の型紙が並んでいた。

草花、波、松の葉。細かい模様が彫り抜かれた和紙の型が、重なり合って積まれていた。

その模様を布に染め付けていく作業が、祖父の仕事だった。

型紙を布の上に置き、刷毛で丁寧に色を押し込んでいく。

一色乾かしてから次の色を重ねる。

時間のかかる、静かな仕事だった。

刷毛で丁寧に色を入れていく時、祖父の手つきは別人のように柔らかくなった。

でも私は、仕事をしている祖父の背中にしか声をかけられなかった。

祖母が早くに亡くなって以来、祖父は一人で店を守っていた。

父は別の仕事をしていたから、祖父の仕事を継ぐ人間はいなかった。

「職人の仕事は、継ぐ者がいなければ消えていく」

それが祖父の口癖だったと、母から聞いたのは、大人になってからだった。

中学、高校と進むにつれて、私が祖父の店に行く機会は減った。

年に二度、お盆と正月に顔を出す程度になった。

保育士の資格を取って、仕事を始めてからは、さらに会わなくなった。

年に一度、会えればいい方だった。

電話も、私からはほとんどかけなかった。

祖父はそもそも電話が苦手で、受話器を持ったまま「うん」「そうか」を繰り返すだけだった。

それが嫌だったわけではない。

ただ、何を話せばいいかわからなかった。

子供の頃から、そうだった。

祖父の膝が悪くなったのは、私が二十四歳の夏だった。

「お爺ちゃん、もう仕事を辞めたって」

母からそう聞いた夜、私はなぜか胸のあたりがざわついた。

でも正直に言うと、すぐにお見舞いに行こうとは思わなかった。

仕事が忙しかった。

担任を持っているクラスの子が、この頃ちょうど難しい時期を迎えていた。

毎日園に来るたびに泣き続けていた三歳の男の子が、ようやく笑えるようになってきたところだった。

その子のそばにいてやりたかった。

それに、という気持ちもあった。

祖父と二人きりで何か話した記憶が、私にはほとんどなかった。

行っても、困るだけだと思っていた。

そうやって一年が過ぎた。

お盆の前、私は一人で祖父を訪ねた。

商店街に着いて、まず気づいたのは、祖父の店のシャッターが下りていたことだった。

この時間ならいつも開いているはずだった。

大きな引き戸を開けて入る、藍の匂い。

作業台に並んだ型紙の数々。

それが当たり前の景色だと思っていた。

シャッターには、小さく「都合により休業」と貼り紙がしてあった。

「都合により」という言葉の重さを、私はその時になってようやく受け取った気がした。

自宅のインターホンを押すと、しばらくして祖父が玄関を開けた。

以前より痩せていた。

頬のあたりがこけていて、立つ姿勢が少し前かがみになっていた。

「お盆より早いな」と祖父は言った。

それだけだった。

「少し早く来られたから」と私は言った。

「そうか」と祖父は言って、家の中に入った。

私も後についていった。

縁側のある座敷に通された。

麦茶を出してもらって、二人で向かい合って座った。

庭の蝉の声が、途切れもせず聞こえていた。

私は「膝の具合はどうですか」と聞いた。

「まあまあだ」と祖父は言った。

それきりまた黙った。

私は麦茶を一口飲んだ。

祖父も麦茶を一口飲んだ。

縁側の向こう、庭の隅に植えた百日紅が、赤い花をつけていた。

祖母が生きていた頃に植えた木だと、母から聞いたことがある。

「仕事は、楽しいか」と祖父が急に言った。

「楽しいですよ」と私は答えた。

「そうか」と祖父はまた言った。

そして、また黙った。

でもその沈黙は、子供の頃に感じていたものと、少し違う気がした。

重くはなかった。

蝉の声が、二人の間を満たしていた。

帰ろうとした時、祖父が「待っとれ」と言って立ち上がった。

膝が痛そうだった。

ゆっくりと、一歩一歩、奥の部屋の方へ歩いていった。

私は縁側に座ったまま、しばらく庭を見ていた。

百日紅が風に揺れた。

しばらくして、祖父が戻ってきた。

手に、一枚の手ぬぐいを持っていた。

古びた、藍染めの手ぬぐいだった。

「これ、お前にやろうと思っとった」

祖父はそれだけ言って、私に差し出した。

私は受け取った。

広げてみると、細かい草花の模様が染め抜かれていた。

菊の花と、細い茎が絡み合うように続いている。

