
湯を落とす日が、とうとう来た。
四十年ぶりに、この谷の宿から、湯気が消える。
俺はそれを、誰よりも長く見てきた男だ。
名を、捨松という。
妙な名だと、子供の頃はよく笑われた。
生まれてすぐ、体が弱くて、何度も危ないと言われたらしい。
「いっそ、捨てた子のつもりで育てれば、丈夫に育つ」
そう言って、祖母が付けた名だと聞いた。
皮肉なことに、その名のとおり、俺はしぶとく生き残った。
生まれたときから、この山あいの湯治場で育った。
父の代からの湯守で、俺で二代目になる。
そして、俺で、終わりになる。
湯守というのは、ただ客の世話をするだけの仕事じゃない。
夜中に源泉の湯量を見て、樋の詰まりを払い、湯加減を一定に保つ。
雪の重みで折れた樋を、吹雪の中、直しに行くこともある。
谷の湯は、放っておけば、すぐに冷えるか、濁るかする。
生き物の世話と、同じだ。
父は、それを「湯の機嫌をうかがう」と言った。
子供の頃の俺は、体が弱かった。
冬になると喉を腫らし、熱を出して、布団から出られない日が続いた。
雪深いこの谷では、冬のあいだ、客もまばらだ。
学校も、雪が深くなると、何日も休みになった。
遊び相手も、いない。
俺は障子の破れから、ただ、白い庭を眺めていた。
雪は、音もなく降り積もる。
ときどき、屋根の雪がどさりと落ちて、それが一日のいちばん大きな出来事だった。
硫黄のにおいと、雪のにおい。
その二つが混ざった匂いが、俺の子供時代の、すべてだった。
今日、廊下の奥の戸棚を片づけていたら、桐の小箱が出てきた。
ずいぶん長いこと、開けた覚えのない箱だった。
蓋には、薄く埃が積もっていた。
それを指で払って、開けた。
中に、赤い布の玉が、三つ、転がっていた。
お手玉だ。
手に取って、振ってみた。
小豆の、乾いた音がした。
かさ、かさ、と。
その音を聞いた途端、俺は、六十八の今を、忘れた。
膝の上の箱が、急に軽くなった気がした。
あの冬の、あの人の声が、耳の奥で、よみがえった。
※
昭和五十年代の、ある冬のことだ。
俺がまだ、十になるか、ならないかの頃。
その年は、いつもより、雪が早かった。
十一月のうちに、谷はもう、真っ白になっていた。
その人は、暮れの雪の日に、ひとりで山を登ってきた。
バスは、谷の入り口までしか、来ない。
そこから宿までは、雪道を半里も、歩かねばならない。
その人は、提灯をひとつ提げて、片足を引きずるようにして、登ってきた。
白い息の向こうに、ぽつんと、灯がゆれていた。
俺は、二階の窓から、それを見ていた。
ずいぶん、ゆっくりと、灯は近づいてきた。
何度も立ち止まり、また、歩き出す。
その灯が宿の玄関に着くまで、たっぷり一刻はかかった。
町の人は、その人のことを、小声で噂した。
「気の毒にねえ」
「あの若さで、足が悪くて。嫁にも行けず、勤めにも出られず」
「親御さんが、療養のために、ここの湯へよこしたらしい」
「湯治で、よくなればいいけど」
名は、蛍さんといった。
本当の名は、別にあったのかもしれない。
だが俺たちは、ずっと、蛍さんと呼んでいた。
雪の夕暮れに、たったひとつの灯を提げて現れたその姿が、まるで、季節はずれの蛍のようだったから。
蛍さんは、谷でいちばん奥の、いちばん安い部屋に、長く逗留した。
日当たりの悪い、北向きの、小さな部屋だ。
冬のあいだじゅう、ずっと、そこにいた。
はじめ、俺は、蛍さんが怖かった。
大人たちが、気の毒がる人。
近づいてはいけない人のような気が、していた。
廊下ですれ違うと、俺は目を伏せて、足早に通り過ぎた。
蛍さんは、そのたびに、小さく会釈をした。
けれど、俺は、それに応えなかった。
ある雪の日のことだ。
熱が、やっと下がって、俺が久しぶりに庭へ出ると、蛍さんが、縁側に座っていた。
膝の上で、何かを、投げては受け、投げては受け、している。
赤い小さな玉が、三つ、四つ、宙で輪を描いていた。
雪あかりの中で、その赤だけが、やけに鮮やかだった。
「坊やも、やってみる?」
蛍さんが、笑った。
