あなたが立ち止まった電柱

七度目の十一月に、この手紙を書いています

元気ですか。今、どこにいますか。

ちゃんと、ごはんを食べていますか。

悪いことは、もうしていませんか。

あなたと離れてから、七年が経ちました。

増毛は、今年ももう雪です。

十一月の半ばに、山のほうから白くなって、ひと晩で港まで下りてきました。

蔵の煙突から湯気が上がりはじめると、この町の冬は本当に始まります。

あなたが好きだった、あの匂いの季節です。

米を蒸したあとの、甘くて、少しだけ焦げたような匂い。

あの匂いがすると、わたしは今でも、坂の下を見てしまいます。

あなたが立ち止まっていた電柱

覚えていますか。

あなたは、うちへ来るとき、必ず二軒先の電柱のところで、一度だけ立ち止まりました。

ほんの数秒です。

わたしはそれを、坂を上ってきて息が切れるのだと思っていました。

「なまら急な坂だな」

あなたはいつも、そう言って笑っていましたから。

だから、わたしはずっと、あれを息継ぎだと思っていたのです。

あなたと初めて話したのは、診療所の待合でした。

わたしは受付にいて、あなたは指を三針縫いに来た患者さんでした。

蔵の道具で切ったのだと言いました。

「まだ、うまくできねぇんだ」

三十を過ぎた大人が、そう言って照れるのが、少し不思議でした。

その年の春に、長く塀の中にいた人だと聞いたのは、後になってからです。

町の人は、そういうことを、わざわざ本人には言いません。

そのかわり、わたしの母には、すぐに届きました。

蔵人になったあなた

あなたは、十一月から三月までの蔵人でした。

朝の三時に起きて、麹室に入って、白い上っ張りで湯気の中に立つ。

手のひらが、いつも熱いのです。

冬なのに、あなたの手だけが熱かった。

わたしが冷たい指を出すと、あなたは何も言わずに両手で包みました。

そして、少ししてから離す。

長く握らないのが、あなたでした。

杜氏の菅原さんは、あなたのことをよく言いました。

「あいつは、道具を洗うのがいちばん早い」

洗い場の水は、冬は手が切れるほど冷たいのです。

誰もが最後まで残したがる仕事を、あなたは先に片づけていました。

「なんで、あんな急ぐんだ」

菅原さんが聞いたら、あなたはこう答えたそうです。

「後でやると、誰かがやることになるから」

その言い方が、わたしにはとてもあなたらしく思えます。

あなたはいつも、誰かの手間を先に引き取る人でした。

初しぼりの朝のこと

あの年の一月、あなたが初しぼりの朝に、わたしを蔵へ呼んでくれましたね。

まだ暗いうちに、診療所の裏で待ち合わせました。

雪を踏む音だけが、二人ぶん、坂を下っていきました。

蔵の中は、外より暖かいのに、床は氷のように冷たいのです。

長靴の裏から、冷たさが膝まで上がってきました。

あなたは、湯呑みに白く濁ったものを注いで、わたしに渡しました。

「熱いから、ゆっくり」

甘酒でした。

米の粒が、舌の上で溶けていきました。

喉を通ったあと、胸のあたりが、じんわりと熱くなりました。

わたしは、その熱さで、うまく言葉が出ませんでした。

あなたは、わたしが飲み終わるまで、自分のぶんに口をつけませんでした。

「先に飲むと、味の感想、言えなくなるべ」

そんな理屈があるものかと、わたしは笑いました。

あなたも笑いました。

あのときの、はぜるような笑い方を、わたしは覚えています。

帰り道、あなたは港のほうへ遠回りしました。

海が、鉛の色をしていました。

「海、久しぶりに見たときな」

あなたは、それだけ言って、あとは黙っていました。

わたしは、その先を聞きませんでした。

聞かないことが、そのときのわたしにできる、精一杯の優しさでした。

いま思えば、聞いてほしかったのかもしれません。

そこだけが、七年経っても、悔いとして残っています。

姉の縁談と、母がついた小さな嘘

