遠い南の島に、日本の歌をうたう老人がいた。
私がその島へ渡ったのは、二十八の夏だ。
勤め先の造船所から、古い桟橋を直してこいと言われた。
断る理由はなかった。
飛行機を二度乗り継ぎ、最後は小さな連絡船に揺られた。
船を降りたとき、潮の匂いが濃かった。
日本の海とは違う。
甘くて、少し重い。
熟れすぎた果物を、遠くに置いてあるような匂いだ。
その匂いの奥から、歌が聞こえた。
桟橋の先に、痩せた老人が腰を下ろしていた。
裸足の足を海へ投げ出して、低い声で節をつけている。
聞き覚えのある旋律だった。
祖母が台所で口ずさんでいた歌に、似ている。
「おはようございます」
声をかけると、老人は歌をやめて、こちらを向いた。
「日本の人か」
発音が、驚くほどなめらかだった。
首に、藍色の手ぬぐいを巻いている。
色は褪せきって、ほとんど白に近い。
それでも、几帳面に畳んで結んであった。
「桟橋を直しに来ました」
「そうか」
老人はそれだけ言って、また海のほうを向いた。
沖に、平たい島が浮かんでいた。
※
桟橋は思っていたよりも傷んでいた。
南洋の陽は、木を上から焼く。
潮は下から食う。
挟まれた板は、二十年で紙のようになる。
私は毎朝六時に現場へ出て、腐った板を剥がしては新しいものを張った。
汗が顎から落ちて、板の上で丸くなり、すぐに消えた。
老人は、毎朝そこにいた。
私が墨壺を出して糸を弾くと、糸の鳴る音のたびに、老人の首が少し動いた。
三日目に、老人が言った。
「昔、こういう仕事をしたことがある」
「桟橋ですか」
「陣地だ」
手が止まった。
老人はエマウルという名だった。
だが日本人には「健一」と名乗った。
七十年以上前、この島の学校でそう呼ばれていたのだという。
「わしは十七だった」
太平洋戦争のさなか、この島には日本軍が入った。
山を削り、壕を掘り、砲を据える。
村の若者たちは、その作業に駆り出された。
駆り出された、というより、進んで行ったのだと老人は言った。
「面白かったんだ」
「面白い」
「兵隊さんは、みんな若かった」
丸太を担ぎながら、彼らは歌をうたった。
汗が目に入ると、兵隊が手ぬぐいで拭いてくれた。
昼になれば、飯盒の飯を分けてくれた。
「梅干しというものを、あのとき初めて食べた」
老人は少し笑った。
前歯が二本欠けていた。
「酸っぱくて、涙が出た」
「まずかったですか」
「うまかった」
老人は真顔に戻った。
「あんなにうまいものは、あれきりだ」
※
四日目の朝、私が板を張っていると、老人が桟橋に上がってきた。
初めて、座っている場所から動いた。
杖もつかずに、裸足で歩いてくる。
「そこは、こうだ」
老人が指をさした。
板の木口を、海側へ一分ほど下げろという。
「水が抜ける」
私は言われた通りにやってみた。
たしかに、雨のあと、その板だけが先に乾いた。
「誰に習ったんですか」
「兵隊さんだ」
老人は当たり前のことのように言った。
「七十年前に、習った」
私が張っているのは、日本の造船所で切った板だ。
それを、七十年前の日本兵が教えた通りに張っている。
妙な気分だった。
自分の手が、自分のものでないような。
※
矢野という一等兵がいた。
老人と同い年か、ひとつ上くらい。
痩せていて、いつも眠そうな顔をしていた。
その矢野が、歌を教えた。
「兵隊さん、その歌はなんだ」
「別れの歌に聞こえるか」
「聞こえる」
「違う」
矢野はそう言って、丸太に腰を下ろした。
「これは、また会うための歌だ」
意味がわからなかった、と老人は言った。
わからないまま、覚えた。
覚えて、うたった。
うたうと、矢野が笑った。
眠そうな目が、そのときだけ開いた。
ある昼、矢野が首から手ぬぐいを外して、老人の首に巻いた。
藍色の、まだ濃い色をした手ぬぐいだった。
端に、墨で名前が書いてあった。
