
指輪の内側には、サイズの数字のほかに、細かい傷が一列だけついていました。
買ったばかりのものに、傷。
そのときの私は、まさか彼が中古を買ったのかと思って、少し笑ってしまいました。
本当のことを知ったのは、それから一年も経ってからです。
その一列の傷のことを、私はしばらく忘れていました。
思い出したのは、片づけをしていて、見てはいけないものを見てしまった日です。
順を追って書きます。
ナンパで出会った人
私は久留米に住んでいます。
いまは二十一になりましたが、この話は二十歳の年のことです。
彼と出会ったのは、去年の夏でした。
友達と二人で歩いていたら、後ろから声をかけられたのです。
日に焼けていて、髪が明るくて、いわゆるチャラい見た目でした。
正直に言えば、絶対に好きにならんタイプやと思いました。
連絡先を交換したのも、断るのが面倒だったからです。
それなのに、次の日にはもうご飯に行っていました。
彼はよく笑う人でした。
大きな声で笑って、店員さんにも普通に話しかける。
私はそういう人が苦手なはずでした。
ただ、店を出るとき、彼は必ず私を歩道の内側に入れました。
何も言わずに、位置だけ変えるのです。
そういうことが、少しずつ積み重なりました。
三回目に会った日に、彼が仕事の話をしました。
壁を塗る仕事は、下地を作るところが八割なのだそうです。
「表に見えるとこは、最後にちょっと撫でるだけたい」
「じゃあ、なんで下地に時間かけると」
「そこが悪かと、一年で割れるけん」
私は、そのときは何とも思いませんでした。
いま思うと、あの人はずっと、そういうやり方で生きていました。
※
曖昧なまま過ぎた三か月
関係に名前がつかないまま、季節が変わりました。
夏に会って、気づいたら風が涼しくなっていました。
彼は左官の見習いをしていました。
朝が早くて、指がいつも荒れていました。
石灰と、砂と、乾いたモルタルの匂いが、迎えに来る車の中に染みついていました。
私はその匂いを、途中から嫌いではなくなりました。
彼は「好き」と言ってくれました。
それなのに、付き合おうとは言いませんでした。
会えば普通に手をつなぐし、家にも来る。
でも、名前のつかない関係のままでした。
私はそのことを、自分に魅力がないからだと思っていました。
それが三か月続きました。
その頃、私は毎晩、スマートフォンを枕の横に置いて寝ていました。
通知が来るたびに、心臓が跳ねる。
来なければ、来ないで、何度も画面を確かめる。
友達に相談したら、「それ、都合よくされとるだけよ」と言われました。
返す言葉がありませんでした。
実際、そう見えるだけのことしか、私は知らなかったのです。
このままなら、もう会えない
ある日、私は勇気を出して言いました。
「このままの関係なら、もう会えん」
言ったあとで、手が震えました。
彼は黙って聞いていました。
怒るでもなく、笑うでもなく、ただ、私の目をずっと見ていました。
それから、こう言いました。
「ごめん。俺、いま返さないかんお金があると」
前の職場を辞めるときに、いろいろあったのだそうです。
その分を、月々返している最中でした。
「全部返し終わるまでは、付き合おうって言わんつもりやった」
「母ちゃんと、そういう約束しとるけん」
私は、なんでそんな大事なことを黙っとったと、と怒りました。
彼は「かっこ悪いけん」と言って、頭をかきました。
「じゃあ、返し終わるまで待つ」
私がそう言うと、彼は首を振りました。
「待たせるとが、いちばんいかんかった」
その日から、私たちはやっと恋人になりました。
付き合って一か月目に、私は彼のお母さんに会いました。
アパートの一階の、狭い台所でした。
お母さんは、いきなり私に頭を下げました。
「うちの子が、迷惑かけとらんですか」
「かけとらんです」
「そうね。よかった」
それから、麦茶を出してくれました。
彼は横で、ずっと落ち着かない顔をしていました。
帰り道、彼は言いました。
「母ちゃん、俺が高校んとき、朝と夜と働いとったと」
「だけん、もう二度と、人に頭下げさせたくなか」
その言い方に、私は少し驚きました。
チャラい見た目の人が、いちばん先に考えていたのが、そこだったからです。
※
未来の話をするのが当たり前になった半年
付き合ってからの半年は、あっという間でした。
私たちは、未来の話ばかりしていました。
「子供は女の子がよかね」
「なんで」
「男は俺で足りとるけん」
そんな話を、車の中でしていました。
彼は運転すると、必ず同じ曲をかけました。
何回も聞いたので、私は歌詞を全部覚えてしまいました。
「結婚して何年経っても、一緒に風呂入ろうね」
「ばあちゃんになってもか」
「ばあちゃんになってもよ」
そういうことが、当たり前に起こると信じていました。
疑ったことすらありませんでした。
いま思い返すと、その半年のあいだに、一つだけ引っかかったことがありました。
彼が一度、日曜の朝に「病院行ってくる」と言ったのです。
私が理由を聞くと、彼は「健康診断のやり直し」と答えました。
作業着ではなく、私服で出て行きました。
