半年前の俺へ。
そっちは、まだ二月だな。
窓の桟に、白いものが積もっているはずだ。
雪じゃない。石灰の粉だ。
白岩の町では、二月でもそれが積もる。
お前はたぶん、朝練で疲れて、こたつで寝落ちしている。
頼むから、起きてくれ。
これから書くことを、順番に、そのとおりにやってほしい。
お前のためじゃない。
兄貴のためだ。
※
白岩は、山をひとつ削って生きてきた町だった。
町の南に立っている山は、頂上のあたりが階段状に平らになっている。
石灰石を掘り出した跡だ。
その石を焼いてセメントにする工場が、川沿いに長く伸びていた。
煙突が三本。焼成炉の建屋が二棟。
夜になると、その建屋の窓だけがオレンジ色に灯って、遠くから見ると船みたいだった。
町の人間の三軒に一軒は、あの工場に誰かを出していた。
うちも、そうだった。
親父が運転員で、兄貴が二年前からその下に入った。
兄貴の名前は慎司という。
俺より四つ上で、高校を出てすぐ、迷いもせずに工場へ行った。
俺はそれが、少し恥ずかしかった。
クラスの誰かが「白岩の粉屋」と言って笑ったのを、へらへら聞き流したこともある。
笑ったやつも、家に工場の人間がいた。
この町では、自分の家を笑うことが、いちばん簡単な逃げ方だった。
恥ずかしいと思うようになったのは、中学に上がってからだ。
それまでは、逆だった。
小学校の卒業式の前の晩、兄貴は物置で俺の自転車を組み直していた。
親戚からもらった、赤い錆の浮いた中古だった。
裸電球の下で、兄貴はチェーンを外して、灯油の缶に浸けて、指で一コマずつ汚れを落としていた。
工場の油の匂いがした。
兄貴の指の関節は、その頃からもう、白くひび割れていた。
セメントの粉は、手の脂を全部持っていく。
「明日、これで行くか」
兄貴がそう言って、サドルを俺の背丈に合わせた。
俺はうれしくて、その晩は寝る前に何度も物置を覗きに行った。
自転車は、ハンドルまで拭いてあった。
翌朝、俺はその自転車で卒業式に行った。
たった一年で、俺はそれを恥ずかしいと思うようになった。
※
工場は三交替だった。
一番方、二番方、三番方。
一週間ごとに時間が回っていく。
兄貴が三番方――つまり夜勤の週になると、家の朝が二重になった。
俺が起きる六時半に、兄貴が帰ってくる。
自転車のブレーキが、門のところで一度だけ鳴る。
その音で、俺は目が覚めた。
兄貴は玄関を開けて、まず土間で立ち止まる。
作業服の肩を二回、手のひらで払う。
白い粉が、朝の光の中でゆっくり落ちていく。
それから、俺が前の晩に脱ぎ散らかした運動靴を、爪先を外へ向けて直してから、上がった。
毎朝だ。
一度も欠かさなかった。
俺は布団の中でその音を聞きながら、几帳面な人だな、と思っていた。
ただ、それだけだった。
※
台所ですれ違うとき、兄貴はいつも同じことを言った。
「おやすみ」
これから寝る人間の挨拶だ。
俺はこれから学校へ行く。
だから俺は、こう返す。
「また明日な」
会うのは今日の夕方なのに、俺たちはずっとそう言い合っていた。
いつからそうなったのか、覚えていない。
たぶん兄貴が働き始めた最初の週に、どちらかが言い間違えて、そのまま癖になったんだと思う。
母さんはその掛け合いを聞くたび、笑って味噌汁をよそっていた。
「あんたたち、時間がずれてるだけで、仲がいいんだか悪いんだか」
母さんは、兄貴の作業服だけ、別のたらいで洗っていた。
一緒に洗うと、他の服まで白くなるからだ。
すすいだ水が、最初はミルクみたいに濁る。
それを三回替えて、やっと透きとおる。
母さんはその水を、いつも庭のあじさいの根元に捨てていた。
「土がよくなるんだって、お父さんが」
そう言っていた。
本当かどうかは、いまだに知らない。
悪いに決まってるだろ、と俺は言った。
兄貴は何も言わずに、飯を三杯食って、寝に行った。
