
実家のアルバムは、中学二年の夏から先が白いままの台紙になっている。
私はそのことに、四十を過ぎるまで気づかなかった。
気づかせてくれたのは、娘の振袖を選びに行った日の帰り道だった。
中学二年の夏から、一年入院した。
退院して間もなく高校受験。
病室の窓からは、隣の棟の非常階段しか見えなかった。
母は週に一度、バスを乗り継いで来た。
いつも紙袋を提げていて、中身は決まって果物だった。
話すことは、あまり無かった。
剥いて、渡して、私が食べ終わるのを見て、帰っていく。
「写真、撮らんかね」と言われたことが一度ある。
点滴の管をつけた顔を撮られるのが嫌で、私は布団をかぶった。
母はそれきり、カメラを出さなくなった。
退院の日も、写真は撮らなかった。
玄関で靴を履いていると、母がポケットから小さなカメラを出しかけた。
私が顔をしかめると、すぐにしまった。
その仕草が速かったことを、いまでも覚えている。
慣れている速さだった。
高校に上がると、下宿生活になった。
卒業して就職。
下宿は、学校から自転車で十五分の古い二階建てだった。
大家さんが撮ってくれた入居の日の写真が一枚あるはずだが、実家には送らなかった。
送るという発想が無かった。
手紙も、ほとんど書かなかった。
下宿の三年で実家に帰ったのは、盆と正月の二回ずつ。
そのどちらも、二泊で戻った。
友達と約束がある、という理由をよく使った。
本当に約束があった日もあれば、無かった日もある。
無い日のほうが、たぶん多かった。
家にいると、自分が急に子供に戻る気がして落ち着かなかった。
その落ち着かなさを、私は「退屈」と呼んでいた。
田舎を飛び出して、会社の寮に入った。
そのまま結婚。
嫁ぎ先は遠かった。
しかも厳格な家で、実家にはほとんど帰れなかった。
いや、正直に書く。
帰りたいと思ったことが、あまり無かったのだ。
どんなに辛い時期でも、実家に逃げ帰ろうと考えたことがない。
十四歳から今に至るまで、私はほとんど家にいない娘だった。
携帯電話も無い時代だった。
それでも、不思議と寂しいと思ったことがない。
ホームシックの記憶も無い。
むしろ、どの時期も楽しんでいた。
高校時代は週に一度くらい電話を入れていたと思う。
就職してからは、それも途切れた。
便りが無いのが元気な知らせ。
家族もそう思っているだろうと、勝手に決めていた。
特に母は、さっぱりした人だ。
涙もろくてお人好しで、喜びも悲しみも全身で表す父とは対照的だった。
母は淡々としていた。
私は家族が嫌いだったわけではない。
大好きな家族である。
連絡しなくても心は繋がっている。
だって家族だもの。
そんなふうに思っていた。
なんて身勝手だったのだろうと、いまは思う。
父は、電話に出るとすぐ母に替わった。
「おい、わっこからだ」
その声が、受話器の奥で少し裏返る。
替わった母は、いつも同じ第一声だった。
「なんかあったんか」
用が無いと電話をしない娘だと、そう思われていたわけだ。
実際、その通りだった。
いつだったか、父が言ったことがある。
「母さんな、電話の前に座っとるときがあるぞ」
「なんで」
「さあな。座っとるだけだ」
私は笑って「暇なんじゃない」と返した。
父は何も言わなかった。
父はああ見えて、言わないほうを選ぶことがある人だった。
会社にかかった電話
母が一度だけ、就職先の会社に電話をかけてきたことがある。
当時の私には彼氏がいて、毎晩のように出掛けていた。
寮に電話をしても、なかなか捕まらなかったのだろう。
やむを得ず、仕事中の会社に繋いだのだった。
取次の先輩が、受話器を押さえて言った。
「お母さんから。大丈夫?」
大丈夫も何も、私には心当たりが無かった。
「どうしたの、何かあった?」
「なんもないよ」
母の声は、いつもの調子だった。
「近いうちに、いっぺん帰ってこられんかね」
「なんで」
「写真を撮りたいんよ」
