実話|紅花染めの白猫

冬の夕暮れ、温かなひととき

吹雪の前触れを、私は猫の影で知ったのである。

米沢盆地の底に降り積もった雪が、三日目の夜半から、紅花染めの工房の屋根板を、低く軋ませはじめていた。

私はその軋みの中に立って、染料の鍋を見つめていた。

湯気が天井の梁を伝い、薄暗い裸電球の周囲で、淡い紅の靄をなしていた。

鍋の縁から、紅花の朱が、ゆるやかに、揺れていた。

それは昭和六十年、二月の終わりのことであった。

私、矢島修司は、満二十三歳。

山形県米沢市本町の老舗・五十嵐紅染所に、住み込みの見習いとして上がってから、三年が過ぎようとしていた。

裏口の格子戸の向こうに、白い猫の輪郭があった。

雪明かりの中に座して、内側を、じっと、見つめていた。

私は、その紅花染めの白猫を、見るたびに、追い払うことを、私の務めのひとつとしてきた。

理由は単純であった。

染物の場には、毛と埃が、何よりの敵であった。

紅花の絹布の上に、ひとすじ、白い毛が落ちるだけで、その日の一反は、見習いの責めとされた。

親方の五十嵐五郎吉は、それについて、私を叱る人ではなかった。

ただ、無言で、絹布を、土間の隅に立てかけ、目を伏せて、新しい一反を、私の手元に、滑らせるのであった。

その無言が、若い私には、もっとも応えた。

私は、自分の不行き届きを、白い猫のせいに、して、生きていた。

格子戸を、力をこめて、押し開けた。

雪の冷気が、土間に流れこんだ。

猫は、私の顔を、見上げた。

透明な、灰色の目であった。

咎める色も、怯える色も、なかった。

私が箒を振り上げると、猫は、ゆっくりと、踵を返した。

雪明かりの庭の中へ、その白い背が、消えていった。

私は、扉を閉ざし、しばらく、戸の前に、立ち尽くした。

胸の奥が、薄く、ざらりと、軋むのを、感じていた。

「修司」

背後で、低い声がした。

振り返ると、親方が、湯呑みを手に、土間と仕事場の境に、立っていた。

私が「すみません」と、言いかけた言葉を、親方は、片手の小さな仕草で、押しとどめた。

「鍋を、見ろ」

親方は、それだけ言って、奥の暗がりへと、戻っていった。

私は、急いで、鍋に駆け寄った。

紅花の色が、わずかに、底に張りつきはじめていた。

私は、木の杓子で、ゆっくりと、底を、攪拌した。

色が、戻ってきた。

その夜から、雪は、いよいよ、深くなった。

私の故郷は、米沢の里ではない。

新潟の海沿い、寺泊の近くの、小さな漁村であった。

父は、私が八つの年に、季節風の強い朝、漁の沖合で、海に呑まれた。

母は、それから十年、女手ひとつで、私と妹を、育てた。

高校を出る年の春に、私は、町の組合長の口利きで、米沢の親方のもとへ、紅花染めの修業に上がることを、決めた。

紅花の絹を肩にかけた花嫁が、雪の白い里を抜けていく古い絵を、子供の頃の絵本で見ていた、それだけの理由であった。

親方は、私を、息子の代わりに、扱った。

無口な人であった。

私の父と、ほぼ同じ年であった。

親方には、息子も、娘もなかった。

連れ合いの女房は、私が来た年の夏に、肺を病んで、米沢の療養所で、息を引き取っていた。

親方は、その夏のあと、ますます、寡黙になった。

朝は、午前四時半に、土間に下りた。

釜の灰を、私が掻き出し、親方が、新しい炭を、組み上げた。

紅花の乾物を、私が、一晩ぬるま湯につけ、親方が、その朝の塩梅で、灰汁の濃さを、決めた。

色は、その日の空気の湿りと、釜の火と、布の機嫌で、毎日、変わった。

親方の手は、その三つを、瞬時に、見極めた。

