可愛い彼女がいた

俺には、優しい恋人がいた。

優しすぎるくらいの女だった。けれど、世間はその優しさを、まるで値打ちのないもののように扱った。

彼女は勉強がまるで駄目で、高校も通信制をやっと出た口だった。要領も悪く、まともな勤め先にも就けず、いくつもの仕事を転々としていた。喋り方も、どこかおっとりしていて、初対面の人にはよく、馬鹿にされた。

友人の紹介で付き合いはじめたとき、周りはみんな、にやにやと笑った。

「お前、あの子と付き合ってんの。物好きだなあ」

その言葉が、俺の中に、小さな棘になって刺さった。

最初の一年は、嘘みたいに幸せだった。

彼女は、俺の言うことなら何でも嬉しそうに聞いた。安い定食屋で、二人で笑い転げた夜。古いアパートの窓から、並んで花火を見た夏。彼女が作る不格好な弁当の、甘すぎる卵焼き。どれもが、今思えば、宝物のような時間だった。

彼女の優しさは、計算のない優しさだった。見返りを求めるということを、たぶん知らない人だった。

道で困っている老人がいれば、迷わず駆け寄る。捨てられた子猫を見つければ、雨の中、傘を差し掛けて、ずぶ濡れになる。要領が悪いというのは、裏を返せば、損得で動けないということだった。俺は、その不器用な真心を、当時は、ただの鈍さだとしか思っていなかった。

けれど、人の目というのは、じわじわと心を蝕んでいく。

大学の友人と歩いているとき、彼女と出くわすのが、だんだん気まずくなっていった。垢抜けない服装。とんちんかんな受け答え。それを友人に見られることが、俺はたまらなく恥ずかしかった。

彼女は、俺の機嫌をとろうと、いっそう尽くすようになった。けれど、その健気さすら、俺には次第に、鬱陶しく感じられた。

大学の成績が振るわず、将来への焦りもあった。苛立ちのはけ口を、俺は、いちばん優しい相手に向けていた。彼女に冷たく当たることで、自分の不甲斐なさを、ごまかしていたのだ。

思い返せば、こんなことがあった。

あるとき、大学の友人たちと飲んでいる店に、彼女が、忘れ物の俺の財布を、わざわざ届けに来てくれた。息を切らして、頬を真っ赤にして。本当なら、ありがとうと、礼を言うべきだった。

なのに俺は、友人たちの視線が気になって、つい、こう言ってしまった。

「なんで、こんなとこまで来るんだよ。郵便受けにでも、入れときゃいいだろ」

彼女の顔から、すっと、笑みが消えた。それでも彼女は、気を取り直したように、ごめんね、邪魔して、と頭を下げて、帰っていった。

友人の一人が、ぼそりと言った。

「お前、ちょっと、ひどくないか」

その言葉に、俺は、何も言い返せなかった。心のどこかでは、自分が間違っていると、分かっていた。分かっていて、見ないふりをしていた。

今になって、痛いほど分かる。彼女が尽くしてくれたのは、俺に捨てられないためではなかった。ただ、好きな人に、喜んでほしかった。それだけだったのだ。

なのに俺は、その純粋さを、重荷のように感じていた。電話に出ないふりをした。約束を、わざとすっぽかした。冷たくすればするほど、彼女は不安そうな顔をして、もっと俺に近づこうとした。その繰り返しが、俺をさらに苛立たせた。今思えば、苛立っていた本当の相手は、誰でもない、情けない自分自身だった。

