新婦の父が持ってきた一本のビデオテープ

ウエディング

結婚式場の調整室で、私の指はいつも、音量のつまみの上にある。

披露宴の二週間前、新婦の父が一本のビデオテープを抱えて、調整室の扉を叩いた。

黒いプラスチックの背には、色の褪せたラベルが貼ってある。

「明子 退院の日」

角ばった鉛筆の字だった。

「これを、流せますか」

父は五十代の半ばに見えた。

仕事帰りなのか、紺の作業着の上に薄いジャンパーを羽織っている。

手の甲には、細かい傷がいくつも走っていた。

一階のロビーで、プランナーが小声で教えてくれた。

父は水道工事の会社に勤めていて、今日も現場から直接来たのだという。

式場のプランナーから、事前に連絡は受けていた。

新婦の父が、思い出の映像を流したがっている。

ただ、形式がテープなので、対応できるか確認してほしい、と。

私は「できます」と即答した。

「ビデオテープなんて、よく置いてありましたね」

プランナーの高崎さんが笑った。

「あの倉庫は、もう博物館ですから」

「でも、助かります。お父様、他の式場では断られたそうなんです」

断られた、という言葉が胸に引っかかった。

データへの変換を勧められたのだろう。

親切のつもりで言われた一言が、この人にはどれほど重かったか。

この調整室には、あらゆる時代の機械が、まだ眠っている。

ビデオデッキ、ミニディスクの再生機、カセットのダブルデッキ。

新しい機械が入るたびに古いものを捨てられないのは、私の悪い癖だと同僚に笑われてきた。

今日ほど、その癖に感謝した日はない。

私はこの式場で、映像と音響を担当して二十二年になる。

私の仕事は、式の最中に、誰にも気づかれないことだ。

音が出ていて当たり前、映像が映っていて当たり前。

失敗したときだけ、存在を思い出される仕事でもある。

近ごろの依頼は、スマートフォンの動画をそのまま映してほしいというものが、ほとんどだ。

去年は、妻が打った初めてのメールを、新郎が読み上げる式があった。

その前の年には、夕焼けの絵葉書を額に入れて飾った、新婦の友人もいた。

それでも、テープを持ち込まれたのは、数年ぶりだった。

「データに直すのは、やめてください」

父は、箱を胸の前で持ったまま言った。

「何か、抜け落ちる気がして」

理屈ではない頼み方だった。

けれど私は、理屈のない頼みごとほど大事なのだと、この仕事で知っている。

二十五年前、家庭用のビデオカメラは、まだ肩に担ぐほど大きかった。

借り物のレンズで撮った映像は、いまの画面に映すと、輪郭が少し甘い。

けれど、甘い輪郭の中にしか残っていないものが、確かにある。

私は箱の背を、親指でなぞった。

父は深く頭を下げた。

その礼の角度が、あまりに深かったので、私のほうが慌ててしまった。

この人は、何かを頼むこと自体に、慣れていないのだ。

「わかりました。では、試写をしましょう」

試写の暗がり

倉庫の奥から、埃をかぶった再生機を引っぱり出した。

前面のつまみを濡れた布で拭くと、銀色の地肌が、二十年ぶりに光った。

ラックに据え付けるあいだ、父はほとんど口をきかなかった。

ただ、ケーブルを差す私の手元を、腕を組んで黙って見ていた。

「娘さんには、まだ見せていないのですね」

そう尋ねると、父は壁の時計に目をやった。

「生まれた日に撮ったものです」

「あの子は、一度も見ていません」

「私も、あれから一度も」

最後の一言は、独り言に近かった。

「どうして、今まで見なかったのですか」

訊ねるべきではないと思いながら、私は口にしていた。

父は少し黙ってから、ゆっくり答えた。

「カメラは、駅前の電器店で、一日だけ借りたものでした」

「返す日までに、撮り直しは利きませんでした」

「再生機は、とうに壊れましたが、買い直せば済む話です」

「見られる状態になるのが、怖かったんだと思います」

「二十五年前の私が、あの中にいるので」

私はそれ以上、何も訊かなかった。

受け取った箱は、想像していたより軽かった。

