手首の紐でつながれた夜

兄の涙と抱擁

あの夜、俺と兄の手首は、一本の紐で結ばれていた。

体育館シューズの白い紐だった。長さは、ちょうど一メートルほど。

手首の紐のことを思い出すたびに、先に浮かぶのは兄の顔だ。

痩せて、目の下に隈をつくって、それでも笑っていた顔。

中学二年の夏、俺は目の前で、幼馴染の孝介を失った。

孝介とは、物心ついた頃から一緒だった。

同じ保育園で、同じ小学校に通った。

家は、細い路地を挟んで、向かい合って建っていた。

夕方になると、どちらからともなく二階の窓を開けた。

「おーい」と呼べば、「おーう」と返ってくる。

それが、俺たちの毎日の挨拶だった。

孝介は、サッカーが下手だった。それなのに、誰よりも大きな声でボールを呼んだ。

給食のコッペパンを半分に割って、大きいほうを俺に差し出すのが癖だった。

兄にも懐いていて、よく三人で、路地の奥の空き地で缶蹴りをした。

兄は鬼になるのが上手くて、孝介はいつも一番に見つかった。

雨の日も、風の日も、テストの前の日も。

その返事が、七月のある日を境に、聞こえなくなった。

七月の交差点

あの日は、期末試験の最終日だった。

昼前に学校が終わり、俺と孝介は、自転車を並べて帰った。

瀬戸内の港町は、七月の光で白く灼けていた。

防波堤の向こうで、フェリーが汽笛を鳴らしていた。

「今年の港祭り、花火、いちばん前で見ようぜ」

「いちばん前って、どこだよ」

「防波堤の先っぽ。去年、先輩たちが陣取ってたとこ」

孝介は、ペダルを踏みながら、そう言って笑った。

「その前に、花火、俺たちでもやろう。駄菓子屋で、でかいの買ってさ」

「金ないだろ」

「試験が終わったら、なんとかなる」

そんな他愛のない話をしていた。

町の中心へ抜ける交差点は、信号が変わるのが遅かった。

俺は、青になるのを待って、足を地面についた。

孝介は、先に出た。

「早くしろよ」

振り返って、そう言ったのが、最後だった。

ブレーキの音が、空気を裂いた。

何が起きたのか、俺には、すぐに分からなかった。

自転車の前輪が、道の端で、ゆっくり回っていた。

それだけを、今でもはっきり覚えている。

救急車のサイレンが近づいてきても、俺は、その場から動けなかった。

気づくと、誰かの大きな手が、俺の肩を掴んでいた。

警察の人に、見たことを聞かれた。

どちらが先に出たのか。信号は、何色だったのか。

「青でした」と、俺は答えた。何度聞かれても、青だった。

それは、本当のことだった。

それなのに、自分が止められなかった気がして、答えるたびに声が小さくなった。

病院の廊下は、冷房が効きすぎていて、ひどく寒かった。

孝介のお母さんが、床にしゃがみこんで、声を出さずに泣いていた。

俺は、その背中を、見ていることしかできなかった。

葬儀の日は、蝉がうるさかった。

黒い服の人たちの足元で、蝉の抜け殻が、白く乾いていた。

斎場の駐車場で、孝介のお父さんが、俺の前に膝をついた。

目の高さを合わせて、言った。

「見ていてくれて、ありがとう。ひとりじゃなかったんだな、あいつは」

その言葉を、俺は受け取ることができなかった。

見ていただけの自分が、許せなかった。

兄は、その日、一度も泣かなかった。

「しっかりしろ」と、俺の背中を叩いていただけだった。

初七日のあと、孝介のお母さんが、うちに来た。

菓子折りの箱を、両手で差し出して、言った。

「あの子の机に、置いてあったの。あなたに渡すものだと思うから」

箱の中には、紙飛行機が入っていた。

前の晩に、折ったものだという。

翼の裏に、鉛筆で、小さく書いてあった。

「港祭り いちばん前」

俺は、その字を見た瞬間、息の仕方を忘れた。

家に帰って、ひとりになってから、何度も、その四文字を指でなぞった。

鉛筆の粉が、指先に、うっすらと移った。

百円ショップの花火

