
三十歳まで独身だったら、結婚しよう。
そんな約束を、俺は十年前に、ひとりの女の子と交わした。
彼女のことを、俺は今でも、脳内フィアンセと呼んでいる。
半分は冗談で、半分は、どうしても外せない本気だからだ。
あの頃の俺は、京都の大学生だった。
男二人、女二人の四人組で、いつも一緒に遊んでいた。
学食の隅の、ひとつだけ脚の短いテーブル。
鴨川デルタの、亀の形をした飛び石。
百万遍の古本まつりで買った、誰も読まない詩集。
夏の夜に河原で食べた、溶けかけのアイスの味。
そういう時間が、ずっと続くと、俺たちは疑いもしなかった。
四人のうちの一人は、声が大きくて、よく笑う男だった。
みんなは、その男をヤスと呼んでいた。
もう一人は、口が達者で、世話焼きの女の子だった。
みんなは、彼女をマリと呼んでいた。
そして、残る一人が、俺の脳内フィアンセになる子だった。
運動神経が鈍くて、前髪を自分で切っては失敗して、それでも堂々としている。
四人が出会ったのは、入学式の日の、学生課の前だった。
履修登録の列があまりに長くて、前後に並んだ四人が、愚痴を言い合ったのが始まりだ。
マリが、「同じ授業を取ろうよ」と言い出して、ヤスが、「俺も」と手を挙げた。
彼女は、最後に、小さな声で、「じゃあ、私も」と言った。
あのとき、切りすぎた前髪の下で、必死に笑っていた顔を、俺は今でも思い出せる。
笑うと、右の頬にだけ、小さなえくぼができる。
彼女は、学食のきつねうどんを、必ずお揚げから先に食べる人だった。
「いちばん好きなものは、先に食べないと、取られるから」
そう言って、真顔で、箸を動かしていた。
誰も取らないよ、と俺が笑うと、彼女は、俺の皿の唐揚げを一つ、さっと奪っていった。
それが、俺たちの、いつもの昼休みだった。
これは、四人のうち、先に旅立った一人と、残された三人の話だ。
鴨川の飛び石で
四回生の後期、俺たちは全員、就職先が決まった。
それまで四人で過ごしてきた時間が、急に、期限つきのものに見え始めた。
「もうこうしてみんなで遊べるのも残り僅かだなー」
と、誰かが言った。
その日の帰り、四人で鴨川デルタに寄った。
二月の風は、まだ頬に冷たかった。
亀の形をした飛び石を、順番に渡っていく。
いちばん最後は、いつも彼女だった。
「待って、待って」
そう言いながら、両手を広げて、石の上でバランスを取る。
俺は、その手を取ろうとして、何度かやめた。
理由は、自分でもよく分からなかった。
彼女には、ひとつ、変わった癖があった。
人から借りた物には、必ず付箋を貼るのだ。
「預かり中」と、丸くて小さな字で。
俺が貸した傘にも、文庫本にも、ノートのコピーにも。
返すときには、その付箋を、きれいに剥がして、手渡してくれた。
「律儀だな」と笑うと、彼女は言った。
「借りたものは、借りたってちゃんと分かる形にしときたいの」
その言葉を、俺は、ただの変わった癖だと思っていた。
一度、雨の日に、自分の傘を彼女に貸して、ずぶ濡れで学食へ走ったことがある。
翌日、傘の柄には、付箋がぺたりと貼られていた。
「預かり中(昨日の雨ぶん)」
そんな冗談まで書き添えてあって、俺は、傘を持ったまま吹き出した。
夏には、四人で、河原に花火を持ち出したこともあった。
線香花火の最後の一本は、いつも、彼女の手の中で、いちばん長く残った。
「落ちないコツはね、息を止めること」
そう言って、彼女は、俺の顔を見ずに、火の玉だけを見つめていた。
俺は、その横顔を、花火の光よりも、長く見ていた。
古本まつりで買った詩集にも、彼女は付箋を貼って、俺の本棚に戻した。
その詩集は、結局、返したのか返さなかったのか、いまだに曖昧だ。
そんな二月の終わり、急に、四人のうちの二人が言い出した。
「結婚する」
学食のテーブルで、ヤスとマリが、並んで頭を下げた。
