
あなたは本当に、俺を困らせる人だった。
高校三年になったいまでも、港の見える教室の窓際で、ふとそう思う。
左の耳にだけ、小さな白い貝のピアスを揺らしていた人。
片方だけのピアスを「右は落とした」と笑って、その理由を最後まで言わなかった人。
これは、その片方だけのピアスが、三年遅れて俺の手元に届くまでの話だ。
あなたがついた嘘を、順番に数える話でもある。
泣かせるつもりはない。
ただ、あなたに向けて書く。
朝のバスの一番後ろ
中学二年の春だった。
大阪の、港の近くの中学校。
俺は毎朝、市バスの一番後ろの席で寝たふりをしていた。
排気の匂いと、暖房の乾いた風。
窓の下を流れる、倉庫の壁の錆と、クレーンの長い影。
その日、ブレーキの音のあとに、通路を走ってくる足音が聞こえた。
「付き合ってください!」
バスの中が、一瞬で静かになった。
目を開けると、同じクラスの千波が、肩で息をして立っていた。
短い髪が汗で額に貼りつき、制服の袖が指の先まで届いていた。
左の耳で、白い貝のピアスが揺れていた。
「……場所、考えてよ」
「考えた。ここなら逃げられへんやろ」
運転手がミラー越しに笑っていた。
前の席のおばさんが、拍手をした。
俺は顔から火が出るかと思いながら、小さくうなずいた。
それが、あなたと付き合った日。
教室に着くと、話はもう全員に広まっていた。
バスに乗っていたのは、同じ学校の生徒が半分だったからだ。
担任までが、出席を取りながら俺の名前で一度咳払いをした。
降りる停留所で、俺は聞いた。
「ピアス、なんで片方だけなん」
「右は落とした」
「探さへんの」
「見つかったら、つけるわ」
そう言って、あなたは先に走っていった。
これが、俺が数えている一つ目の嘘だ。
翌朝から、一番後ろの席は二人の席になった。
あなたは必ず窓側に座った。
「なんで窓側なん」
「海が見えるから」
「倉庫しか見えへんで」
「倉庫の向こうが海やろ」
あなたは窓を流れる倉庫の数を、毎朝声に出さずに数えていた。
唇だけが、十一、十二、と動いていた。
三つ目の停留所で、あなたは俺の肩に頭を乗せて眠った。
起こすと、毎回「寝てへん」と言った。
肩に残る重みが、昼休みまで消えなかった。
放課後は、港の渡し船に乗った。
大阪の渡し船は、ただで海の上に出られる。
あなたはそれを「海の無料体験」と呼んだ。
「対岸に用ないやろ」
「用があるから乗るんやないよ」
「じゃあ何で乗るん」
「海の上におる間は、学校も家もないから」
二分の船の上で、あなたは手すりに顎を乗せて、ずっと水を見ていた。
潮と、重油の匂い。
エンジンの震えが、手すりから腕に伝わってきた。
対岸に着くと、あなたは一歩も降りずに折り返しの船に乗った。
船員のおじさんは、何も言わずに俺たちを乗せてくれた。
初めてのデートは、三時間遅れてきた。
駅前の時計の下で、俺はたこ焼きを二回買った。
一回目は冷めて、二回目は熱すぎた。
「寝坊した」
「三時間も?」
「目覚ましが四つとも負けた」
そんな言い方をされると、怒れなかった。
結局その日は、中之島の川べりを歩いただけで終わった。
あなたは川面に映るビルの灯りを数えて、途中で何度も数え直していた。
ペアのマグカップを買った日は、帰り道であなたがそれを落とした。
商店街の雑貨屋で、店員のおばさんが新聞紙に包んでくれた、その包みごと。
青い方が、三つに割れた。
「ごめん、ごめん」
「もう一回買いに行くの、めんどいなあ」
「じゃあ、わたしの白いのを使って」
「ほんなら千波はどうすんの」
「割れた方を、接着剤でつける」
本当に、あなたは接着剤でつけた。
ひびの入った青いマグで、あなたは平気で麦茶を飲んだ。
「漏れへんの」
「ちょっと漏れる。だから早く飲む」
白い方は、いまも俺の机の上にある。