あの冬、姉に縁談が来ました。

相手は、留萌のほうの、古い家でした。

結納の話が進むにつれて、うちの空気が、少しずつ固くなっていきました。

母が、夜、台所で長く電話をするようになりました。

わたしは何も聞かされていませんでした。

ただ、あなたが来る回数が、目に見えて減りました。

そして二月の終わりに、あなたは別れを言いました。

「まだ君は若いんだから、みんなに祝福される人と一緒にいたほうが幸せになれる」

そう言いました。

わたしは、駆け落ちしようと言いました。

本気でした。

荷物も、少しまとめていました。

けれどあなたは、首を横に振って、こう言ったのです。

「沢山傷ついてきたね。もう後は、幸せになるだけだから」

二人とも泣きました。

あなたが泣くところを、わたしはその日、初めて見ました。

去年の秋、母が入院しました。

点滴の管を見ながら、母がぽつりと言いました。

「わたし、あの人に、会いに行ったの」

雪の中を、蔵の裏まで歩いて行ったのだそうです。

そして、別れてくれと頭を下げた。

あなたは、それを黙って聞いてから、こう言ったといいます。

「わたしから言います。あの子に、お母さんを恨ませたくないので」

母は、七年間、そのことを誰にも言えずにいました。

あの別れの言葉は、あなたが母から引き取ったものでした。

あなたは、いつもそうやって、誰かの手間を先に引き取るのです。

洗い場の水と、同じでした。

姉の結婚式の日

姉の式は、その年の秋でした。

留萌のホテルで、親族だけの、静かな会でした。

わたしは、髪を上げて、母の借り物の帯を締めて、写真の端に立ちました。

姉は、きれいでした。

本当に、きれいでした。

わたしは泣きましたが、みんなは嬉し泣きだと思ったようです。

誰も、わたしの泣いている理由を知りませんでした。

母だけが、席に戻ってきたわたしの背中に、そっと手を置きました。

あのときの手の重さの意味を、わたしは去年、病室で知ることになります。

式の帰り、車の窓から、日本海が見えました。

わたしは、あなたが海を見た日のことを考えていました。

あなたが久しぶりに見たという海と、わたしが毎日見ている海は、同じ海です。

それなのに、見え方はまるで違うのでしょう。

わたしは、あなたの見ている側の海を、一度も見に行かないまま別れました。

あなたが泣いた、本当の夜

菅原さんからも、話を聞きました。

あなたが別れを言いに来る、前の晩のことです。

夜中に釜場の灯りがついていたので、様子を見に行ったのだそうです。

あなたは、釜の縁に腰かけて、両手で顔を覆っていました。

菅原さんは、声をかけずに戻りました。

「かける言葉が、なかったな」

そう言って、菅原さんは湯呑みを両手で回していました。

翌日のあなたの目が赤くなかったのは、たぶん、前の晩に全部済ませてきたからです。

わたしの前で泣いたのは、こらえきれなかった残りの分だったのでしょう。

あの電柱から見えたもの

菅原さんは、もうひとつ教えてくれました。

あなたは、わたしの家に、来ない日のほうが多かったのだそうです。

坂を上って、電柱のところまで来て、そのまま帰る日が。

「窓、見でだんだべ」

わたしは、その意味がすぐには分かりませんでした。

次の日の朝、わたしは早く起きて、あの電柱まで歩いてみました。

七年ぶりです。

そこに立って、うちのほうを振り返りました。

あの電柱は、うちの窓が、いちばん最後に見える場所でした。

一歩でも坂を上がると、隣の家の屋根に隠れて、もう見えないのです。

あなたは、そこで窓を見ていたのでした。

わたし一人の影しかない晩は、上ってくる。

母や姉の影が見えた晩は、そのまま帰る。

そういうことでした。

あなたは、わたしの家族に、一度も迷惑をかけませんでした。

玄関の前に立ったことも、電話をかけてきたことも、ありません。

あれを遠慮だと言う人がいるかもしれません。