あれは、俺がひどい胃腸炎で寝込んだ、冬の日のことだった。

心配した彼女が、看病するからと、俺のアパートにやって来た。正直、嫌な予感がした。そして、予感は的中した。

皿は割る。洗剤はこぼす。生乾きの洗濯物を、平気で布団の上に放り込む。煮込みすぎた粥は、ひどい味がした。

そして、極めつけのことが起きた。

棚の上を片付けようとした彼女が、そこに飾ってあった帆船模型を、床に落として、こなごなに割ってしまったのだ。

それは、二年前に亡くなった父の、形見だった。父が生前、退院したら一緒に作ろうと言っていた模型を、俺が一人で組み上げ、ずっと大切に飾っていたものだった。

その帆船模型のことを、少し、話さなければならない。

俺の父は、船が好きな人だった。海も見えない町に住みながら、いつか大きな帆船に乗るのが夢だと、酔うとよく語っていた。その父が、病で入院したとき、枕元で、二人で作ろうと約束したのが、あの模型だった。

だが父は、退院することなく、逝った。残されたのは、封も切られていない、模型の箱だけだった。

俺は、その箱を、何ヶ月も開けられなかった。ようやく組み上げたとき、俺は、声を殺して泣いた。それは、父との、最後の約束を、たった一人で果たした、たった一つの、よすがだった。

だからこそ、それが割れたとき、俺は、自分を見失った。

俺の中で、何かが、音を立てて壊れた。

「お前、なんてことしてくれたんだ……!」

気づいたときには、怒鳴っていた。

「もういい!出て行け!お前なんか、二度と来るな!」

俺は、彼女の肩を、思いきり突き飛ばした。彼女は壁にぶつかり、ずるずると座り込んだ。

そして、消え入りそうな声で、ただ一言、

「……ごめんね」

とだけ呟いて、泣きながら、玄関の向こうへ消えていった。

その背中を、俺は、見送りもしなかった。割れた模型の破片を、ただ呆然と、拾い集めていた。

あの「ごめんね」が、彼女が俺に遺した、最後の言葉になるはずだった。突き飛ばされ、泣きながら、それでも謝ったのは、彼女のほうだった。割ったのは事故で、傷つけたのは俺なのに。なぜ、彼女が謝らなければならなかったのか。その理不尽さに、俺は今も、打ちのめされる。

それから、一週間後のことだった。

見知らぬ番号から電話がかかってきた。彼女が、交通事故に遭ったという知らせだった。

病院に駆けつけると、白い廊下の先の病室に、彼女はいた。

医者が、俺を見て言った。

「ご家族の方ですか」

俺は、首を横に振るしかなかった。家族ではない。恋人、と名乗る資格も、もうない気がした。

「ご友人ですか。よかった、ご家族と、なかなか連絡がつかなくて」

医者は、そう言って、声をひそめた。

「手は尽くしました。ですが……今夜が、山です」

その言葉の意味を、俺は、うまく飲み込めなかった。

廊下のベンチで、俺は、ひとり夜を過ごした。

蛍光灯の白い光が、やけに冷たかった。俺は、この一週間、彼女に一度も連絡をしなかったことを、悔やんでいた。あんなふうに別れて、そのままにして。もし、あのとき、たった一本、電話をかけていたら。彼女は、考えごとなどせずに、信号を、ちゃんと見ていたかもしれないのに。

後悔は、いくらでも、後から湧いてくる。けれど、後悔がどれほど積もっても、時間は、一秒たりとも、巻き戻らない。

どれくらい、時間が経っただろう。

深夜になって、彼女が、うっすらと目を覚ました。包帯の隙間から覗く目に、ゆっくりと焦点が戻っていく。

「……来て、くれたんだ」

かすれた声だった。彼女は、痛みをこらえながら、わずかに微笑んだ。

「俺の、せいだ。俺が、あんなこと言ったから」

「ちがうよ」

彼女は、弱々しく、首を振った。

「わたしがね、考えごとしてて……信号、見てなかったの。あなたのこと、考えてたら……」

「もう、喋るな。喋らなくていいから」

心電図の、規則正しい電子音だけが、静かな病室に響いていた。

俺は、彼女の冷たくなりかけた手を、両手で包み込んでいた。少しでも温めたかった。この手は、いつも俺のために、不格好な弁当を握り、下手な掃除をしてくれた手だった。その手に、俺は、どれだけの冷たい言葉を、返してきただろう。