海遊館のイルカの前
夏休みに、海遊館へ行った。
水槽の青い光の中で、あなたはイルカを見た瞬間に人混みへ飛び込んだ。
手を離したのは、一瞬だった。
探すのに、四十分かかった。
館内の螺旋の通路を、俺は三度も上から下まで往復した。
見つけたとき、あなたはジンベエザメの水槽の前で、ガラスに額をつけていた。
大きな影が、あなたの顔の上をゆっくり横切っていった。
「どこ行ってたんや」
「イルカが、こっち見たから」
「見てへんわ」
「見た。わたしの耳のとこ、見てた」
あなたは左の耳の片方だけのピアスに触れて、笑った。
ガラスの冷たさと、館内に薄く漂う潮の匂いを、俺はいまも覚えている。
「ジンベエザメ、何考えてると思う」
「何も」
「ええなあ、それ」
帰りの電車で、あなたはまた俺の肩で眠った。
今度は、起こしても「寝てへん」と言わなかった。
それから、どこへ行くにも手を繋いだ。
はぐれたら、探す側がたこ焼きを買う。
そういう決まりになった。
いつも俺が買った。
秋の文化祭で、あなたは合唱の伴奏を引き受けた。
練習の音楽室で、同じ場所で三回つまずいた。
「そこ、いつも間違えるな」
「わざと」
「嘘つけ」
「本番は間違えへん」
本番は、本当に間違えなかった。
ただ、弾き終わったあと、あなたは蓋を閉じる前に鍵盤を一度だけ撫でた。
別れを言うみたいな、ゆっくりした手の動きだった。
修学旅行の土産に、俺はイルカのぬいぐるみを渡した。
あなたは、校門の前で泣いた。
声を上げて、周りの女子が振り返るくらいに。
「泣かせたと思われてる」
「泣かされてる」
「どっちやねん」
ぬいぐるみの背中に顔を押しつけて、あなたは笑いながら泣いていた。
その泣き方を、俺はずっと嬉し泣きだと思っていた。
秋の終わりに、俺の誕生日を一緒に祝った。
あなたの家の近くの公園で、コンビニのケーキを食べた。
ろうそくは、公園の風に三回消された。
「願いごと、三回できたな」
「同じこと三回頼んだ」
「何を」
「ないしょ」
プラスチックのフォークが、二本とも途中で折れた。
帰り際、あなたは俺の袖を離さなかった。
「もうちょっと」
「門限、過ぎてる」
「あと、五分」
五分が、六回続いた。
家に帰ると、父親に玄関で一時間叱られた。
それでも、袖を握っていた指の強さを、俺は悪く思えなかった。
俺にとっての忘れられない誕生日は、いまもあの公園の夜だ。
片方だけのピアス
冬の初めに、あなたは病気のことを話した。
同じ公園のベンチで、白い息を吐きながら。
「血の病気。小学校のときから、通院してる」
「……なんで今まで黙ってたん」
「言うたら、あんた、手ぇ繋ぐの怖がるやろ」
「怖がらんわ」
「ほら、いま、少し力抜けた」
抜けていなかった。
でも、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれなかった。
言いたいことは、山ほどあった。
何で、どうして、いつから。
全部、喉の奥で止まった。
ポケットの中で、俺の指は自分の掌に爪を立てていた。
思い返せば、兆しはあった。
十月の月曜、駅であなたとお母さんを見た。
制服ではなく、紺のコートで、改札の向こうへ消えていった。
お母さんが持っていた大きな封筒には、病院の名前が印刷されていた気がする。
その夜、電話で聞いた。
「今日、駅におったやろ」
「塾の説明会。お母さんが行けって言うから」
二つ目の嘘を、俺は信じた。
あなたの塾の話を、その後一度も聞かなかったのに。
十二月のある夜、二時過ぎに電話が鳴った。
「寝てた?」
「寝てた」
「何か、喋って」
俺は、翌日の時間割を読んだ。
数学、国語、体育、理科。
あなたは途中から、笑っていた。
受話器の向こうで、何かの機械が規則的に小さな音を立てていた。
「なあ。もし、わたしが嘘ついてたら、怒る?」