ラベルの端は、何度も指でなぞられたのか、丸く擦り切れている。

貼った人は、一度も再生しないまま、毎年どこかにしまい直していたのだろう。

試写は、貸切の小宴会場で行った。

照明を落として、スクリーンを下ろす。

父は、いちばん後ろの席に座った。

スクリーンには背を向けて、壁のほうを見ている。

「私は、見ません」

「音だけ、確認してください」

そう言われたので、私は一人でスクリーンの前に立った。

再生ボタンを押すと、一本のビデオテープが、きしむ音を立てて回り始めた。

灰色の砂嵐が、数秒続く。

やがて、白いシーツが映った。

画面の端には黒い帯が揺れ、色は少し赤みに寄っている。

二十五年分の時間が、そのまま画面に溶け出しているようだった。

ヘッドホンを耳に当てると、遠い波音のような雑音の奥から、人の呼吸が聞こえた。

音量計の針が、二十五年前の声に合わせて、細かく振れる。

私は何度もつまみに触れ、声の高さが埋もれない位置を探した。

病室のベッドの上に、髪を後ろで束ねた女性が座っている。

腕の中に、産着にくるまれた赤ん坊がいる。

画面の外から、男の声がした。

「ちゃんと映ってるか」

「映ってるわよ。あなた、手が震えてる」

女性が笑った。

思っていたよりも低くて、柔らかい声だった。

女性は赤ん坊の背中を、指先で一定の拍で叩いている。

そして、小さな声で歌い出した。

「ゆりかごのうた」だった。

私は早送りのボタンを押して、終わりの部分を確かめることにした。

残りが一分になったところで、再生に戻す。

画面は、天井の蛍光灯を映したまま、動かなかった。

そこに、低い声が重なった。

抑えようとしても抑えきれない、男の人の泣き声だった。

十秒ほど、それは続いた。

私は思わず、後ろを振り返った。

父は壁のほうを向いたまま、身じろぎもしなかった。

その背中は、広くて、薄かった。

二十年以上、水を引き、管をつなぎ続けてきた人の背中だと思った。

誰かの家に水を通す仕事は、完成すれば、誰にも見られなくなる。

私の仕事と、少し似ている。

停止ボタンを押すと、機械の駆動音だけが残った。

「最後の十秒だけ、音を絞ってもらえませんか」

父の声は、壁に向かって話しているように聞こえた。

「あそこは、私が知っていれば、いいので」

「承知しました」

私は進行表の余白に、鉛筆で書き込んだ。

「ラスト10秒 音量を絞る」

書き終えて顔を上げると、父はもう立ち上がって、出口に向かっていた。

扉の前で振り返り、また深く頭を下げる。

「当日は、よろしくお願いします」

その声は、さっきよりも少しだけ、明るかった。

前夜の宴会場

その夜の式場は、静かだった。

前日の準備で、私は八時まで調整室に残っていた。

明日の台本を、もう一度、頭から読み返した。

演出の欄には、新婦の父、と一行だけ書いてある。

その横の余白に、「テープ 2分40秒」と、私が自分で書き足した。

宴会場の扉の向こうから、人の声が聞こえた。

隙間から覗くと、演壇の前に、あの父が一人で立っていた。

灯りは、非常口の緑だけだ。

その光が、父の肩に薄く落ちていた。

父は紙を片手に、誰もいない客席へ向かって話していた。

紙には赤いペンで何度も線が引かれ、余白が文字で埋まっている。

父の声は、現場で張り上げるものとは違う、細くて探るような声だった。

言葉を一つ置くたびに、確かめるように間を取る。

その間の長さが、そのまま、この人が娘と過ごしてきた時間の長さなのだと思った。

「拓海くん。娘は、寝言で──」

そこで言葉が途切れる。

咳払いをして、最初からやり直す。

「拓海くん。娘は、寝言で『おかわり』と」

「しかも」

そこでまた、途切れる。

また、途切れる。

三度目に、父は紙を下ろして、ただ肩を震わせた。

笑おうとしたのだと思う。

けれど口の端が上がる前に、喉が鳴ってしまう。

その肩は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