型の細かさ、藍の深さ、布の柔らかな質感。

長い時間をかけて作られたものだということは、染物の素人の私にも伝わった。

「いつ、これを作ったんですか」と聞くと、祖父は少し考えるように黙ってから、「忘れた」と言った。

「忘れた」という言葉が、祖父にしてはやわらかく聞こえた気がして、私は少し戸惑った。

「大切に使います」と言うと、「そうしろ」と祖父は言った。

玄関を出る時、祖父は「また来い」と言った。

それも、初めて言われた言葉だった。

帰りのバスの中で、私はもう一度その手ぬぐいを広げた。

窓から差し込む夕方の光が、藍の色を深く見せた。

草花の模様を指でなぞっていると、端の方に、何かが染め抜かれているのに気がついた。

角の、本当に隅の方。

小さく、ほとんど模様の一部のように見えた。

でも、それは文字だった。

私の名前だった。

漢字ではなく、平仮名で。

「ことみ」と。

私はしばらく、その文字から目が離せなかった。

バスが揺れ、窓の外に見慣れた景色が流れていった。

夕日が、商店街の屋根の向こうに沈みかけていた。

その夜、母に電話した。

「お爺ちゃんに手ぬぐいをもらった。私の名前が入っていた」と言うと、母はしばらく黙ってから言った。

「あの手ぬぐい、あなたが保育士の試験に合格した時に作ったって言ってたよ」

私は言葉が出なかった。

「渡そう渡そうと思って、なんかタイミングを逃してたみたいでね」と母は続けた。

「お爺ちゃん、あなたのこと、よく私に聞くのよ。何してるとか、元気かとか。直接連絡できないから、私に聞くしかないんでしょうね」

電話を切った後、私はしばらく部屋の明かりもつけずに座っていた。

保育士の試験に受かった時のことを、思い出した。

あの頃、私はとにかく必死だった。

実技の練習を何度繰り返しても、なかなかうまくいかなかった。

受験前の一週間、私は休日も返上して練習した。

眠れない夜が続いた。

合格の通知が届いた日、私はまず母に電話して、次に友達に連絡した。

祖父には、連絡しなかった。

思い浮かばなかったのではない。

何を言えばいいかわからなかった。

そう思って、電話しなかった。

そのことが、胸に刺さった。

祖父は何も言わなかった。私も何も言わなかった。それだけのことが、何年も経ってから、こんなにも重くなるとは思っていなかった。

翌年の春、祖父が店を完全に閉めることになった。

看板を外し、作業場の道具を一つひとつ片付けるという。

私はその日、仕事が終わってから商店街に向かった。

祖父が最後の荷物を段ボールに詰めているところだった。

「手伝います」と言うと、祖父は少し驚いた顔をしてから、「頼む」と言った。

二人で、夕方から夜まで荷物を片付けた。

作業場の隅に、古い型紙が積んであった。

草花の、細かい模様のものが多かった。

私はその中の一枚を持ち上げた。

菊の花と細い茎が絡み合う、あの模様だった。

私の手ぬぐいに染め抜かれていた、あの模様と同じ型紙。

祖父を見ると、祖父も同じ型紙の方を見ていた。

何も言わなかった。

でも何も言わなくて、よかった気がした。

片付けが終わった頃、外はすっかり暗くなっていた。

最後に作業場の電気を消す時、祖父は少しの間そのスイッチに手を当てたまま、動かなかった。

私はそれを見ていたけれど、声をかけなかった。

やがて祖父はスイッチを押して、電気を消した。

暗くなった作業場に、藍の匂いだけが残っていた。

今でも、私はあの手ぬぐいを大切に使っている。

洗うたびに藍の色が少しずつ薄くなっていくけれど、それでも使い続けている。

去年の秋、勤めている保育園の運動会で、私はその手ぬぐいを頭に巻いた。

子供たちが走り回る中、汗を拭きながら、角の隅の小さな文字を何度も指でなぞった。

祖父は今、施設に入って元気にしている。

先月、久しぶりに会いに行ったら、「なんか太ったな」と言われた。

相変わらずの祖父だと思って、私は笑った。

祖父も、少し笑った。

本当に少しだったけれど、それで十分だった。

藍染めの手ぬぐいに染め抜かれた、小さな平仮名のことを、私はきっとずっと忘れない。

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