
「茶でも飲んでけ」
兄が背中越しに、ぽつりと言った。
十一年ぶりの、兄の声だった。
※
俺と兄は、七つ離れている。
北海道の道東──標津という小さな漁師町で、二人は育った。
夏は鮭が、秋は鱒が、春には小さなサクラマスが川を遡ってくる。
子供の頃、俺はいつも兄の後ろをついて歩いていた。
兄は無口で、何を考えているのか分からないところがあった。
朝早く、まだ暗いうちに、兄は俺を布団から引きずり起こす。
「行くぞ」と一言だけ言って、台所で握った塩むすびを二つ、新聞紙に包んで持たせる。
長靴は、いつも兄が玄関で揃えておいてくれた。
俺の足はまだ小さく、つま先に新聞紙を詰めて履いていた。
その新聞紙を詰めるのも、兄の役目だった。
「ちっこい足のくせに、川にだけは付いてきたがる」と、母が笑っていたのを覚えている。
けれど、竿を振るときの兄の背中だけは、なぜか饒舌だった。
糸が走り、リールが鳴く。
「来たぞ、しずか」
当時、俺のことを兄はそう呼んでいた──静かに座っていろという意味だったのか、ただ「静夫」を縮めただけだったのか、今も分からない。
魚を釣るたび、兄は河原に降ろしたばかりの一匹の上に、古びた木の板で押した墨を当てて、魚拓を取る。
釣果の隣に、その日の日付と、誰と釣ったかを小さく書き添える癖があった。
俺の名前も、よくそこに並んでいた。
※
父が亡くなったのは、俺が二十七のときだ。
葬儀のあと、兄と俺は家督相続でもめた。
もめたといっても、声を荒らげたのは俺の方だった。
東京の会社で土木の仕事に就き始めたばかりで、生活に余裕がなかった。
兄は実家を継いで漁師を続けていた。
家と土地を、兄ひとりで持っていくと言った。
「弟にも、せめて何か残してやってほしい」と、母が間に入った。
兄は黙ったまま、首を縦にも横にも振らなかった。
その沈黙が、俺には侮蔑に見えた。
本当は、ただ言葉が出なかっただけなのかもしれない。
兄はそういう人だった──大事なことほど、口にできない。
けれど、当時の俺には、それを汲む余裕がなかった。
「もういい」と俺は言った。
「兄ちゃんの好きにしろ。俺はもう、ここには来ない」
兄は、何も言わなかった。
玄関先で背中を向けたまま──その背中だけが、子供の頃と変わらない大きさで、そこにあった。
振り返ってくれ、と心のどこかで願ったのを覚えている。
振り返らなかった。
俺はそれを、拒絶として受け取った。
※
母が亡くなったのは、それから八年後だった。
知らせは電話で受けた。
葬儀には行ったが、俺は兄と一言も交わさなかった。
位牌の前で線香を上げ、近所の人に挨拶を済ませ、すぐに飛行機に乗った。
兄はずっと、奥の座敷の隅で、参列者に頭を下げていた。
目を合わせなかった、という方が正確かもしれない。
合わせ方を、お互いに、もう忘れていた。
飛行機の窓から見えた道東の海は、灰色のまま、遠ざかっていった。
それから三年が経った。
母の三回忌は、東京の妻の親族とだけ済ませた。
兄の家にも墓にも、足を向けなかった。
顔を合わせれば、また同じ言葉を吐いてしまう気がした。
俺の中で、兄は石のような存在になっていた──冷たくて、押せばこちらが痛む、動かないもの。
そう思うことで、自分の罪悪感に蓋をしていたのだと、今ならわかる。
※
四月の半ば、出張で釧路に行くことになった。
道東は十一年ぶりだった。
仕事は二日で片付き、最終日の午後、東京行きの便まで五時間が空いた。
レンタカーを返す時間まで、行く当てもなく海沿いを北上した。
気がつくと、標津のあたりまで来ていた。
風蓮湖を越え、海岸線に出る。
春先の風は、まだ冬の鋭さを残している。
潮の匂いが、車内に滑り込んできた。