「これ、もらっていいのか」
「汗が目に入ると、仕事にならんだろう」
それだけだった。
矢野は、それきりその話をしなかった。
※
夜、矢野が見張りに立つ日があった。
老人は、こっそり壕まで会いに行った。
見つかれば、二人とも叱られる。
それでも行った。
星が、頭の上から降ってくるようだった。
「日本にも、星はあるのか」
「あるさ」
「同じか」
「冬は、もっと硬い」
硬い、という言葉の意味がわからなかった。
矢野は、自分の故郷の話をした。
新潟という土地だという。
「雪が、屋根まで積もる」
「ユキ」
「白いんだ。冷たくて、軽い」
老人は、その白いものを想像しようとした。
できなかった。
砂の白さしか、知らなかったからだ。
「見たことがあるか」
「ない」
「見せてやる」
矢野はそう言った。
「戦が終わったら、連れて行ってやる」
「本当か」
「男が言ったんだ」
矢野は眠そうな目をこすった。
「嘘は、つかん」
※
雨季に、大きな風が来た。
椰子が横に倒れて、屋根の鉄板が飛んだ。
村の家が二軒潰れた。
その夜、兵隊が三十人ばかり、壕から走ってきた。
命令ではなかった、と老人は言った。
「勝手に来たんだ」
彼らは朝まで、泥の中で丸太を起こしていた。
矢野は、潰れた家の下から鍋を掘り出して、笑いながら差し出した。
「これ、まだ使えるぞ」
その手が、爪の先から血を流していた。
風が止んだあと、砂浜に椰子の実がいくつも転がっていた。
矢野はそれを割って、村の子供に配った。
そして、砂に棒で字を書いた。
ヤ、ノ、と書いた。
子供がそれを真似した。
そこへ、隊長が来た。
※
隊長は、浅井という大尉だった。
四十くらいの、背の低い男だ。
いつも眉間に皺を寄せていて、若者たちには一度も笑いかけなかった。
その大尉が、砂の字を長靴で消した。
「島の者に、日本語を教えるな」
声は低かったが、よく通った。
「二度言わせるな」
矢野は直立して、何も言わなかった。
子供たちは逃げた。
老人は、そのとき初めて隊長を憎いと思ったという。
「そういう人だと思っていた」
老人は海を見ながら言った。
「わしらを、下に見ている人だと」
兵隊たちは、村の者の名前を紙に書こうとしたことがあった。
働いた分の記録を残す、という話だった。
大尉はその紙を取り上げて、その場で破いた。
理由は言わなかった。
村に、熱を出す子供が続いたことがあった。
薬は、軍にしかなかった。
ある朝、村の井戸のそばに、薬の包みが置いてあった。
誰が置いたのか、わからない。
兵隊たちは知らないと言った。
矢野も首をかしげた。
だが老人は、その日の明け方、桟橋のほうへ歩いていく背の低い影を見ていた。
軍靴の音だった。
「そのときは、何とも思わなかった」
老人は言った。
「薬を置くような人じゃないと、思っていたから」
だから、見なかったことにした。
見間違いだと、自分に言い聞かせた。
「ますます、嫌いになった」
※
やがて、夜が変わった。
遠くで低い音が続くようになった。
腹の底に響く音だ。
沖の島に、白い水柱が立つのを見た。
昼でも、林の鳥が急に黙ることがあった。
兵隊たちの飯の量が減った。
それでも、矢野は飯を分けた。
「食え」
「兵隊さんが食え」
「俺は、島の飯を食う」
矢野はそう言って、椰子の実をかじった。
そんなものは、腹の足しにならない。
米軍が上陸するのは、もう時間の問題だった。
※
若者たちは、話し合った。
夜、村の集会所に集まって、明け方まで話した。
答えは、最初から決まっていた。
一緒に戦う。
丸太を担いだ仲だ。
飯を分け合った仲だ。
何より、ここは自分たちの島だ。
代表の数人が、隊長のもとを訪ねた。
老人も、その中にいた。
壕の入口で、浅井大尉は地図を見ていた。
ランプの火が、地図の上で揺れていた。
「隊長どの」
