受け継がれた情熱

夜明け前の詰所で、私は山靴の紐を結び直していました。

要救助者一名、沢筋で滑落、意識あり。

無線の声を聞きながら、指は勝手に動きます。

締めすぎず、緩めず、二重に結んで端を仕舞う。

この結び方を教えてくれた人のことを、出動のたびに思い出します。

父です。

父もまた、この山域の救助隊員でした。

そして十二年前の冬、山で亡くなりました。

私が育ったのは、北の山脈の麓にある、谷あいの小さな町です。

屋根の向こうにいつも稜線があって、天気は山が決める。

町の誰かが山で迷えば、父たち救助隊が呼ばれました。

父は、口数の少ない人でした。

食卓で仕事の話をすることは、ほとんどありません。

ただ、夜の土間で山靴を磨いている背中だけは、毎晩のように見ていました。

革に蝋を擦り込む、規則正しい音。

石油ストーブの匂いに混ざる、蝋と革の匂い。

「靴は命を預ける道具だ。手入れを怠る奴は、山に入る資格がない」

珍しく口を開いたと思えば、そんなことばかり言う人でした。

そして、もうひとつ。

「情熱だけは持ち続けろ。何かに本気になってみろ」

通信簿が悪かった日も、部活を辞めたいと零した日も、父の説教はいつもこの一言に行き着きました。

子どもの私には、正直、意味がわかりませんでした。

情熱という言葉は、無口な父にいちばん似合わない言葉だと思っていたのです。

母は笑って言いました。

「お父さんはね、言葉が下手なだけ。山ではいちばん喋るらしいわよ」

「山で? 何を喋るの」

「さあ。遭難した人を励まし続けるんですって。声が嗄れるまで」

家では仏頂面の父が、山では声を嗄らしている。

うまく想像できないまま、私はその話を聞き流しました。

一度だけ、小学生の頃に、父の訓練を見に行ったことがあります。

隊の裏山で、岩場に張ったロープを、隊員たちが何度も昇り降りしていました。

父の順番になると、動きがひとつだけ違って見えました。

速いのではありません。

むしろ誰より遅いのに、迷いというものが、どこにもないのです。

手の置き場、足の運び、ロープを握り替える一瞬の間。

同じ動作を、同じ丁寧さで、何十回でも繰り返す。

見ていた若い隊員が、ため息まじりに言いました。

「あれで現場だと化けるんだから、敵わないよなあ」

化ける、の意味を、当時の私はまだ知りませんでした。

それから、うちの玄関には時々、見知らぬ人が立ちました。

リンゴの箱を抱えたおじさん。

深々と頭を下げる、若い夫婦。

父に山で助けられた人たちが、季節の折々に礼に来るのです。

父はいつも困った顔で、「仕事ですから」と繰り返すだけでした。

客が帰ると、母は決まって上機嫌になり、夕飯のおかずが一品増えました。

「お父さんはねえ、ああ見えて命の恩人なのよ、何人もの」

「知ってるよ、それくらい」

口ではそう返しながら、玄関先の父の困り顔が、少しだけ誇らしかったのを覚えています。

冬の出動の朝、母は必ず、熱い味噌汁を水筒に詰めました。

具は入れず、味噌を濃いめに溶いただけの、湯気の立つやつです。

「山では、これがいちばん沁みるんですって」

出動の車の音が角を曲がって消えるまで、母は玄関の外に立っていました。

どんなに寒い朝でも、です。

あれは見送りというより、祈りに近いものだったのだと、同じ仕事に就いた今は思います。

台所に立つ母の背中と、土間で靴紐を結ぶ父の背中。

あの二つの背中の間で、私は育ったのだと思います。

小学六年の夏、一度だけ、父と二人で山に登りました。

母が「たまには連れて行ってあげたら」と、半ば無理やり送り出したのです。

登山口で、父はまず私の靴紐を結び直しました。

「締めすぎず、緩めず。下りで泣くのは、だいたい紐のせいだ」

歩き出すと、驚いたことに、父はよく喋りました。

