あなたが立ち止まった電柱

あなたが立ち止まった電柱

七度目の十一月に、この手紙を書いています

元気ですか。今、どこにいますか。

ちゃんと、ごはんを食べていますか。

悪いことは、もうしていませんか。

あなたと離れてから、七年が経ちました。

増毛は、今年ももう雪です。

十一月の半ばに、山のほうから白くなって、ひと晩で港まで下りてきました。

蔵の煙突から湯気が上がりはじめると、この町の冬は本当に始まります。

あなたが好きだった、あの匂いの季節です。

米を蒸したあとの、甘くて、少しだけ焦げたような匂い。

あの匂いがすると、わたしは今でも、坂の下を見てしまいます。

※

あなたが立ち止まっていた電柱

覚えていますか。

あなたは、うちへ来るとき、必ず二軒先の電柱のところで、一度だけ立ち止まりました。

ほんの数秒です。

わたしはそれを、坂を上ってきて息が切れるのだと思っていました。

「なまら急な坂だな」

あなたはいつも、そう言って笑っていましたから。

だから、わたしはずっと、あれを息継ぎだと思っていたのです。

※

あなたと初めて話したのは、診療所の待合でした。

わたしは受付にいて、あなたは指を三針縫いに来た患者さんでした。

蔵の道具で切ったのだと言いました。

「まだ、うまくできねぇんだ」

三十を過ぎた大人が、そう言って照れるのが、少し不思議でした。

その年の春に、長く塀の中にいた人だと聞いたのは、後になってからです。

町の人は、そういうことを、わざわざ本人には言いません。

そのかわり、わたしの母には、すぐに届きました。

※

蔵人になったあなた

あなたは、十一月から三月までの蔵人でした。

朝の三時に起きて、麹室に入って、白い上っ張りで湯気の中に立つ。

手のひらが、いつも熱いのです。

冬なのに、あなたの手だけが熱かった。

わたしが冷たい指を出すと、あなたは何も言わずに両手で包みました。

そして、少ししてから離す。

長く握らないのが、あなたでした。

※

杜氏の菅原さんは、あなたのことをよく言いました。

「あいつは、道具を洗うのがいちばん早い」

洗い場の水は、冬は手が切れるほど冷たいのです。

誰もが最後まで残したがる仕事を、あなたは先に片づけていました。

「なんで、あんな急ぐんだ」

菅原さんが聞いたら、あなたはこう答えたそうです。

「後でやると、誰かがやることになるから」

その言い方が、わたしにはとてもあなたらしく思えます。

あなたはいつも、誰かの手間を先に引き取る人でした。

※

初しぼりの朝のこと

あの年の一月、あなたが初しぼりの朝に、わたしを蔵へ呼んでくれましたね。

まだ暗いうちに、診療所の裏で待ち合わせました。

雪を踏む音だけが、二人ぶん、坂を下っていきました。

蔵の中は、外より暖かいのに、床は氷のように冷たいのです。

長靴の裏から、冷たさが膝まで上がってきました。

あなたは、湯呑みに白く濁ったものを注いで、わたしに渡しました。

「熱いから、ゆっくり」

甘酒でした。

米の粒が、舌の上で溶けていきました。

喉を通ったあと、胸のあたりが、じんわりと熱くなりました。

わたしは、その熱さで、うまく言葉が出ませんでした。

あなたは、わたしが飲み終わるまで、自分のぶんに口をつけませんでした。

「先に飲むと、味の感想、言えなくなるべ」

そんな理屈があるものかと、わたしは笑いました。

あなたも笑いました。

あのときの、はぜるような笑い方を、わたしは覚えています。

※

帰り道、あなたは港のほうへ遠回りしました。

海が、鉛の色をしていました。

「海、久しぶりに見たときな」

あなたは、それだけ言って、あとは黙っていました。

わたしは、その先を聞きませんでした。

聞かないことが、そのときのわたしにできる、精一杯の優しさでした。

いま思えば、聞いてほしかったのかもしれません。

そこだけが、七年経っても、悔いとして残っています。

※

姉の縁談と、母がついた小さな嘘