私は、その横で、三年、ただ、見ていた。

白い猫が、裏口に、はじめて、現れたのは、私が来た年の、秋の終わりであった。

親方の女房が、亡くなって、四十九日が、過ぎたあとであった。

雌の、痩せた、雪のように白い猫であった。

左の前脚の付け根に、五寸ほどの、古い傷の跡があった。

私はその傷を、初めて見たとき、犬に噛まれたか、車に轢かれたか、と、思った。

親方は、その猫を、追い払わなかった。

夜、戸を閉ざす前に、土間の隅に、欠けた茶碗を置いて、米と、煮干しと、紅花の搾り滓に絡めた、温かい雑炊を、よそった。

私は、その儀式が、奇妙に思えた。

一度だけ、なぜ、と、訊ねかけたことがある。

親方は、湯呑みの茶を、ゆっくりと、口に運び、しばらく、答えなかった。

やがて、

「来るから、置く」

と、それだけ、低く、言った。

私は、それ以上、何も、訊かなかった。

親方の沈黙の領域に、踏み込んではならぬことを、私は、新潟の海と、父の不在のなかで、すでに、習い覚えていた。

しかし、私は、その猫を、好きには、なれなかった。

紅花染めの絹布の白を、私の手元から取り上げる、何ものかの象徴のように、私には、思われた。

親方が眠ったあとの夜更けに、私は、何度も、裏口を、開けた。

猫を、追った。

箒を、振った。

雪の上を、白い背が、消えていった。

猫は、それでも、翌晩、戻ってきた。

親方は、何も、言わなかった。

ただ、毎晩、土間の隅に、欠けた茶碗を、置き続けた。

二月の、その夜から、三日目の朝のことであった。

私が、いつもの刻限に、土間に下りても、奥の仕事場から、釜を覗き込む親方の影が、見えなかった。

寝間の襖を、軽く、叩いた。

返事は、なかった。

襖を、押し開けた。

親方は、布団の中で、半身を、起こそうとして、起こせずに、いた。

顔色が、紅花染めの紅から、すっかり、抜け落ちて、白かった。

熱と、悪寒で、肩が、震えていた。

私は、すぐに、町医者を、走って呼んだ。

診断は、急性の肺炎であった。

七十六の身体には、もう、若い頃の、無理が、利かないと、医者は、言った。

入院を、強く、勧められた。

親方は、首を、横に、振った。

「家で、よい」

それしか、言わなかった。

医者が帰った後、私は、親方の枕元で、湯を沸かし、葛湯を、薄く、こしらえた。

親方は、半身を、私の腕に、預けて、湯呑みを、両手で、受け取った。

湯気が、親方の頬を、温め、紅染めの絹のような、淡い色を、戻していった。

「修司」

親方は、湯呑みの縁に、口を、つけたまま、低く、私を、呼んだ。

私は、はい、と、姿勢を、正した。

「あの猫は」

親方は、言葉を、ひとつずつ、選びながら、言った。

「あの猫の、生まれの、母猫は」

そこで、一度、息を、整えた。

「四十年前の、八月十二日の、夜のことであった」

私は、その日付の意味を、知っていた。

昭和二十年八月十二日。

山形県米沢市が、空襲を、受けた日であった。

親方は、目を、伏せた。

湯気が、ふたりの間に、淡く、漂った。

「わしの、いちばん下の妹を、文子と、いった」

親方は、その名を、低く、口にした。

「数えの、五つで、おうた」

私は、息を、呑んだ。

「文子は、本町の、隣家の、生まれた仔猫の、白い、母猫を、いとうとった」

親方の声は、抑えられていた。

しかし、その底に、四十年の重みが、ゆっくりと、滲んでいた。

「八月十二日の夜、わしは、隣の防火桶に、文子を、つれて、避難しよった。母猫が、文子の足元に、まとわりついて、離れんかった。文子は、母猫の首根を、しっかと、抱いていた」

