祖父は、五十年のあいだ、薬を一粒も飲まなかった人でした。
頭痛でも、熱でも、腰をひどく痛めた冬でも。
家族はそれを、古い人の意地だと思っていました。
私もずっと、そう思っていました。
あの手紙が届いた日までは。
※
祖父は、北関東の古い町で、「松の湯」という小さな銭湯をやっていました。
木の下駄箱に、豆タイルの浴槽に、天井の高い湯気抜き。
番台に座る祖父は、常連さんの顔を見ただけで、その日の調子を言い当てる人でした。
「今日は肩か。ゆっくり浸かってけ」
「あんた、また夜更かししたな。目の下に書いてある」
言われたほうは苦笑いして、のれんの奥に消えていく。
子どもの頃の私は、その番台の隣が、世界でいちばん偉い場所だと思っていました。
風呂上がりに一本だけ許されるラムネの、ビー玉を鳴らしながら飲む冷たさ。
薪の爆ぜる音と、湯気のむこうで誰かが歌う鼻歌。
松の湯の夜は、いつも同じ匂いがしました。
薪の煙と、石鹸と、祖父の煙草がすこし。
常連さんたちのことも、書いておきたいのです。
夕方いちばんに来るのは、屋根屋の辰さんでした。
背中に大きな彫り物があって、初めて見た日は泣きそうになったけれど、辰さんは私を見るなり湯桶を裏返して、太鼓みたいに叩いてみせる人でした。
「坊、湯ぅ入る前に、かかり湯三杯。じいさんの言いつけ、守っとるか」
八百屋のおばちゃんは、いつも売れ残りの蜜柑を番台に置いていきました。
祖父はそれを断らず、そのかわり、おばちゃんの湯銭をこっそり木箱の裏に戻していました。
「取っとき」と「返しとき」を、あの番台は毎晩、静かにやり取りしていたのです。
夜の九時を過ぎると、脱衣所の古い扇風機が、首を振りながらカタカタと鳴きました。
その音と、ビー玉の音と、誰かの下駄の音。
私の子ども時代は、ぜんぶ、あの湯気の中にあります。
※
祖父には、ひとつだけ、妙な癖がありました。
毎朝、湯を沸かす前に、釜の前で長いこと手を合わせるのです。
火の神様に挨拶する釜屋は珍しくないけれど、祖父のそれは、挨拶にしては長すぎました。
小学生の頃、一度だけ聞いたことがあります。
「じいちゃん、毎朝なにをお願いしとるん」
祖父は火かき棒を持ったまま、少し黙って、それから言いました。
「お願いやない。報告じゃ」
「報告?」
「釜の神さんにな、毎朝、今日の報告をしとるんじゃ」
何の報告かは、教えてくれませんでした。
ただ、その背中がいつもの祖父より小さく見えて、私はそれ以上聞けなかったのです。
※
祖母は、私が小学五年の冬に、先に逝きました。
最後の頃、病院の帰り道で、祖母が一度だけ、妙なことを言ったのを覚えています。
「あんたのじいちゃんはな、あんたが生まれた冬から、変わったんよ」
「変わった? どう?」
「さあ。……ただ、あの人が何を抱えとっても、あんたはじいちゃんを嫌いにならんといてな」
意味はわからないまま、頷きました。
祖母はそれきり、その話を二度としませんでした。
いま思えば、祖母は気づいていたのだと思います。
問い詰めもせず、暴きもせず、五十年の半分を、隣で黙って歩いた人でした。
※
祖父の医者嫌い、薬嫌いは、町でも有名でした。
四十度の熱を出しても、濡れ手拭いと梅干しで治してしまう。
薪割りで腰をやられた冬も、番台に座布団を三枚重ねて、涼しい顔で釣り銭を数えていました。
祖母が生きていた頃は、湯呑みの脇にそっと置かれた風邪薬が、翌朝そのままの形で残っているのが常でした。
「石頭」と祖母は言いました。
「頑固もあそこまでいくと、業じゃわ」と伯母も言いました。
私はといえば、中学に上がる頃には、祖父のそれを笑えなくなっていました。
正直に言えば、疎ましかったのです。
せっかくの家族旅行を、湯治だ何だと理由をつけて断る祖父が。