あの冬、姉に縁談が来ました。

相手は、留萌のほうの、古い家でした。

結納の話が進むにつれて、うちの空気が、少しずつ固くなっていきました。

母が、夜、台所で長く電話をするようになりました。

わたしは何も聞かされていませんでした。

ただ、あなたが来る回数が、目に見えて減りました。

そして二月の終わりに、あなたは別れを言いました。

「まだ君は若いんだから、みんなに祝福される人と一緒にいたほうが幸せになれる」

そう言いました。

わたしは、駆け落ちしようと言いました。

本気でした。

荷物も、少しまとめていました。

けれどあなたは、首を横に振って、こう言ったのです。

「沢山傷ついてきたね。もう後は、幸せになるだけだから」

二人とも泣きました。

あなたが泣くところを、わたしはその日、初めて見ました。

※

去年の秋、母が入院しました。

点滴の管を見ながら、母がぽつりと言いました。

「わたし、あの人に、会いに行ったの」

雪の中を、蔵の裏まで歩いて行ったのだそうです。

そして、別れてくれと頭を下げた。

あなたは、それを黙って聞いてから、こう言ったといいます。

「わたしから言います。あの子に、お母さんを恨ませたくないので」

母は、七年間、そのことを誰にも言えずにいました。

あの別れの言葉は、あなたが母から引き取ったものでした。

あなたは、いつもそうやって、誰かの手間を先に引き取るのです。

洗い場の水と、同じでした。

※

姉の結婚式の日

姉の式は、その年の秋でした。

留萌のホテルで、親族だけの、静かな会でした。

わたしは、髪を上げて、母の借り物の帯を締めて、写真の端に立ちました。

姉は、きれいでした。

本当に、きれいでした。

わたしは泣きましたが、みんなは嬉し泣きだと思ったようです。

誰も、わたしの泣いている理由を知りませんでした。

母だけが、席に戻ってきたわたしの背中に、そっと手を置きました。

あのときの手の重さの意味を、わたしは去年、病室で知ることになります。

※

式の帰り、車の窓から、日本海が見えました。

わたしは、あなたが海を見た日のことを考えていました。

あなたが久しぶりに見たという海と、わたしが毎日見ている海は、同じ海です。

それなのに、見え方はまるで違うのでしょう。

わたしは、あなたの見ている側の海を、一度も見に行かないまま別れました。

※

あなたが泣いた、本当の夜

菅原さんからも、話を聞きました。

あなたが別れを言いに来る、前の晩のことです。

夜中に釜場の灯りがついていたので、様子を見に行ったのだそうです。

あなたは、釜の縁に腰かけて、両手で顔を覆っていました。

菅原さんは、声をかけずに戻りました。

「かける言葉が、なかったな」

そう言って、菅原さんは湯呑みを両手で回していました。

翌日のあなたの目が赤くなかったのは、たぶん、前の晩に全部済ませてきたからです。

わたしの前で泣いたのは、こらえきれなかった残りの分だったのでしょう。

※

あの電柱から見えたもの

菅原さんは、もうひとつ教えてくれました。

あなたは、わたしの家に、来ない日のほうが多かったのだそうです。

坂を上って、電柱のところまで来て、そのまま帰る日が。

「窓、見でだんだべ」

わたしは、その意味がすぐには分かりませんでした。

次の日の朝、わたしは早く起きて、あの電柱まで歩いてみました。

七年ぶりです。

そこに立って、うちのほうを振り返りました。

あの電柱は、うちの窓が、いちばん最後に見える場所でした。

一歩でも坂を上がると、隣の家の屋根に隠れて、もう見えないのです。

あなたは、そこで窓を見ていたのでした。

わたし一人の影しかない晩は、上ってくる。

母や姉の影が見えた晩は、そのまま帰る。

そういうことでした。

※

あなたは、わたしの家族に、一度も迷惑をかけませんでした。

玄関の前に立ったことも、電話をかけてきたことも、ありません。

あれを遠慮だと言う人がいるかもしれません。

わたしには、そうは思えないのです。