彼女の手が、俺の手を探した。握り返すと、その力は、もう、あるかないかというほど、頼りなかった。

「ねえ。元気になったら……また、あなたのおうち、行ってもいい?仲直り、したいな」

「ああ。いつでも来い。元気になったら、いくらでも来い」

「お料理も、お掃除も……ちゃんと、できるように、なるから」

「そんなの、どうだっていい。お前は、ただ、治せ。治して、また笑え。なあ、おい——」

彼女は、満足そうに、ふっと笑った。

そして、その手から、力が抜けた。

葬式は、ひどく、そっけないものだった。

のろのろと現れた家族の人たちは、どこか冷めた顔をしていた。悲しんでいる者は、ほとんどいないように見えた。彼女が、どれほど優しい人間だったか、知る者は、その場に、俺くらいしかいなかった。

火葬場の煙を見上げながら、俺は、ぼんやりと思っていた。この世界で、彼女の死を、心の底から悲しんでいるのは、もしかしたら、彼女をいちばんひどく扱った、この俺だけなのかもしれない、と。

なんという皮肉だろう。いちばん大切にしてやれなかった人間が、いちばん深く、その人を悼んでいる。

後日、家族に頼まれて、俺は彼女の部屋を、片付けに行った。

古びた、狭いアパートだった。物の少ない、つましい暮らしぶりが、そのまま部屋になったような場所だった。

片付けは、思いのほか、早く済んでしまった。彼女の持ち物は、悲しくなるほど、少なかった。

段ボールに、彼女の服や、小物を詰めていく。その一つひとつから、彼女の匂いがした。安い柔軟剤の、どこか懐かしい匂いだった。

机の上に、一冊の日記帳があった。開いてはいけないと思いながら、俺は、その表紙を、めくってしまった。

下手な、けれど一生懸命な字で、俺との日々が、綴られていた。

日付は、あの事故の、前日で、止まっていた。

指先が、震えた。

一行いちぎょう、たどたどしい字を追うたびに、俺は息ができなくなった。そこには、俺が冷たくした日のことが、彼女なりの言葉で、けれど少しも俺を責めることなく、綴られていた。

『きょうは、あまり話してくれなかった。つかれてたのかな。あした、すきな おかずを つくってあげよう』

『お店で、わたしの ことを わらってる人がいた。でも、あの人の となりに いられるなら、わたしは へいきだ』

俺は、ページを繰る手を、止められなかった。止めてしまったら、彼女が、本当にいなくなってしまう気がした。

最後のページには、こう書いてあった。

『きょう、もけいやさんに いってきた。あなたの たいせつな はんせんもけいを わってしまったから。お店の人に たすけてもらって、おなじものを いっしょに なおしてもらった。じょうずに できたかな。あした これをもって、あやまりに いこう。おかゆも、おそうじも、れんしゅうした。あなたが よろこんでくれたら、いいな』

俺は、その場に、崩れ落ちた。

部屋の押入れの奥に、丁寧に布で包まれた、小さな包みがあった。

包みを開く前から、それが何か、俺には分かっていた。

布越しに伝わる、その形。指先が、勝手に、その輪郭をなぞっていた。

震える手で、それを開いた。

中には、あの帆船模型が、あった。割れたはずの、父の形見が。彼女が、模型店の人に頭を下げて、一から組み直してくれた、その船が。

帆の張り方は、少しいびつだった。接着剤が、はみ出している場所もあった。お世辞にも、上手とは言えなかった。

その船を、俺は、両手で、そっと掲げた。窓から差し込む朝の光が、いびつな帆を、白く照らした。

彼女は、模型のことなど、何ひとつ知らなかったはずだ。それでも、店の人に頭を下げ、おそらく何度も手を止めながら、一つひとつの部品を、貼り合わせてくれた。俺の大切なものを、自分の手で、取り戻そうとして。たったそれだけのために、彼女は、貴重な時間を、惜しみなく使ってくれたのだ。