その笑顔が、噂の、どれとも、違っていた。
気の毒な人の顔じゃ、なかった。
俺は黙って、首を横に振った。
でも、足は、動かなかった。
縁側のそばから、離れられなかった。
蛍さんは、無理に誘わなかった。
ただ、ゆっくりと歌を口ずさみながら、お手玉を続けた。
「ひとつ、ふたつ、雪のこ。みっつ、よっつ、湯のこ」
聞いたことのない、やさしい節だった。
玉が、宙で、ひとつ、ふたつと、数を増やしていく。
俺は、その手から、目が離せなかった。
気がつくと、俺は、縁側に上がっていた。
気がつくと、俺の手のひらに、赤い玉が、のっていた。
小豆の、ふっくらとした重みが、あった。
その重みが、なぜだか、泣きたいほど、あたたかかった。
「上手に、放ってごらん」
俺は、おそるおそる、玉を上に放った。
すぐに、取りそこねて、雪の上に、落ちた。
「いいの、いいの。落とした数だけ、上手になるの」
蛍さんは、そう言って、また、笑った。
その日から、俺は、毎日、縁側に通った。
晴れた日には、蛍さんは、縁側まで出てきて、俺たちが雪で遊ぶのを、見ていた。
自分では、雪の中を、走れない。
それでも、いやな顔ひとつ、しなかった。
「権太くん、そっちは深いから、気をつけて」
「すずちゃん、手が冷えたら、すぐ戻っておいで」
まるで、谷じゅうの子の、姉さんのようだった。
俺たちは、蛍さんのために、雪うさぎを、作った。
南天の実を目にして、笹の葉を耳にした、小さな雪のうさぎ。
蛍さんは、それを、縁側にならべて、いつまでも、眺めていた。
「かわいいねえ。みんな、ちがう顔をしている」
俺たちが雪まみれで戻ると、蛍さんは、手ぬぐいで、頭の雪を、払ってくれた。
「ほら、こんなに濡れて」
そう言う声が、うれしそうだった。
俺は、ふと、思った。
蛍さんは、走れない代わりに、俺たちが走るのを、見ているのが、好きなのだと。
そのときは、ただ、そう思っただけだった。
「捨松くんは、転んでも、すぐ起きるのね」
そう言って、笑ってくれたことが、あった。
転ぶことなんて、なんでもないと、思っていた。
転んでも、また起きて、走れる。
それが、どれほどの宝物か、あの頃の俺は、知らなかった。
※
その冬、俺のほかにも、谷の子が三人、蛍さんのまわりに集まるようになった。
炭焼きの息子の、権太。
馬方の娘の、すず。
豆腐屋の末っ子の、正。
みんな、冬は、退屈を持て余している子らだった。
雪に閉ざされた谷では、子供の遊び場など、どこにもない。
だから、蛍さんの北向きの部屋は、いつのまにか、俺たちの遊び場になった。
蛍さんは、俺たちに、お手玉の縫い方を、教えてくれた。
古い着物の、いちばん赤いところを、小さく切る。
「赤はね、いちばん遠くからでも、見える色なの」
袋に縫って、炒った小豆を、詰める。
「小豆はね、炒ると軽くなって、いい音が鳴るの」
火鉢の上で、小豆が、ぱちぱちと跳ねた。
香ばしい匂いが、部屋いっぱいに、満ちた。
その匂いを嗅ぐと、今でも、あの北向きの部屋を思い出す。
すずが、縫い目を曲げては、頬を膨らませた。
「あたしの、不細工」
蛍さんは、すずの手を、そっと、包んだ。
「不細工なほど、よく転がるのよ。まっすぐな子より、ずっと遠くまで」
すずは、その言葉が、気に入ったようだった。
その日から、わざと縫い目を曲げて、笑っていた。
権太は、力が強くて、玉を天井まで、ぶつけた。
「権太のは、お手玉じゃなくて、雪つぶてだな」
正がそう言って、みんなで、笑った。
蛍さんも、口に手を当てて、笑っていた。
吹雪いて、表に出られない日は、宿の広間に集まった。
畳の上で、お手玉が、宙を舞った。
蛍さんの歌に合わせて、俺たちの下手な手が、玉を追いかけた。
外は、真っ白で、何も見えない。
風が、雨戸を、がたがたと鳴らした。
けれど、広間の中だけは、火鉢の赤と、笑い声で、ぽっと、暖かかった。
母が、ときどき、茶を運んできた。
「蛍さん、うちの子が、毎日お邪魔して」
「いいえ。わたしのほうが、遊んでもらってるんです」