兄貴は、寝る前に必ず、風呂場でもう一度、頭を洗った。
夜勤明けの朝に湯を沸かすのは、うちだけだったと思う。
湯気の中で、白い水が排水口へ流れていく音がした。
その音がやむと、家がしんとして、俺は自転車を出して学校へ行った。
町の坂を下りると、工場の煙突が三本、朝の空に立っていた。
いちばん右の煙突から出ている煙が、兄貴の受け持ちだった。
※
中学の三年になった春、俺は進路の紙を渡された。
第一志望に、隣町の県立高校を書いた。
母さんは「よく考えな」と言った。
親父は何も言わなかった。
兄貴だけが、風呂上がりに廊下で「そこ、電車どのくらいかかるんだ」と聞いてきた。
四十分、と俺は答えた。
「早いな。始発だと、俺と一緒になるかもな」
そのとき俺が何と返したか、いまでも一字残らず覚えている。
「一緒にすんなよ」
そう言った。
「俺は、兄貴みたいにはならないから」
兄貴は「そうか」と言って、頭を拭きながら風呂場のほうへ戻っていった。
廊下の電球が、少しだけ古くて、じじ、と鳴っていた。
あのとき、兄貴の耳が赤かったのは、風呂上がりだからだと思っていた。
※
その夏、戸田さんがうちに来たことがある。
事故のあとも、兄貴と同じ班にいた人だ。
母さんがスイカを切って出した。
戸田さんは縁側に腰かけて、種を庭に飛ばしながら、俺に話しかけてきた。
「慎司さんの弟か。似とらんな」
似てません、と俺は言った。
戸田さんは笑って、それから、少しだけ声を落とした。
「あの人な、点検のとき、いつもおれの後ろを歩くんだ」
「前を歩けって言っても、聞かん」
「後ろにおったら、おれが見えんとこが見えるからって」
その意味を、俺はそのとき考えなかった。
兄貴は台所で、戸田さんの湯呑みに氷を足していた。
戸田さんが帰るとき、兄貴は門の外まで出て、自転車の後ろのランプが見えなくなるまで立っていた。
※
俺が言った言葉には、理由があった。
兄貴はその年、工場でひどく静かになっていた。
二年前の秋に、集塵室で事故があったからだ。
事故といっても、誰も帰らぬ人にはならなかった。
戸田さんという若い人が、機械の点検中に粉をかぶって、出口が分からなくなった。
集塵室というのは、空気の中の粉を集める部屋だ。
一度に舞い上がると、三歩先が白一色になる。
戸田さんは十五分ほど、壁づたいに手探りで歩いて、別の班の人に見つけられた。
そのとき、非常扉が閉まっていた。
開いていれば、外の光が入って、方向は分かったはずだった。
扉の前を最後に通ったのが、兄貴だった。
だから、扉を閉めたのは兄貴だということになった。
誰も、そうは言わなかった。
戸田さんは職場に戻って、兄貴に「気にすんな」と言ったらしい。
でも兄貴は、その日から、休みの日でも工場のほうを見なくなった。
それまでは、風呂上がりに縁側から煙突を眺めるのが癖だった。
煙の色でその日の焼き具合が分かるんだと、得意そうに言っていた。
その縁側に、兄貴は座らなくなった。
家で、笑わなくなった。
俺は、その静かさが嫌だった。
夕飯のとき、兄貴は箸を持ったまま、長いこと動かないことがあった。
母さんが「慎司」と呼ぶと、はっとして食べ始める。
親父は、それを見ても何も言わなかった。
たぶん、言い方を知らなかったのだと思う。
俺も知らなかった。
この家は、みんな、そうだった。
嫌だという言い方を知らなかったから、あんな言い方になった。
※
その年の九月、兄貴はいなくなった。
朝のことだった。
夜勤明けの週で、いつものように、門のところで自転車のブレーキが鳴った。
俺は布団の中でそれを聞いた。
土間で肩を払う音がした。
台所へ行くと、兄貴は湯呑みを持って立っていた。
「おやすみ」
そう言った。
俺は制服のボタンを留めながら、生返事をして、玄関を出た。
