
妻が遺した小さな抽斗から、見覚えのない手帳が出てきた。
一ヶ月前に逝った妻の、最後の半年間が綴られていた。
俺は、何ひとつ気づいていなかった。
桑の木で出来た古い針箱である。
妻の祖母が嫁入りに持ってきたという昭和の初めの拵えで、四隅の角は丸く擦れ、蓋の艶はもう何十年も前から鈍く光っていた。
蓋を開けると、紅絹の針山と、色違いの絹糸の糸巻きと、年季の入った金切り鋏が、いつも同じ位置に並んでいた。
その針山の左下に、指先ほどの小さな抽斗が一つ、ひっそりと付いていた。
長年、折れた針の先を放り込んでおく程度の用途しかなかった、はずだった。
四十九日を済ませた翌週の夕方、俺はそこに、薄い空色の表紙の手帳が押し込まれているのを見つけた。
妻の名は美子といった。
見合い結婚で一緒になった日から、四十年と少し連れ添った。
美子は若い頃から和裁の仕立てを生業にしていて、結婚してからも、家の縁側に小さな仕事台を置いて、近所のお寺の檀家さんや知り合いの呉服屋からの依頼を黙々とこなしてきた。
俺は中学校の国語教師で、生徒の答案やら部活の引率やらでほとんど家を空けていたから、家の中にいる美子の姿は、いつも縁側で背を丸めて運針している姿として記憶している。
コトコトと縫い針が布地を擦る微かな音と、紅茶の薄い湯気と、午後の日差し。
美子の周りには、いつもそういう穏やかなものが揃っていた。
雪の降る朝も、夕立の鳴る午後も、あの縁側の景色だけは何十年も変わらないように見えた。
若い頃に喧嘩をした夜でさえ、翌朝になれば美子は何事もなかったように針を動かしていて、俺の方が先に折れて、湯呑みにぬるい茶を注いでやるのが我が家の決まりだった。
気の利いた言葉のひとつもかけたためしのない、口下手な四十年だったと思う。
それでも、定年の朝に靴紐を結んでいる俺の背中に、美子は無言で湯呑みの茶を一杯置いてくれた。
湯気の向こうに見えた美子の横顔が、四十年でいちばん柔らかい笑みを浮かべていたことを、今でもよく覚えている。
娘が東京を出て千葉の人と所帯を持つことが決まった春先には、二人で小さく祝杯を挙げた夜もあった。
美子は普段はほとんど飲まないのに、その晩だけは盃を二つ重ねて、「これで、ほっと一安心ね」と微笑んだ。
去年の秋頃から、思えば、いくつか小さな変化があった。
夕食の品数が一品減った日があった。
縁側に座って針を持つ時間が、心なしか短くなった気がした。
風呂上がりに、流しの前で長いあいだ立ち止まっている背中を、何度か見た。
俺の好きな筑前煮の味付けが、ある日から少しだけ薄くなった。
けれども俺は、年齢のせいだろう、と思った。
六十を過ぎれば、家事も仕事も少しずつ重くなる。
美子は元々が痩せた質だったから、頬の線が一段細くなっても、特別なこととは感じなかった。
「父さん、今夜は何が食べたい」と、いつも通りの声で訊かれた。
「冷蔵庫にあるもので構わんよ」と、いつも通りの返事をした。
そんな日々の繰り返しの中に、痛みの影は、見事なほど一片も滲み出していなかった。
美子が玄関で崩れたのは、桜が散り終わった四月の半ばの夕刻だった。
買い物袋の中の春菊と、油揚げと、卵が、たたきの上に転がった。
卵がひとつ、コンクリートの隅で乾いた音を立てて割れた。
玄関の三和土に膝をついた美子の額に、冷たい汗が浮かんでいた。
「父さん、ごめんね、ちょっとだけ、座らせて」と、消え入るような声で言った。
救急車のサイレンの音を、俺は今でも夢の中で聴く。
病院に着いて、初老の主治医が硬い口調で言った。
「奥様は、半年前に当院で膵臓癌の宣告を受けておられます」。
俺は、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
「ご家族には、ご本人の強いご希望でお伝えしないことになっておりました」。
ここまでよく持ちこたえられました、と医師は付け足した。
病室のベッドに横たわる美子は、酸素マスクの下で目を閉じていた。
右の手首には、点滴の細い管が結ばれていた。
その左手で、美子は小さく俺の指を握ってきた。
「父さん、ごめんね」。
それが、生きている美子から聞いた、最後の声になった。
葬儀は身内だけで済ませた。
千葉に嫁いだ娘が泣き腫らしたまま、初七日を待たずに帰っていった。
気がつけば、家には俺一人きりが残された。