母は、その言葉を、ただの謙遜だと思って、笑っていた。
俺も、そう思っていた。
今になって、あれは、謙遜なんかじゃ、なかったとわかる。
蛍さんの手は、白くて、細かった。
その手から放たれる玉だけは、いつも、ふしぎなほど、まっすぐ宙に伸びた。
足は不自由でも、手の中に、別の世界を持っている人だと、思った。
蛍さんは、ときどき、ふっと、手を止めた。
窓の外の、雪の向こうを、見ていた。
その横顔が、なぜか、遠くに見えた。
俺は、聞けなかった。
子供心に、聞いてはいけない気が、した。
「蛍さんは、どうして足が痛いの」
一度だけ、正が、そう聞いたことがある。
みんな、はっとして、黙った。
すずが、正の袖を、強く引いた。
けれど、蛍さんは、怒らなかった。
「子供の頃に、長い病をしてね。それから、うまく歩けなくなったの」
「痛い?」
「痛くはないのよ。ただ、みんなと同じには、走れない。それだけ」
そう言って、また、お手玉を、宙に放った。
赤い玉が、囲炉裏の灯を吸って、ひとつ、またひとつと、光った。
「でもね、走れなくたって、こうして手の中で遊ばせていれば、どこへだって行けるの」
そのとき俺は、その言葉の、本当の意味が、わからなかった。
わかったのは、ずっと、ずっと後のことだ。
正月には、蛍さんが、餅を焼いてくれた。
火鉢の網の上で、餅が、ぷうっと膨らんだ。
「お手玉みたいだね」と、すずが言った。
「ほんとうね。食べられるお手玉」
みんなで、熱い餅を、ふうふう言いながら、食べた。
甘い、きな粉の味がした。
あれが、俺の覚えている、いちばん幸せな正月だ。
雪が、いちばん深くなった頃、谷で、小さなお手玉くらべをした。
誰が、いちばん長く、玉を落とさずに続けられるか。
権太は、すぐに落とした。
すずは、十まで数えて、得意になった。
俺は、五つで、落とした。
いちばん長く続いたのは、もちろん、蛍さんだった。
百を超えても、玉は、宙で、輪を描き続けた。
俺たちは、息をのんで、その手を見ていた。
赤い玉が、火鉢の灯に、いくつもいくつも、光った。
まるで、ほんとうの蛍が、部屋の中を、飛んでいるようだった。
「すごい」
正が、ため息のように、言った。
蛍さんは、はじめて、すこし、得意そうに、笑った。
蛍さんは、ときどき、宿の主人に、便りが来ていないか、尋ねていた。
町の、家族からの便りだ。
けれど、便りは、めったに、来なかった。
来ない日は、蛍さんは、いつもより長く、窓の外を見ていた。
そんな日でも、俺たちが部屋へ行くと、すぐに、いつもの顔で、笑った。
「さあ、今日は、三つで、やってみましょうか」
その冬の終わりごろ、俺はまた、熱を出して、寝込んだ。
布団から出られず、みんなの笑い声を、襖の向こうに、聞いていた。
くやしくて、俺は、布団をかぶって、泣いた。
その晩、襖が、そっと、開いた。
蛍さんだった。
片足を引きずって、俺の枕元まで、来てくれた。
「寝たままでも、できる遊びが、あるのよ」
そう言って、蛍さんは、俺の手のひらに、赤い玉を、のせた。
「ほら、天井に向かって、放ってごらん」
俺は、寝たまま、玉を、上に放った。
落ちてきた玉を、また、放る。
それだけのことが、ふしぎと、楽しかった。
「上手。寝てたって、ちゃんと、遊べるでしょう」
蛍さんの手が、俺の手に、触れた。
その手は、氷のように、冷たかった。
「蛍さんの手、つめたい」
「血が、うまく巡らないの。足が悪いとね、そうなるのよ」
俺は、両手で、蛍さんの手を、包んだ。
小さな、子供の手で。
「あったかい」
蛍さんは、そう言って、長いあいだ、目を、つぶっていた。
襖の外で、雪の落ちる音が、した。
あのとき、俺は、ただ、手が冷たい人だと、思っていた。
誰かに、手を握ってほしい人だとは、気づかなかった。
※
春が近づいて、谷の雪が、ゆるみはじめた。
軒のつららが、ぽたぽたと、雫を落とすようになった。
沢の音が、雪の下から、聞こえはじめた。
蛍さんが、山を下りる日が、来た。
湯治の、長い冬が、終わったのだ。