あなたは、自分がどう見られるかを、毎晩、坂の途中で計っていました。

数秒の立ち止まりに、そんなものが詰まっていたなんて。

わたしは七年、それを息継ぎだと思っていました。

※

毎年十一月に、蔵へ届くもの

あなたが町を出た年から、蔵に、名前のない書留が届くようになりました。

毎年、十一月。

仕込みが始まる、ちょうどその週です。

宛名は「増毛の蔵の みなさま」とだけ書いてあります。

差出人の欄は、空白です。

菅原さんは、中身をわたしには見せてくれません。

「これは、蔵に来たもんだからな」

そのかわり、封筒の表だけを、毎年見せてくれます。

消印を見せてくれるのです。

一年目は、旭川でした。

二年目は、稚内。

三年目は、名寄。

四年目と五年目は、札幌。

六年目は、また旭川でした。

わたしは、その地名を手帳に書き写しています。

あなたが、どこで冬を越したのかを、それだけで知るのです。

※

菅原さんは、一度だけ、こう言いました。

「あいつ、まだ、蔵に借りがあるつもりでいるんだべ」

あなたは、蔵の道具を一つ、壊したことがありましたね。

親方は笑って許したのに、あなたはそれを、ずっと覚えているのだと思います。

あなたは、そういう人です。

許されたことのほうを、長く覚えている。

※

この七年で、町が変わったこと

報告を、少しだけさせてください。

駅前の食堂は、去年、店を閉めました。

あなたが好きだった、たらこの定食の店です。

おばさんは元気で、今は娘さんの家にいます。

「あの、手のでっかい兄ちゃん、どうしたべ」

閉店の日、そう聞かれました。

わたしは、笑って、さあ、と答えました。

そう答えるしかなかったのが、少し情けなかったです。

※

蔵は、機械が二つ増えました。

洗い場の水にも、温水が出るようになりました。

菅原さんが、それを見て言いました。

「あいつがおったら、なんて言うべな」

わたしは、あなたならこう言うと思いました。

「早く終わるようになったなら、その分、誰か助けれるべ」

口には出しませんでした。

言ってしまうと、まだそこにいるみたいになるからです。

※

母は、退院してから、玄関の電球を明るいものに替えました。

何も言わずにです。

わたしも、何も聞きませんでした。

この家は、そういうやり取りばかりです。

※

噂を聞いた日

あなたの昔のことを、わたしが知ったのは、暮れの買い物の帰りでした。

魚屋の前で、知らない人が二人、話していました。

わたしの顔を見て、二人とも急に黙りました。

その黙り方で、だいたい分かってしまうのです。

家に帰って、母に聞きました。

母は、大根を切る手を止めずに言いました。

「本人が言わねぇことを、よそから聞くもんでねぇ」

それだけでした。

母は、そのときすでに全部知っていたのだと思います。

知っていて、わたしには言わずにいてくれたのです。

※

次にあなたに会ったとき、わたしは何も聞きませんでした。

あなたは、それに気づいたようでした。

坂の途中で、いつもより長く立ち止まっていましたから。

その晩、あなたはこう言いました。

「聞かねぇでくれて、ありがとうな」

わたしは、首を横に振りました。

いま思えば、あのとき「聞かせて」と言えばよかったのです。

わたしが黙っていたぶん、あなたは一人で抱え続けることになりました。

優しさのつもりだったものが、いちばん重い荷物になることが、世の中にはあります。

※

まとめたままの鞄

駆け落ちしようと言った日、わたしは本当に荷物をまとめました。

その鞄は、いまも押入れの奥にあります。

七年間、一度も開けていませんでした。

去年の暮れに、思いきって開けてみました。

入っていたのは、下着と、セーターが二枚と、母の若いころの写真でした。

そして、通帳。

あのころのわたしの全財産は、十一万円でした。

それだけを持って、あなたとどこへ行くつもりだったのでしょう。