顔を上げた大尉に、老人は言った。
「わしらも、一緒に戦わせてください」
言い終わらないうちだった。
「帝国軍人が」
大尉が立ち上がった。
「貴様らのような島の者と、肩を並べて戦えるか」
声が壕の中で反響した。
「出て行け」
「二度と来るな」
若者の一人が何か言おうとした。
大尉は地図を丸めて、その若者の胸を突いた。
外へ出るまで、誰も何も言わなかった。
陽が高かった。
その光が、やけに白かった。
「悔しかった」
老人は、そこで長く黙った。
波が、桟橋の杭を三度叩いた。
「仲間だと思っていた」
「歌をうたった仲だと」
「全部、見せかけだったのかと」
若者たちは、その場で泣いた。
声を出さずに泣いた。
十七の男が声を出して泣くのは、恥だと教わっていたからだ。
その夜、若者たちは村の裏で竹を削った。
槍を作るつもりだった。
断られても、勝手に戦うつもりだった。
仲間の一人が、竹を削りながら言った。
「見せかけだったんだ」
「歌も、飯も、全部」
誰も、否定しなかった。
老人は、首の手ぬぐいを外そうとした。
指が、結び目にかかった。
そこで、止まった。
外せなかった。
なぜ外せないのか、自分でもわからなかった。
結局、そのまま巻いて寝た。
朝、目が覚めたとき、頬に布の跡がついていた。
※
数日後、村の者は島を出ることになった。
軍の命令だった。
安全な島へ移す、という名目だった。
持てるだけの荷を持って、桟橋に並んだ。
女がいて、子供がいて、老人がいて、若者がいた。
船が来た。
古い、錆の浮いた船だった。
老人たちは、荷物を担いで乗り込んだ。
誰も、見送りに来なかった。
あれだけ一緒に働いた兵隊が、一人も。
矢野の姿もなかった。
老人は、首の手ぬぐいを握りしめていた。
返してやろうかと思った、と言った。
返して、これで終わりだと言ってやりたかった。
だが、返す相手がいなかった。
汽笛が鳴った。
船が、ゆっくりと岸を離れた。
若者たちは、誰も浜を見なかった。
見たら、また泣くとわかっていたからだ。
※
船が岸を離れた瞬間、浜に、兵隊たちが走り出てきた。
一人ではない。
十人でも、二十人でもない。
全員だった。
壕から、林から、砂の上へ。
そして、うたい始めた。
あの歌だった。
矢野が教えた、あの歌。
「また会うための歌だ」と言った、あの歌。
兵隊たちは、腕がちぎれるほど手を振っていた。
軍帽を投げる者がいた。
膝をついて、それでも手を振っている者がいた。
その先頭に、浅井大尉がいた。
大尉は、笑っていた。
老人が初めて見る顔だった。
そして、誰よりも大きく手を振っていた。
その瞬間、老人は悟った。
日本語を教えるな、と言ったこと。
名前を書いた紙を破いたこと。
「一緒に戦えるか」と怒鳴ったこと。
すべて、島の若者を戦から遠ざけるためだった。
紙に名が残れば、軍属になる。
軍属になれば、島に残される。
日本語ができれば、通訳として連れて行かれる。
一緒に戦えば、一緒に還れなくなる。
大尉は、はじめから、それだけを考えていた。
憎まれることを、選んでいた。
「あのとき、気づいたんだ」
老人は手ぬぐいを外して、膝の上で広げた。
褪せた布の端に、薄く墨が残っていた。
矢野、と読めた。
「怒鳴っている間じゅう、隊長の手は震えていた」
老人は、そう言った。
「わしは、それを怒りだと思っていた」
※
船の上で、若者たちは歌をうたった。
うたいながら泣いた。
今度は、声を出して泣いた。
浜の兵隊が豆粒になっても、うたい続けた。
声が届くはずはなかった。
それでも、うたった。
「あれが、最後だ」
日本兵は、誰一人帰らなかった。
矢野も、浅井大尉も。
老人が島に戻ったのは、戦が終わって、ずいぶん経ってからだった。
浜には何も残っていなかった。
丸太も、壕も、歌も。
砂の上に、字はなかった。
「探したんだ」