昼前に、母さんが学校へ来た。
そこから先のことは、うまく書けない。
書こうとすると、手が別のことを書き始めてしまう。
あの日、家には工場の人が何人も来て、母さんの代わりに電話に出ていた。
俺は二階の階段の途中に座って、下の声を聞いていた。
誰かが「慎司は、まじめすぎた」と言った。
その言葉が、いちばん、腹が立った。
まじめだから、ああなったみたいに聞こえたからだ。
兄貴は、まじめだから、二年間も俺の靴を直していたのに。
半年経った今でも、そうだ。
※
母さんは冬になっても、兄貴の茶碗を出し続けた。
十一月に、学校で担任に呼ばれた。
「無理して来なくていいぞ」と言われた。
俺は「大丈夫です」と答えた。
大丈夫じゃなかったが、家にいると、朝の六時半に耳が勝手に起きた。
体が覚えてしまった時間は、なかなか忘れてくれない。
目が覚めてから、何も鳴らないことを確かめる時間が、いちばん長かった。
部活も、そのまま続けた。
走っているあいだだけは、何も考えなくてよかったからだ。
門のところで、自転車のブレーキが鳴るのを待ってしまうからだ。
学校に行っているほうが、まだよかった。
親父は工場を休まなかった。
朝、いつもの時間に出ていって、いつもの時間に帰ってくる。
ただ、玄関の電気を消さなくなった。
俺は、何度も同じ朝を思い返した。
川原へ行くこともあった。
石灰の粉が流れ込むせいで、白岩の川の石は、どれも表面が白い。
小さい頃、兄貴とそこで水切りをした。
兄貴は五回跳ばして、俺は二回で沈めた。
「腕じゃない。石の選び方だ」
そう言って、平べったい石をいくつも拾って、俺のポケットに入れてくれた。
あの冬、俺は同じ場所で石を拾って、一つも投げずに帰った。
あの朝の兄貴は、いつもどおりだった。
肩を払って、湯呑みを持って、おやすみと言った。
いつもどおりだった。
そう思うことで、なんとか息をしていた。
※
年が明けて、二月の終わりに、工場の大谷さんという人が家に来た。
兄貴の班の、いちばん古い人だ。
線香をあげたあと、大谷さんは玄関の三和土を、長いこと見ていた。
俺と親父の靴が、めちゃくちゃに脱ぎ散らかしてあった。
「亮くん」
大谷さんは、そう俺を呼んだ。
「慎司は、家でも履物を外に向けとったか」
はい、と俺は答えた。
毎朝、俺の靴だけ直してました、と。
大谷さんは、ゆっくりうなずいた。
「あれは工場の癖だ」
そう言った。
「粉の中じゃ、三歩先が見えん。目が使えん。だから履物は、いつも外を向けて置く。出口の向きを、足で覚えるためだ」
俺は、その意味が分かるまでに、少し時間がかかった。
兄貴は、二年間、毎朝、俺の靴を出口の向きに直していた。
俺がいつでも、まっすぐ外へ出られるように。
※
大谷さんはそのあと、湯呑みを両手で持ったまま、うつむいて言った。
「あの扉な」
集塵室の、非常扉のことだった。
「あれを閉めたのは、おれだ」
風が入ると粉が舞う。だから閉めるのが決まりだった。
大谷さんが閉めて、そのあとに兄貴が通った。
順番が、逆だったのだ。
「言おうと思った日は、何遍もあった」
大谷さんは、そう言った。
「言えんかった」
大谷さんは、湯呑みの縁を親指でなぞりながら、続けた。
「秋に一度、言いかけたことがある」
工場の食堂で、兄貴と二人になったときだ、と大谷さんは言った。
「戸田の一件だがな、と言うたところで、あいつが先に立った」
「湯呑みを流しに持っていって、そのまま帰った」
「あれは、逃げたんじゃないと、おれは思っとる」
「おれに言わせたら、おれが背負うことになる。それが分かっとったんだ」
大谷さんの声は、そこで一度、止まった。
「あいつは、そういう順番の考え方をする男だった」
俺は、玄関の三和土のほうを見た。
兄貴が二年間、毎朝やっていたことを思った。
