止まった腕時計と月に一度の席

カフェ

国道沿いのファミリーレストランで、私はパートを十一年続けている。

毎月の第三土曜日、午後五時。

窓際の十四番テーブルに、その二人は必ずやって来る。

先に来るのは、いつも父親のほうだ。

痩せた、四十代の終わりくらいの男の人で、スーツの肩に、少しだけ皺が寄っている。

注文はコーヒー一杯だけ。

その左の袖口から、ときどき、止まった腕時計が覗く。

大人の男の人には似合わない、うさぎの絵が描かれた、小さな文字盤だった。

父親は、それに気づかれるたび、袖を指先で引き下ろして隠した。

針は、いつも同じ場所、四時五十分を指して止まっていた。

ネクタイは、いつも紺の無地だった。

毎月、少しずつ、ほつれが目立っていく。

窓の外を、トラックが何台も通り過ぎる。

そのたびに、テーブルのコップの水が、かすかに揺れた。

彼は、時刻を確かめているのではなかった。

時計がそこにあることを、確かめているように見えた。

メニューを開くことも、ほとんどない。

娘さんは、五時ちょうどにやって来る。

制服のスカートに、紺のカーディガン。

肩までの髪を、いつも同じ黒いゴムでひとつに結んでいる。

目のぱっちりした子で、笑うと、右の頬にだけえくぼができる。

「お待たせ」

「いや、今来たところだ」

父親は、毎月、同じ嘘をつく。

コーヒーカップの底には、もう半分ほどの冷めた跡が残っているのに。

十四番テーブルの会話は、盗み聞きするつもりがなくても、水を替えに行くたびに、少しずつ耳に入ってくる。

「お母さん、元気にしてる?」

「うん、大丈夫だよ」

「ちゃんとご飯、食べてるか」

「毎日、ちゃんと食べてるよ」

そのやり取りは、毎月ほとんど変わらなかった。

ただ、父親の声だけが、少し高い。

必要以上に陽気で、どこか、足元の悪い道を歩く人の声に似ていた。

私は、十四番の担当ではない。

けれど、第三土曜日だけは、窓際の持ち場を、同僚に代わってもらっている。

自分でも、理由はよくわからない。

レジの横の花瓶には、店長が気まぐれに買ってくる小さな花が挿してある。

その月の花は、十四番の水を替えるついでに、私が整えるのが習慣になった。

十四番は、窓際の二人掛けで、国道を行く車のヘッドライトが、ガラス越しに流れていく席だ。

夕方の五時といえば、家族連れが増え始める時間で、本当は少し忙しい。

それでも私は、毎月その時刻になると、なぜか手が空くような気がした。

同僚の佐伯さんは、「あの親子、来たわね」と、いつも小声で言う。

「うちの子も、あのくらいの頃は、可愛かったのに」

そう言って笑うのが、彼女の常だった。

私には、子どもがいない。

だからだろうか、あの二人の距離の取り方を、人より長く見つめてしまう。

この店には、さまざまな家族が来る。

常連の老婦人から、父が最後にかけた電話の話を聞いたこともあるし、母が毎朝つづけていた祈りの話を聞いたこともある。

ホールに立っていると、人の暮らしの断面が、毎日、少しずつ運ばれてくる。

けれど、十四番テーブルの二人は、私にとって、少し特別だった。

理由は、うまく言えない。

ただ、あの二人が帰ったあとのテーブルは、いつも不思議なほど静かだった。

ミートドリアの約束

二人が離れて暮らしていることを、私は最初の月から察していた。

一緒に暮らしている親子は、あんなふうに、お互いの顔色を窺わない。

娘さんが選ぶのは、いつもミートドリアとドリンクバーだった。

熱いのが苦手なのか、スプーンですくっては、ふうふうと息を吹きかける。

その横顔を、父親は、コーヒーも飲まずに眺めている。

食べているのは娘さんなのに、父親のほうが、味わっているように見えた。

「学校は、どう」

「ふつう。来月、中間テストがあるくらい」

「部活は」

「弓道。今度、地区の大会があるの」

「見に行ってもいいか」