母が私に頼み事をするなんて、珍しいことだった。
しかも、こんなに押しの強い言い方は皆無だった。
私はちょっと驚いた。
私の田舎は雪深いところで、成人式は夏に行われる。
だから私は振袖を着ていない。
どうしても、振袖姿の写真が欲しいのだと母は言った。
「いまさら?」
「いまさらでもええ」
「私、もう二十三だよ」
「知っとる」
受話器の向こうで、母が何かの紙をめくる音がした。
あの音が何だったのかを、私はずっとあとで知ることになる。
電話を切ったあと、先輩が心配そうに聞いてきた。
「大丈夫だった?」
「うん。写真撮りたいって」
「え、それだけで会社に?」
「うちの母、変わってるから」
そう言って笑った自分を、いまは思い出したくない。
あのとき母は、たぶん何日も迷ってから受話器を取った。
寮に何度かけても捕まらず、最後の手段として会社にかけたのだ。
淡々とした人が、押しの強い頼み方をする。
その落差の意味を、私は二十三年かけても読めなかった。
それでも私は、その週末に帰る返事をした。
理由は簡単で、断る理由が無かったからだ。
母のほうは、返事を聞いてしばらく黙っていた。
「ほんとに来るんか」
「行くって言ってるでしょ」
「そうか」
そのあと、電話が切れるまでに少し間があった。
いま思えば、あの間に母は何か言おうとしていた。
赤に黒の振袖
久しぶりに実家に帰った。
玄関を開けると、三和土が濡れていた。
私が着く時間に合わせて、拭いたばかりだったのだろう。
母は「まあ上がれ」とだけ言った。
連れて行かれた写真館で、振袖はもう決まっていた。
母の見立てだという。
色は赤、模様は黒。
私の好みではなかったが、特に文句も無かった。
化粧をされ、髪を上げられ、着付けをされた。
その間じゅう、母は椅子に座らなかった。
店の隅に立って、こちらを見ていた。
「座ればいいのに」
「ええんよ、ここで」
撮影が始まると、母は少しはしゃいで見えた。
カメラマンに「もう少し顎を引いて」と言われるたび、母が先に頷いた。
自分が撮られているわけでもないのに。
帰りの車で、母はハンドルを握ったまま鼻歌を歌った。
母の鼻歌を聞いたのは、あれが初めてだった。
途中、母は道の駅に車を入れた。
「なんか買うの」
「いや、ちょっと」
母は公衆電話のほうへ歩いていった。
戻ってくるまで五分ほどかかった。
「誰に電話したの」
「父さん」
「なんて」
「撮れたよって」
公衆電話のガラスが曇っていたのを覚えている。
母は受話器を持ったまま、少しだけ笑っていた。
その顔を、私は車の中から見ていた。
見ていたのに、何も思わなかった。
それだけのために、わざわざ車を停めたのだった。
後日、出来上がった写真が届いた。
母は台紙を開いて、何度も何度も見た。
それから、こう言った。
「私の宝物」
台紙の色は、深い臙脂だった。
金の縁取りが入っていた。
母はそれを、茶の間の違い棚に立てた。
違い棚は、母が縫い物をする座布団のちょうど正面にある。
顔を上げれば、必ず目に入る位置だ。
「なんでそこ?」
「ここが、いちばんよう見える」
そのときの私は、角度の話だと思って聞き流した。
茶の間には、ほかにも写真が並んでいた。
父の定年の記念写真。
親戚の結婚式の集合写真。
そのどれもが、鴨居の上に掛けてあった。
目線より高い位置だ。
私の振袖だけが、座った目の高さにあった。
母は縫い物をしながら、時々そこへ目をやっていたのだろう。
糸を切るとき、人は一度顔を上げる。
その一瞬の視線の先に、私がいた。
一日に何十回も、そういう瞬間がある。
仏壇の横でも、玄関でもなく、自分がいちばん長く座る場所の正面に置いた。
白いままの台紙
その正月、私は実家のアルバムを引っ張り出した。
子供の頃の写真を、夫に見せるつもりだった。
表紙の布が擦り切れた、分厚いアルバムだった。
ページをめくる。
七五三。
運動会。
小学校の卒業式。
中学一年の遠足。
