
映画館の暗がりで、私は拍手ができませんでした。
当時二十一歳。東京で暮らしていた私は、銀座の映画館に、軽い気持ちで入りました。
特攻出撃を前にした学徒兵たちの「最後の演奏会」が、映画になったと聞いたからです。
九州の新聞に載った小さな記事が、物語の始まりでした。
客席には、白髪の男性がたくさんいました。
銀座の映画館の拍手
エンドロールが流れ始めたときでした。
隣に座っていた老夫婦のおじいさんが、突然立ち上がり、拍手を始めました。
一人だけの、乾いた音でした。
周りの誰も、手を動かしませんでした。
それでもおじいさんは、スクリーンに向かって、長いあいだ手を打ち続けていました。
私は、その横顔を見ることができませんでした。
膝の上で握った手が、汗で湿っていたのを覚えています。
若い私には、あの拍手の意味がわからなかったのです。
悲しい物語に拍手をしてよいのか。
拍手をしたら、何かを軽く扱ってしまうのではないか。
そんな迷いが、私の両手を動かなくしました。
場内が明るくなると、白髪の男性たちは、ほとんど言葉を交わさずに席を立ちました。
ハンカチで目元を押さえる人もいれば、ただ天井を見上げている人もいました。
あの人たちの中には、同じ時代を生きた人がいたのかもしれません。
誰かの友人を、兄を、あるいは自分自身の若い日を、スクリーンの向こうに見ていたのかもしれません。
映画館を出ると、銀座の夜は明るく、人々は笑いながら歩いていました。
信号待ちのあいだ、私は自分の手のひらを見つめていました。
何もつかめなかった手でした。
あれから長い月日が流れました。
この最後の演奏会の話を思い出すたび、私は暗い客席に響いた拍手の音を思い出します。
その実話を、ここに書き留めます。
鳥栖小学校に来た二人
昭和二十年五月。
米軍が沖縄に上陸し、戦況が日ごとに厳しくなっていた頃です。
佐賀県の鳥栖小学校でも、校庭の隅は芋畑に変わり、子どもたちは防空頭巾を持って通っていました。
音楽の授業は減り、ピアノの蓋は閉じられたままの日が多かったといいます。
そんな初夏の午後、二人の若い陸軍将校が、校門をくぐりました。
応対したのは、音楽を教えていた上野歌子先生でした。
目達原には、陸軍の飛行場がありました。
若い搭乗員たちが、そこから次々と南の空へ向かっていた時期です。
出撃の日が決まった者は、荷物を整え、家族への手紙を書いたといいます。
その合間を縫うようにして、二人は基地の門を出たのでしょう。
鳥栖までは、歩けば一時間以上かかる道のりです。
麦畑の脇を抜け、土手を越え、二人は黙々と歩いたのだと思います。
二人は、目達原の基地から歩いてきたそうです。
軍靴には、白い土埃がついていたことでしょう。
先生の前で、二人は帽子を取りました。
「お願いがあります」
そのような言葉だったと、私は想像します。
特攻の出撃を前に、一度でいいからピアノを弾きたい。
自分たちだけの演奏会を開かせてもらえないか、というのです。
最後の演奏会を願う二人の顔を、先生は、少しのあいだ見つめたのではないでしょうか。
まだ少年の面影を残した頰。
けれど、目の奥だけは、すでに遠いところを見ていた。
先生の胸には、教え子を戦地へ送り出した日の記憶もあったかもしれません。
それでも先生は、迷わずうなずきました。
「ピアノは、音楽教室にございます」
「お借りしてもよろしいのでしょうか」
「どうぞ。思う存分、お弾きください」
そんな短いやりとりがあったのではないかと、私は思います。
短い言葉のほうが、かえって深く伝わる日もあります。
音楽教室の扉が、二人のために開かれました。
二人は、深く頭を下げました。
音楽室へ向かう廊下は、床板が少しきしんだことでしょう。
一歩ごとに、軍靴の音が高い天井に響いたはずです。
その音を、廊下の先で遊んでいた子どもたちが聞きつけて、足を止めたのかもしれません。