彼女は、スプーンを持つ手を止めた。

「お母さんに、聞いてみる」

「そうだな。そうだよな」

父親は、慌てたように頷いて、コーヒーカップを持ち上げた。

カップはもう空だった。

空のカップを口に運ぶ仕草が、妙に長く感じられた。

八月の第三土曜日は、娘さんが来なかった。

部活の合宿と重なったのだと、あとで聞いた。

それでも父親は、いつもの時刻に来て、いつもの席に座った。

五時を過ぎ、六時を過ぎても、娘さんは現れなかった。

「お水、お取り替えしますね」

「ああ、すみません。日にちを、間違えたのかもしれません」

彼は、そう言って笑った。

けれど、スーツの内ポケットから覗いた今月のカレンダーには、その日に赤いペンで丸がついていた。

私は、お代わりのコーヒーを、サービスですと言って置いた。

店長は、何も言わなかった。

三か月前の七月に、一度だけ、いつもと違うことがあった。

その日は、父親のほうが先に注文を決めていた。

「すみません、お子様プレートを、ひとつお願いします」

私は思わず、伝票から顔を上げた。

当店のお子様プレートは、小学生まで、という決まりになっている。

旗の立った、小さなチキンライスと、ミニハンバーグの載った、あれだ。

「あの、お子様プレートは、小学生までで」

そう言いかけたとき、父親の耳が、赤くなっているのに気づいた。

「娘が、好きだったものですから」

「小さい頃、この店に来ると、必ずそれを頼んでいて」

「旗を、集めていたんです」

「あの頃は、旗を三十本ためたら、何かご褒美をあげる約束で」

「結局、何も、あげられなかったんですが」

私は、言いかけた言葉を飲み込んで、頷いた。

「店長に、確認してまいります」

厨房に戻ると、店長は、口の端で笑って、親指を立てた。

「平田さん、あの席、毎月ですよね」

「うん。コーヒー一杯で、一時間半だ。売り上げは、ゼロに近いな」

店長はそう言って、フライパンを振った。

「でも、あの席が空いてると、なんか店が寂しくなるんだ」

その気持ちは、私にもよくわかった。

「いいよ、いいよ。そのくらいの融通は利かせなきゃ」

運んでいったお子様プレートを見て、娘さんは目を丸くした。

「お父さん、私、もう十七だよ」

そう言いながら、彼女は声を出して笑った。

右の頬にだけ、えくぼができた。

「懐かしい。この旗」

彼女は、チキンライスの山の頂から、小さな紙の旗を引き抜いた。

そして、それを、制服の胸ポケットに、そっとしまった。

父親は、見ないふりをして、窓の外を眺めていた。

その背中が、ほんの少し、揺れていた。

その旗を、彼女がどうしたのかは、知らない。

ただ、会計のあとでテーブルを拭きに行くと、お子様プレートのお皿は、きれいに空になっていた。

ニンジンの欠片ひとつ、残っていなかった。

止まった腕時計

九月に入った最初の面会の日、私は初めて、娘さんから声をかけられた。

彼女は、父親が席を立った隙に、レジの横まで来て、小さな声で言った。

「あの、眼鏡の修理に使うような、小さいドライバーって、ありますか」

「ドライバー?」

「時計の裏蓋を開けたくて。来月、この席で、使いたいんです」

私は、少し驚いて、彼女の顔を見た。

レジの引き出しの奥には、店長が眼鏡の修理に使う小さな工具が、一式入っている。

「あると思う。店長に聞いてみるわね」

「ありがとうございます」

彼女は、深く頭を下げた。

その手の中に、百円ショップの袋に入った、小さな丸いものが握られていた。

ボタン電池だった。

彼女は私の視線に気づいて、慌てて袋を後ろへ回した。

「父には、内緒にしてください」

「わかったわ」

「あの時計、私が七歳のときに、父の日にあげたものなんです」

「お小遣いを三か月ためて、駅前の文具店で買いました」

「いつも着けてくれてるのに、動いてるところを、見たことがなくて」

彼女の声は小さかったが、芯があった。

