コロの思い出

夕方の坂道を上っていくと、いつも白と茶色の小さな影が見えました。

坂の上、古いブロック塀の角。

そこが、コロの定位置でした。

私がまだ豆粒くらいの大きさに見えるうちから、コロは首を伸ばして私を見つけ、ちぎれそうなほど尻尾を振っていました。

ふわふわと長い毛が、西日を受けて金色に透けていたのを、今でも覚えています。

雑種の、どこにでもいそうな犬でした。

けれど私にとっては、世界でいちばん利口で、いちばん優しい犬でした。

この話は、そんなコロと過ごした十八年と、その別れの記録です。

コロが我が家に来たのは、私が小学校に上がる前の春でした。

近所の空き地に置かれた段ボール箱の中で、震えていたのを父が見つけたのです。

箱の底には、雨に濡れた古いタオルが一枚。

その上で、握りこぶしほどの子犬が一匹、小さく鳴いていました。

父はそれを上着の内側に入れて、そっと連れて帰ってきました。

「飼い主がいるかもしれないから、しばらく預かるだけだぞ」

そう言った父でしたが、結局その子犬は、そのまま我が家の一員になりました。

母は最初、少し困った顔をしていました。

「うちで、ちゃんと飼えるのかしらね」

そう言いながらも、台所でミルクを温め、スポイトでひと匙ずつ飲ませていたのは母でした。

夜中に何度も起きては、小さな体をさすっていました。

名前は、私が付けました。

毛の色がコロコロと変わって見えるからコロ。

まるで理由になっていない理由でしたが、家族の誰も反対しませんでした。

「コロ。いい名前じゃないか」

父がそう言って笑ったのを、はっきりと覚えています。

子犬のコロは、いたずらが好きでした。

私の上履き袋をくわえて、庭じゅうを引きずり回すのです。

叱ると、申し訳なさそうに耳を伏せて、上目遣いでこちらを見上げました。

その顔を見ると、もうどうしても怒れませんでした。

「もう、しょうがないなあ」

そう言って頭をなでると、コロは安心したように私の足にもたれてきました。

温かく、少し湿った、やわらかい体。

その重みが、不思議と心を落ち着かせてくれました。

夏には、家族みんなで近くの川へ行きました。

コロは水が苦手で、浅瀬で足を濡らしては、慌てて岸に戻ってくるのです。

そのたびに私たちは大笑いしました。

濡れた毛が体に張りつき、ずいぶんと痩せて見えるコロが、なんともおかしかったのです。

そういう一日のおわりには、コロはいつも、縁側で私の膝に頭をのせて眠りました。

線香花火のにおいと、犬の体のにおいが混ざった、あの夏の夕方。

今でも、ふとした拍子に思い出します。

コロが三つになった年の冬、一度だけ、大きな病気をしたことがありました。

何も食べず、水も飲まず、ただ土間の隅でぐったりと横たわっているのです。

鼻はからからに乾き、呼吸は浅く、速くなっていました。

獣医さんには、もう年を越せないかもしれない、と言われました。

その夜、私は学校を休む覚悟で、コロのそばに布団を敷きました。

「コロ、がんばって。お願いだから、いなくならないで」

小さな体に手を当てると、熱でひどく熱くなっていました。

私は一晩じゅう、その背中をさすり続けました。

明け方、ふと目を覚ますと、コロが私の指先を、かすかに舐めていました。

ざらりとした、温かい舌の感触。

「お母さん、コロが、コロが舐めた」

私は思わず母を起こして、泣きながらそう言いました。

それから少しずつ、コロは回復していきました。

あの朝の、指先に触れた舌の温もりを、私は一生忘れないと思います。

命が、たしかにそこにある。

そのことの尊さを、私は幼いながらに、はじめて知った気がしました。

コロには、ひとつ、不思議な習慣がありました。

私の下校時刻になると、きまって坂の上まで歩いていって、そこで座って待つのです。

誰が教えたわけでもありません。

母が言うには、午後の三時を過ぎると、コロはそわそわと玄関の前を行ったり来たりし始めるのだそうです。

そして時間になると、自分で勝手に坂を上っていく。

私が坂の角を曲がって姿を見せると、転がるように駆け下りてきました。

「ただいま、コロ」

そう声をかけると、コロは私の足元をぐるぐると回って、何度も飛びついてきました。

ランドセルの肩紐に、湿った鼻先を押し付けてくる感触。

少し獣くさい、けれど嗅ぐとなぜか安心する、あのにおい。

そのにおいを、私は今でもはっきりと思い出すことができます。

雨の日も、コロは坂の上にいました。

濡れた毛をぺったりと体に張りつかせて、それでも嬉しそうに待っていました。

「風邪をひくよ。もう、待たなくていいのに」

そう言っても、コロは首をかしげるだけでした。

待つことが、自分の大切な仕事だと思っているようでした。

風の強い日も、雪のちらつく日も、坂の上の角には、いつもあの小さな影がありました。

忘れられないのは、大きな台風が来た日のことです。

その日は、学校が昼前に集団下校になりました。

激しい雨と風の中、私はずぶ濡れになって坂を上りました。