胸の奥が、ふいに鈍く痛んだ。
道沿いに古い民宿があり、駐車場で煙草を吸う。
女将らしき人に、軽い気持ちで「このへんに、原田って漁師の家、知りませんか」と訊ねてみた。
「ああ、原田さんね。今日も漁、出てるんでないかな」
女将はそう言って、海の方角を指した。
「もうじき戻ってくる頃合いさ。家、こっから歩いてすぐだよ」
俺は、煙草を灰皿に押しつけた。
戻るつもりではなかった。
けれど、車のキーを握ったまま、しばらく動けなかった。
ハンドルに額を当て、何度か息を整えた。
会って、何を言うつもりなのか、自分でもわからない。
ただ、ここまで来てしまったという事実だけが、背中をひと押ししていた。
※
原田の家は、十一年前と何も変わっていなかった。
板壁は塩で白く粉を吹き、玄関の引き戸の取っ手が、長い指の跡で黒く光っている。
呼び鈴はない。
俺は、戸を細く開けた。
「兄ちゃん──」
声に、誰も応えなかった。
家の中は、潮と、薪ストーブのかすかな煤の匂いがした。
母がいた頃と、何も変わっていなかった。
居間の柱に、子供の頃に俺が落書きした傷が、まだ残っている。
消されてもいなかった。
あの傷を、兄はどんな気持ちで毎日見ていたのだろう──そう考えてしまうと、足が止まりそうになった。
俺はそろりと、奥へ進んだ。
※
裏手の漁師小屋に、誰かいる気配を感じた。
けれど中に入ると、無人だった。
裸電球が一つだけ、ぼんやり点いている。
板敷きの上に、油を差したばかりらしい竿と、リール。
その横に、古い木の机が一つあった。
机の上に、一冊の分厚い帳面が、開いたままで置かれていた。
魚拓帳だった。
俺は、息を呑んだ。
表紙には、墨で太く「原田」とだけ書かれている。
めくると、最初の一枚が、黄ばんだ和紙だった。
サクラマスの拓。
右下に、几帳面な楷書で日付があった。
「昭和六十年五月四日 静夫と」
俺が八歳の春。
初めて兄に連れられて、川に入った日だ。
長靴の中に水が滲み込んで、しょっぱくて、笑った日──のはずだった。
覚えていなかったことが、こんな形で残っているとは思わなかった。
ページをめくる手が、止まらなくなった。
「平成元年八月十二日 静夫と お盆」
「平成五年三月二十日 静夫の高校合格祝い」
「平成八年四月一日 静夫上京の前日」
魚拓のかたちが、その日その日で違っている。
大きな鱒、小さなオショロコマ、岩魚、雷魚。
右下の日付の脇に、ときどき短い書き込みが添えてあった。
「静夫、東京の大学受かる」
「静夫、東京で就職」
「静夫、結婚」
俺の知らせは、電話で母にだけ伝えていた。
兄に直接、伝えたことなど一度もなかった。
けれど兄は、すべて、知っていた。
母から聞いたのか。
あるいは、母が連絡帳の片隅に貼っていた俺の年賀状を、こっそり覗いていたのか。
どれも、兄らしいやり方だった──直接は訊かない。けれど、忘れてもいない。
※
ページの途中で、一年だけ、魚拓のないところがあった。
俺と兄が、家のことでもめた年だ。
その年は、和紙が一枚、白いまま貼られていた。
そこに、墨で短く一行だけ書いてあった。
「静夫、来ず」
たった四文字。
けれど、その四文字に──兄が言わなかった、言えなかったすべてが、しんと収まっているように見えた。
俺は、その白いページの上に、手のひらをそっと置いた。
紙は冷たく、墨は乾ききっていた。
その後のページには、また魚拓が戻ってきていた。
けれど、書き添えられた言葉は変わっていた。
「静夫、来ず」
「静夫、来ず」
「静夫、来ず」
毎年、同じ四文字が、几帳面な楷書で繰り返されていた。
魚拓は鮮やかに残されているのに、その横で、四文字だけが、十一年を刻んでいた。