そんな日曜にやっている健康診断が、あるのだろうかと思いました。
けれど、そのときは深く考えませんでした。
産婦人科の待合室
おかしいと思い始めたのは、二か月目くらいからです。
生理が来ませんでした。
妊娠を疑って、薬局で検査薬を買いました。
結果は陰性でした。
それでも来ないので、私は一人で産婦人科へ行きました。
平日の午前中の待合室は、静かでした。
お腹の大きな人が三人と、お母さんに付き添われた高校生くらいの子が一人。
私は雑誌を開いて、字を一つも読まないまま、ずっと同じページを見ていました。
付き添われた高校生の子は、ずっとお母さんの袖を握っていました。
お母さんのほうは、片手でスマートフォンを見ながら、もう片方の手を握らせたままにしていました。
その握らせたままの手が、私にはやけに眩しく見えました。
私は誰にも言わずに、一人でここへ来ていたからです。
名前を呼ばれて、診察を受けて、それから説明がありました。
先生は、丁寧な言い方をしてくれました。
それでも、耳に残ったのは一つだけでした。
「不妊症です」
頭が真っ白になりました。
不思議なことに、涙は出ませんでした。
先生が間違っとるとやろう、と腹が立ったくらいです。
会計を済ませて、外に出て、駐車場まで歩きました。
その途中のことは、まったく覚えていません。
※
駐車場に着いて、自分の車が見つけられませんでした。
二列しかない駐車場です。
それでも、二周しました。
キーを握った手が汗で滑って、一度落としました。
アスファルトに当たる音が、やけに大きく聞こえました。
車の中でかけ続けた電話
軽自動車に乗り込んで、エンジンをかけました。
スピーカーから、彼がいつもかけていた曲が流れました。
前の日に、彼が運転したままになっていたのです。
その瞬間に、堰が切れました。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
その三文字しか出てきませんでした。
私は泣きながら、彼に電話をかけました。
昼前です。
現場にいるのだから、出るはずがない。
分かっているのに、切っては、またかけました。
一人でいるのが、あまりに怖かったのです。
十二時を過ぎたころ、着信がありました。
電話の向こうが騒がしくて、誰かの笑い声が聞こえました。
私は、しゃくり上げるだけで、言葉になりませんでした。
彼は、急かしませんでした。
「話せるようになるまで待っとるけん」
私は「ごめんなさい」とだけ、やっと言いました。
それが伝わったのかは分かりません。
あとで、彼の同僚の人から聞きました。
あの日、彼は昼休みが終わってすぐ、班長さんのところへ行ったそうです。
「早退させてください」
理由は言わなかったと聞きました。
左官は、こねた材料をその日のうちに使い切らないといけません。
途中で抜けるのは、いちばんやってはいけないことです。
班長さんは何も聞かずに、「行け」とだけ言ったそうです。
だから彼は、着替える時間もなかったのです。
作業着のまま来た夜
夕方までの時間を、私はどう過ごしたのか覚えていません。
カーテンを閉めて、電気もつけずに、床に座っていました。
途中で一度、母から着信がありました。
出ませんでした。
出たら、全部言ってしまいそうだったからです。
その日の夜、彼は作業着のまま、私の家に来ました。
玄関の外で、靴の底を何度もこすっていました。
「すぐ来てやれんで、ごめんな」
そう言って、私の頭を撫でました。
手が、いつもより冷たかったです。
私は泣きながら言いました。
「あたし、子供産めんて。そういう病気なんだって」
彼は、一瞬、間の抜けた顔をしました。
「まじかよ」
それきり、言葉が出てこないようでした。
その沈黙が、私には答えに聞こえました。
彼は台所の床に座り込んで、しばらく天井を見ていました。
作業着の膝のところに、白い粉がついていました。
その粉が、フローリングに丸く落ちていくのを、私はぼんやり見ていました。
「なあ」
「うん」
「病院の先生は、なんて言いよった」
私は、うまく答えられませんでした。
説明はちゃんと聞いたはずなのに、頭に何も残っていなかったのです。
「じゃあ、こんど一緒に行こう」
その言い方が、あまりに普通でした。
買い物にでも行こうと言うような言い方でした。
※
別れよう、と言った私
私は、別れる覚悟をしていました。
大好きな人だからこそ、私のせいで、この人の当たり前を消したくなかったのです。
「ごめんな」
彼がそう言ったとき、目に涙がありました。
「一人で病院なんか行かせて、ごめんな」
謝る場所が、私の思っていたのと違いました。
彼は、私の手を強く握りました。
私はその手を振りほどいて、言いました。
「別れよう」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、精一杯の強がりでした。
そのとき、彼が初めて大きな声を出しました。
「ふざけんな」
「勝手に決めんなよ」
「ずっと一緒って、言うたやろが」