俺と彼女は、びっくりして、顔を見合わせた。
それから、二人そろって、心から祝福した。
けれど本当は、凄く羨ましかった。
帰り道、鴨川の土手を、二人で歩いた。
並んで歩く影が、夕日に長く伸びていた。
「何か羨まし過ぎるから、俺たちも結婚しようか?」
冗談のつもりで、俺は言った。
彼女は、少し考えてから、悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、お互い三十歳になってもまだ独身だったら、結婚しよう」
右の頬にだけ、えくぼができた。
「ありがちな話で、恥ずかしいんだけどね」
今になって、俺は誰に言い訳をしているのだろう。
翌日、百円ショップのワゴンで、プラスチックの指輪を見つけた。
赤い石がひとつ付いた、百八円の指輪だ。
俺はそれを買って、彼女に渡した。
「婚約指輪、先渡し。三十歳まで預けとく」
「ひどい。安っぽい」と、彼女は笑った。
「でも、預かっといてあげる。なくさないでね、って私が言うのも変だけど」
指輪を、空の飴の缶に入れて、彼女は蓋を閉めた。
かたん、と小さな音がした。
その音が、冗談の終わりの合図のようにも、約束の始まりの合図のようにも聞こえた。
全くナシと笑った日
卒業して、俺たちは、それぞれの町へ散った。
俺は滋賀の機械メーカー、彼女は大阪の印刷会社に入った。
会う機会は、年に二回ほどに減った。
メールの返事は、いつも、彼女のほうが早かった。
絵文字のない、短い文面。
誤字を見つけると、彼女は、校正の赤ペンのように、丁寧に指摘してくれた。
仕事で身についた癖らしかった。
その短さと、丁寧さが、なんとなく好きだった。
二十四歳の冬、一度だけ、夜中に電話がかかってきたことがある。
「ごめん、寝てた?」
「いや、起きてたよ」
嘘だった。時計は、午前一時を指していた。
「仕事で、大きなミスをしちゃってさ」
彼女の声は、いつもより、半音低かった。
俺は、布団の中で、黙って聞いていた。
「でも、話したら、少し楽になった。ありがと」
「いつでも、かけてこいよ」
「うん」
通話が切れたあと、俺は、しばらく天井を見ていた。
あのとき、もう少し、気の利いた言葉を言えただろうか。
二十五歳の秋、俺は久しぶりに、大阪まで彼女に会いに行った。
梅田の地下にある、小さな居酒屋だった。
彼女は、少し痩せて、髪が短くなっていた。
「髪、切ったんだ」
「失敗したの。今度は、自分じゃなくて、美容院で切ったのに」
彼女は、前髪を指でつまんで、困ったように笑った。
ジョッキを置いて、俺は言った。
「あと五年で結婚するハメになっちゃうよ。結婚の予定、ないのかよ」
「全くナシ」
彼女は、即座に答えて、枝豆をつまんだ。
「そっちこそ、どうなの」
「俺も、ナシ」
お互い、顔を見合わせて、笑った。
笑いながら、俺は、少しホッとしていた。
その自分に、自分でも驚いた。
ホッとする理由が、どこにもなかったからだ。
店を出て、御堂筋線のホームで、彼女を見送った。
電車が来て、扉が閉まる。
窓の向こうで、彼女が手を振った。
右の頬に、えくぼが浮かんでいた。
その瞬間に、俺は気づいた。
あ、俺、本気でこの娘に惚れてるのか、と。
遅すぎる自覚だった。
十年近い友達づきあいの、いちばん最後に、ようやく。
帰りの電車で、俺は、携帯を何度も開いて、閉じた。
言うなら、会って、顔を見て言いたかった。
来月の連休に、京都で飲もう、と決めてあった。
帰ってすぐ、俺は、彼女に短いメールを送った。
『連休の件、予定を空けといて。渡したいものがある』
数分後に、返信が来た。
『了解。私も、話したいことがある。楽しみにしてる』
その一行を、俺は、何度も読み返した。
話したいことって、何だろう。
期待と不安で、その夜は、ほとんど眠れなかった。
