保護犬は二階の窓の下で座り込んだ
契約が切れた週の土曜、譲渡会で最後まで残っていた犬を連れ帰った。毎朝の散歩は、なぜか三丁目の二階の窓の下で止まってしまう。カーテンが十センチ動くたびに、犬はすっ…
じっくり読みたい方のために、長編の泣ける話を集めました。短編では描ききれない人物の背景、感情の重なり、時間の経過——読了後に深い余韻が残る、長編の感動する話をお届けします。
契約が切れた週の土曜、譲渡会で最後まで残っていた犬を連れ帰った。毎朝の散歩は、なぜか三丁目の二階の窓の下で止まってしまう。カーテンが十センチ動くたびに、犬はすっ…
高校の2年間、毎朝7時20分に橋の手前で一緒になる同級生がいた。吉岡はいつも川の側を走り、帰りは一度も一緒にならなかった。14年後、市役所の窓口に来た1枚の転出…
駅そばの窓に立って三年。五時五分になると、店長は誰も頼まない月見を一杯作り、下りが出たあとに伸びたまま食べる。閉店の朝、私はその丼を持って跨線橋を渡り、二番ホー…
白内障の手術だと言って、八十三の祖父が俺の1Kに三週間泊まりに来た。食卓で向かい合うと、祖父の目はいつも俺の右耳の横にある。仕事を辞めたことを隠している俺を、ま…
顔合わせの席で、継母が婚約者の祖母と土佐の言葉で笑い合った。少し高くて語尾の跳ねる、私の知らない声だった。12歳の春に「この家で、そのしゃべり方しないで」と言っ…
深夜三時半に出庫する塵芥収集車。先輩運転手の松原は、ある県営住宅の前で毎朝一分だけ圧縮レバーを切る。朝四時の圧縮音が止まる理由を、語り手は二年間訊けなかった。仕…
父の教習車は、冬でも助手席側の窓が指二本ぶん開いていた。所内でいちばん合格率の低い指導員だった父を、私は腕が悪いのだと思っていた。閉所の決まった教習所で古い配車…
母の煮物は、私が高校2年の春から急に濃くなった。しょっぱい、と何度も言った。母は笑うだけで、味つけを戻さない。22年後、手首を痛めた母の代わりに台所へ立った私は…
大学の食堂で、私の前に置かれる茶碗だけがいつも重かった。底の厚い茶碗は7つしかなく、みんなが避けた外れくじなのだと思っていた。3年間そう思い込んだまま、私は一度…
室井の補修跡は、いつも指二本ぶん左へ伸びていた。材料の無駄だと10年言い続けて、俺は一度も謝らないまま同期を見送った。一人で直した去年の穴は、春にぜんぶ左から割…
深煎りの匂いは、坂の途中の焙煎所から二階の窓まで上がる。娘が学校へ行かなくなって一年、俺はその匂いを焼くのをやめた。きらい、とあの子が言うたからだ。北風の強い夜…
ついたちの朝にだけ、私は疎開してきた四十二人の背を測り、庫裏の柱に小刀で線を入れた。食べるものは減る一方なのに、柱の傷あとはどの子も毎月きっかり三分ずつ上がって…
断水した町の体育館で、給水の列のいちばん後ろに、その人は青いポリタンクを二つ提げて立っていた。一世帯20リットルまでのはずだ。私は勝手に腹を立てていた。やがて列…
遠足の広場で包みを開けると、私のおにぎりだけが白かった。海苔がない。手抜きだと言った翌年から巻かれるようになったが、それはいつも裏返しの海苔だった。祖母は下手な…
トメはいつも階段の四段目にいた。三段目でも五段目でもなく、その段だけが家でいちばんくたびれている。12年ぶりに実家へ戻った俺は、母が直すなと言い張るその板を、入…