親父は何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
大谷さんの湯呑みから、湯気が上がって、それが途中で見えなくなった。
※
大谷さんが帰ったあと、俺は兄貴の部屋に入った。
机の引き出しに、俺の高校の願書の下書きが入っていた。
俺が名前の欄を書き損じて、丸めて捨てたやつだ。
それが、しわを伸ばして、四つ折りにしてしまってあった。
同じ引き出しに、兄貴の手帳があった。
三月十日のところに、赤いボールペンで丸がしてあった。
俺の、合格発表の日だった。
手帳には、ほかにも丸がついていた。
六月の第二日曜。
俺の、最後の陸上の大会の日だ。
その日、兄貴は二番方で、家にいなかったはずだった。
いなかったはずの日に、丸がついていた。
ページの端に、鉛筆で薄く、競技場までのバスの時刻が書いてあった。
その丸は、去年の秋に書かれたものだった。
インクの色が、前の年の予定と同じだった。
その年の秋、兄貴はいちばん静かだった。
いちばん静かな時期に、兄貴は俺の春に丸をつけていた。
兄貴は、その日を見られないと知らずに、丸をつけたのだ。
※
俺は、あの朝のことを、もう一度思い返した。
自転車のブレーキ。
肩を払う音。
湯呑み。
おやすみ。
そこで、指が止まった。
あの朝、兄貴は「おやすみ」と言った。
俺は生返事をして、玄関を出た。
俺は「また明日な」を、言っていない。
そして、玄関を出るとき、俺の運動靴は、内を向いたままだった。
半年間、俺はそれを思い出さずにいた。
思い出せなかったんじゃない。
見ていたのに、見えていなかった。
あの朝だけ、俺の運動靴は、内を向いたままだった。
※
半年前の俺へ。
だから、頼む。
二月のうちに、これをやってくれ。
まず、こたつから出ろ。
台所へ行って、兄貴の帰りを待て。
門のところでブレーキが鳴ったら、玄関に立っていろ。
兄貴が土間で肩を払っているあいだに、こう言え。
「あの扉、閉めたの、兄貴じゃないよ」
理由は言わなくていい。お前はまだ知らないんだから。
それでも言え。何回でも言え。
言い方が下手でもいい。
うちの家は、みんな言い方が下手だ。
それから、これも言え。
兄貴の指のひび割れに、母さんの薬を塗ってやれ。
嫌がるだろうけど、押さえつけてでも塗れ。
塗りながら、何でもいいから喋れ。
学校のことでも、テレビのことでもいい。
黙って塗るな。
うちの家は、黙るのが一番うまいんだ。
それから、これも言ってくれ。
「一緒にすんなよ」なんて言って悪かった。
本当は逆だ。
学校で、俺は兄貴のことばかり喋っていた。
うちの兄貴は工場でキルンを回してるんだ、と。
町の煙突の煙は、うちの兄貴が出してるんだ、と。
自慢していた。
面と向かって、一度も言わなかっただけだ。
※
三月十日に、俺は受かった。
母さんは玄関で泣いて、親父は「そうか」とだけ言った。
俺は靴を脱いで、上がる前に、爪先を外へ向けて直した。
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
手が勝手に動いた。
そうしたら、母さんが黙って、隅にあった兄貴の長靴も、同じ向きに直した。
二人とも、何も言わなかった。
白岩の煙突からは、その日も白い煙が上がっていた。
いちばん右の煙突だ。
俺は自転車を停めて、しばらくそれを見ていた。
煙は、風がないと、まっすぐ上へ伸びる。
白い煙は、遠くから見ると、雲と区別がつかない。
俺は、あの工場を恥ずかしいと思わなくなった。
たぶん、これからも思わない。
※
半年前の俺へ。
しくじるなよ。
音を立てるなよ。
母さんが起きるから。
兄貴が土間にいるうちに、言え。
頼む。
頼むから、この手紙を、半年前へ送らせてくれ。
そっちの朝は、まだ間に合う。
おやすみ。
また明日な。
バカ兄貴。