葬儀のあと、俺は、うまく眠れなくなった。

目を閉じると、あの前輪が、ゆっくり回りはじめる。

何度寝返りを打っても、止まらなかった。

食べ物も、喉を通らなくなった。

母が作ってくれた味噌汁を、一口飲むと、胃が逆さまに動いた。

吐いては、また口に入れて、また吐いた。

体重は、ひと月で六キロ落ちた。

制服のズボンが、ベルトなしではずり落ちた。

風呂場で、自分の肋骨の数を数えた。

数えられる自分が、他人のように思えた。

「少しでいいから、食べなさい」

母は、泣きそうな顔で、おかゆを差し出した。

「ごめん。食べたいんだけど、入らない」

そう答えるのが、精いっぱいだった。

プリンを一口で吐いた日、母はトイレの前で、背中をさすってくれた。

「あんたが吐いた分は、お母さんが食べとくからね」

そう言って、無理に笑った母の目の縁が、赤かった。

夕方、母が仕事から帰る前に、俺は台所でこっそり冷蔵庫を開けた。

食べたいものは、頭に浮かぶ。それなのに、手が止まった。

担任の先生が、クラスの寄せ書きを届けに来たこともある。

色紙には、見知った字が並んでいた。

同じクラスの隼人が、一度だけ、家の前まで来たらしい。

インターホンを鳴らせずに、帰っていったそうだ。

翌朝、ポストを開けると、孝介が好きだったコーラ味のガムが、一枚だけ入っていた。

「待ってるよ」「また一緒にサッカーしよう」

どの言葉も、ありがたかった。

でも、読み終えると、体が少しずつ冷えていった。

ある午後、俺は、ふらりと家を出て、百円ショップへ行った。

手持ち花火のセットを、ふたつ買った。

ひとつは、自分の分。もうひとつは、孝介の分。

袋を提げて、孝介の家の前を通ると、窓は閉まったままだった。

「おーい」と、小さく言ってみた。

返事は、なかった。

家に帰っても、俺は、その袋をベッドの脇に置いた。

夜になると、袋の中の花火が、かさかさと鳴る気がした。

紙飛行機は、枕の下に入れた。

潰さないように、そっと。

夜中に玄関に立つ

八月に入ると、夜が、いちばん怖くなった。

窓を叩く風の音が、誰かの呼び声に聞こえる夜もあった。

眠っているはずなのに、気づくと、俺は玄関に立っていた。

裸足で、鍵に手をかけていた。

「孝介が、迎えに来たんだ」

ある夜、そう口走って、父に肩を掴まれた。

「花火、やりに行くって、約束したんだ」

「落ち着け。こんな夜中に、誰もいない」

父の声が、震えていた。

母は台所で、膝を抱えて座っていた。

夜中にトイレへ立つと、玄関の小さな神棚の前で、母が手を合わせていた。

「うちの子を、連れていかんといてね」

小さな声だった。俺は、気づかれないように、そっと引き返した。

その肩が、小刻みに揺れているのを、俺は見ていた。

それからの父は、毎晩、俺の部屋のドアの前に座った。

廊下の床に腰を下ろして、本を読むふりをしていた。

ページをめくる音が、いつまでも、しなかった。

ある夜、ドアの隙間からのぞくと、父が読んでいる本は、上下が逆さまだった。

医者にも連れていかれた。

白い診察室で、先生は、静かに言った。

「大きなことが起きると、心と体が、びっくりしてしまうんです。ゆっくりやりましょう」

薬は、少しだけ出た。でも、夜は、よくならなかった。

その頃から、兄が、俺の部屋に布団を持ち込むようになった。

兄は三つ上の、中学三年生だった。

受験生だった。

夏休みは、塾の夏期講習が、朝から晩まで入っていた。

それでも兄は、帰ってくると、黙って俺のベッドの下に、布団を敷いた。

「兄ちゃん、受験勉強は」

「ここでもできる」

そう言って、小さな電気スタンドを、壁際に置いた。

俺が眠るまで、スタンドの明かりは、消えなかった。

時々、兄が、問題集を閉じる音がした。

そのたびに、俺は眠ったふりをした。

夢を見て、暴れる夜もあった。

覚えているのは、断片だけだ。