まさかと思いましたが、コロは、いつもの角にいました。

叩きつける雨の中で、それでもじっと、私を待っていたのです。

「こんな日に、待ってるやつがあるか」

私は半分泣きながら、コロを抱きかかえて坂を駆け下りました。

腕の中で、コロの心臓が、とくとくと速く打っているのがわかりました。

家に着くと、母が玄関で待っていました。

「もう、二匹してびしょ濡れじゃないの」

そう言って笑いながら、母は私とコロを、同じ一枚のタオルで拭いてくれました。

濡れた犬のにおいと、母の手の温かさ。

あの日の玄関先の光景は、今も心の中で、やわらかな灯りのように残っています。

私が中学に上がり、やがて高校に上がるあいだも、坂の上の待ち合わせは続きました。

思春期というのは、勝手なものです。

友達の手前、私はコロを邪険にあつかった時期もありました。

駆け寄ってくるコロを、軽く手で払ってしまったこともあります。

「あっちに行ってろよ」

心ない言葉を投げたことも、一度や二度ではありませんでした。

それでもコロは、次の日もまた、何ごともなかったように坂の上で待っていました。

何があっても、私を責めることをしない犬でした。

今になって思えば、私はあの無条件の優しさに、ずいぶんと甘えていたのです。

見返りを求めず、ただそこにいてくれる存在の、ありがたさ。

そのありがたさに気づいたのは、ずっとあとになってからでした。

いつのまにか、坂の上のコロは、近所でも知られた存在になっていました。

買い物帰りのおばさんが、よく声をかけてくれました。

「今日も待ってるのね。えらいわねえ」

商店街の魚屋のおじさんは、ときどき煮干しを分けてくれました。

「この子はね、時間になるとちゃんと来るんだ。たいしたもんだよ」

私が坂を上ると、見守っていた人たちが、温かい目で会釈をしてくれるのです。

一匹の犬が、その小さな坂を、やわらかい場所に変えていました。

思えばコロは、待つことで、たくさんの人の夕暮れを彩っていたのかもしれません。

高校を卒業する頃、コロはもう十をいくつか超えていました。

坂を駆け下りる速さは、少しずつ、ゆるやかになっていました。

それでも、坂の上の定位置だけは、頑なに守り続けていました。

私が就職を機に、生まれ育った家を出る朝のことでした。

荷物をまとめ、玄関を出ると、コロが庭の隅から、じっとこちらを見ていました。

もう坂を上る力はなく、ただ、その場に座っているだけでした。

私はしゃがんで、その頭を、何度もなでました。

「行ってくるね。たまには帰ってくるから」

コロは、私の手のひらに、そっと鼻先を押し付けてきました。

別れを、わかっているような目でした。

門を出て振り返ると、コロはまだ、こちらを見ていました。

見えない目で、それでも私のいる方角を、まっすぐに見つめていました。

そのうしろ姿が、坂の上で待っていたあの日の姿と、静かに重なりました。

私はこみ上げるものをこらえて、足早に駅へ向かいました。

私が就職して家を出ることになり、ほどなくして、家族も引っ越すことになりました。

新しい家は、以前より庭の狭い、小さな借家でした。

もちろん、コロも一緒です。

けれど、そこには坂がありませんでした。

コロが私を待つための、あの場所は、もうどこにもなかったのです。

環境が変わったせいか、年のせいか、コロは引っ越してから急に老いていきました。

足腰が弱り、後ろ脚を引きずるようになりました。

白く濁った目は、もうほとんど見えていないようでした。

耳も遠くなり、私が帰省して名前を呼んでも、すぐには気づかなくなりました。

「コロ。わかる? 帰ってきたよ」

耳元で大きな声を出すと、ようやく尻尾が、ゆっくりと動きました。

その動きのあまりの小ささに、私は胸が締めつけられました。

昔は、私の足音だけで坂を駆け下りてきた犬が。

今は、すぐそばにいる私にすら、気づくのに時間がかかるのです。

それでもコロは、私の手のにおいを嗅ぎ当てると、安心したように身を寄せてきました。

見えなくても、聞こえなくても、私のことだけは、においで覚えていてくれたのです。

あるとき帰省して、私はコロを抱いて、昔の坂まで連れて行ったことがありました。

もう歩けないコロに、もう一度あの景色を見せたかったのです。

坂の上の、ブロック塀の角。

そこに下ろすと、コロは鼻をひくつかせて、ゆっくりと首をめぐらせました。

見えない目で、それでも、たしかにその場所を確かめているようでした。

「ここで、いつも待っててくれたんだよね」

そう話しかけると、コロは小さく、ひと声だけ鳴きました。

覚えている、とでも言うような、やさしい声でした。

夕日が、白くなった毛を、あの日と同じ金色に染めていました。

いちばんつらかったのは、夜鳴きでした。

人間の認知症と、同じなのでしょうか。

昼と夜の区別がつかなくなり、コロは深夜に長い声で鳴くようになりました。

狭い住宅地のことです。

近所から苦情が来たのは、一度や二度ではありませんでした。

母は、そのたびに何度も頭を下げに行きました。