あの飛び石の上で、渡したいものがあった。
百八円ではない、本物の指輪を、ひと月かけて、選ぶつもりだった。
給料は少なかったけれど、売り場の店員さんに、サイズの測り方まで聞いた。
彼女の指の細さを、俺は、思い出せなかった。
指輪売り場の店員さんは、にこやかに言った。
「サイズが分からないときは、普段つけている指輪を、お借りしてくると確実ですよ」
借りる、という言葉が、胸に引っかかった。
彼女に借りるなら、きっと、付箋を貼られるだろう。
そう思って、俺は、売り場の真ん中で、一人で笑った。
そのことが、少しだけ、情けなかった。
連休の三日前
それから、ちょうど一か月後だった。
連休の三日前の、金曜の夜。
仕事から帰った俺の携帯が、鳴った。
ヤスからだった。
「落ち着いて、聞いてくれ」
その声が、聞いたことのない音をしていた。
彼女が、交通事故に遭った。
横断歩道を渡っているところに、車が来たのだという。
苦しむ間もなかった、と、ヤスは言った。
俺は、「嘘だろ」と言った。
何度も言った。
「連休、会う約束なんだ」と、言った。
電話の向こうで、ヤスが、黙っていた。
それから、鼻をすする音がした。
通夜に行ったのは、覚えている。
そこから先は、ほとんど、記憶がない。
白い花の匂い。
線香の煙が、天井へ細く伸びていく様子。
彼女のお母さんの、小さな背中。
遺影の彼女は、右の頬に、えくぼを作っていた。
俺は、その写真の前で、一言も出なかった。
その遺影とは別に、卒業式の日に四人で撮った一枚がある。
彼女だけ、目をつぶっていた。
「撮り直そう」と言ったのに、時間切れで、そのままになった。
今も、その一枚が、俺の机の引き出しにある。
目をつぶった彼女は、それでも、右の頬に、えくぼを作っている。
お母さんが、俺の手を取って、「来てくれて、ありがとう」と言った。
その手の温度だけが、今も、掌に残っている。
精進落としの席で、ヤスが、立ち上がった。
「あいつ、三十歳までに、絶対幸せになるって言ってたんです」
そう言ったきり、ヤスは、言葉に詰まって、座り込んだ。
マリが、その背中を、黙って、さすっていた。
俺は、コップの水を、一口だけ飲んだ。
水は、ほとんど、味がしなかった。
その夜から、俺の中の何かが、止まった。
会社には、長期の休みをもらった。
カーテンを閉めて、部屋の電気を消して。
昼と夜の区別も、つかなくなった。
食べない。眠れない。
携帯のアドレス帳から、彼女の名前を、どうしても消せなかった。
一度だけ、夜中にふらりと外へ出て、京都行きの電車に乗りかけた。
改札の手前で、足が動かなくなった。
後になって、マリが教えてくれた。
「あの子ね、事故の前の週に、電話をくれたの」
「連休に、あいつに言いたいことがあるんだ、って」
「何を、とは、聞かなかったけど」
俺は、その言葉を、聞かなかったことにした。
聞いてしまったら、もう、立てなくなると思ったからだ。
飛び石の上に、彼女がいないことを、確かめに行くのが、怖かったのだ。
毎週来る夫婦の車
そんな俺を、助けてくれたのは、ヤスとマリだった。
二人は、他県に住んでいる。
それなのに、毎週、俺のアパートまで、車で来てくれた。
チャイムが鳴る。
無視する。
また鳴る。
「いるんだろ。開けろよ」
ヤスの声だった。
ときには、仕事を休んでまで、来てくれた。
「うっとーしい! もう来ないでくれ!」
俺は、ドア越しに、怒鳴ったことがある。
それでも二人は、懲りずに、次の週も来た。
レジ袋いっぱいの、弁当と、缶コーヒーを提げて。
マリは、部屋に入ると、黙ってカーテンを開けた。
「換気、換気」と、小さな声で言いながら。
窓から差し込んだ光が、やたらと眩しかった。
洗い物のたまった流しを、マリは、何も言わずに片づけた。
ヤスは、散らかった床に、どっかりと座り込んだ。