あの沢の水は飲める、この崖は春に崩れた、あの鳥はもうすぐ渡る。

山の中の父は、家の中の父の三倍は口を開きました。

「なんで山だと喋るの」

思わず聞くと、父は少し黙ってから答えました。

「山は、黙ってると死ぬ場所だからだ。知ってることは、全部口に出して渡す。それが山の礼儀だ」

頂上で食べた握り飯の味と、味噌の焦げた匂いを、今も覚えています。

帰り道、疲れて足の止まった私を、父は急かしませんでした。

ただ半歩前を、私の速さで歩き続けました。

あの半歩の距離が、父の優しさの距離だったのだと、今ならわかります。

中学に上がる頃から、私は父の仕事が嫌いになりました。

きっかけは、同級生の何気ない一言です。

「救助隊って、好きで山に登った人の尻拭いでしょ。命懸けなのに、割に合わなくない?」

言い返せませんでした。

言い返せなかった自分が悔しくて、その悔しさは、なぜか父に向かいました。

思えば、あれは怖さの裏返しでもありました。

父の仕事が危険だと、本当はいちばん知っていたのは私です。

冬の夜に無線が鳴るたび、布団の中で天井を見つめていたのは私です。

心配だと言えないから、嫌いだと言う。

子どもの意地とは、そういう不器用な形をしています。

進路希望の紙に「公務員」とだけ書いて出した三者面談の日、担任は父の仕事を褒めました。

「お父さんのような仕事も立派ですよ」

隣の父は、何も言いませんでした。

帰り道も、二人とも無言でした。

バス停の前で、父が一度だけ口を開きました。

「なんでもいい。ただ、逃げて選ぶな」

あのときは、嫌味にしか聞こえませんでした。

逃げていたのは進路ではなく、父と向き合うことだったのに。

参観日に来ない父。

約束していた釣りが、出動でつぶれる日曜日。

夕飯の途中で無線が鳴ると、箸を置いて立ち上がる背中。

「行くなよ」と言ったことがあります。

高校一年の冬でした。

「今日は俺の誕生日だぞ。他の隊員でいいだろ」

父は上着に腕を通しながら、少しだけ振り返りました。

「山で待ってる奴には、今日しかないんだ」

それだけ言って、雪の中に出て行きました。

帰ってきた父と、私はろくに口をききませんでした。

ケーキの残りを黙って食べる父に、母が苦笑いしていたのを覚えています。

翌朝、食卓に小さな包みが置いてありました。

中身は、登山用の厚手の靴下でした。

のし紙も何もない、山道具屋の袋のまま。

誕生日おめでとうの一言もない。

私はそれを、突っ返すように簞笥の奥に押し込みました。

あの靴下を初めて履いたのは、父の葬儀から十年後、入隊試験の朝です。

あの頃の私に、教えてやりたいのです。

父と食卓を囲める日は、あと数えるほどしか残っていなかったのだと。

その夜も、無線は鳴りました。

二月の未明、単独行の登山者が尾根で動けなくなっている、という通報でした。

物音で目が覚めた私は、部屋のドアを細く開けました。

土間で山靴の紐を結ぶ父の背中が見えました。

締めすぎず、緩めず、二重に結んで端を仕舞う。

いつもの手順、いつもの背中。

声は、かけませんでした。

行ってらっしゃいの一言を、思春期の意地が喉の奥で握りつぶしたのです。

それが、私が見た最後の父になりました。

父は、要救助者を確保した直後の二次雪崩に遭いました。

自分の体をロープごと男性の上に被せ、男性は肋骨の骨折だけで生還しました。

父は、還りませんでした。

朝、母と一緒に聞いたとき、私は現実の音が遠くなるのを感じました。

いつもみたいに疲れた顔で帰ってきて、「風呂」とだけ言うのではないか。

土間に立てば、蝋と革の匂いがするのではないか。

けれど安置室で対面した父の顔は、静かで、白くて、もう二度と目を開けない顔でした。

手だけが、父のままでした。