「お母さんが言ってました。家を出た日から、あの時計は止まったままだって」

そのとき初めて、私は理解した。

うさぎの絵の腕時計が、なぜ、いつも止まっているのか。

電池さえ替えれば、すぐに動くはずなのに、と思ったことは、私にもあった。

けれど、それを替えられない理由が、あの男の人にはあるのだと、なんとなく感じていた。

父親が戻ってくると、娘さんは、何ごともなかったように席へ戻った。

「新しいお父さん、優しい人か」

「え」

「ああ、いや。この前、ちらっと聞いたから」

父親は、笑顔をつくろうとしていた。

けれど、その口の端が、うまく上がらなかった。

私はその場を離れて、グラスに水を足しに行った。

休憩室で、佐伯さんにだけ、その話をした。

「ドライバー? 時計の電池でも、替えるのかしらね」

「さあ」

「あの子、いい子ね。お父さんのこと、ちゃんと見てる」

佐伯さんは、冷めたお茶を一口飲んだ。

「見てるのよ、子どもは。大人が思ってるよりずっと」

私は、何も答えなかった。

けれど、その言葉が、帰り道まで、胸の中で転がっていた。

止まった腕時計は、その月も、止まったままだった。

その月の面会は、いつもより短く終わった。

帰り際、彼女は私にだけ聞こえる声で、「来月、お願いします」と言った。

私は頷くかわりに、エプロンのポケットを軽く叩いた。

前の晩に、店長へ工具を借りたいと頼んだとき、彼は理由を訊かなかった。

「使い終わったら、元の引き出しにな」

それだけ言って、また鍋に向き直った。

十月の第三土曜日。

朝から、冷たい風が吹いていた。

窓の外は、夕方の五時を過ぎても、まだ少し明るかった。

街路樹の銀杏が、黄色く色づき始めている。

私は、店長から借りた小さなドライバーを、エプロンのポケットに入れて待っていた。

その重みを、布越しに何度も確かめた。

小さな金属の棒が、こんなにも頼りなく、こんなにも大切に思えたのは初めてだった。

私は、渡すべき瞬間を逃さないように、いつもより何度もテーブルの様子を見に行った。

いつものように、父親が先に来た。

十四番テーブルに座り、コーヒーを頼み、袖口を引き下ろす。

五時ちょうどに、娘さんが現れた。

今日は、制服ではなかった。

白いブラウスに、薄いグレーのスカート。

髪は、いつもの黒いゴムではなく、細い紺のリボンで結ばれていた。

「お待たせ」

「いや、今来たところだ」

同じやり取りのあとで、少しだけ、間があった。

新しいお父さんの話

彼女は、いつものミートドリアを頼んだ。

父親は、今日もコーヒーだけを頼んだ。

運んでいくと、二人は、珍しく黙っていた。

窓のガラスに、店内の灯りが映っている。

十四番テーブルが、ガラスの中にも、もう一つあるように見えた。

「ねえ、お父さん」

「うん」

「新しいお父さんのこと、気にしてたでしょう」

父親の肩が、ぴくりと動いた。

「いや、そんな」

「聞いていいよ。ちゃんと答えるから」

彼女はスプーンを置いて、まっすぐに父親を見た。

「新しいお父さんはね、とっても優しい人だよ」

「新しいお父さんのことは、好きだよ」

「でも、お父さんって呼ぶのは、まだ少し、練習がいるの」

「毎月ここに来る前の日は、何を話そうか、ノートに書いてる」

「書いても、結局、ぜんぶ忘れちゃうんだけど」

「朝は、私の分のお弁当も、一緒に作ってくれる」

「そうか」

「よかったな」

父親は、笑顔をつくろうとした。

その笑顔のまま、目の端に、涙が浮かんでいた。

父親は、膝の上で組んだ両手を、ほどいたり、組み直したりしていた。

爪の先が白くなるほど、強く握っている。

「でもね」

彼女は、少し間を置いた。

「私が一番好きなのは、お父さんだよ」

店のBGMが、そこで、一瞬だけ途切れたように感じた。

父親の顔から、さっきまで貼りつけていた明るさが、すうっと抜け落ちた。