老人は言った。
「墓を探した。名前を探した」
「見つかりましたか」
老人は首を横に振った。
それから、ゆっくりと首の手ぬぐいに手をやった。
「これだけだ」
※
老人は、島に戻ってから、桟橋のそばに家を建てた。
妻を得た。
子が四人生まれ、孫が十一人になった。
畑を耕し、魚を獲り、村の若い者に船の直し方を教えた。
何もかも、うまくいったのだと言う。
それでも、毎朝、桟橋に来た。
六十年、一日も欠かさずに。
「なぜ、毎朝ここに」
「船が来るからだ」
老人は沖を指さした。
「あの島の向こうから、船が来る」
私は、その先を聞けなかった。
七十年前に浜を走った兵隊たちが乗る船など、来るはずがない。
それは、老人が誰よりもよく知っている。
知っていて、毎朝来ている。
「雪を見せてやると、言われた」
老人は、ぽつりと言った。
「わしは、まだ雪を見ていない」
※
「だから、わしがうたう」
老人はそう言って、また海のほうを向いた。
「あの人たちは、また会うための歌だと言った」
「うたっていれば、いつか会える」
私は、何も言えなかった。
桟橋の板を張り替える手が、しばらく動かなかった。
釘を一本、海に落とした。
音は、しなかった。
※
補修が終わったのは、九月のはじめだった。
新しい板は白く、古い杭は黒かった。
島を出る朝、老人が桟橋に来た。
手に、あの手ぬぐいを持っていた。
「持って帰ってくれ」
「これは、あなたのものです」
「わしはもう、覚えている」
老人は私の手に、それを押し込んだ。
薄い布だった。
七十年ぶんの潮と汗を吸って、紙のように軽かった。
「日本に、返してくれ」
「新潟という土地に、返してくれ」
私は、その名を初めて老人の口から聞いた。
七十年、忘れずにいたのだ。
一度も行ったことのない土地の名を。
連絡船が動き出した。
私は、老人が手を振るのを見ていた。
痩せた腕を、大きく、大きく。
そして、うたっていた。
聞こえないほど遠くなっても、口が動いているのが見えた。
あの日の浜と、同じだった。
見送る側と、見送られる側が、入れ替わっただけだ。
※
日本に帰って、祖母に手ぬぐいを見せた。
祖母は端の墨を見て、しばらく黙っていた。
それから、あの歌を口ずさんだ。
台所で聞いた、あの歌だ。
「これ、なんの歌」
「さあ」
祖母は笑った。
「昔の人が、よくうたってた」
※
その冬、私は新潟へ行った。
二月だった。
その年は、雪が多かった。
矢野という姓は、その土地に珍しくもなかった。
役場を回り、寺を回り、古い名簿を見せてもらった。
同じ年に生まれ、同じ年に南へ行った矢野が、三人いた。
どれが、あの矢野なのかはわからない。
わからないまま、私は雪の上に手ぬぐいを広げた。
藍色だったものが、白の上でほとんど見えなくなった。
指の先が痺れた。
冷たくて、軽い。
矢野が言った通りだった。
「これが、雪です」
声に出して言った。
誰もいない墓地で、私はあの歌をうたった。
下手だった。
それでも、最後までうたった。
うたい終わると、雪が降り始めた。
※
帰ってから、手ぬぐいは洗わずに畳んだ。
洗えば、七十年が流れてしまう気がした。
今は、道具箱の一番下にある。
仕事で桟橋を見るたびに、思い出す。
板の木口を、海側へ一分下げること。
それを教えたのは、七十年前に還らなかった男だ。
その男の手つきを、島の老人が覚えていて、私に渡した。
歌も、たぶん、そうやって渡っていく。
私は今、潮の匂いのする風の中で、その歌を口ずさんでいる。
造船所の裏には、海がある。
日本の海だ。
甘くもないし、重くもない。
それでも、うたえば、少しだけあの島の匂いがする。
また会うための歌だと、あの人は言った。
だから私は、覚えていることにした。
覚えているかぎり、あの浜で手を振っていた人たちは、まだ島を離れていない。