兄の魚拓帳

朝の漁師の小屋の静寂

「茶でも飲んでけ」

兄が背中越しに、ぽつりと言った。

十一年ぶりの、兄の声だった。

俺と兄は、七つ離れている。

北海道の道東──標津という小さな漁師町で、二人は育った。

夏は鮭が、秋は鱒が、春には小さなサクラマスが川を遡ってくる。

子供の頃、俺はいつも兄の後ろをついて歩いていた。

兄は無口で、何を考えているのか分からないところがあった。

朝早く、まだ暗いうちに、兄は俺を布団から引きずり起こす。

「行くぞ」と一言だけ言って、台所で握った塩むすびを二つ、新聞紙に包んで持たせる。

長靴は、いつも兄が玄関で揃えておいてくれた。

俺の足はまだ小さく、つま先に新聞紙を詰めて履いていた。

その新聞紙を詰めるのも、兄の役目だった。

「ちっこい足のくせに、川にだけは付いてきたがる」と、母が笑っていたのを覚えている。

けれど、竿を振るときの兄の背中だけは、なぜか饒舌だった。

糸が走り、リールが鳴く。

「来たぞ、しずか」

当時、俺のことを兄はそう呼んでいた──静かに座っていろという意味だったのか、ただ「静夫」を縮めただけだったのか、今も分からない。

魚を釣るたび、兄は河原に降ろしたばかりの一匹の上に、古びた木の板で押した墨を当てて、魚拓を取る。

釣果の隣に、その日の日付と、誰と釣ったかを小さく書き添える癖があった。

俺の名前も、よくそこに並んでいた。

父が亡くなったのは、俺が二十七のときだ。

葬儀のあと、兄と俺は家督相続でもめた。

もめたといっても、声を荒らげたのは俺の方だった。

東京の会社で土木の仕事に就き始めたばかりで、生活に余裕がなかった。

兄は実家を継いで漁師を続けていた。

家と土地を、兄ひとりで持っていくと言った。

「弟にも、せめて何か残してやってほしい」と、母が間に入った。

兄は黙ったまま、首を縦にも横にも振らなかった。

その沈黙が、俺には侮蔑に見えた。

本当は、ただ言葉が出なかっただけなのかもしれない。

兄はそういう人だった──大事なことほど、口にできない。

けれど、当時の俺には、それを汲む余裕がなかった。

「もういい」と俺は言った。

「兄ちゃんの好きにしろ。俺はもう、ここには来ない」

兄は、何も言わなかった。

玄関先で背中を向けたまま──その背中だけが、子供の頃と変わらない大きさで、そこにあった。

振り返ってくれ、と心のどこかで願ったのを覚えている。

振り返らなかった。

俺はそれを、拒絶として受け取った。

母が亡くなったのは、それから八年後だった。

知らせは電話で受けた。

葬儀には行ったが、俺は兄と一言も交わさなかった。

位牌の前で線香を上げ、近所の人に挨拶を済ませ、すぐに飛行機に乗った。

兄はずっと、奥の座敷の隅で、参列者に頭を下げていた。

目を合わせなかった、という方が正確かもしれない。

合わせ方を、お互いに、もう忘れていた。

飛行機の窓から見えた道東の海は、灰色のまま、遠ざかっていった。

それから三年が経った。

母の三回忌は、東京の妻の親族とだけ済ませた。

兄の家にも墓にも、足を向けなかった。

顔を合わせれば、また同じ言葉を吐いてしまう気がした。

俺の中で、兄は石のような存在になっていた──冷たくて、押せばこちらが痛む、動かないもの。

そう思うことで、自分の罪悪感に蓋をしていたのだと、今ならわかる。

四月の半ば、出張で釧路に行くことになった。

道東は十一年ぶりだった。

仕事は二日で片付き、最終日の午後、東京行きの便まで五時間が空いた。

レンタカーを返す時間まで、行く当てもなく海沿いを北上した。

気がつくと、標津のあたりまで来ていた。

風蓮湖を越え、海岸線に出る。

春先の風は、まだ冬の鋭さを残している。

潮の匂いが、車内に滑り込んできた。

胸の奥が、ふいに鈍く痛んだ。