わたしには、そうは思えないのです。

あなたは、自分がどう見られるかを、毎晩、坂の途中で計っていました。

数秒の立ち止まりに、そんなものが詰まっていたなんて。

わたしは七年、それを息継ぎだと思っていました。

毎年十一月に、蔵へ届くもの

あなたが町を出た年から、蔵に、名前のない書留が届くようになりました。

毎年、十一月。

仕込みが始まる、ちょうどその週です。

宛名は「増毛の蔵の みなさま」とだけ書いてあります。

差出人の欄は、空白です。

菅原さんは、中身をわたしには見せてくれません。

「これは、蔵に来たもんだからな」

そのかわり、封筒の表だけを、毎年見せてくれます。

消印を見せてくれるのです。

一年目は、旭川でした。

二年目は、稚内。

三年目は、名寄。

四年目と五年目は、札幌。

六年目は、また旭川でした。

わたしは、その地名を手帳に書き写しています。

あなたが、どこで冬を越したのかを、それだけで知るのです。

菅原さんは、一度だけ、こう言いました。

「あいつ、まだ、蔵に借りがあるつもりでいるんだべ」

あなたは、蔵の道具を一つ、壊したことがありましたね。

親方は笑って許したのに、あなたはそれを、ずっと覚えているのだと思います。

あなたは、そういう人です。

許されたことのほうを、長く覚えている。

この七年で、町が変わったこと

報告を、少しだけさせてください。

駅前の食堂は、去年、店を閉めました。

あなたが好きだった、たらこの定食の店です。

おばさんは元気で、今は娘さんの家にいます。

「あの、手のでっかい兄ちゃん、どうしたべ」

閉店の日、そう聞かれました。

わたしは、笑って、さあ、と答えました。

そう答えるしかなかったのが、少し情けなかったです。

蔵は、機械が二つ増えました。

洗い場の水にも、温水が出るようになりました。

菅原さんが、それを見て言いました。

「あいつがおったら、なんて言うべな」

わたしは、あなたならこう言うと思いました。

「早く終わるようになったなら、その分、誰か助けれるべ」

口には出しませんでした。

言ってしまうと、まだそこにいるみたいになるからです。

母は、退院してから、玄関の電球を明るいものに替えました。

何も言わずにです。

わたしも、何も聞きませんでした。

この家は、そういうやり取りばかりです。

噂を聞いた日

あなたの昔のことを、わたしが知ったのは、暮れの買い物の帰りでした。

魚屋の前で、知らない人が二人、話していました。

わたしの顔を見て、二人とも急に黙りました。

その黙り方で、だいたい分かってしまうのです。

家に帰って、母に聞きました。

母は、大根を切る手を止めずに言いました。

「本人が言わねぇことを、よそから聞くもんでねぇ」

それだけでした。

母は、そのときすでに全部知っていたのだと思います。

知っていて、わたしには言わずにいてくれたのです。

次にあなたに会ったとき、わたしは何も聞きませんでした。

あなたは、それに気づいたようでした。

坂の途中で、いつもより長く立ち止まっていましたから。

その晩、あなたはこう言いました。

「聞かねぇでくれて、ありがとうな」

わたしは、首を横に振りました。

いま思えば、あのとき「聞かせて」と言えばよかったのです。

わたしが黙っていたぶん、あなたは一人で抱え続けることになりました。

優しさのつもりだったものが、いちばん重い荷物になることが、世の中にはあります。

まとめたままの鞄

駆け落ちしようと言った日、わたしは本当に荷物をまとめました。

その鞄は、いまも押入れの奥にあります。

七年間、一度も開けていませんでした。

去年の暮れに、思いきって開けてみました。

入っていたのは、下着と、セーターが二枚と、母の若いころの写真でした。

そして、通帳。

あのころのわたしの全財産は、十一万円でした。

