
出産予定日の十日前、猫のゆめは、玄関で待つのをやめた。
ゆめは、玄関でお座りして待つ猫だった。
夕方になると、三和土の端に前足をそろえて、私が帰ってくる時間をじっと待っていた。
そのゆめが、ある日を境に、座布団の上から動かなくなった。
あれから二年が経つ。
季節は、また、あの十一月に近づいている。
娘は二歳になり、猫を見ると「ねこいる!」と指さす。
その声を聞くたびに、私は台所の隅で、手を止めてしまう。
娘の指先は、まだ丸くて、爪が桜貝のように薄い。
その指が空を差すたびに、私は洗い物の水を止めて、同じ方向を見てしまう。
窓の外には、隣家の塀と、植木鉢と、日だまりがあるだけだ。
けれど、そこに座っている小さな影を、一度だけ見たことがある気がする。
夕方の光のなかで、前足をそろえて、背筋を伸ばして。
それが錯覚だと分かっていても、私はまばたきを我慢して、しばらく見つめてしまう。
猫の話を読むのが、ずっと怖かった。
ゆめは、八年と少しを生きた。
猫としては、まだこれからの年齢だった。
写真を整理していて、ゆめの最後の一枚が、空っぽの玄関の三和土だったことに気づいた。
ゆめのことを思い出そうとすると、決まって最後の鳴き声が、先に耳の奥へ戻ってきたからだ。
あの声のあとに続く時間を、私は誰にも話せないまま、二年間、抱えていた。
それでも最近、こちらに載っている三毛猫がつないでいたものや大切な家族を、少しずつ読めるようになった。
だから、私もようやく、猫のゆめの話を書いてみることにした。
私の実家は、小さな商店街のはずれにある、古い二階建てだった。
一階が両親の営む文房具店で、奥の座敷と二階が住まいになっていた。
夕方になると、店先のシャッターを半分下ろす音が、家じゅうに響いた。
その音を合図に、飼い猫は店の奥から出てきて、決まって帳場の座布団に丸くなった。
猫のゆめは、そんな家で、いちばん最後に産まれた猫だった。
電気毛布の五匹
私が高校生だった冬のことだ。
家で飼っていた猫が、急に落ち着きをなくした。
押し入れに入ったり、洗面所の隅にうずくまったり、何度も私の顔を見上げて鳴いた。
「もしかして、産まれるんじゃない?」
母が言ったのは、その夜のことだった。
私は部屋に戻って、宿題の続きをやっていた。
気がつくと、足もとの布団が、小さく波打っていた。
電気毛布をつけたままの、私の布団だった。
めくると、猫がそこで体を丸めて、荒い息をしていた。
「ちょっと、よりによって、ここで」
そう言いながらも、私はそっと布団を元に戻した。
夜更けから明け方にかけて、毛布のぬくもりに包まれて、五匹の小さな命が産まれた。
濡れた毛並みは、まだ目も開かず、手のひらに乗るほど軽かった。
母猫は、一匹ずつ丁寧に舐めていった。
その音が、ざり、ざり、と静かな部屋に響いていた。
私は、眠れないまま、それを朝まで見ていた。
朝になって、父が起きてきた。
寝ぐせのついた頭のまま、私の布団をのぞき込み、しばらく言葉を失っていた。
「おまえの布団で産むとはなあ。これは、一生、頭が上がらんぞ」
「どういう意味」
「猫に貸しを作ったってことだ」
冗談なのか本気なのか、父は真顔でそう言った。
母は、洗い立てのタオルを何枚も持ってきて、布団の周りに敷いた。
その白いタオルが、朝日を受けて、まぶしかった。
子猫たちは、次々と飼い主が決まっていった。
最後に残ったのは、いちばん小さくて、いちばん甘えん坊の一匹だった。
白い足先の、茶色の縞の子だった。
他の四匹は、近所の人や、店のお客さんが連れていってくれた。
引き取られていく日、私は玄関で一匹ずつ抱き上げて、小さな頭に頬をつけた。
「元気でね」
そう言うたびに、鼻の奥がつんとした。
最後の一匹だけは、誰にも渡したくなかった。