道沿いに古い民宿があり、駐車場で煙草を吸う。

女将らしき人に、軽い気持ちで「このへんに、原田って漁師の家、知りませんか」と訊ねてみた。

「ああ、原田さんね。今日も漁、出てるんでないかな」

女将はそう言って、海の方角を指した。

「もうじき戻ってくる頃合いさ。家、こっから歩いてすぐだよ」

俺は、煙草を灰皿に押しつけた。

戻るつもりではなかった。

けれど、車のキーを握ったまま、しばらく動けなかった。

ハンドルに額を当て、何度か息を整えた。

会って、何を言うつもりなのか、自分でもわからない。

ただ、ここまで来てしまったという事実だけが、背中をひと押ししていた。

原田の家は、十一年前と何も変わっていなかった。

板壁は塩で白く粉を吹き、玄関の引き戸の取っ手が、長い指の跡で黒く光っている。

呼び鈴はない。

俺は、戸を細く開けた。

「兄ちゃん──」

声に、誰も応えなかった。

家の中は、潮と、薪ストーブのかすかな煤の匂いがした。

母がいた頃と、何も変わっていなかった。

居間の柱に、子供の頃に俺が落書きした傷が、まだ残っている。

消されてもいなかった。

あの傷を、兄はどんな気持ちで毎日見ていたのだろう──そう考えてしまうと、足が止まりそうになった。

俺はそろりと、奥へ進んだ。

裏手の漁師小屋に、誰かいる気配を感じた。

けれど中に入ると、無人だった。

裸電球が一つだけ、ぼんやり点いている。

板敷きの上に、油を差したばかりらしい竿と、リール。

その横に、古い木の机が一つあった。

机の上に、一冊の分厚い帳面が、開いたままで置かれていた。

魚拓帳だった。

俺は、息を呑んだ。

表紙には、墨で太く「原田」とだけ書かれている。

めくると、最初の一枚が、黄ばんだ和紙だった。

サクラマスの拓。

右下に、几帳面な楷書で日付があった。

「昭和六十年五月四日 静夫と」

俺が八歳の春。

初めて兄に連れられて、川に入った日だ。

長靴の中に水が滲み込んで、しょっぱくて、笑った日──のはずだった。

覚えていなかったことが、こんな形で残っているとは思わなかった。

ページをめくる手が、止まらなくなった。

「平成元年八月十二日 静夫と お盆」

「平成五年三月二十日 静夫の高校合格祝い」

「平成八年四月一日 静夫上京の前日」

魚拓のかたちが、その日その日で違っている。

大きな鱒、小さなオショロコマ、岩魚、雷魚。

右下の日付の脇に、ときどき短い書き込みが添えてあった。

「静夫、東京の大学受かる」

「静夫、東京で就職」

「静夫、結婚」

俺の知らせは、電話で母にだけ伝えていた。

兄に直接、伝えたことなど一度もなかった。

けれど兄は、すべて、知っていた。

母から聞いたのか。

あるいは、母が連絡帳の片隅に貼っていた俺の年賀状を、こっそり覗いていたのか。

どれも、兄らしいやり方だった──直接は訊かない。けれど、忘れてもいない。

ページの途中で、一年だけ、魚拓のないところがあった。

俺と兄が、家のことでもめた年だ。

その年は、和紙が一枚、白いまま貼られていた。

そこに、墨で短く一行だけ書いてあった。

「静夫、来ず」

たった四文字。

けれど、その四文字に──兄が言わなかった、言えなかったすべてが、しんと収まっているように見えた。

俺は、その白いページの上に、手のひらをそっと置いた。

紙は冷たく、墨は乾ききっていた。

その後のページには、また魚拓が戻ってきていた。

けれど、書き添えられた言葉は変わっていた。

「静夫、来ず」

「静夫、来ず」

「静夫、来ず」

毎年、同じ四文字が、几帳面な楷書で繰り返されていた。

魚拓は鮮やかに残されているのに、その横で、四文字だけが、十一年を刻んでいた。

母の通夜の日にも、四十九日にも、三回忌にも──。

「母、見送る。静夫、来ず」