縁側の仕事台はそのままにしてある。
畳の上に置かれた針箱もそのままだった。
蓋を撫でていると、布の匂いが微かに残っているような気がして、俺はよく長いあいだ、そこに腰を下ろしていた。
湯を沸かしたところで、もう美子の湯呑みに注ぐことはないのだと気づいて、急須を握ったまま動けなくなる夕方があった。
※
四十九日の法要が終わった翌週、何の気なしに、その小さな抽斗を引いた。
古い真鍮の取手が、思いがけずすんなりと滑り出した。
中には、薄い空色の表紙の、女学生が使うような細長い手帳が、二つ折りに押し込まれていた。
表紙には何も書かれていなかった。
ページを開いて最初の日付を見たとき、俺は思わず縁側に膝をついた。
去年の十月十二日。
ちょうど主治医が、半年の余命を告げたその日付だった。
字は美子の筆跡で、最初の数行はいつも通り、丁寧で柔らかい。
しかしページが進むにつれて、文字が少しずつ揺れ、痩せ、消え入りそうになっていった。
美子は、その手帳に、誰にも言えない半年間を、一人で書き続けていた。
「十月十六日。父さんに、いつも通りの顔ができた。よかった」。
「十一月二日。針を持つと、右の脇腹が重い。痛みではない、と思うことにする」。
「十一月二十日。今夜は鯖の味噌煮。父さんは『うまい』と言って、二度おかわりをしてくれた」。
「十二月七日。痛みが増した。湯たんぽを抱いて寝ると、朝には少しよくなる」。
「十二月二十四日。娘が孫を連れて泊まりに来てくれた。孫の手を握っていると、痛みのことを忘れていられた」。
「一月三日。父さんと、二人で初詣に行った。坂道を上がるのが少し辛かったが、後ろから歩く父さんの肩が、若い頃と同じだった」。
「二月十一日。今日は調子が良い。仕立てを一着、最後まで仕上げた。お寺の奥様が喜んでくださった」。
「二月二十二日。寝床で、父さんの寝息を聞いていた。この音をずっと聴いていたかった」。
「三月九日。痛みで眠れない夜が増えた。明日は朝から運針をして紛らわすつもり」。
「三月十八日。父さんが『最近、夕飯が軽いな』と笑った。気づかれないように、もう少し頑張ろう」。
「三月二十七日。針が指から滑る。けれど縁側の日差しが温かい」。
「四月四日。父さんに弱い顔を見せたくない。それだけで生きている」。
「四月十日。今日も、気づかれずに済んだ」。
ページはあと数枚を残して、ふっつりと止まっていた。
美子が玄関で崩れた、四月の半ばのあたりまで。
それでも、最後のページに、ひとつだけ、別の筆跡で短い書き付けがあった。
鉛筆の薄い線で、震える手で書かれた、たった三行だった。
おそらく病室で、誰にも見られないように、点滴の腕で書いたのだろう。
「父さん。本当はずっと、痛かったよ」。
「だけど、あなたの隣で笑っていられたから、私はじゅうぶんに幸せでした」。
「お先に、ごめんなさい」。
俺は、その三行の前で、ただ手帳を握っていた。
縁側の畳に、夕方の橙色の日が長く差し込んできた。
気がつけば、俺の膝の上に、ぽたぽたと滴が落ちていた。
止め方を、もう何十年も忘れていたものが、こぼれていた。
※
美子は、最期まで強い妻だった。
六十四年の生涯のうち、四十年あまりを俺の隣で過ごし、最後の半年は、痛みを一人で抱えて笑っていた。
俺は、毎日同じ家に居ながら、その痛みに何ひとつ気づけなかった。
気づかせなかったのは、美子の意地でもあり、優しさでもあったのだろう。
けれども本当のところは、俺が見ようとしなかった、ただそれだけかもしれない。
「うまい」と二度おかわりをした夜の鯖の味噌煮も、初詣の坂道で美子が振り返って笑った顔も、思い返せばすべてが、痛みの中で美子が選んでくれた風景だった。
この家の四十年の暮らしの色は、最後の半年に至るまで、美子が一人で塗ってくれていたのだ。
国語の教師を四十年やってきた俺なのに、目の前にいる人の沈黙の意味を、ついに最後まで読み解けなかった。
縁側の針箱は、今も同じ場所に置いてある。
蓋を開ければ、紅絹の針山と、色違いの糸巻きと、年季の入った金切り鋏が、美子が並べたままに揃っている。
その左下の小さな抽斗には、薄い空色の手帳を、また元の場所に戻しておいた。
夕方になると、俺は今日も縁側に座る。
「美子」と、声に出して呼んでみる。
返事はないが、針を運ぶ微かな音が、どこかから聞こえてくる気がするのだ。