学校で「おまえんち、まだ薪で湯ぅ沸かしとるんか」とからかわれる、古くさい松の湯が。
※
高校を出るとき、私は祖父に、継がない、と言いました。
薪の湯なんて時代遅れだ、僕は町を出て働く、と。
言ってしまってから、番台の祖父の顔を見られませんでした。
けれど祖父は、怒りませんでした。
「ええよ」
「……ええの」
「お前が達者で息しとるなら、どこにおっても、それでええ」
あのときは、負け惜しみだと思いました。
孫より湯を取った人の、精いっぱいの強がりだと。
違ったのです。
あの言葉は、祖父の五十年の、いちばん短い要約でした。
※
祖父の体の奥に悪いものが見つかったのは、私が高校三年の秋でした。
進行していて、もう手術はできない、と医者は言いました。
それでも、痛みを抑える手立てはいくらでもある時代です。
父が頼み、伯母が泣いて頼み、医者も何度も膝を折りました。
「治す治療やない。楽になるだけの薬です。せめてそれだけでも」
祖父は、首を縦に振りませんでした。
「わしの体のことは、わしが決める」
それだけを、静かに繰り返しました。
怒鳴りもせず、遮りもせず、ただ、岩のように。
私は一度だけ、病室で祖父に食ってかかったことがあります。
「意地はって、なんになるん。痛いんやろ。みんな見とられんのやで」
祖父は窓の外の煙突を見たまま、言いました。
「意地やない。約束じゃ」
「誰との」
「……湯ぅ冷めるぞ。帰って、風呂入れ」
それが、祖父とかわした、最後らしい会話になりました。
※
見舞いに行くたび、祖父は痩せていきました。
それでも祖父の枕元には、薬袋の一つもありませんでした。
あるのは、湯温計と、常連さんたちの見舞いの果物ばかり。
祖父は父の顔を見ると、体の具合より先に、湯加減を聞きました。
「今日の一番湯、何度で出した」
「四十二度」
「ぬるい。辰が来る日は、あと一度上げえ」
病室でまで番台に座っている人でした。
※
祖父は最後の春まで、番台に座り続けました。
痛みで脂汗をかきながら、常連さんには「今日はぬるめじゃ、ゆっくりしてけ」と笑ってみせる。
見かねた父が店を閉めようとすると、その日だけは大きな声を出しました。
「湯を止めるな。楽しみにしとる人がおる」
※
年が明けた雪の日、祖父は釜場で倒れました。
救急車に乗せられるあいだも、祖父が言ったのはひと言だけでした。
「火ぃ、見といてくれ」
自分の体より、湯の温度でした。
担架の毛布から出た祖父の手が、それでも富さんの手を探して、強く握ったのを覚えています。
言葉にしなかったものが、あの握力の中に、ぜんぶ入っていたのだと思います。
桜の散る頃、祖父は眠るように逝きました。
最後の朝も、動かない体で釜のほうへ行こうとして、父に抱きとめられたそうです。
医者と看護師さんが顔を見合わせるほどの痛みに、最後まで、薬の一粒も入れないままでした。
私は葬儀のあいだ、ずっと、怒っているような気持ちでいました。
あんなに痛がって、あんなに耐えて、いったい何を守ったのだと。
頑固の一言で、家族をこんなに泣かせて、と。
※
通夜の晩、松の湯の入口には、五十年で初めての休業の札が下がりました。
筆を持たされた父は、「本日休業」の四文字を、何度も書き損じていました。
斎場には、常連さんたちが、湯上がりみたいにきれいな顔で並びました。
辰さんは祭壇の前で何か言おうとして、結局、深く頭を下げただけでした。
八百屋のおばちゃんは、棺に蜜柑をひとつ、そっと入れました。
「あっちで、湯上がりに食べり」
みんな、祖父の湯で温まった人たちでした。
それなのに私は、隅の席で、まだ怒りに似たものを握りしめていたのです。
※
四十九日の少し前、松の湯の常連だった理髪師の富さんが、家を訪ねてきました。