「怒る」
「よかった」
「何がよかったん」
「怒る方が、元気やから」
電話は、そこで切れた。
年末、あなたは俺の家族と一緒に、祖父の家に泊まった。
法事のあとの、親戚だらけの座敷で。
あなたは浮かれて、俺の友達に片っ端から電話をかけた。
「いま、彼の実家。おばあちゃん、めっちゃ優しい」
祖母はあなたに、縫い物の針山を一つくれた。
あなたはそれを、両手で受け取って、ずっと膝の上に置いていた。
翌週、学校で俺は質問攻めに遭った。
あなたは廊下の向こうで、ピアスを揺らして笑っていた。
その片方だけのピアスを、俺は一度だけ、手に取ったことがある。
祖父の家のこたつの上に、あなたが外して置いた。
小さな白い貝に、銀の留め具。
裏側に、針で引いたような細い字が彫ってあった。
「なんて書いてあるん」
「ないしょ」
「右の分と、合わせて読むんやろ」
「右は落とした、って言うたやん」
あなたは俺の手からピアスを取って、耳に戻した。
そのときだけ、笑わなかった。
みかんの皮の匂いが、こたつの上に残っていた。
正月、二人で住吉大社へ行った。
甘酒の匂いと、鈴の音と、太鼓橋の冷たい手すり。
あなたは絵馬を一枚買って、俺に背を向けて書いた。
「見せて」
「だめ」
掛けるときに、一瞬だけ見えた。
『右が、見つかりますように』
ピアスのことだと、俺は思った。
俺も探すわ、と言うと、あなたは「探さんでええ」と言った。
二月の十四日、あなたは焦げた匂いのする箱をくれた。
「失敗した。でも食べて」
「どのくらい失敗したん」
「お母さんが、笑って泣いた」
ひと口で、砂糖の塊だとわかった。
俺は全部食べて、あなたはそれを最後まで黙って見ていた。
二月の終わり、あなたは言った。
「病気、治ったって。先生が言うた」
「ほんまに?」
「ほんまに」
俺は、自分のことみたいに嬉しかった。
帰り道、一人で渡し船に乗って、往復を三回した。
その嬉しさを、俺は翌日まで疑わなかった。
東京へ行くという報せ
翌日、同じベンチで、あなたは別れを言った。
「東京に行く。お父さんの転勤」
「……いつ」
「来月」
「遠距離でも、ええやん」
「中学生の遠距離、三か月で終わるて、みんな言うてる」
「みんな、って誰や」
あなたは答えなかった。
そのかわり、俺の袖を、いつもより長く握った。
胸が、内側から破れそうだった。
治ったと聞いた翌日に、別れを言う。
その順番の意味を、俺はそのとき、考えなかった。
考えないように、怒っていた。
あなたが望んだとおりに。
引っ越しの日、俺は見送りに行かなかった。
怒っている方が、楽だったからだ。
その日の朝のバスで、窓側の席に初めて知らない一年生が座った。
俺は、通路側で目をつぶっていた。
家では、母が白いマグに麦茶を注いで、何も聞かずに置いていった。
教室で友達に「千波、どうしてんの」と聞かれるたび、俺は「知らん」と答えた。
知らんと言うたびに、少しずつ本当に知らなくなっていく気がした。
別れたあとも、連絡は毎日来た。
「東京、たこ焼きが高い」
「こっちは今日、雨」
「イルカのぬいぐるみ、枕にしてる」
「白いマグ、使ってる?」
「使ってる」
「青いの、まだ漏れる」
別れた意味がないと、内心思っていた。
嬉しかったけれど。
一度だけ、電話があった。
声が、少しかすれていた。
「風邪?」
「東京の空気、乾いてるから」
三つ目の嘘。
俺は、乾いた空気のせいにして、安心した。
春が終わる頃、文面が短くなった。
「元気」
「うん」
「寝る」
夏の前に、連絡が途絶えた。
最後のメールは、『少し、忙しくなる』だった。
既読のつかない画面を、俺は何週間も見ていた。
一番後ろの席で、窓側を空けたまま。
倉庫の壁の錆だけが、毎朝流れていった。
夏休み、一人で海遊館へ行った。