「外でしか暮らしたことのない子なので、家には上げられなくて」

母はそう言って、夜中に何度も庭へ出ては、コロの背中をさすっていました。

冷たい板の間に正座して、ただ静かに、毛布をかけ直していました。

「大丈夫よ。お母さんがここにいるからね」

そう、まるで子守唄のように、繰り返していたそうです。

私は遠くの町で暮らしていて、電話の向こうでその話を聞くことしかできませんでした。

何もしてやれない自分が、ただ情けなく、もどかしくてなりませんでした。

今すぐ帰りたいと思いながら、仕事に追われて、それもかないませんでした。

その冬は、ことのほか寒い冬でした。

年が明けてすぐの、よく晴れた朝のことです。

母から、電話がありました。

コロが、ひっそりと息を引き取ったというのです。

十八歳の誕生日を、ほんの数日後に控えた朝でした。

急いで実家に帰ると、コロは縁側の日だまりに寝かされていました。

小さなタオルケットにくるまれて、まるで気持ちよさそうに眠っているようでした。

そっと毛に触れると、まだやわらかく、けれど、もう温もりはありませんでした。

あの獣くさいにおいだけが、かすかに、まだ残っていました。

いろいろな気持ちが一度に押し寄せて、涙が止まりませんでした。

「コロ、ごめんね。最期に、間に合わなくて」

いくら呼びかけても、もう返事はありませんでした。

母が、隣で静かに言いました。

「最期はね、眠るみたいだったのよ。きっと、痛くも苦しくもなかったわ」

その言葉に、私はただうなずくことしかできませんでした。

翌日、家族そろって火葬場へ行きました。

小さな箱に入ったコロに、最後のお別れをしました。

箱の中のコロは、ずいぶんと軽くなっていました。

父が、ぽつりと言いました。

「こいつは、最期まで坂の上の犬だったな」

その一言で、私はまた、こらえていた涙がこぼれました。

係の方が、火葬の重い扉に、そっと手をかけました。

扉がゆっくりと閉まっていく、その短い時間。

私の目に浮かんだのは、坂の上で待っていた、あの姿でした。

首を伸ばし、一点を見つめ、私を見つけて駆け下りてくる姿。

待ち遠しくて、そわそわと足踏みをしていた、あのうしろ姿。

そして、ただいまと声をかけたときの、あのまぶしいほどの喜びよう。

扉が閉まる音が、やけに静かに、胸の奥に響きました。

小さな骨壺を抱えて、家に帰りました。

庭の隅、コロがいつも寝ていた場所には、まだ毛が少し落ちていました。

いつも置いてあった水のお皿が、からのまま、ぽつんと残っていました。

母は、そのお皿をすぐには片づけませんでした。

「もう少し、置いておこうかしらね」

そう言って、母は何度もそこを見ていました。

夕方になると、私はつい、玄関の戸を気にしてしまいました。

そろそろ、坂を上る時間だな、と。

もう待つ犬はいないのに、体がその時刻を覚えているのです。

いない、ということが、こんなにも大きいのだと知りました。

小さな白茶の影が、あれほど家じゅうを照らしていたのだと、はじめて気づきました。

あれから、ずいぶんと長い年月が経ちました。

私は今でも、夕方の坂道を見かけると、つい足を止めてしまいます。

坂の上の角に、白と茶色の小さな影を、無意識に探してしまうのです。

もちろん、そこにコロはいません。

けれど、あの場所でいつも私を待っていてくれたという事実は、決して消えません。

見えなくなり、聞こえなくなっても、コロは最期まで、私のそばにいてくれました。

見返りなど何ひとつ求めず、ただまっすぐに、私を待ち続けてくれました。

その温もりに、私はいったい、どれほど支えられていたことでしょう。

今なら、はっきりとわかります。

あの坂の上で待っていてくれたのは、ぬくもりそのものだったのだと。

忙しさにかまけて、当たり前だと思っていた日々が。

本当は、二度と戻らない、かけがえのない時間だったのだと。

犬が生きられる時間は、人の時間よりもずっと短いものです。

その短い一生のすべてを、コロは私を待つことに使ってくれました。

私が学校にいるあいだも、遠くの町で働いているあいだも。

コロはいつも、私の帰りを、まっすぐに待っていてくれたのです。

その事実を思うたび、私は自分の生き方を、静かに正されるような心地がします。

誰かの帰りを待つということ。

見返りを求めず、ただ信じて待つということ。

それがどれほど尊いことか、私はコロから教わりました。

今でも、坂のある景色の前に立つと、胸の奥が、そっと温かくなります。

それはきっと、コロが遺してくれた、いちばん優しい贈り物なのだと思います。

あの小さな影は、もう私の目には映りません。

けれど、私の心の中の坂の上には、今もコロが座っています。

コロ、本当にありがとう。

どうか、安らかに。

そしてもし、いつか私がそちらへ行く日が来たら。

また坂の上で、待っていてくれたら嬉しいです。

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