母が最後まで蒔かなかった種

母が最後まで蒔かなかった種

郡上八幡の職人町に、間口二間の小さな花屋があります。

母がひとりで四十年やって、私が継いで三年になりました。

店の前には水路が流れていて、夏は水音で客の声が聞こえにくいほどです。

母がいたころと、置いてある道具はほとんど変わっていません。

変えられなかった、というほうが正しいと思います。

レジの横に、口の欠けた一輪挿しが一つ。

母は毎朝そこに、売り物にならない花を一本だけ差していました。

水の町の花屋

郡上は、水の音の絶えない町です。

家の前に用水が流れ、そこで野菜を洗う人がいて、金魚が泳いでいます。

うちの店は、その水路を背にして建っています。

朝、シャッターを上げると、まず水の匂いがします。

花を扱う商売には、この町の湿り気がちょうどいいのだと母は言っていました。

八月の郡上おどりの時期になると、店の前を浴衣の人が絶え間なく通ります。

そのころだけ、母は仏花より小さな花束をたくさん作りました。

踊りの帰りに、家の人へ買って帰る客がいるからです。

母は、町の人の一年の動きを、花の売れ方で覚えている人でした。

※

母の手

花屋の手は、季節でかたちが変わります。

冬は水が冷たいので、指の関節が太くなって、あかぎれが縦に入ります。

母の右の親指には、ハサミの当たるところに硬い皮ができていました。

子どものころ、私はそこを触るのが好きでした。

「かたい」と言うと、母は「そりゃ、かたいわ」と笑います。

手だけは、ずっと変わりませんでした。

八十近くになっても、あの親指の皮は硬いままでした。

いま私の親指にも、同じ場所が少しずつ硬くなってきています。

※

言わない町

郡上の人は、あまり褒めません。

気に入った花束を持って帰った客が、次に来たときに何か言うわけでもない。

ただ、また同じものを頼みます。

それが評価です。

母はその作法の中で四十年やってきました。

だから家の中でも、あまり言葉を使わない人でした。

私は名古屋で十二年働いて、その反対の場所にいました。

言わなければ伝わらない、という前提の世界です。

帰ってきて三年、私はようやく、言わないことに慣れてきたところです。

※

継ぐつもりはなかった

私はもともと、この店を継ぐつもりがありませんでした。

高校を出て名古屋へ行き、事務の仕事を十二年やりました。

盆と正月に帰るくらいで、店の手伝いもろくにしていません。

母に「継いだら」と言われたことは、一度もありませんでした。

言われないことが、かえって気になっていた時期もあります。

期待されていないのだと、勝手に思っていました。

いま思えば、母は言わないことを、ずいぶん意識してやっていたのだと思います。

※

欠けた一輪挿し

子どものころから、あの一輪挿しが不思議でした。

口が欠けていて、水を入れると少しずつにじみます。

それなのに母は、新しいものに替えませんでした。

そこに差すのは、いつも売れない花です。

茎が折れかけたガーベラ。

花びらが一枚だけ茶色くなったスプレー菊。

母はそれを朝に差して、夕方には抜いて捨てていました。

飾るなら、もっと綺麗なものがあるだろうと、私は何度も思いました。

訊いたこともありますが、母は「そのほうがええんよ」としか答えませんでした。

※

母が倒れた春

母が倒れたのは、四年前の三月です。

店を開ける前の時間で、シャッターは半分だけ上がっていました。

隣の畳屋のご主人が見つけてくれました。

病院に運ばれてから、三週間ほどでした。

最後の一週間は、あまり話せませんでした。

私は名古屋の仕事を休んで、病室に通いました。

喋れないぶん、母はよく私の手を見ていました。

爪の形とか、指のささくれとか、そういうところをじっと見るのです。

いま思えば、あれは花を扱う人の手かどうかを見ていたのかもしれません。

※

名古屋の十二年

正直に書きますと、私はこの町が好きではありませんでした。

狭くて、誰が何をしているか全部知られている。

十八のとき、母に一度だけ、きつい言い方をしたことがあります。

「花なんか、うちのぶんくらいしか売れんやんか」

母は怒りませんでした。

ただ、その日の夜、いつもより長く店の掃除をしていました。

名古屋の会社で働いていた十二年、私は花を一本も買いませんでした。

部屋に飾ろうと思ったことすらありません。

いま考えると、意地を張っていたのだと思います。

その意地の張り方まで、母は分かっていた気がします。

※

鍵のない引き出し

店を継ぐと決めたのは、四十九日のあとでした。

誰かに背中を押されたわけではありません。

シャッターを開けたときの水の匂いが、思っていたよりずっと自分に馴染んだ、それだけです。

カウンターの下に、小さな引き出しがひとつあります。

そこだけは、母が開けているのを見たことがありませんでした。

建てつけが悪くて、私の力では動きませんでした。

無理に壊す気にもなれず、そのままにしていました。

三年、そのままでした。

※

種苗店の主人

去年の秋、仕入れ先の種苗店へ行きました。

店主の細江さんは、母より少し年上の方です。

雑談のつもりで、母の話をしていました。