かわりに現れたのは、ずっとこの人の奥にあった、深い悲しみだった。

私は、水差しを持ったまま、動けなかった。

周りの席の笑い声も、食器の触れ合う音も、遠ざかっていくようだった。

父親は、何かを言おうとして、口を開いた。

けれど、声は出なかった。

彼は、おしぼりで目頭を押さえた。

その拍子に、スーツの袖がずり上がった。

うさぎの絵の腕時計が、あらわになる。

針は、いつものように、同じ場所で止まっていた。

「それ、まだ着けてたんだね」

彼女は、静かに言った。

「小さいとき、これを着けたお父さんの手を、握るのが好きだった」

「握るたびに、手首のうさぎが、ちょっとだけ揺れて」

父親は、うつむいた。

「七歳の父の日に、私があげたやつ」

「電池が切れてるだけなんだ」

父親は、袖を引き下ろそうとした。

「替えれば、いいのに」

「替えたら、動いてしまうだろう」

その一言が、思いのほか、はっきりと聞こえた。

父親は、自分でも驚いたように、口をつぐんだ。

「あの日の、お父さんの時間が、進んでしまう気がして」

彼女は、小さく頷いた。

そして、制服ではない白いブラウスの袖から、小さな紙包みを取り出した。

「お父さん。手、貸して」

私は、エプロンのポケットから、ドライバーを取り出して、テーブルの端にそっと置いた。

私は、父親の顔を見られなかった。

見てはいけないものが、そこにある気がした。

かわりに、テーブルの上のうさぎの文字盤を見た。

うさぎは、ずっと同じほうを向いて、笑っていた。

娘さんは、驚いたように私を見て、それから、ほんの少し笑った。

父親は、もう止めなかった。

止める言葉を、探してはいたのだと思う。

けれど、その言葉は、見つからなかったのだ。

差し出された左手首から、彼女が、うさぎの腕時計をそっと外した。

裏蓋の小さな溝に、ドライバーの先を差し込む。

細い指先が、ためらいなく動いた。

古い電池が、テーブルの上で、小さな音を立てた。

新しい電池を入れ、裏蓋を閉じる。

かちり、と小さな音がした。

彼女は息を止めて、竜頭に指をかけた。

彼女は、時計を父親の手首に戻し、竜頭を回して、時刻を合わせた。

「今、五時十二分」

「合わせるよ」

父親の手首が、ほんの少し、震えていた。

彼女は、そっと手を離した。

秒針が、七年ぶりに、動き出した。

袖を引き下ろさなかった人

窓際の十四番テーブルは、それから、しばらく静かだった。

父親は、動き出した針を、じっと見つめていた。

彼女は、ミートドリアが冷めるのも構わず、その横顔を見ていた。

私は、そっと水を足して、その場を離れた。

会計のとき、父親は、深く頭を下げた。

「店長さんに、ドライバーのお礼を」

「承知しました」

「それから」

彼は、少しだけ、言葉を探した。

「娘が、お世話になりました」

「いえ。お世話なんて」

それ以上は、何も言えなかった。

二人は、いつものように、店の前で別れた。

雨あがりのような匂いが、駐車場に残っていた。

抱き合うことも、握手することもない。

ただ、父親は、娘さんの乗るバスが見えなくなるまで、横に立っていた。

次の第三土曜日、父親は、いつものように先に来て、コーヒーを頼んだ。

秒針は、ためらいのない速さで、一周を重ねていた。

窓の外は、もう冬の気配だった。

父親は、袖口の腕時計を見て、それから、店の壁の時計を見た。

二つの針は、同じ時刻を指していた。

止まった腕時計だった頃には、一度も見られなかった光景だ。

袖口から、うさぎの絵の腕時計が覗いた。

針は、午後四時五十分を指して、動いていた。

父親は、その袖を、もう引き下ろさなかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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