「この子は、うちで飼おう」
父が言い、母がうなずき、私は嬉しくて、すぐに名前を考えた。
「ゆめ」
こんな夢みたいなことがあるのだと、毛布の上で目をこすっていた自分に、そう名付けた。
ゆめは、私の毎日に、そっと寄り添ってくれる存在になった。
私が怖がりなのを知っていたのか、お風呂に入ると、脱衣所のマットの上でじっと待っていた。
湯船の水音がやむまで、一度も動かなかった。
学校から帰ると、玄関でちょこんと座って迎えてくれた。
鍵を回す音が聞こえると、にゃ、と一声だけ鳴いた。
一度だけ、ゆめが家から消えたことがある。
中学の夏休み、網戸の隙間から、いつのまにか外へ出てしまったのだ。
夕方になっても、帰ってこなかった。
私は、懐中電灯を持って、商店街の裏路地を、名前を呼びながら歩いた。
「ゆめ。ゆめ。ゆめ」
声が、シャッターの閉まった通りに吸い込まれていった。
三時間近く探して、半べそで家に戻ると、ゆめは玄関の三和土の端に、すました顔で座っていた。
「どこ行ってたの」
ゆめは、にゃ、と短く鳴いて、私の足にまとわりついた。
私は玄関にしゃがみ込んで、ゆめを抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
それ以来、私は夕方になると、ゆめの姿を探すのが癖になった。
探せば必ず、玄関にいた。
試験の前の晩は、机の端に座って、私のノートの文字を目で追っていた。
受験に落ち込んだ夜は、何も言わずに、膝の上に乗ってきた。
重さと、喉を鳴らす低い震えが、掌に伝わってきた。
その震えを感じているうちに、涙が引いていくのが分かった。
ゆめは、私にとって、何よりの宝物だった。
猫のゆめが待つ玄関
二十歳を過ぎた頃、私に初めて彼氏ができた。
彼もゆめをとても可愛がってくれた。
ゆめは、彼の足音にだけは、少し遅れて玄関に出ていった。
「僕には、まだ、完全には心を許してくれてないな」
彼はそう言って笑い、ゆめの背中を、いつまでも撫でていた。
初めて彼を家に連れてきた日、母は朝から煮物を何種類も作っていた。
父は、いつもより背筋を伸ばして、帳場に座っていた。
その緊張した空気のなかで、いちばん平然としていたのは、ゆめだった。
ゆめは、彼の靴のにおいを念入りに確かめてから、玄関の端に腰を下ろした。
「合格、ってことかな」
彼が小声で聞いた。
「まだ仮合格だと思う」
私が答えると、彼は口を押さえて笑った。
その笑い声に、ゆめが片耳だけを動かした。
付き合って二年が経ち、私たちは同棲を始めた。
ゆめは、実家に残していった。
アパートがペット不可だったからだ。
連れていけなかった後ろめたさが、胸の底に沈んでいた。
荷物を車に積み込んだ朝、ゆめは玄関の三和土に座って、動かなかった。
ダンボールが運び出されるのを、ただ黙って目で追っていた。
最後の箱を持ち上げたとき、私はゆめの前にしゃがんだ。
「ごめんね。また来るからね」
ゆめは、何も言わなかった。
ただ、私の手の甲を、ざらざらした舌で、一度だけ舐めた。
車のミラーのなかで、玄関の小さな影が、いつまでも動かなかった。
休みのたびに電話で、母にゆめの様子を聞いた。
「毎日夕方になると、玄関で待ってるよ」
「帰ってこないよって教えても、ずっと待ってるの」
受話器の向こうで、母が少し笑った。
私は、笑い返せなかった。
次の日曜に実家へ帰ると、ゆめは、いつも通り三和土の端に座っていた。
前足をそろえて、背筋を伸ばして、ドアが開くのをじっと見つめていた。
私が靴を脱ぐ前に、足首に頭をこすりつけてきた。
その頭の温かさに、私は何度、救われただろう。
同棲から一年が経ち、私たちは結婚した。
やがて、子どもを授かった。
出産予定日は、十一月の末だった。