すると細江さんが、奥から古いノートを持ってきたのです。

発芽の検査記録でした。

「お母さん、毎年こればっかり持ってきたんやわ」

そこには、二十年ぶんの日付が並んでいました。

どの年も、九月のはじめです。

品種の欄には、同じ名前が書かれていました。

ヤグルマギク。

青い、細い花びらの、地味な一年草です。

※

二十年ぶんの記録

細江さんの話は、こうでした。

母は毎年九月、自分で採ったヤグルマギクの種を持ってきていた。

売り物にするわけでも、店に並べるわけでもありません。

ただ、ちゃんと芽が出る種かどうかを確かめてほしい、と。

細江さんは毎回、湿らせた紙の上に十粒だけ並べて、発芽率を出しました。

ノートには、その数字が二十年ぶん、律儀に残っています。

「なんに使うんやって、一遍だけ訊いたことがあるんやわ」

母の答えは、はぐらかしだったそうです。

「まだ、渡す先が決まっとらんもんで」

細江さんはそれ以上、訊かなかったと言いました。

※

畳屋のご主人の話

母を見つけてくれた隣の畳屋のご主人が、あとで教えてくれたことがあります。

母は毎年九月の初めに、必ず一日だけ店を閉めていたそうです。

「休みますとも書かんで、ぴしゃっと閉まっとるだけやったな」

近所は、法事か何かだろうと思っていました。

その日が、種を採りに和良へ行く日でした。

片道一時間の道です。

一日つぶして種を採り、帰りに細江さんの店へ寄る。

それを二十回、誰にも言わずにやっていたわけです。

「そういや、その日だけ、店の前に水撒いてから出とったわ」

ご主人はそう言って、少し首をかしげました。

留守にする日の店先を、乾かせておきたくなかったのだと思います。

※

引き出しが開いた日

その帰り道、私はどうしても引き出しのことを思い出しました。

店に戻って、木槌の柄で横板を軽く叩きながら、少しずつ動かしました。

湿気で膨らんでいただけで、壊さずに開きました。

中には、封筒がひとつだけ入っていました。

薄い茶色の、事務用の封筒です。

中身は、紙に包まれた種でした。

数えると、四十粒ほど。

紙の裏に、母の字がありました。

「あんたが生まれた年に、母さんの畑で咲いた花の種です」

「ずっと、渡しそびれていました」

※

封筒の紙

種を包んでいた紙は、うちの店の包装紙の端切れでした。

柄の入ったほうではなく、裁ち落とした白い縁の部分です。

母は、そういう端切れを箱に取っておく人でした。

捨てるところを見たことがありません。

いちばん大事なものを、いちばん端切れの紙で包んである。

母らしいと思いました。

※

渡しそびれ、ではなかった

最初に読んだとき、私は素直に受け取りました。

不器用な人だったから、渡す機会を逃したのだろうと。

ところが、細江さんのノートを思い出して、おかしいと気づいたのです。

母は二十年、毎年この種を検査に出していました。

渡しそびれた人は、種を毎年更新しません。

母が渡しそびれていたのではありません。

渡すのを、二十年ぶん我慢していたのです。

私はそのことに気づいて、店の床にしばらく座り込みました。

※

祖母の畑

母の実家は、和良のほうの農家でした。

祖母は、私が生まれた年の冬に亡くなっています。

会った記憶はありません。

母の姉、私の伯母に電話をして、畑のことを訊きました。

伯母はすぐに思い出しました。

「畦のとこにな、青いのがずうっと咲いとったわ」

祖母が種を採って、翌年また蒔いて、それを毎年繰り返していた花だそうです。

売り物ではありません。

畑の縁を彩るだけの花です。

祖母が亡くなった年、母はその畦から種を採って帰りました。

それが、最初の一年でした。

※

伯母が覚えていたこと

和良の伯母に、もう一度電話をしました。

祖母が畦にあの花を植えていた理由が知りたかったのです。

伯母は少し笑って、こう言いました。

「あれな、畑の境が分からんようになるでや」

境界の目印だったのだそうです。

杭を打つ余裕のない時代に、花を一列植えて、ここまでがうちの畑だと示した。

そう聞くと、ずいぶん実用的な花です。

綺麗だから植えたのではありません。

それでも祖母は、毎年その種を採り直していました。

採らなければ、翌年に境が消えるからです。

母がやっていたことは、同じかたちをしていました。

消えると困るものを、毎年つなぎ直していたわけです。

※

一年草という花

ヤグルマギクは、一年草です。

一年で枯れます。

翌年も咲かせたければ、必ず誰かが種を採って、蒔き直さなければなりません。

放っておけば、二年で消えます。

母は二十年、それを一人で続けていました。

祖母から受け取った線を、切らさずに引き延ばしていたわけです。

その線を、私に渡すということの意味を、母はよく分かっていたはずです。

受け取れば、毎年、種を採らなければならない。

この町にいなければ、できないことです。

渡すことは、そのまま「帰ってこい」になります。

母は、それを言わない人でした。

※

誕生日の口癖

思い当たることがありました。

私の誕生日は九月です。

電話をすると、母は毎年、決まって同じことを言っていました。