イルカは、俺の耳のあたりを見なかった。
出口でたこ焼きを一舟買って、誰にも渡さずに食べた。
熱すぎて、味がしなかった。
忘れられたのだと、思った。
封筒の中の二通
高校に入った春、手紙が届いた。
見慣れた、丸い字。
封筒は厚くて、中に二通入っていた。
一通は、あなたから。
もう一通は、あなたのお母さんから。
あなたの手紙は、思い出の列挙だった。
バス、渡し船、たこ焼き、割れたマグ、イルカ、音楽室、公園の五分、焦げたチョコ。
読みながら、会いたい気持ちが喉の奥で叫んでいた。
いまから新幹線に乗れば、夜には着く。
その叫びは、二通目で消えた。
お母さんの手紙は、短かった。
東京行きは、転勤ではなく治療のためだったこと。
治ったという話は、最初から嘘だったこと。
俺に知らせないでほしいと、あなたが何度も頼んだこと。
そして、桜の前に、あなたが旅立ったこと。
病室の枕元には、イルカのぬいぐるみと、ひびの入った青いマグがあったこと。
看護師さんが「あの青いカップ、漏れますよ」と言うたび、あなたは「だから早く飲むんです」と答えていたこと。
祖母の針山も、ベッドの脇の棚にあったこと。
最後の数日、あなたが窓の外の倉庫らしい建物を、声に出さずに数えていたこと。
便箋の端が、少し波打っていた。
書きながら濡れたのだと、指先でわかった。
何で、嘘をついたの。
俺が悲しまないように、って。
嘘をつかれた方が、悲しいんだよ。
俺は、あなたの彼氏だった。
最後くらい、隣にいたかった。
あなたの手紙の最後に、一行あった。
『あなたを愛しています』
その言葉は、あなたの口から聞きたかった。
便箋を畳んで、俺は机の引き出しの一番奥に入れた。
白いマグの、真下の引き出しに。
その年の正月、俺は一人で住吉大社へ行った。
絵馬掛けを、端から端まで三度見た。
あなたの絵馬は、もうなかった。
一年経った絵馬は、お焚き上げに回されるのだと、巫女さんが教えてくれた。
『右が、見つかりますように』は、煙になって、どこかへ行っていた。
それから二年、恋をするのが怖かった。
また、嘘をつかれる気がした。
嘘をつかれても、気づけない自分が怖かった。
臆病になっていた。
一番後ろの席には、座らなくなった。
渡し船にも、乗らなくなった。
高校三年の冬、小包が届いた。
差出人は、あなたのお母さん。
中に、ノートの一ページと、小さな紙の箱。
ノートは、あなたの闘病日記の最後のページだった。
日付は、俺が「治った」と聞いた日の、前の晩。
『明日、治ったと言う。
その次の日に、別れると言う。
順番を間違えたら、あの人は泣く。
泣かせたら、負け』
そこで俺は、やっと順番の意味を知った。
治ったと信じた俺なら、別れを転勤のせいだと思って怒れる。
怒れる方が、泣くより、先へ行ける。
怒る方が、元気やから。
あなたは、俺に怒らせたかったのだ。
ページの下に、もう二行あった。
『右のピアス、まだ渡せない。
渡したら、あの人が全部読んでしまう』
紙の箱を開けた。
白い貝のピアスが、二つ並んでいた。
左と、右。
落としたと言ったピアスは、一度も落とされていなかった。
裏を返すと、細い字が彫ってあった。
左に『わたし以上に』。
右に『誰かを愛して』。
合わせて読むのだと、あの夜あなたは言わなかった。
読んでしまえば、俺は終わりを知ってしまうからだ。
絵馬の『右』は、ピアスのことではなかった。
あなたはいなくなっても、俺を困らせてくれる。
そう思ったら、笑えた。
笑いながら、泣いた。
校門の前のあなたと、同じ泣き方で。
片方だけのピアスは、いま二つになって、一本の鎖で俺の首に掛かっている。
右の方は、まだ渡す相手がいない。
でも、探すことにした。
はぐれたら、探す側がたこ焼きを買う。
あなたは、本当に俺を困らせる人だった。
ありがとう。