祖父と五十年付き合った、将棋敵ならぬ「湯敵」のような人です。
富さんは、仏壇に長いこと手を合わせたあと、鞄から古い封筒を出しました。
「親方から、預かっとったもんです。わしが先に逝ったら、湯船に流してくれと言われとったんですがね」
富さんは、笑おうとして、失敗しました。
「家族の誰かがわしを恨んどるようなら、そんとき渡してくれ、と。……坊、あんた、恨んどるじゃろ」
私は、答えられませんでした。
封筒の中には、便箋が三枚。
祖父の、定規で引いたような四角い字が並んでいました。
※
手紙は、詫びから始まっていました。
痛む姿を見せて、皆を苦しめたこと。
それでも治療を受けられなかった理由を、墓まで持っていくつもりだったこと。
けれど誰かがわしの頑固を恨んだまま生きるなら、それがいちばんの心残りだから、書いておく、と。
そして手紙は、五十年前の冬の話になりました。
生まれたばかりの初孫が、重い病気にかかったこと。
助かる見込みは、二割もないと言われたこと。
その初孫が、私であったこと。
私は、便箋を持つ手が止まりました。
自分が赤ん坊の頃に大病をしたことなど、聞かされたこともなかったのです。
※
手紙は、あの晩のことを、こう書いていました。
外は吹雪で、病院からの電話は、覚悟をしておいてくれ、という中身だった。
わしは病院に行きかけて、行けなんだ。
保育器のガラス越しに、親指ほどの手ぇを見たら、膝が立たんようになると思うた。
気がつけば、夜中の松の湯におった。
火の消えた釜の前が、わしにはこの世でいちばん、神さんに近い場所やった。
冷たい灰の匂いの中で、わしは生まれて初めて、額を土間にすりつけた。
差し出せるもんを、探した。
金もない。学もない。命は、家族を路頭に迷わすけん、出せん。
ほんなら、わしの体の残りぜんぶや、と思うた。
※
手紙には、こうありました。
あの晩、わしは松の湯の釜の前で、火の神さんに手をついて頼んだ。
「どうかあの子を助けてください。代わりにわしは、この先いっさい、医者にも薬にも頼りません」
命を差し出すと言えたら格好がついたが、わしには湯を沸かす仕事があった。
だから、わしにやれる いちばん大きいものを差し出した。
それからの五十年、約束を破らずに済んだのは、わしが強かったからやない。
お前が毎年、ちゃんと大きくなってくれたからじゃ。
熱を出すたび、わしは釜の前で震えとった。
薬を飲まんことなんぞ、屁でもなかった。
怖かったのは、お前の熱のほうじゃ。
※
毎朝の「報告」の意味も、そこに書かれていました。
毎朝、釜の前で申し上げてきました。あの子は、今日も息をしております、と。
五十年で、一日も欠かしとらん。
わしはこの報告のために、生きてきたようなもんじゃ。
そして最後の一枚に、あの字で、こうありました。
わしの体は、お前が生まれた冬に、もう神さんに差し上げてある。
じゃから痛みは、わしのもんやない。預かりもんを返しただけのことじゃ。
お前は何も背負うな。
わしは五十年、お前の顔を見るたび、約束が効いとるわいと嬉しかった。
こんなに得な取引は、なかったぞ。
※
読み終えたとき、私は畳に手をついて、声も出せずにいました。
五十年です。
私が生まれてから今日までの全部が、そのまま、祖父の誓いの長さでした。
熱を出した夜、氷枕を替えに来てくれた祖父の手。
あれは、震えていたのだと思います。
家族旅行を断ったのは、旅先で倒れて、医者にかけられることを恐れたからでした。
風邪薬を頑なに残したのは、意地でも業でもなく、私の命の対価だったからでした。
高校の春の、あの言葉も、手紙を読んでからやっと届きました。
お前が達者で息しとるなら、どこにおっても、それでええ。
祖父が五十年欲しがったものは、最初から最後まで、それひとつきりだったのです。