節が太くて、蝋の染み込んだ、あの手のままでした。

母はその手を両手で包んで、ひとことだけ言いました。

「おつかれさま」

三十年分の言葉が、その五文字に入っていました。

悲しくて、涙が止まりませんでした。

そして情けないことに、最後に見た背中に声をかけなかった自分を、責めることしかできませんでした。

通夜の晩は、よく雪が降りました。

斎場の外に、制服姿の隊員たちが整列していました。

誰も傘を差さず、肩に雪を積もらせたまま、身じろぎもしません。

棺が運び出されるとき、全員が一斉に敬礼をしました。

焼香の列は、夜が更けても途切れませんでした。

杖をついた老人、登山服のままの若者、赤ん坊を抱いた母親。

みんな、父がいつかの雪や沢から連れて帰った人たちと、その家族でした。

あの光景を見て、私は初めて、父が生きていた世界の輪郭を見た気がしました。

家の食卓では見えなかった、父の人生の半分がそこにありました。

通夜の晩、父の同僚の坂口さんが、私の隣に黙って座りました。

父より若いのに白髪の多い、無線係の人でした。

「最後の交信、聞くか」

坂口さんは、句読点を打つようにゆっくり言いました。

「要救助者確保、意識良好、これより降下。……その後にな、雪の音が入って、一言だけ残ってる」

私は黙って頷きました。

「『任せた』って。それだけだ。慌ててもいない、いつもの声だ」

任せた。

誰に、何を。

坂口さんは、私の顔をまっすぐ見て言いました。

「あの人はな、隊でいちばん臆病だった。誰よりも怖がるから、誰よりも準備をした。夜中に靴を磨くのも、結び方に煩いのも、全部そうだ」

「情熱ってのはな、坊主。熱くなることじゃない。怖くても、手入れを続けることだ。あの人の受け売りだがな」

父の靴の手入れの音が、耳の奥で蘇りました。

毎晩のあの規則正しい音は、無口な父の、いちばん雄弁な言葉だったのです。

葬儀から半月ほど経った夕方、うちの呼び鈴が鳴りました。

玄関に立っていたのは、腕を吊った中年の男性でした。

父が最後に助けた、あの登山者の方でした。

男性は上がり框に膝をつき、額が床につくほど頭を下げました。

「私のせいで」

その先が、言葉になりませんでした。

母は静かに首を振り、男性を仏壇に案内しました。

線香を上げたあと、男性はぽつりぽつりと、あの晩のことを話してくれました。

「尾根で動けなくなって、正直、諦めかけていたんです。そこに、声が聞こえた」

「吹雪の下から、ずっと私の名前を呼ぶんです。大きな声で、何十回も。……お宅のお父さんでした」

「そばに来てからも、励ましっぱなしでした。あんた運がいい、もう大丈夫だ、飯は何が好きだ、って。嗄れた声で、ずっと」

家ではあんなに無口だった父が。

母から聞いた話は、本当だったのです。

男性は帰り際、吊っていないほうの手で、私の手を強く握りました。

「君のお父さんの声を、私は一生忘れません」

私は、頭を下げることしかできませんでした。

憎むべき相手など、どこにもいませんでした。

父は最後の晩も、いつも通りに、自分の仕事をしただけだったのです。

四十九日が過ぎて、母と遺品を整理しました。

押し入れの奥から、真新しい箱がひとつ出てきました。

開けると、山靴でした。

父のものより一回り小さい、まだ蝋の匂いも新しい革の山靴。

箱の蓋の裏に、鉛筆の走り書きがありました。

「二十五・五。あいつの分。歩き方は俺が教える」

二十五・五は、私の足のサイズでした。

母が、口元を押さえました。

「お父さん、あんたがいつか山に来るって、勝手に決めてたのね」

反発ばかりしていた息子の足のサイズを、父は黙って測っていたのです。

箱の下からは、使い込まれた手帳も出てきました。

開くと、細かい字がびっしりと並んでいました。