私は、その勢いに驚いて、泣き止んでしまいました。
「でも」
「あたしと一緒じゃ、人並みの幸せになれんやん」
彼は、しばらく黙りました。
それから、作業着の胸のポケットに手を入れました。
「別れて、俺が誰かと子供つくって、それで幸せになると思っとると」
彼の声は、少し掠れていました。
「俺が欲しかったとは、そっちやなか」
私は、その言葉の意味を、そのときはうまく飲み込めませんでした。
ポケットの底
出てきたのは、小さな箱でした。
角が少しつぶれていました。
中に、指輪が入っていました。
彼は、私の左手の薬指にそれをはめながら、笑って言いました。
「結婚しよう」
私は、その場に座り込みました。
翌日が、ちょうど付き合って半年の記念日でした。
彼は、その日のために用意していたのだと言いました。
一日、早めただけだと。
私はそのとき、それを信じました。
そのあと、彼はいろいろなことを言いました。
「子供がおらんでも、幸せな家庭はつくれるとよ」
「俺も料理は下手やし、お前も下手やろ。二人でやればよか」
「お前が何を考えとるか、俺はちゃんと分かる。強がりも、泣きたいときも」
「もしお前が、忘れてしまう病気になっても大丈夫や」
「忘れたくないことは、俺が全部覚えとくけん」
最後の言葉だけ、その場の思いつきではないと感じました。
その言葉だけ、なぜか声の速さが違ったのです。
あとで聞いたら、彼のおばあちゃんがそうだったそうです。
晩年、家族の名前が出てこなくなった。
彼はその横で、毎日おばあちゃんの好きだった話を繰り返していたのだと言いました。
泣きながら笑う私の顔を、彼は汚れた作業着の袖で拭きました。
指ではなく、袖で。
あとから理由が分かりました。
石灰で手が荒れていて、指で人の顔に触ると、自分のほうが痛いのだそうです。
「やっと笑った」
そう言った彼の顔を、私は一生忘れません。
※
その半年の記念日、私たちは特に何もしませんでした。
前の日に全部渡してしまったからです。
彼はその日、夕方まで連絡がつきませんでした。
あとで知ったのですが、その時間、彼は私の実家に行っていました。
母に会って、玄関先で三十分ほど話して帰ったそうです。
何を話したのかは、母も彼も、いまだに教えてくれません。
母は一度だけ、こう言いました。
「あの人、うちの前で靴の砂を落としてから、インターホン押したとよ」
一年後に見つけた明細
そのつぎの年の春、私は彼の部屋の片づけを手伝っていました。
本棚の裏から、封筒が一つ出てきました。
中に、分割払いの明細が入っていました。
隣の県のショッピングモールにある、宝石店の名前でした。
私は、日付のところを二度見ました。
私は、その日付の数字を、声に出して読みました。
付き合って二か月目です。
まだ、借金を返し終わってもいない時期でした。
封筒は、レシートや保証書と一緒に、輪ゴムでまとめてありました。
几帳面な人ではありません。
それなのに、その封筒だけは角が揃えてありました。
私は明細を持ったまま、彼のところへ行きました。
彼は少しだけ困った顔をして、それから正直に言いました。
「半年の記念日に渡すつもりで、先に買うた」
「毎日持っとった。現場でも」
「盗られたら困るけん、家に置いとくのが怖かったと」
それから、彼はもう一つ白状しました。
あの日曜の「健康診断のやり直し」のことです。
彼のお兄さん夫婦が、長いあいだ子供のことで悩んでいました。
それを見ていたので、彼は先に自分のほうを調べておいたのだそうです。
「俺のほうに何かあったら、先に言わないかんと思うたけん」
結果は問題ありませんでした。
それを私に言わなかったのは、言えば私が気にすると分かっていたからでした。
そこで、私はやっと、あの傷の意味が分かりました。
傷がついていたのは、彼が指輪を、毎日、現場の鍵と一緒にポケットへ入れていたからでした。
四か月ぶんの、鍵とこすれた跡です。
彼が指輪を買ったのは、私が病院へ行くより、四か月も前でした。
あの夜、彼は思いつきで箱を出したのではありませんでした。
四か月、ずっとポケットの底にあったものを、一日だけ早く出しただけでした。
※
いまも、洗濯の前にポケットを見る
私たちは、いま婚約しています。
不安がないと言えば嘘になります。
治療のことも、これから長くかかると聞いています。
それでも、あの人となら、たぶん大丈夫だと思っています。
治療の日は、彼が仕事を半日にして、一緒に来ます。
待合室で、彼はいつも私の手を握ります。
あの日、高校生の子のお母さんがしていたのと、同じ握らせ方です。
私はいま、彼の作業着を洗う前に、必ずポケットの中を見るようになりました。
釘が入っていたり、丸めたメモが入っていたりします。
指輪はもう、私の指にあります。
内側の傷は、あれから一列だけ増えました。
増やしたのは、私です。
二人で歩き出したあとの結婚については、結婚式場の小さな奇跡を読んで、少し先の景色を想像しました。
黙って積み重ねる人のことは、妻がずっと書いていた返事の話とも重なります。
読んでくださって、ありがとうございました。