中学二年の、夏の家族写真。
そこで、写真が途切れていた。
次のページから先が、白いままの台紙だった。
透明なフィルムだけが、貼るもののないまま反っている。
私は少し笑って、アルバムを閉じた。
「うちの親、途中で飽きたんだね」
夫は笑って「うちも似たようなもんだよ」と言った。
子供の写真は下の子ほど減る。
どこの家でもそうだと、私も思っていた。
けれど、うちは違った。
私は一人娘だ。
減る理由が、どこにも無かった。
アルバムは全部で三冊あった。
一冊目と二冊目は、びっしり埋まっている。
三冊目だけが、途中から白い。
そのことに気づいてからも、私は母に聞かなかった。
聞けば、自分の十四年が数字になって返ってくる気がした。
だから、見なかったことにした。
見なかったことにしたまま、二十年が過ぎた。
母は台所にいて、聞こえていないようだった。
いま思えば、聞こえていたはずだ。
台所と茶の間は、襖一枚で繋がっている。
十九歳の春、私は職場で倒れた。
倒れた日の記憶は、途中から抜けている。
気がついたら白い天井で、腕に管が入っていた。
誰にも連絡していないはずなのに、翌朝には母がいた。
誰が知らせたのかと聞いたら、寮母さんだと言う。
寮母さんが実家の番号を知っていたことに、私は驚いた。
あとで聞くと、入寮のときに母が置いていったのだそうだ。
「何かあったら、ここへ」と書いた紙を。
その紙を、寮母さんは四年間ずっと引き出しに入れていたという。
「お母さん、ほかにも置いてったのよ」
「なんですか」
「薬の名前。あなたの持病の」
私は、母がそんなことをしていたと知らなかった。
入寮の日、母は荷物を運び終えるとすぐ帰った。
「じゃあな」の一言だった。
その前に、寮母さんの部屋に寄っていたのだ。
高校卒業のとき五十三キロあった体重が、一年で三十九キロになっていた。
持病の貧血もひどく、二週間の入院になった。
何か月も実家に電話をせず、遊び呆けていた報いだったと思う。
母は、実家から三時間以上かかる病院に軽トラックで駆けつけた。
どこで買ってきたのか、リンゴとナイフを持っていた。
ベッドの横で皮を剥いて、食べさせてくれた。
私が倒れて入院しているのに、母はどこか楽しそうに見えた。
子供を産んだときも、一か月実家の世話になった。
あのときの母も、やけに嬉しそうだった。
孫が生まれるというのはそんなに嬉しいものかと、当時の私は思った。
違ったのかもしれない。
母は、私が家にいることが嬉しかったのではないだろうか。
母として世話を焼くことのできる時間が、母には足りなかったのではないか。
あまり真面目な話をしない母が、ずっと前に言ったことがある。
「母さんはね、一応あんたの歳も経験して今があるの」
「わっこと母さんは違うけれど、わっこの年頃に何を思ってきたか、それは経験しとるのよ」
「わっこは、母さんの歳の気持ちを想像はできても、経験したことは無いでしょう」
「だからね」
「親の心子知らず、なのよ」
そのとき私は、上の空で相槌を打った。
台所で洗い物の音がしていた。
母は手を動かしながら喋る人だった。
顔を見て言われなかったから、軽い話だと思ってしまった。
いま思えば、顔を見ずに言うのは、母なりの照れだったのだろう。
母は、正面から人を褒めない。
私が合格したときも「まあ、よかったな」の一言だった。
けれどその晩、近所の家に配る赤飯が炊かれていた。
三軒分あった。
配りに行ったのは父で、母は台所から出てこなかった。
呉服屋の三面鏡
先日、来年成人式を迎える娘の振袖を見に、呉服屋へ行った。
あれもこれもと、娘が袖を通す。
「この色いいわね」
「この柄のほうが似合うんじゃない?」
「さっきのほうが顔が映えるわよ」
三面鏡の前で、娘がくるりと回る。
その姿が眩しくて、嬉しくて、楽しくて仕方がなかった。
気がつくと、私は椅子に座っていなかった。
店の隅に立って、娘を見ていた。