父は手紙を胸に当てて、長いこと天井を見ていました。
伯母は「なんで言うてくれんかったん」と繰り返して、富さんに支えられて泣きました。
富さんは、洟をかんで言いました。
「親方らしいわ。五十年、湯ぅ沸かしながら、いちばん熱いもんは釜やのうて、あの人の腹ん中にあったんやな」
※
松の湯は、いま、父と私が続けています。
私は大学を出て、いちど町の会社に勤めて、それから戻りました。
誰に頼まれたわけでもありません。
町を出ていた数年のことも、少しだけ。
就職した街には、大きなスーパー銭湯がありました。
仕事帰りに一度だけ入って、広くて、明るくて、何もかも揃っていて、湯船の中で、なぜだか泣きそうになりました。
かかり湯三杯、と胸の内で数える癖が、抜けていなかったのです。
盆に帰省するたび、番台の祖父は小さくなっていました。
それでも常連さんの顔を見れば、「今日は肩か」とやっている。
あの背中が消えた町を、私はうまく想像できませんでした。
戻ると決めた朝、父は何も聞かず、「ほうか」とだけ言いました。
祖父とおんなじ言い方でした。
ただ、あの湯を止めたくなかったのです。
楽しみにしとる人がおる、と言った祖父の声が、耳に残っていたのです。
※
戻って最初の朝、釜の焚き方を教えてくれたのは、富さんでした。
「親方はな、細い薪から組んで、火が立ったら太いのを寝かせよった。せっかちに燃やすと、湯が尖るんやと」
「湯が、尖る?」
「わしもわからん。わからんが、親方の湯は、たしかに丸かった」
火が立つまでのあいだ、富さんは煙突の煙を見上げて、目を細めました。
「この煙が上がっとるとな、町のもんは、今日も松の湯は生きとる、て安心するんよ」
祖父が守っていたのは、湯だけではなかったのだと思います。
番台に座ると、常連さんが教えてくれます。
「あんたのじいさんはな、あんたが熱出した晩は、湯がぬるかったんよ」
「釜の前から離れんでな。わしらはみんな知っとった」
みんな知っていて、誰も、祖父の秘密のほうは知らなかった。
※
言われて、思い出した夜があります。
小学二年の冬、ひどい流行り風邪で、私は三日三晩、熱にうかされました。
夜中にふと目を開けると、枕元にいつも祖父がいました。
氷枕を替える、大きな乾いた手。
薪の匂いのする褞袍の袖。
「じいちゃん、お店は」
「ええんじゃ。今夜は、ぬるうしといた」
あのとき祖父は、一晩じゅう、私の額と釜のあいだを往復していたのだそうです。
熱が下がった朝、祖父が釜の前で長いこと動かなかったと、あとになって富さんが教えてくれました。
報告が、詫びと願いに変わった晩だったのだと思います。
私はそれを、五十年分の朝の、たった一晩しか知りません。
※
冷蔵ケースのラムネは、いまも置いています。
近所の子が風呂上がりに一本開けて、ビー玉を鳴らして飲んでいると、番台の私は、つい長く見てしまいます。
「にいちゃん、なに笑っとるん」
「ん。……うまそうやなあ、思うて」
五十年前の冬に始まった約束の、いちばん端っこに、あの子たちの喉の音が鳴っている。
そう思うと、この古い商売も、悪くないのです。
それでよかったのだと、いまは思います。
※
今朝も私は、火を入れる前の釜の前で、手を合わせました。
お願いではなく、報告です。
じいちゃん、私は今日も、息をしております。
あなたのくれた五十年を、今日も一日、使わせてもらいます。
祖父の凄さを、私はまだ、うまく言葉にできません。
ただ、薪をくべるたびに思うのです。
人ひとりの命を、五十年黙って支え続けた火が、ここにあったのだと。
湯気の向こうで、今日も誰かが、気持ちよさそうに息を吐いています。
それがそのまま、祖父への供養だと信じて、私は今日も湯を沸かします。