「焼夷弾が、隣家の梁を、抜いた」

「文子と、母猫は、わしの、目の前で、一緒に、燃えた」

親方は、一度、目を、閉じた。

湯呑みが、両手の中で、わずかに、揺れた。

私は、何も、言えなかった。

言うべき言葉を、私は、未だ、習い覚えてはいなかった。

「翌朝、瓦礫の中から、わしは、ひとつの、小さな白を、拾うた」

親方は、続けた。

「母猫の、腹の下で、奇跡的に、息のあった、白い、仔猫であった。左の脚に、火傷の、跡が、残っていた」

私は、思い出した。

裏口の白い猫の、左の前脚の、古い傷を。

「その仔猫の、子孫が、この四十年、わしの、裏口に、来た」

親方の声が、ふと、少しだけ、震えた。

「来るたびに、わしは、文子に、雑炊を、供えてきた」

「来るたびに、わしは、文子を、生かしてきた」

私は、顔を、伏せた。

畳の目が、にじみ、震え、消えた。

私が、追い払い続けた、白い背は、親方にとって、四十年前の、八月の夜であった。

私が、箒を振り上げた、その瞬間、私は、文子の小さな手から、母猫を、もぎ取っていたのである。

私は、頭を、深く、畳に、下げた。

親方は、何も、言わなかった。

ただ、私の頭の上に、温かい手を、一度、置いた。

それだけであった。

その夜、白い猫は、来なかった。

私は、寝ずに、裏口の戸を、何度も、開け、雪の庭を、見た。

雪は、しんしんと、降り続いていた。

白い背は、現れなかった。

私は、戸を閉ざすたびに、自分の胸に、ひとすじ、冷たい毛のような、ものが、落ちるのを、感じた。

翌朝の、まだ薄暗い刻限であった。

私が、裏口を、開けた。

雪の上に、ひとかたまりの、小さな白が、横たわっていた。

近寄った。

白い猫は、目を、閉じていた。

左の前脚を、自分の頬の下に、敷くようにして、丸まっていた。

息は、もう、なかった。

冷たく、しかし、苦しんだ様子は、なかった。

ただ、長い長い旅の、終わりに、家の戸口で、眠ったかのような、静かな姿であった。

私は、しばらく、雪の上に、跪いた。

冷たさは、感じなかった。

私の胸の中で、四十年前の、八月の、母猫の灰と、白い仔猫の、いとけない火傷が、初めて、私の生活の温度に、なった。

私は、白猫を、両の手のひらに、そっと、受け止めた。

驚くほど、軽かった。

四十年の歳月の、すべてを、私の腕は、抱えていた。

寝間に、親方を、起こしに行った。

親方は、目を、開けた瞬間、すべてを、察した。

立ち上がる体力は、まだ、戻っていなかった。

私が、親方を背負って、土間に、下ろした。

親方は、寝巻きのまま、土間の真ん中に、座した。

私が、白猫を、その手のひらに、預けた。

親方は、白猫を、両の手で、長い間、受け止めていた。

言葉は、何も、なかった。

親方の頬を、一筋、紅染めの絹の色のような、淡く、温かいものが、伝った。

親方は、奥の戸棚の、いちばん下の引き出しから、一反の、紅花染めの古い絹布を、取り出した。

それは、昭和二十年の、八月の前の、最後の染めであった、と、後で、私は、知った。

親方の女房が、その春に、文子のために、嫁入り道具の余り絹で、こしらえた、肩掛けの、布であった。

四十年、戸棚の奥に、しまわれていた、紅花の朱が、わずかに、淡くなった、絹であった。

親方は、その絹に、白猫を、くるんだ。

ゆっくりと、丁寧に、まるで、五歳の妹の体を、整えるかのように、くるんだ。

最後に、絹の隅に、親方は、私から受け取った染め筆を、震える指で、握った。

紅花の朱の中に、親方は、二文字だけ、書いた。

「文子」

それだけであった。

雪は、その朝、夜明けまでに、止んでいた。

工房の裏庭の、椿の木の、根方に、私と親方とで、白猫を、埋めた。

親方は、まだ、立てなかった。

土を掘ったのは、私であった。

親方は、丸めた絹を、両手で、土の中に、下ろした。

私は、土を、戻した。

最後に、親方が、椿の枝を、一枝、折って、土の上に、置いた。

椿は、まだ、つぼみであった。

雪の重みで、いくつかの、つぼみが、地に、落ちていた。

親方は、ふと、私を、見上げた。

「修司」

低い、しかし、四十年の靄の晴れた声であった。

「妹の代わりに、四十年、わしは、あの猫を、いとうとった。お前さんに、追われても、あの猫は、わしの土間を、忘れんかった」

親方の目に、もう、涙は、なかった。

「来年の春、まだ、あの猫の血の、仔が、いるかもしれぬ。裏口の、欠けた茶碗を、お前さんが、置いてやってくれ」

私は、雪の上に、また、深く、頭を、下げた。

その春が、いつ来るのか、私には、分からなかった。

私が知っていたのは、私の二十三年の、これからの残りの全部を、その茶碗の前に、捧げるべきであるという、ただひとつの事実であった。

親方が、肺炎から、本復するのに、ひと月を、要した。

紅花染めの仕事には、私が、ひとりで、立った。

失敗を、何度も、した。

紅の色は、私の腕では、まだ、まだ、出なかった。

親方は、布団の中から、紅花の鍋の湯気を、目で見て、よろしいと、低く、頷いてくれた。

私は、その頷きを、ひとつずつ、自分の腕に、刻んでいった。

裏口の、欠けた茶碗を、私は、毎晩、新しい雑炊で、満たした。

白い背は、二月の終わりから、三月、四月、五月と、現れなかった。

私は、それを、寂しく、思った。

寂しさは、しかし、ゆっくりと、別の感情に、変わっていった。

それは、四十年前の、八月の夜を、私の胸の中に、生かし続ける、ということであった。

五月の終わりの、ある朝のことであった。

私が、いつものように、裏口を、開けた。

朝靄の、薄い紅花の色をした、米沢の山並みの下に、椿の根方を、見た。

土の上に、何ものかの、小さな影が、座って、いた。

近寄った。

仔猫であった。

雪より、わずかに、灰色がかった、しかし、紛れもなく、白い、仔猫であった。

親猫の姿は、どこにも、なかった。

仔猫は、私の足元に、ゆっくりと、近づいた。

左の前脚に、生まれつきの、薄い、赤い、痣のような、ものが、あった。

私は、しゃがんだ。

仔猫は、私の指先の匂いを、嗅いだ。

逃げなかった。

怖がらなかった。

私は、立ち上がり、土間の、欠けた茶碗を、両手に、捧げ持った。

鍋の煮干しの匂いが、朝の靄の中に、立ち昇った。

私は、茶碗を、裏口の、いつもの場所に、置いた。

仔猫が、ゆっくりと、近づいた。

奥の襖の向こうで、親方が、咳をして、目を、覚ました音が、した。

私は、土間に向かって、低く、声を、かけた。

「親方、来ましたよ」

返事は、なかった。

ただ、寝間の方から、深い、長い、息を、吐く音が、聞こえた。

それは、四十年の、八月の、夜の重みが、ようやく、ひとつ、肩から、降りた音のように、私には、聞こえた。

椿は、その朝、いちりんだけ、雪明かりの色をした花を、根方に、咲かせていた。

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