自転車の前輪。白い光。「早くしろよ」という声。

目を開けると、兄が、俺の肩を押さえていた。

兄の頬には、赤い線が何本も走っていた。

俺が寝ぼけて、爪を立てたらしい。

「痛くないよ」と、兄は言った。

兄の机のノートを、こっそり開いたことがある。

余白に、小さな字で、毎晩の日付と時刻が並んでいた。

「2:10 起きた。水」

「3:40 泣いた。背中をさする」

受験の公式より、そちらのほうが、ずっと細かく書かれていた。

「蚊に刺されたみたいなもんだ」

そんなはずは、なかった。

一度だけ、夜中に家を抜け出して、あの交差点まで歩いたことがある。

信号は、点滅する黄色だけを繰り返していた。

俺は、縁石に座り込んだ。腕の中には、百円ショップの花火の袋があった。

どれくらい、そうしていただろう。

足音がして、顔を上げると、息を切らした兄が立っていた。

兄は、叱らなかった。黙って、隣に腰を下ろした。

「帰るぞ。腹、減ったろ」

それだけ言って、俺の肩にジャンパーをかけた。

真夜中の二時、台所から、卵を割る音がした。

兄が、小さな鍋で、卵がゆを作っていた。

「食え。ひと匙でいい」

湯気の向こうで、兄は、眠そうな顔をしていた。

俺は、ひと匙だけ、口に入れた。

今度は、吐かなかった。

そのとき、兄の机の上が、ちらりと見えた。

兄の机の上には、海の向こうの県にある高校のパンフレットが開いたまま置いてあった。

陸上の強豪校で、寮があるらしい。

兄は足が速かった。俺の自慢の兄だった。

そのパンフレットは、いつの間にか、机から消えていた。

手首の紐でつながれた夜

八月の終わり近い、ある夜のことだ。

ふと、目が覚めた。

天井が、いつもより低く見えた。

窓の外では、遠くの船の灯りが、ゆっくり動いていた。

あの灯りを、孝介の部屋の窓の明かりだと思い込もうとして、やめた。

左の手首が、何かに引っ張られている。

首を動かして、見た。

白い紐が、俺の手首から、ベッドの縁を越えて、下へ伸びていた。

その先は、床に敷かれた布団の中の、兄の右手首に結ばれていた。

体育館シューズの紐だった。

固結びで、何重にも巻いてあった。

兄は、俺のベッドの下で、眠っていた。

スタンドの薄明かりの中で、その寝顔を見た。

頬が、こけていた。

肩の骨が、シャツの下で、尖って見えた。

久しぶりに、頭の中が、はっきりしていた。

「ああ、兄ちゃん、痩せたな」

兄の寝息は、波のようだった。吸って、吐いて、吸って、吐いて。

その呼吸に、いつのまにか、自分の息を合わせていた。

俺は、思った。

「俺のせいで、心配をかけているんだな」

涙が、勝手にあふれた。

拭おうとして腕を動かすと、紐がぴんと張った。

その気配に、兄が、はっと飛び起きた。

「○○!」

俺の名を呼んで、兄は、俺にしがみついた。

俺が泣いているだけで、暴れていないのを見て、兄は、ほっとした顔をした。

そして、強く抱きしめた。

「怖い夢を見たのか。大丈夫だ。兄ちゃんが、ずっと付いてるからな」

そう言って笑った兄の顔は、細い引っかき傷だらけだった。

それを見て、また、涙が止まらなくなった。

兄は、俺の頭を撫でながら、静かに言った。

「孝介は、可哀想だったな」

「うん」

「でもな、俺は、お前の兄ちゃんだ。だから、お前がいちばん大事だ」

「……」

「お前に何かあったら、俺は悲しいし、寂しい。だから……兄ちゃんを、置いて行かないでくれ」

その言葉に、俺は、声をあげて泣いた。

兄も、一緒に泣いてくれた。

葬儀の日、一度も泣かなかった兄が、その夜、初めて泣いた。

孝介のために。そして、俺のために。

缶蹴りの夕暮れが、頭に浮かんだ。

最初に見つかった孝介を指さして、「お前、隠れるの下手すぎ」と笑う兄の声。

あの声と、いま俺の肩の上で震えている声が、同じものだとは、思えなかった。