俺たちは、停車場まで、送っていった。
そりの跡が、ぬかるみに、黒く残っていた。
「来年の冬も、来る?」
権太が、聞いた。
「来るよ」
蛍さんは、はっきりと、そう言った。
「雪が降ったら、また、ここに灯をともしに来る」
俺たちは、前の晩に縫ったお手玉を、蛍さんに渡した。
四人ぶん、四つ。
不細工で、縫い目の曲がった、赤い玉。
すずのは、いちばん不細工だった。
「お返し」と、すずが言った。
「あたしのは、いちばん遠くまで、転がるよ」
蛍さんは、それを両手で受け取って、胸に、押し当てた。
長いあいだ、そうしていた。
細い肩が、少しだけ、ふるえていた。
「ありがとう」
その声が、雪解けの水の音に、まぎれて、消えた。
バスが来て、蛍さんは、窓から手を振った。
俺たちは、見えなくなるまで、手を振り返した。
けれど、次の冬。
雪が降っても、蛍さんは、来なかった。
俺は、毎日、二階の窓から、谷の道を見ていた。
あの、ゆれる灯が、また登ってくるのを、待っていた。
けれど、灯は、ともらなかった。
その次の冬も。
提灯の灯は、二度と、谷を登ってこなかった。
俺たちは、子供だった。
「飽きたんだ」と、権太は言った。
「町で、いい人が、できたんだ」と、すずは言った。
正は、何も、言わなかった。
俺は、蛍さんがくれたお手玉を、桐の箱に、しまった。
そして、だんだんと、開けなくなった。
大人になるというのは、そういうことだと、思っていた。
忘れることが、強くなることだと、思っていた。
※
それから、ずいぶんな歳月が、流れた。
権太も、すずも、正も、谷を出ていった。
俺だけが残って、父のあとを継ぎ、この湯を、守った。
嫁をもらい、子を育て、その子もまた、谷を出ていった。
谷の家々は、ひとつ、またひとつと、灯を消していった。
そして今年、俺は、この宿を畳むことにした。
湯を引く樋は、もう、何度直しても、追いつかない。
俺の体も、若い頃のようには、動かない。
畳む、と、新聞の地方欄に、小さく出た。
「八十年続いた谷の湯、ひっそりと幕」
そんな見出しだったと思う。
その記事を読んだという人から、一通の便りが、届いた。
見知らぬ、女の人の字だった。
「一度、お訪ねしても、よろしいでしょうか」
それだけが、丁寧な字で、書いてあった。
数日後、その人は、谷を登ってきた。
雪の道を、ゆっくりと。
白いものの混じった髪の、おだやかな目をした人だった。
俺は、玄関で、その人を迎えた。
「蛍の、妹です」
そう、名乗った。
俺は、言葉が、出なかった。
四十年ぶりに聞く、その名だった。
胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
妹さんは、風呂敷包みを、ひとつ、抱えていた。
囲炉裏のそばに、座ってもらった。
妹さんは、その包みを、そっと、解いた。
中から出てきたのは、色のあせた、赤い玉だった。
四つ。
縫い目の曲がった、不細工な、お手玉。
俺は、それを見た瞬間、わかった。
俺たちが、あの春に渡した、お返しのお手玉だった。
すずの、いちばん不細工なやつも、あった。
「四十年、姉は、これを、肌身離さず持っていました」
妹さんは、静かに言った。
「町を移るときも、療養所へ入るときも、この四つだけは、枕元から、離さなかったんです」
俺は、その赤い玉を、手に取った。
小豆は、もう湿って、音を立てなかった。
それでも、手のひらに、あの冬の重みが、よみがえった。
「もう一つ、お渡ししたいものが、あるんです」
妹さんは、すり切れた、小さな手帳を、取り出した。
そして、それを、俺の膝に、置いた。
「姉の字です。読んでやって、ください」
震える指で、頁を、めくった。
そこには、子供の名が、並んでいた。
権太。すず。正。
そして、捨松。
俺たちの名が、ひとつずつ、ていねいに、書かれていた。
歌の節が、譜のように、記してあった。
「ひとつ、ふたつ、雪のこ」
あの歌だった。
頁には、ほかにも、こまかな字が、続いていた。