けれど、その不器用な船は、俺が一人で作った、あのときの船よりも、ずっと、ずっと、美しく見えた。

俺は、その船を抱きしめて、声を上げて泣いた。

恥ずかしいと思っていた。人の目ばかり、気にしていた。あんなに優しい人間を、俺は、世間の物差しで測って、傷つけて、突き飛ばして、追い返した。

思えば、彼女は一度も、俺を責めなかった。冷たくされても、馬鹿にされても、突き飛ばされても。彼女の日記のどこにも、俺への恨み言は、一行たりとも、なかった。あったのは、ただ、好きな人に喜んでほしいという、その一心だけだった。

その一途さの前に、世間の物差しなど、なんと薄っぺらいものだったろう。俺は、いちばん尊いものを、いちばん近くに置きながら、その値打ちに、最後まで気づけなかった。

彼女が最後まで望んでいたのは、ただ、俺と仲直りをすることだけだったのに。

あれから、何年もの月日が流れた。

俺は、人の目を、気にしなくなった。正確に言えば、人の目で人を測ることの、愚かさを、骨身に染みて知ったからだ。誰かを好きになるということに、世間の物差しなど、何の関係もない。彼女は、命を懸けて、そのことを、俺に教えてくれた。

今でも、ふとした拍子に、彼女の声が、よみがえる。あの、おっとりとした、けれど芯のある声が。ごめんね、と言ったあの声が。

その声を聞くたびに、俺は、机の上の帆船を、そっと撫でる。父との約束を果たした船を、彼女が、もう一度、繋ぎ直してくれた。二人の不器用な人間の手が、この一艘の船には、宿っている。

だから俺は、この船を、けっして手放さない。これが、俺の、生きていく上での、たった一つの錨なのだ。

机の上の帆船は、今日も、いびつな帆を張ったまま、海のない部屋で、じっと俺を見ている。その不格好な姿が、俺には、どんな名画よりも美しい。人を愛するということの、本当のかたちが、この一艘には、刻まれているのだから。

俺は今、まっとうに生きようとしている。誰かに優しくできたとき、ふと、彼女の顔が浮かぶ。お前のおかげだよと、心の中で、そっと礼を言う。それが、俺にできる、たった一つの償いだ。

今、彼女の墓は、海の見える、小さな丘の上にある。

墓前に立つと、潮の匂いがする。船の好きだった父と、その船を繋ぎ直してくれた彼女。二人とも、もう、ここにはいない。俺はただ、海を見ながら、心の中で、何度も語りかける。

元気にしてるか。あの世でも、困ってる人に、傘を差してやってるか。卵焼きは、あいかわらず甘すぎるのか。

会いたい。ただ、それだけだ。きれいごとでも、贖罪でもない。俺はただ、もう一度、あのおっとりした笑顔を、すぐ隣で見たいだけなのだ。

あの帆船模型は、俺の部屋の、いちばん目立つ場所に、今も飾ってある。いびつな帆も、はみ出した接着剤も、一つも直さずに、そのままにしてある。

あれは、俺が世界でいちばん、恥じるべきものを、教えてくれた船だ。恥じるべきは、彼女ではなく、彼女を恥じた、俺自身だったのだと。

もし、たった一つだけ願いが叶うなら。

この、どうしようもなく愚かな俺に、もう一度だけ、彼女に会わせてほしい。そして今度こそ、誰の目も気にせず、胸を張って、隣を歩かせてほしい。

ごめんな、と、ありがとう、を。あの日、言えなかった言葉を、もう一度だけ、伝えさせてほしい。

優しさを、弱さと取り違えてはいけない。あのころの俺に、もし一つだけ言えるなら、ただ、それだけを伝えたい。

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