「今年は種、ようけ採れんかったわ」

私は花屋の商売の話だと思って、聞き流していました。

いま数えると、その口癖を聞いたのは、二十回近くになります。

採れなかったのではありません。

毎年ちゃんと採って、検査に出して、それでも渡さなかった。

渡さないと決めた日に、母は必ず、私にそう言っていたのです。

母の側から見れば、あの一言は、断念の合図だったのでしょう。

※

最後の検査

細江さんのノートには、最後の記録があります。

母が倒れる年の、前の年の九月ではありません。

もっと後、二月の日付でした。

九月以外の記録は、その一回きりです。

私が「店、継ごうかな」と口を滑らせたのは、その年の正月でした。

酒の席の、半分冗談のような言い方だったと思います。

母は「ふうん」としか言いませんでした。

その翌月、母は二十年ぶりに季節外れの検査を頼みに行っています。

「これ、まだ生きとるやろか」

細江さんは、そのときの母の顔を覚えていると言いました。

発芽率は、八割ありました。

※

数えてみた

細江さんのノートを、家で書き写しました。

二十回ぶんの発芽率が並びます。

いちばん低い年で、六割。

いちばん高い年で、九割二分。

六割の年は、私が名古屋へ出た年でした。

その翌年、母は蒔く場所を変えたらしく、数字が戻っています。

数字を目で追っていると、母の二十年が、そのまま表になって見えてきます。

誰にも見せるつもりのない表です。

それでも、細江さんという他人のノートにだけは残っていた。

母は、自分の家に記録を残しませんでした。

残せば、いつか私が見て、負い目になると思ったのでしょう。

※

一輪挿しの意味

種のことが分かってから、あの一輪挿しの意味も分かった気がします。

母は、売れなかった花に、一日だけ場所をやっていました。

捨てる前に、必ず一度、店のいちばん目につくところへ置く。

そういう順番を、自分に課していたのだと思います。

あの人は、渡せなかったものを、そのまま捨てられない人でした。

引き出しの封筒も、同じことだったのでしょう。

渡せないけれど、捨てられない。

だから、鍵のかからない引き出しに、二十年置いていた。

※

蒔いた日

種は、去年の秋に蒔きました。

店先のプランターではなく、和良の畑の畦です。

伯母に断って、祖母のいた場所に蒔かせてもらいました。

土は硬く、石が多くて、思ったより手間がかかりました。

四十粒のうち、芽が出たのは三十本ほどです。

冬を越して、五月に咲きました。

青、というより、少し紫の混じった色でした。

畦にひょろひょろと並んで、風が来るたびにいっせいに傾きます。

綺麗な花ではありません。

売れない花です。

それでも私は、しばらくそこから動けませんでした。

※

咲かせてから気づいたこと

五月の畦で、私はひとつ勘違いに気づきました。

紙に書かれていた「あんたが生まれた年に咲いた花」というのは、正確ではありません。

その年の株は、とっくに枯れています。

いま咲いているのは、二十回蒔き直された、その先の花です。

それでも母は、あの一文を書き直しませんでした。

血のつながりのようなものだと思ったのかもしれません。

種というのは、渡すものではなく、続けるものでした。

渡した瞬間に終わるのではなく、渡された側が毎年やらないと終わる。

だから母は、なかなか渡せなかったのだと思います。

※

今年の九月

先週、私ははじめて自分で種を採りました。

枯れた花の首を指でしごくと、細かい種がぱらぱら落ちてきます。

思っていたより、ずっと軽い。

これを二十回、母は一人で採ってきたわけです。

封筒に入れて、細江さんのところへ持って行きました。

細江さんは何も言わずに受け取って、あのノートを開きました。

母の字の続きに、私の名前を書き足してくれました。

「二十一年目やね」

そう言って、湿らせた紙の上に、十粒を並べはじめました。

※

店の一輪挿し

いま、レジ横の欠けた一輪挿しは、私が使っています。

朝、その日いちばん傷んだ花を一本だけ差します。

常連の年配の方が、たまにそれを見て笑います。

「あんたも、やるようになったんやね」

母が四十年やっていたことを、町の人はちゃんと見ていました。

見ていて、何も言わずにいてくれた。

この町は、そういうところです。

水路の音が大きいぶん、人はあまり喋りません。

※

渡さなかった人へ

母が私に何も言わなかったことを、私はずいぶん長く、寂しく思っていました。

いまは、少し違う受け取り方をしています。

言わないというのは、相手の人生を軽く見ていないということでもあります。

母は二十年、私の側の都合を先に置いていました。

そのうえで、種だけは絶やさずに持っていた。

いつ私が手を出しても、渡せる状態にしておいたのです。

言葉より、そちらのほうがよほど重たい約束だと思います。

来年の春も、和良の畦は青くなるはずです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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