「赤ちゃんが産まれたら、ゆめも一緒に遊んでくれるかな」
私は一人でそんなことを考えては、にやけていた。
ゆめの背中に、赤ん坊の小さな手が触れる光景を、何度も思い描いた。
つわりの重い日は、ベッドの上で、ゆめの写真を眺めていた。
携帯電話の待ち受けは、玄関に座るゆめの後ろ姿だった。
母に頼んで、毎週一枚、新しい写真を送ってもらった。
写真のなかのゆめは、少しずつ毛並みの艶を失っていたのに、私は気づこうとしなかった。
膝の上の赤ん坊と、毛布の上のゆめを、一枚の写真に収めたかった。
その写真は、とうとう一枚も撮れなかった。
出産予定日の十日前
予定日の十日前だった。
母からの電話で、ゆめの元気がないと聞いた。
私は、大きなお腹を抱えて、動物病院へ車を走らせた。
待合室には、ケージを抱えた老夫婦が、静かに順番を待っていた。
どの顔も、同じ種類の不安を、同じ重さで抱えているように見えた。
診察台の上のゆめは、いつもより一回り小さく見えた。
背中を撫でると、背骨の一つひとつが、指に触れた。
「薬を飲めば、大丈夫でしょう」
先生はそう言って、薬を出してくれた。
けれど、数日たっても、よくならなかった。
水を飲まない。
餌も食べない。
座布団の上で、浅い息をくり返すだけだった。
別の病院で撮ったレントゲンには、白く濁った影が写っていた。
「お腹のなかに、膿が大量にたまっています。すぐに入院です」
先生は静かに、けれどはっきりと言った。
「このまま放っておくと、体がもちません。ただ、手術は、体力のあるうちでないと」
「助かりますか」
「全力は尽くします。ただ、体力も落ちていますから、確約はできません」
先生の机の上には、肉球の形のマグカップが置かれていた。
その丸い形が、場違いなほど優しくて、私は目を逸らした。
ケージに入れる前、ゆめは、診察台の上で私を見上げていた。
私が帰ろうと背中を向けると、普段ほとんど鳴かないゆめが、懸命に鳴いた。
「なんで置いていくの?」
「一緒に行きたい」
そんな声が、確かに聞こえた気がした。
私は振り返れなかった。
振り返ったら、お腹の子ごと、立ち尽くしてしまいそうだった。
それが、私の聞いた、ゆめの最後の声になるとは思いもしなかった。
帰り道、胸が押し潰されるように不安で、泣きながら運転した。
ハンドルを握る手に、涙が落ちた。
信号が青に変わっても、後ろの車に追い立てられるまで、私は動けなかった。
短いクラクションが一つ、鳴った。
その音で、ようやく我に返って、アクセルを踏んだ。
その夜、陣痛が来た。
「予定日は、まだ十日も先なのに」
夫は、財布と携帯電話と保険証を、順番に手に取っては、取り落とした。
母は、運転席で何度も深呼吸をしていた。
「大丈夫。落ち着いて。ゆっくり行くからね」
夜の道路は空いていて、街灯の光が、窓ガラスの上を一定の間隔で流れていった。
その明滅を数えながら、私は、置いてきたゆめの顔ばかり思い浮かべていた。
母は自分に言い聞かせるように、そう繰り返した。
夫が慌てて電話をかけ、母が車を出してくれた。
病院の白い廊下を歩きながら、私は何度も、ゆめの鳴き声を思い出した。
消毒液の匂いと、遠くで鳴るナースコールの音。
その二つが、動物病院のそれと、重なって聞こえた。
産まれるまでには、時間がかかった。
陣痛の波が来るたびに、私は天井の蛍光灯の数を数えた。
一つ、二つ、三つ。
数え終わる前に、波が押し寄せて、また最初から数え直した。
助産師さんが、手を握って「大丈夫よ」と言ってくれた。
その手の甲が、ゆめの肉球と同じくらい温かいと、そんなことを考えていた。
夜が明けて、昼が過ぎ、夕方になって、ようやく女の子が誕生した。
小さな産声が、分娩室に響いた。