出動の日付、天候、雪質、ロープの結び、反省点。

そして頁の隅には、必ず名前が書いてありました。

救助した人の名前です。

助かった人の名前には丸が、間に合わなかった人の名前には、小さな線が引いてありました。

線の引かれた名前の横には、決まって同じ言葉がありました。

「忘れない」。

父は、ひとりも忘れていなかったのです。

助けられなかった人の重さを全部背負ったまま、それでも次の出動の朝、靴紐を結んでいたのです。

手帳を閉じた夜、私は自分の進路を決めました。

大学のパンフレットを机の端に寄せ、隊の採用案内を引き寄せました。

母には、しばらく言い出せませんでした。

夫を山に取られた人に、息子まで山に行くと告げるのですから。

意を決して打ち明けた晩、母は味噌汁の椀を置いて、長いこと黙っていました。

やがて顔を上げた母は、泣き笑いのような顔をしていました。

「あの新しい靴、無駄にならなくてよかったわね」

母もまた、押し入れの箱のことを、ずっと知っていたのです。

私はその夜、初めて父の靴に蝋を塗りました。

見様見真似の、不格好な手つきで。

石油ストーブの匂いの中で、いつまでも、いつまでも磨きました。

あれから十二年、私は父と同じ隊にいます。

入隊の日、坂口さんは私の靴を一瞥して、にやりと笑いました。

「結び方だけは、もう教えることがないな」

初めて要救助者の担架を握った日のことは、忘れられません。

沢で足首を折った、大学生の男の子でした。

顔が恐怖で強張っているのを見た瞬間、考えるより先に、口が動いていました。

名前を呼び、あんた運がいい、もう大丈夫だ、と繰り返していました。

下山し終える頃には、声が嗄れていました。

詰所に戻ると、坂口さんが笑いを噛み殺していました。

「血だな。教わってないのに、そっくりだ」

今も出動の朝は、実家に寄れるときは寄ります。

母が、あの濃いめの味噌汁を水筒に詰めてくれるからです。

「気をつけてね」とは、母は言いません。

「ちゃんと嗄れるまで呼んであげなさいよ」と言って、送り出してくれます。

吹雪の中で味噌汁を啜るたび、二つの背中に挟まれて育った台所の温度を思い出します。

何年働いても、出動の朝は怖い。

それは今も変わりません。

むしろ、怖さは年々深くなります。

雪の重さも、沢の冷たさも、無線が沈黙する数秒の長さも、知れば知るほど怖くなる。

けれど父の言う情熱の意味を、今の私は体で知っています。

怖くても、手入れを続けること。

怖いまま、それでも一歩を踏み出すこと。

要救助者の名前を呼び続けて、声を嗄らすこと。

あの無口な人は、それを情熱と呼んでいたのです。

父がくれた山靴は、とうに履き潰しました。

けれど紐の結び方と、夜の手入れの習慣だけは、父のものが私の中に生きています。

夜の詰所で靴を磨いていると、後輩が横に来て、見様見真似で蝋を擦り込むことがあります。

「結び方、教えてください」と言われるたび、私は父の言葉をそのまま渡します。

締めすぎず、緩めず。

下りで泣くのは、だいたい紐のせいだ。

言葉は、こうやって山を降りていくのだと思います。

先月、父の墓に、手帳の書き方を真似た私の一冊目を供えました。

丸のついた名前が、少しずつ増えています。

線を引いた名前は、まだありません。

このまま一本も引かずに終えることが、私の目標であり、父への何よりの報告だと思っています。

詰所の窓の外が、白み始めました。

ヘルメットを被り、私は立ち上がります。

ありがとう、親父。

あんたの背中を見ていたから、今も雪の中へ踏み出して行けます。

任せた、の続きは、私が引き受けました。

今日も、誰一人死なせずに連れて帰ります。

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