それだけを持って、あなたとどこへ行くつもりだったのでしょう。

二十二の自分の考えの浅さが、いまは少し、いとおしいです。

あなたは、たぶん、その浅さを見抜いていましたね。

だから、首を横に振ったのだと思います。

十一万円で冬を越せないことを、あなたはよく知っていました。

母の写真を入れたのは、なぜだったのか、自分でも分かりません。

持って出るつもりのものの中に、置いていく人の顔があったのです。

わたしは、結局、どちらも手放せない人間でした。

あなたは、それを分かっていて、片方をわたしから外してくれたのです。

優しい人だと言われることを、あなたはいつも嫌がりましたね。

「そんないいもんでねぇ」

そう言って、話を変える。

でも、やっぱり、優しい人でした。

追伸

この手紙を、わたしはどこにも出しません。

出す先が分からないからです。

七年ぶんの手紙が、机の引き出しに溜まっています。

毎年、十一月に一通ずつ書きました。

消印を見せてもらった日に書くのが、いつのまにか決まりになったのです。

もし、いつかあなたが玄関に立つ日が来たら、全部渡そうと思っています。

重いので、鞄を持ってきてください。

今年の消印

今年の封筒を、菅原さんが持ってきました。

わたしは、いつものように表を見ました。

そして、息が止まりました。

消印は、峠を一つ越えた、隣の町のものでした。

車なら四十分の距離です。

菅原さんは、何も言いませんでした。

ただ、封筒をわたしのほうへ少し押して、そのままにしていました。

「見でいいぞ」とも、「見るな」とも言いませんでした。

わたしは、表だけを見て、返しました。

手が震えていたので、封筒に指の跡がついたと思います。

わたしがこの町にいる理由

わたしは、地元には帰りませんでした。

あなたと暮らした、この町で生きています。

診療所は今も同じ場所にあって、わたしは受付から事務に変わりました。

指を切って来る蔵人さんが、今も冬になると来ます。

「まだ、うまくできねぇんだ」

そう言って照れる若い人を見ると、わたしは少しだけ笑ってしまいます。

母は退院して、わたしと二人で暮らしています。

姉は留萌で、子どもが二人になりました。

あの縁談は、うまくいったのです。

だから、あなたのしたことは、無駄ではありませんでした。

そう思うことにしています。

わたしの部屋は、蔵の煙突が見える二階です。

坂の途中の、あの電柱からも、たぶん見えます。

わたしは毎晩、窓の灯りを消さずに眠ります。

電気代がもったいないと母は言いますが、やめられません。

もしあなたが、また坂の途中で立ち止まることがあったら。

そのとき、灯りが消えていたら、あなたはきっと、そのまま帰ってしまうからです。

今度は、上ってきてください。

玄関の前に立ってください。

母も、今なら、お茶を出すと思います。

診療所の窓から、蔵の煙突が見えます。

湯気が上がっている日は、誰かがあの熱い部屋で働いているということです。

わたしは仕事の合間に、つい、その煙を数えてしまいます。

数えたところで、何も分からないのに。

七年というのは、待つには長く、忘れるには短い時間でした。

わたしはその真ん中で、毎日、普通に暮らしています。

笑うこともありますし、腹を立てることもあります。

それでも、坂の途中に人影が見えると、心臓が一度だけ跳ねるのです。

この癖は、たぶん、直りません。

直さなくてもいいと、いまは思っています。

同じように、言えなかった言葉と、その後の時間を書いた話として、路線バスの運転士が見ていた三秒の話と、磨き屋の町の友だちの話も、よろしければお読みください。

元気でいてください。

ごはんを、ちゃんと食べてください。

わたしは今も、あの窓の灯りを消さずに眠っています。

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