どちらなのか、自分でもわからなかったのだと思う。

私は扉を静かに閉めて、足音をひそめて廊下を戻った。

外へ出ると、駐車場の軽トラックの荷台に、配管の束が積まれたままだった。

私の父は、私の結婚式で、挨拶を読まなかった。

紙を持って壇上に立ち、三十秒ほど黙って、頭を下げて降りた。

あの頃の私は、それを不器用な人だと恥じていた。

あの沈黙が何を抱えた時間だったのか、わかったのは、ずっと後のことだ。

駐車場の暗がりで、私は軽トラックの荷台を、しばらく眺めていた。

配管の束の端には、軍手が一組、きれいに畳んで置かれていた。

荷台のシートには、昼間の雨のしずくが、まだ丸く残っていた。

私は傘もささずに、それを見ていた。

控室で聞いた鼻歌

披露宴の当日は、よく晴れた十月の土曜日だった。

開宴の一時間前、私は新婦控室へ、ワイヤレスマイクの確認に向かった。

扉を二度叩くと、中から「どうぞ」と若い声がした。

白いドレスの女性が、鏡の前に座っていた。

新婦の明子さんだった。

二十五歳。

化粧が乗りきらない、少女のような横顔をしている。

ヘアメイクの女性が、彼女の髪にベールを留めていた。

そのあいだ、明子さんは目を閉じて、小さく鼻歌をうたっていた。

私は、マイクを手にしたまま、扉のところで動けなくなった。

「ゆりかごのうた」だった。

先週の試写で、画面の中の女性が背中を叩きながら歌っていた、あの旋律と同じだった。

「あ、すみません。うるさかったですか」

明子さんが目を開けて、照れたように笑った。

「いえ。いい歌ですね」

「癖なんです。気がつくと歌ってて」

「誰に教わったのか、全然覚えてなくて」

ヘアメイクの女性が、小声で私に教えてくれた。

「さっきドレスを着たとき、少し泣かれたんです」

「お母さんにも見せたかった、って」

明子さんは聞こえなかったふりで、膝の上のブーケを整えていた。

白いスズランの茎が、リボンの下できつく結ばれている。

鏡の中の彼女と、目が合った。

「母の写真は、一枚だけなんです」

「父の財布に入っていて。誕生日のごほうびに、見せてもらうのが楽しみでした」

「でも、動いている母は、見たことがなくて」

「父は、私の誕生日にも『おめでとう』としか言わない人で」

「今日も、何か企んでいるみたいで。少し、怖いんです」

扉が開いて、紋付ではなく濃紺のタキシード姿の新郎が顔を出した。

拓海さんは二十八歳で、顔色が、新婦よりも悪かった。

「昨日、お義父さんと二人で飲んだんですけど」

「二時間、ほとんど一言も喋ってくれませんでした」

「でも、帰り際に、『娘を頼む』って。それだけ」

明子さんが、ふっと息を漏らすように笑った。

私はマイクの電池を確かめるふりをして、何度か視線を落とした。

言えないことを抱えるのは、この仕事の宿命だ。

「お綺麗です」

それしか、言えなかった。

扉を閉めると、廊下の空気が、急に冷たく感じられた。

調整室へ戻る階段で、私は一度だけ立ち止まった。

父の頼みを守るべきなのか、まだ決めかねていた。

披露宴は、予定どおりに進んだ。

乾杯、ケーキ入刀、お色直し。

私は照明の色を、一つずつ切り替えていった。

高砂の脇の席で、新郎の母が、父の湯呑みにお茶を注いだ。

父は会釈をしたが、湯呑みには口をつけなかった。

膝の上で組んだ両手の指が、白くなるほど絡み合っている。

終盤、新婦の父の挨拶の順番が来た。

父は貸衣装の黒い礼服を着て、演壇に立った。

作業着のときより、背中が小さく見えた。

「明子。お前が生まれてすぐ、お母さんは病気で、遠くへ行ってしまった」

「お前は母さんの顔を、写真でしか知らない」

「声も、知らないままだ」

「それでも、一度も文句を言わなかった」

「家事も手伝ってくれた。手のかからない子だった」

そこで父は、一度、言葉を切った。

「だが、お前に謝らなければならないことがある」

「生まれた日から、渡すときをずっと探していたものがある」