その声を聞いた瞬間、私は一瞬だけ、ゆめのことを忘れた。
忘れてしまった自分を、あとで、何度も責めた。
二十六日の朝の夢
入院中も、ゆめのことが気がかりだった。
母に電話をかけるたびに、様子を聞いた。
「まだ、どうなるか分からないけど、ゆめも頑張ってるよ」
母の声は、いつもより少しだけ高かった。
その高さに、私は気づかないふりをした。
二十六日の朝、私は夢を見た。
元気なゆめが、廊下を走っていた。
私が名前を呼ぶと、振り返って、いつものように、にゃ、と一声だけ鳴いた。
目が覚めたとき、私は「ああ、大丈夫なんだ」と胸を撫で下ろした。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
隣のベッドの赤ちゃんが、小さく泣き出した。
私はその声を聞きながら、自分の娘の寝顔をのぞき込んだ。
小さな口が、何かを探すように、ぱくぱくと動いていた。
そのとき、すでに真実は、別のものになっていた。
退院して、しばらくした頃、母が静かに言った。
「言わなきゃいけないことがあるの」
実家に帰ると、座布団の上に、冷たくなったゆめがいた。
目を閉じて、まるで眠っているようだった。
抱きしめれば、目を覚ますような気がした。
あの温かさを、私は手のひらに探した。
見つからなかった。
けれど、抱き上げた体は、固く、冷たかった。
母は、二十六日の朝に病院から電話があったことを、話してくれた。
ゆめは、眠るように息を引き取ったという。
母は、私に嘘をつき続けていたのだ。
毎晩の電話で、母が必ず窓の外の天気の話から始めたことを、私は思い出した。
あれは、話題を探して、時間を稼いでいたのだ。
産後の体にさわるからと、ずっと黙っていてくれた。
そのつらい嘘を、母は一人で抱えていた。
後日、母は、病院の先生から聞いた話を教えてくれた。
「あの子ね、産まれた日の夕方に、急にケージの入口に座ったんだって」
「え?」
「それまでずっと横になっていたのに、体を起こして、扉のほうを向いて」
「…………」
夕方になると、ケージの入口の前にお座りして、何かを待つように、じっと扉を見つめていたそうだ。
私は、返事ができなかった。
その時刻は、私の娘が生まれた時刻と、重なっていた。
ゆめが入口に座っていたのは、私の娘が生まれたその時刻だった。
夢のなかで元気に走っていたゆめは、最後のお別れに来てくれたのだろうか。
それとも、待っていたのは、私ではなく、産まれてくる子のほうだったのだろうか。
答えは、どこにもない。
母は、鼻をすすりながら、こう付け加えた。
「猫ってね、行く前に、会いたい人のところへ、一度だけ寄り道するんだって」
母の言葉を、私は信じたかった。
ただ、ゆめは、玄関で待つ猫だった。
最後まで、待つ猫だった。
毎年、二十六日の朝になると、私は玄関の三和土の端に、水を入れた小さな皿を置く。
昼が過ぎる頃、娘がそれをのぞき込んで、「のんだ?」と聞く。
「うん、のんだかもね」
私はそう答えて、皿の水が少し減っていることに、気づかないふりをする。
あれから二年。
娘は二歳になり、私に似て、猫が大好きだ。
「ねこいる!」
小さな指が、窓の外の野良猫を差す。
私はそのたびに、胸の奥で、そっと呟いてしまう。
――ゆめかな。
ゆめ。私は、あなたに出会えて、本当に幸せでした。
あなたは、幸せだったかな。
もしまた会えるなら、夢でも、おばけでも、いい。
どうか、会いに来てほしい。
最後に一人にして、ごめんね。
いつも待たせてばかりで、ごめんね。
でも、私のところに来てくれて、ありがとう。
夕方になると、娘は玄関の三和土の端に座って、父親の帰りを待つ。
前足をそろえるように、小さな膝を揃えて。
その背中を見るたびに、私はゆめの名前を、そっと呼ぶ。