「すずちゃん、わざと縫い目を曲げて、笑う」
「権太くん、力が強くて、玉が天井に届く」
「正くん、いちばん不細工なお手玉を、宝物だと言う」
ひとりひとりの、その冬の姿が、書き留めてあった。
忘れたくなかったのだ、と、わかった。
あの北向きの部屋で過ごした日々を、蛍さんは、一日ずつ、文字にして、抱えていた。
「捨松くん、はじめて、笑った日」
俺の名の横には、そう、書いてあった。
俺は、いつ、蛍さんの前で、はじめて笑ったのだろう。
自分では、覚えていない。
けれど、蛍さんは、それを、覚えていて、くれた。
頁をめくると、谷の絵が、描いてあった。
雪に埋もれた宿。北向きの部屋。火鉢。
へたな絵だったが、たしかに、あの冬の部屋だった。
そして、最後の頁の、終わりに、こう書いてあった。
「あの子たちだけが、わたしの足を見ませんでした。」
俺は、息が、できなくなった。
「町では、どこへ行っても、人はまず、姉の足を見たそうです」
妹さんが、静かに言った。
「気の毒に、かわいそうに、と。姉は、それが、いちばん、つらかった」
「でも、この谷の子らだけは、姉を“蛍さん”と呼んで、ただ一緒に、遊んでくれた、と」
「あの冬の話を、姉は、最後まで、何度も、何度も、していました」
俺は、手帳を、握りしめた。
遊んでもらっていたのは、ずっと、俺たちの方だと、思っていた。
違った。
救われていたのは、蛍さんの、方だったのだ。
あの冬、灯を提げて、雪道を登ってきたのは、暖を取るためじゃない。
足を見ない、たった四人の子に、会いに来ていたのだ。
半里の雪道を、片足を引きずって。
何度も立ち止まり、また、歩いて。
「あの冬が、いちばん幸せだった」
手帳の、最後の頁に、そう、あった。
「雪が降るたび、わたしはまた、あの谷の灯になりたい」
蛍さんは、あのあと、遠い土地の療養所へ、移ったのだという。
谷の冬に戻ることは、とうとう、かなわなかった。
そして去年の冬、静かに、眠るように、向こうへ、旅立った。
最後まで、枕元に、四つのお手玉を、置いて。
「姉は、幸せだったと思います」
妹さんは、そう言って、目を、伏せた。
「あなたがたが、いたから」
俺は、しばらく、声が、出せなかった。
窓の外では、また、雪が、降りはじめていた。
四十年前と、同じ、やわらかい雪だった。
※
妹さんが帰ったあと、俺は、湯を落とすのを、一日、延ばした。
もう一晩だけ、この谷に、灯を、ともしておきたかった。
その晩、近所の子が、雪を蹴って、遊びに来た。
豆腐屋の、正の孫だという、小さな子だ。
正は、町で、豆腐屋を継いだと聞いた。
その孫が、冬休みのあいだ、この谷へ、来ているのだという。
「じいちゃん、それ、なあに」
子供が、俺の手の中の、赤い玉を、指さした。
「お手玉だ」
「やってみたい」
俺は、桐の箱から、赤い玉を、三つ、取り出した。
湿った小豆を出して、新しく炒った小豆を、詰め直してやった。
火鉢の上で、ぱちぱちと、小豆が、跳ねた。
香ばしい匂いが、四十年の時を越えて、また、部屋に、満ちた。
「ひとつ、ふたつ、雪のこ」
俺は、あの節を、口ずさんだ。
子供の手のひらで、赤い玉が、ぎこちなく、宙を舞った。
すぐに、取りそこねて、畳に、落ちた。
「いいんだ。落とした数だけ、上手になる」
俺は、そう言って、笑った。
蛍さんが、俺に言ったのと、同じ言葉だった。
窓の外には、雪が、降りはじめていた。
谷のいちばん奥に、ぽつんと、宿の灯が、ともっていた。
まるで、季節はずれの、蛍のように。
蛍さん。
あなたは今夜も、ちゃんと、この谷の灯です。
走れなくたって、あなたは、どこへだって行ける。
この子の、小さな手のひらの中まで、ちゃんと、来てくれた。
湯は、明日、落とす。
けれど、この歌だけは、きっと、この子が、また誰かに、教えるだろう。
そうやって、つないでいけば、蛍さんは、いつまでも、どこへだって、行ける。
雪の谷にも、町にも、まだ見ぬ場所にも。
赤い玉に、のせられて。
赤い玉が、宙で、ひとつ、ふたつと、光った。