母の通夜の日にも、四十九日にも、三回忌にも──。
「母、見送る。静夫、来ず」
「四十九日。静夫、来ず」
「三回忌。静夫、来ず」
俺は、声を出さずに、ただ紙を見ていた。
恨み言ではない。
非難でもない。
ただ、事実だけが、淡々と書き留められていた。
その淡々とした筆致こそが、何より重かった。
※
そして、最後のページに、新しい和紙があった。
墨が、まだほんのりと黒い。
今朝、取られたばかりらしいサクラマスの拓。
右下に、震えのない、いつもの楷書で日付。
「令和八年四月十六日」
そして、その下に──短く一行、こう書かれていた。
「静夫の分も、釣っておいた」
俺は、その一行から、しばらく目を離せなかった。
胸の奥のどこかで、何かが、ふっと崩れる音がした気がした。
泣くまいと思った。
けれど、目の前の和紙が、にじんで見えなくなった。
※
足音がした。
板間の軋む音。
戸口に、影が立った。
振り返ると、兄が立っていた。
長靴を履き、肩には濡れた合羽をかけたままで。
顔は、十一年分、深く、黒く、皺が増えていた。
俺たちは、しばらく、何も言えなかった。
兄は、目を逸らさなかった。
俺も、逸らせなかった。
やがて、兄が小さく息を吐いた。
そして、奥のかまどの方を顎で示し、ぼそりと言った。
「茶でも飲んでけ」
※
俺たちは、居間の囲炉裏端に並んで座った。
湯呑みは欠けていた。
母が使っていた染付の、藍色のものだった。
湯気が、薪ストーブの煙とまじり合って、天井へのぼっていく。
兄は、何も訊かなかった。
俺がなぜここに来たのか。
これまで何をしていたのか。
東京の暮らしは、どうか。
何ひとつ、訊かなかった。
ただ、自分の湯呑みを両手で包み、ふぅふぅと茶を冷ましていた。
子供のころと、同じ仕草だった。
俺は、自分の湯呑みの中の茶を、ただ見ていた。
「兄ちゃん」
長く沈黙してから、ようやく、その一言が口から出た。
「うん」
兄が、短く答えた。
言いたいことが、いくつもあった。
あの日のこと。
母の葬儀のこと。
魚拓帳のこと。
けれど、どれも喉の奥につかえて、出てこなかった。
結局、俺は何も言えなかった。
兄も、何も言わなかった。
湯呑みの底に、茶柱が一本、立っていた。
それを、二人で黙って見ていた。
言葉は、もう要らなかったのかもしれない──少なくとも、その瞬間は。
※
飛行機の時間が迫っていた。
俺は、立ち上がった。
玄関で靴を履きながら、もう一度、兄の方を振り返った。
兄は、土間に立って、こちらを見ていた。
その背丈は、子供の頃に憧れた頃よりも、ずいぶん小さくなったように見えた──気のせいかもしれない。
俺は、深く頭を下げた。
「ありがとう」
たった一言だった。
けれど、それ以上の言葉が、見つからなかった。
兄は、ふっと目を逸らした。
そして、こちらに背を向けたまま、ぼそりと言った。
「また来年、釣りに行くか」
俺は、しばらく動けなかった。
言葉が、出なかった。
ただ、深く、深く、頷いた。
兄には、見えていなかったかもしれない。
それでも、頷いた。
※
標津の海は、灰色だった。
あの日、母を見送ったときと、同じ色をしていた。
けれど、その灰色の中に、ほんの少しだけ、青が混じっているように見えた。
飛行機が雲を抜けた瞬間、俺は気づいた。
──兄は、ずっと、待っていてくれたのだと思う。
言葉にはせず。
呼びにも来ず。
ただ、毎年、白い和紙の上に、たった四文字だけを書きながら。
「静夫、来ず」
その四文字は、責めの言葉ではなく──たぶん、招きの言葉だったのだ。
来年こそ、自分の足で、川に立とうと思った。
兄の隣に、もう一度。
新しい和紙の右下に、兄が「静夫と」と書いてくれる日が、また来るように。