「四十九日。静夫、来ず」

「三回忌。静夫、来ず」

俺は、声を出さずに、ただ紙を見ていた。

恨み言ではない。

非難でもない。

ただ、事実だけが、淡々と書き留められていた。

その淡々とした筆致こそが、何より重かった。

そして、最後のページに、新しい和紙があった。

墨が、まだほんのりと黒い。

今朝、取られたばかりらしいサクラマスの拓。

右下に、震えのない、いつもの楷書で日付。

「令和八年四月十六日」

そして、その下に──短く一行、こう書かれていた。

「静夫の分も、釣っておいた」

俺は、その一行から、しばらく目を離せなかった。

胸の奥のどこかで、何かが、ふっと崩れる音がした気がした。

泣くまいと思った。

けれど、目の前の和紙が、にじんで見えなくなった。

足音がした。

板間の軋む音。

戸口に、影が立った。

振り返ると、兄が立っていた。

長靴を履き、肩には濡れた合羽をかけたままで。

顔は、十一年分、深く、黒く、皺が増えていた。

俺たちは、しばらく、何も言えなかった。

兄は、目を逸らさなかった。

俺も、逸らせなかった。

やがて、兄が小さく息を吐いた。

そして、奥のかまどの方を顎で示し、ぼそりと言った。

「茶でも飲んでけ」

俺たちは、居間の囲炉裏端に並んで座った。

湯呑みは欠けていた。

母が使っていた染付の、藍色のものだった。

湯気が、薪ストーブの煙とまじり合って、天井へのぼっていく。

兄は、何も訊かなかった。

俺がなぜここに来たのか。

これまで何をしていたのか。

東京の暮らしは、どうか。

何ひとつ、訊かなかった。

ただ、自分の湯呑みを両手で包み、ふぅふぅと茶を冷ましていた。

子供のころと、同じ仕草だった。

俺は、自分の湯呑みの中の茶を、ただ見ていた。

「兄ちゃん」

長く沈黙してから、ようやく、その一言が口から出た。

「うん」

兄が、短く答えた。

言いたいことが、いくつもあった。

あの日のこと。

母の葬儀のこと。

魚拓帳のこと。

けれど、どれも喉の奥につかえて、出てこなかった。

結局、俺は何も言えなかった。

兄も、何も言わなかった。

湯呑みの底に、茶柱が一本、立っていた。

それを、二人で黙って見ていた。

言葉は、もう要らなかったのかもしれない──少なくとも、その瞬間は。

飛行機の時間が迫っていた。

俺は、立ち上がった。

玄関で靴を履きながら、もう一度、兄の方を振り返った。

兄は、土間に立って、こちらを見ていた。

その背丈は、子供の頃に憧れた頃よりも、ずいぶん小さくなったように見えた──気のせいかもしれない。

俺は、深く頭を下げた。

「ありがとう」

たった一言だった。

けれど、それ以上の言葉が、見つからなかった。

兄は、ふっと目を逸らした。

そして、こちらに背を向けたまま、ぼそりと言った。

「また来年、釣りに行くか」

俺は、しばらく動けなかった。

言葉が、出なかった。

ただ、深く、深く、頷いた。

兄には、見えていなかったかもしれない。

それでも、頷いた。

標津の海は、灰色だった。

あの日、母を見送ったときと、同じ色をしていた。

けれど、その灰色の中に、ほんの少しだけ、青が混じっているように見えた。

飛行機が雲を抜けた瞬間、俺は気づいた。

──兄は、ずっと、待っていてくれたのだと思う。

言葉にはせず。

呼びにも来ず。

ただ、毎年、白い和紙の上に、たった四文字だけを書きながら。

「静夫、来ず」

その四文字は、責めの言葉ではなく──たぶん、招きの言葉だったのだ。

来年こそ、自分の足で、川に立とうと思った。

兄の隣に、もう一度。

新しい和紙の右下に、兄が「静夫と」と書いてくれる日が、また来るように。

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