朝、母がドアを開けて、紐でつながれた俺たちを見た。

母は何も言わずに、涙をぬぐって、二人分の朝ごはんを並べた。

あの夜から、少しずつ、少しずつ、俺は変わっていった。

頭がはっきりする時間が、増えた。

お粥から、うどんに。うどんから、白いご飯に。

食べたものを、吐かなくなった。

その間も、兄は、毎晩、紐を結んで寝た。

けれど二週間ほど経った頃から、紐は少しずつ、ゆるくなっていった。

一メートルの外側

八月の最後の夜、港で花火大会があった。

俺と兄は、百円ショップの花火を提げて、防波堤の先まで歩いた。

「いちばん前で見るって、約束してたんだ」

「ああ。ここが、いちばん前だ」

遠くの海の上で、大きな花火が、咲いては散った。

その音が、遅れて、胸に響いた。

兄は、バケツに海水を汲んできた。

俺は、袋から、孝介の分の花火を出した。

火をつけると、細い光が、パチパチと音を立てて、闇を走った。

「おーい」と、俺は、小さく言った。

波の音の向こうで、どこかから「おーう」と返った気がした。

気のせいだと分かっていたけれど、俺は、笑って、泣いた。

最後に、枕の下の紙飛行機を、防波堤の先から飛ばした。

翼の裏の文字が、花火の光で、一瞬だけ浮かんだ。

紙飛行機は、海風に乗って、思ったより遠くまで飛んだ。

兄は、白い翼を、じっと目で追っていた。

「あいつ、ちゃんと一番前に着いたかな」

ぼそりと言った兄の横顔に、花火の色が揺れた。

手首の紐の結び目は、あの夜から毎晩、兄が自分で解いて、結び直していたのだと、そのとき気づいた。

俺は、それから一年近く学校を休み、中学二年を、もう一度やり直した。

兄は、その冬、家から自転車で通える公立高校を受けて、合格した。

掲示板の前で、小さくガッツポーズをする兄を、俺は少し離れて見ていた。

帰り道、兄は自転車を押しながら言った。

「これで毎朝、お前の寝坊を起こしに来れるな」

あれから、二十年近く経った。

あの夜の紐は、今も俺の机の引き出しにある。

ほどけない固結びのまま、丸まって、静かに眠っている。

俺は三十を過ぎて、地元を離れ、別の街で働いている。

兄は実家の近くで、結婚して、子どもが二人いる。

兄の長男は、今年で十四になる。

孝介が旅立った年の、俺と同じ歳だ。

その子が玄関で靴を履く背中を見ていると、胸のあたりが、きゅっと締まる。

去年の正月、帰省して、兄と二人で炬燵に入った。

兄の子どもたちは、母の膝で、うとうとしていた。

二学期の始業式の朝を、思い出した。

制服に袖を通したまま、玄関で立ち尽くした日のことだ。

靴は履けた。でも、足が、その先を拒んだ。

母は「今日は休もう」と言って、鞄をそっと下ろしてくれた。

あの朝の母の手の温度を、兄も、きっと覚えている。

兄は、笑いながら、湯呑みを傾けた。

テレビでは、年末の歌番組の録画が、小さな音で流れていた。

兄の横顔を見ていて、ふと、聞いてみたくなった。

「兄ちゃん、あのとき、行きたい高校、あったんじゃないの」

兄は、一瞬、手を止めた。

「何の話だ」

「机にパンフレット、あったろ。寮のある、県外のやつ」

「……見てたのか」

兄は、湯呑みを置いて、天井を見上げた。

「あの紐は、一メートルしかなかった」

「え」

「一メートルより遠い高校は、最初から志望校じゃなかったんだよ」

俺は、炬燵の布団の下で、自分の左手首を、そっと握った。

そこには、もう何も巻かれていなかった。

それでも、手首の紐の先に、兄の脈が、あの夜と同じ速さで触れている気がした。

兄との距離をめぐる話は、雪の夜の未送信メールにも、父と息子の話は父のタスキを渡された日にも綴っています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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