「お母さん、座れば?」
「いいの、ここで」
娘が振り返って、少し変な顔をした。
「疲れるでしょ」
「疲れない」
疲れないはずがない。
三時間、立ちっぱなしだった。
それでも座る気にならなかった。
座ると、鏡の中の娘が半分しか見えない。
あのとき母が言った「ここが、いちばんよう見える」は、角度の話だった。
ただし、写真の角度ではなかった。
口から出た言葉が、母のものと同じだった。
そのとき、二十三の夏の写真館が、急に立ち上がってきた。
あのとき母が立っていた場所と、いま私が立っている場所は、同じだった。
娘は十九歳の専門学校生だ。
いまだに世話も焼けるし、心配も尽きない。
それでも、世話を焼いたり心配をしたりすることで、私は自分が母であることを実感している。
考えてみれば、私が十九歳の頃は、もうすっかり親元を離れていた。
金銭面で親に頼ることは卒業していた。
同時に、娘らしく甘えることも無くなっていた。
十四歳から、ほとんど家にいなかった。
「わっこはしっかりしとるで、な~んにも心配しとらん」
それが口癖の母は。
私の母は。
本当は、心配で心配で仕方がなかったのではないだろうか。
電話もしない。
帰省もしない。
そんな娘を、母は一度も責めなかった。
責めないということは、何も思っていないということではない。
むしろ、言わないと決めた人のほうが、内側に溜めている。
私はそれを、自分が母になってようやく知った。
娘が部屋に籠もった日、私は「ほっといて」と言われて引き下がった。
引き下がった夜の長さを、私は初めて経験した。
母は、それを十八年やったことになる。
十八年というのは、私が家を出てから振袖を撮るまでの年数ではない。
十四歳から結婚するまでの年数だ。
その間、母は一度も「帰ってこい」と言わなかった。
言わないことを、私は自由だと呼んでいた。
いまは、別の呼び方を知っている。
電話の向こうの紙の音
呉服屋からの帰り道、私は車を停めて母に電話をかけた。
用も無いのに実家にかけるのは、いつ以来か思い出せなかった。
「もしもし」
「あ、わっこか。どうした」
「別に。ヨウコの振袖、見に行ってきた」
「そうかね」
そこで、紙をめくる音がした。
二十三の夏、会社にかかってきた電話でも聞いた音だった。
「お母さん、いま何してるの」
「アルバム見とる」
「どれ」
「わっこの」
私は、あの白いままの台紙を思い出した。
「あれ、中二までしか入ってないでしょう」
母は、しばらく黙っていた。
それから、いつもの調子で言った。
「わっこの写真、あの夏で止まっとるでな」
「入院して、下宿して、寮に入って」
「その間、いっぺんも写真が無いんよ」
「母さん、数えたことがあってな」
「九年、白いままやった」
「数えたって、いつ」
「毎年、正月にな」
「毎年?」
「アルバム出して、何ページ空いとるか見るんよ」
受話器の向こうで、また紙をめくる音がした。
あの音だった。
「いま、何ページ空いてるの」
母は答えなかった。
代わりに「そろそろ米研がんと」と言った。
いつもの逃げ方だった。
声の調子は、最後まで淡々としていた。
「せやから、あのとき撮ってもろうた」
私は、返す言葉が出てこなかった。
母が宝物と呼んだのは、振袖ではなく、九年ぶりに埋まった一枚だった。
電話を切って、私はしばらくハンドルに額をつけていた。
助手席で、娘が黙ってこちらを見ていた。
母はいま六十七歳になる。
アルバムの続きは、まだ白い。
今度帰るときは、写真屋に寄ってから行こうと思う。
母の朝の日課を読むと、言わない人の伝え方というものを考えさせられる。
おばあちゃんへも、遅れて届く気持ちの話だった。
娘が二十五になったら、私が二十五だった頃の母の気持ちが分かるのだろう。
三十五になったら、三十五の母が分かるのだろう。
そうやって、ずっと追いかけていくものなのかもしれない。
台紙は、まだ何枚も余っている。