演壇の下から、父は黒い箱を取り出した。

一本のビデオテープの再生

父の視線が、調整室の窓へ飛んできた。

私は頷いて、一本のビデオテープの再生ボタンを押した。

スクリーンに、白いシーツが浮かび上がった。

会場のざわめきが、引き潮のように消えていった。

画面の奥の窓では、満開の桜の枝が揺れていた。

「ほら、窓から桜が見えるのよ」

「あなたが生まれた日に、咲いたの」

「ちゃんと映ってるか」

「映ってるわよ。あなた、手が震えてる」

画面の中で、女性が笑った。

その声が、スピーカーを通って、天井の高い空間を満たした。

最前列の明子さんの肩が、びくりと跳ねた。

母の声を二十五年間知らなかった人が、初めてそれを聞いていた。

隣の新郎が、彼女の背に、そっと手を置いた。

画面の中の女性は、赤ん坊の背中を叩きながら、小さく歌い出した。

「ゆりかごのうた」だった。

窓越しに見える明子さんの唇が、気づかないうちに、同じ旋律をなぞっていた。

声は出ていない。

けれど拍だけが、母の指と、ぴたりと重なっていた。

歌は途中で途切れて、女性が赤ん坊の手を持ち上げた。

「見て。指が長いの」

「お父さんの指に、そっくり」

画面の端から、男の人差し指が差し出された。

傷だらけの、太い指だった。

赤ん坊の手が、それをぎゅっと握った。

演壇の脇で、父の右手が、体の横で一度だけ握られた。

そのとき、画面の外から、別の女性の声が入った。

「お母さん、そろそろ検温の時間ですよ。無理しちゃだめですよ」

「もう少しだけ、撮らせてあげて」

画面の中の女性は、笑ってそう答えた。

彼女はカメラに向き直った。

「明子。あなたの名前はね、お父さんが三日かけて考えたのよ」

「明るい子になりますように、って」

「お父さんは泣き虫だから、ときどき、笑わせてあげてね」

会場のあちこちで、ハンカチが目元に当てられた。

明子さんは両手で口を覆って、肩だけを細かく上下させている。

その横で、父は顔の筋ひとつ動かさずに、画面を見ていた。

画面が、ふいに揺れた。

天井の蛍光灯が映り、カメラがどこかに置かれる気配がした。

最後の十秒だ。

私の指が、つまみに触れた。

進行表に書いた、音を絞る位置だった。

スピーカーから、低い声が漏れ始めた。

嗚咽だった。

「いいのよ。泣いても」

画面の外から母の声がして、嗚咽はさらに大きくなった。

私は父の顔を見た。

父は、調整室の窓を見ていた。

そして体の横で、指を二本だけ、小さく立てた。

そのままでいい、という合図に見えた。

私の指は、つまみの上で止まった。

二十五年前の泣き声は、絞られないまま、最後まで流れた。

笑わせてあげてね

テープが砂嵐に変わり、スクリーンが暗くなった。

会場には、誰かが鼻をすする音だけが残った。

父は演壇に戻って、マイクを握り直した。

「今の泣き声は、私です」

「二十五年前の私は、あんなに泣き虫でした」

「母さんに、笑わせてやってと頼まれたのに」

「今日まで一度も、その約束を果たせていません」

父は、新郎のほうへ体を向けた。

「拓海くん。娘は寝言で『おかわり』と言います」

「しかも、三杯目まで言います」

今度は、言葉が途切れなかった。

一拍、置いて、会場が弾けた。

最初に声を上げて笑ったのは、涙で化粧が崩れかけた明子さんだった。

その声は、さっき聞いたばかりの母の声と、同じ高さをしていた。

式のあと、父は調整室を訪ねてきた。

私は一本のビデオテープを、黒い箱ごと、両手で返した。

「絞らないでくださって、ありがとうございました」

「合図をしたのは、お父さんです」

父は黙って頷き、箱を紙袋にしまった。

二十二年続けても、つまみの上の指が動かなくなる日は、そう多くない。

その日の私の指は、最後まで動かなかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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