二十二の自分の考えの浅さが、いまは少し、いとおしいです。

あなたは、たぶん、その浅さを見抜いていましたね。

だから、首を横に振ったのだと思います。

十一万円で冬を越せないことを、あなたはよく知っていました。

※

母の写真を入れたのは、なぜだったのか、自分でも分かりません。

持って出るつもりのものの中に、置いていく人の顔があったのです。

わたしは、結局、どちらも手放せない人間でした。

あなたは、それを分かっていて、片方をわたしから外してくれたのです。

優しい人だと言われることを、あなたはいつも嫌がりましたね。

「そんないいもんでねぇ」

そう言って、話を変える。

でも、やっぱり、優しい人でした。

※

追伸

この手紙を、わたしはどこにも出しません。

出す先が分からないからです。

七年ぶんの手紙が、机の引き出しに溜まっています。

毎年、十一月に一通ずつ書きました。

消印を見せてもらった日に書くのが、いつのまにか決まりになったのです。

もし、いつかあなたが玄関に立つ日が来たら、全部渡そうと思っています。

重いので、鞄を持ってきてください。

※

今年の消印

今年の封筒を、菅原さんが持ってきました。

わたしは、いつものように表を見ました。

そして、息が止まりました。

消印は、峠を一つ越えた、隣の町のものでした。

車なら四十分の距離です。

菅原さんは、何も言いませんでした。

ただ、封筒をわたしのほうへ少し押して、そのままにしていました。

「見でいいぞ」とも、「見るな」とも言いませんでした。

わたしは、表だけを見て、返しました。

手が震えていたので、封筒に指の跡がついたと思います。

※

わたしがこの町にいる理由

わたしは、地元には帰りませんでした。

あなたと暮らした、この町で生きています。

診療所は今も同じ場所にあって、わたしは受付から事務に変わりました。

指を切って来る蔵人さんが、今も冬になると来ます。

「まだ、うまくできねぇんだ」

そう言って照れる若い人を見ると、わたしは少しだけ笑ってしまいます。

母は退院して、わたしと二人で暮らしています。

姉は留萌で、子どもが二人になりました。

あの縁談は、うまくいったのです。

だから、あなたのしたことは、無駄ではありませんでした。

そう思うことにしています。

※

わたしの部屋は、蔵の煙突が見える二階です。

坂の途中の、あの電柱からも、たぶん見えます。

わたしは毎晩、窓の灯りを消さずに眠ります。

電気代がもったいないと母は言いますが、やめられません。

もしあなたが、また坂の途中で立ち止まることがあったら。

そのとき、灯りが消えていたら、あなたはきっと、そのまま帰ってしまうからです。

今度は、上ってきてください。

玄関の前に立ってください。

母も、今なら、お茶を出すと思います。

診療所の窓から、蔵の煙突が見えます。

湯気が上がっている日は、誰かがあの熱い部屋で働いているということです。

わたしは仕事の合間に、つい、その煙を数えてしまいます。

数えたところで、何も分からないのに。

七年というのは、待つには長く、忘れるには短い時間でした。

わたしはその真ん中で、毎日、普通に暮らしています。

笑うこともありますし、腹を立てることもあります。

それでも、坂の途中に人影が見えると、心臓が一度だけ跳ねるのです。

この癖は、たぶん、直りません。

直さなくてもいいと、いまは思っています。

※

同じように、言えなかった言葉と、その後の時間を書いた話として、路線バスの運転士が見ていた三秒の話と、磨き屋の町の友だちの話も、よろしければお読みください。

元気でいてください。

ごはんを、ちゃんと食べてください。

わたしは今も、あの窓の灯りを消さずに眠っています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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