「飯、食え」
それだけ言って、弁当の蓋を、俺の前で開けた。
無理矢理、一緒に酒を飲みに連れ出された夜もある。
安い居酒屋のカウンターで、俺は、ほとんど口を利かなかった。
ヤスは、何も聞かずに、ただ隣で飲んでいた。
帰り際、ヤスが、ぽつりと言った。
「お前な、あいつの分まで、とか、思わなくていいからな」
「……うん」
「ただ、生きてろ。俺たちが、毎週、来るからよ」
俺は、返事の代わりに、空になったジョッキを、握りしめた。
眠れない夜は、ネットで、大切な人を見送った人の話ばかり読んだ。
来ない流氷を告げた朝も、彼が灯さなかった分校も、読んでは、閉じた。
他人の話なのに、どれも、自分のことのように痛かった。
それから三か月後、俺は、なんとか職場に復帰した。
その話をしたとき、二人は、号泣してくれた。
居酒屋のカウンターで、いい大人が、おしぼりで顔を拭いていた。
考えたら、あいつらだって、俺と同じくらい悲しかったはずなのだ。
友達を一人失ったのは、あいつらも、同じなのに。
自分のことで精一杯だった俺は、そんな当たり前のことにも、気づけずにいた。
復帰した日の帰り道、俺は、初めて、鴨川に行ける気がした。
次の休みに、一人で京都へ向かった。
飛び石は、水の音の中で、静かに並んでいた。
最後の石の手前で、足が止まった。
その先へは、まだ、渡れなかった。
俺は、それだけの距離を、引き返した。
それでも、行けた。
それだけで、あの頃の俺には、十分だった。
脳内フィアンセの付箋
一周忌の少し前に、彼女のお母さんから、小包が届いた。
小さな箱だった。
手紙が一枚、添えられていた。
『娘の部屋を片付けていたら、これが出てきました。あなたのものだと思い、お送りします』
箱の中には、見覚えのある缶が入っていた。
空の飴の缶だ。
蓋を開けると、赤い石の百八円の指輪が、ころんと転がった。
缶の蓋の裏に、小さな付箋が貼ってあった。
付箋には、丸い字で「三十歳まで預かり中」と書いてあった。
俺は、その場に座り込んだ。
借りたものには、必ず付箋を貼る人だった。
預かったものを、預かったと、ちゃんと分かる形にしておく人だった。
あの指輪を、彼女は、冗談では、預かっていなかったのだ。
その夜、俺は、はじめて声を上げて泣いた。
彼女が逝ってから、一年近く、一粒も泣けなかったのに。
それから五年が過ぎて、俺は三十歳になった。
誕生日の朝、新幹線で京都へ向かった。
鴨川デルタの飛び石は、あの頃と、同じ形で並んでいた。
俺は、いちばん最後の石の上に立った。
彼女が、いつも最後に渡った石だ。
ポケットから、あの缶を取り出して、蓋を開けた。
預かり期間は、今日で終わる。
俺は、付箋の端を、爪の先でつまんだ。
彼女が、返すときにしていたように。
俺は、その付箋を、きれいに剥がして、財布の免許証の裏に貼った。
今度は、俺が、預かる番だと思った。
川面を渡る風が、少しだけ、温かかった。
昼は、出町柳の商店街で、コロッケを買って食べた。
彼女が、いつも「最後の一口は私の」と言って、取っていたコロッケだ。
俺は、最後の一口を、ちゃんと残して、空に掲げてみた。
誰も、取りにこなかった。
それが、おかしくて、少し、泣いた。
あれから、さらに何年かが過ぎた。
そんで、脳内フィアンセよ。
もうとっくに三十歳は過ぎちゃったけど、俺、結婚することになったよ。
だから、約束は守れない。
まあ、半分以上、冗談みたいな約束だったけどな(笑)。
相手には、全部、話した。
付箋のことも、百八円の指輪のことも。
「その付箋、剥がさなくていいよ」と、彼女は言ってくれた。
「預かりものは、ちゃんと預かっといて」
財布の中で、丸い字は、今日も、俺と一緒にいる。
見ていてくれよ。
あいつらに負けないくらい仲の良い夫婦になってやるからさ。