きっと、礼の言葉は出なかったのだと思います。
言葉にすれば、何かがこぼれてしまいそうだったから。
最後の演奏会の放課後
放課後の音楽教室は、静かだったそうです。
窓から、傾いた西日が差していたかもしれません。
古いピアノの蓋が上がり、鍵盤が光を受けました。
象牙色の鍵盤には、子どもたちの指の跡が、うっすらと残っていたかもしれません。
それを、二人は指先でそっとなぞったのではないでしょうか。
ペダルを踏む足の下で、床板がかすかに鳴りました。
指が、ひとつ目の音に触れる。
その一音が、まだ誰もいない廊下まで届いたのでしょう。
二人は、交替でピアノの前に座りました。
最初に流れたのは、ベートーベンの「月光」でした。
ゆっくりと沈んでいく三連音が、教室の隅々まで満ちていきます。
聴いているほうは、静かに目を閉じていたのでしょう。
弾き終えると、二人は席を入れ替えました。
譜面を使わずに、指だけが覚えていた曲を、続けて奏でたといいます。
学生の頃に弾いた曲だったのか。
家の居間で、母に聴かせた曲だったのか。
音は、何も答えません。
ただ、鍵盤の上を、静かに流れていきました。
戦争がなければ、二人は音楽の道に進んでいたのかもしれません。
大きな舞台で、拍手を浴びる未来があったのかもしれません。
けれど、今ここにあるのは、古い小学校のピアノだけです。
観客は、先生と、扉の隙間から覗く子どもたちだけです。
それでも二人は、一音も手を抜かなかったように、私には思えるのです。
最後の演奏会だからこそ、一音ずつを確かめるように弾いたのではないでしょうか。
いつのまにか、廊下に子どもたちが集まっていました。
学童たちは、扉の隙間から、息をひそめて聴いていました。
知らない曲でした。
けれど、その音が特別なものであることは、幼い耳にも伝わったはずです。
一人の男の子は、きっと足を踏み替えることさえ忘れていたでしょう。
扉の向こうで、こんなささやきがあったかもしれません。
「あれは、なんの曲やろか」
「知らん。ばってん、きれいかね」
「しぃっ。聞こえんくなる」
幼い声は、ピアノの音の邪魔にならないように、すぐに消えていきました。
小さな胸の中に、その旋律だけが静かに積もっていったのだと思います。
大人たちが何を背負って弾いているのか、子どもたちにはまだわかりません。
けれど、わからないままに受け取った音ほど、人の中に長く残るものです。
最後の和音が消えたあとも、誰も動きませんでした。
余韻だけが、天井の近くをいつまでも漂っていたそうです。
演奏が終わると、教室は深い静けさに包まれました。
上野先生は、二人に深く頭を下げました。
そして、子どもたちとともに「海行かば」を歌いました。
二人の少尉も、声を合わせたそうです。
小さな声と、低い声が、ひとつに重なりました。
翌朝の南の空
帰り際、二人はこう言い残して去りました。
「この戦争はいつかは終わる。けれど、自分たちが死ななければ、この国を子供たちに残すことはできない」
先生も、子どもたちも、何も言えなかったでしょう。
子どもの一人が、手を振ろうとしたかもしれません。
けれど、その手は途中で止まり、そっと下ろされたのではないでしょうか。
見送る側にも、見送られる側にも、言えない言葉がありました。
夕暮れの校門で、二人の背中は、だんだん小さくなっていきました。
その夜、先生は眠れたでしょうか。
職員室の灯りの下で、ひとり、ピアノの蓋を見つめていたかもしれません。
蓋の上には、二人が置いていった帽子の跡のような、うっすらとした埃の輪が残っていたことでしょう。
それを拭き取る気には、きっとなれなかったはずです。
翌日の朝、鳥栖小学校の上空に、一機の飛行機が姿を現しました。
機体は、校庭の上でゆっくりと翼を振り、そのまま南の空へ飛び去っていきました。
その飛行機には、前日の演奏会を開いた二人の若い魂が乗っていたのかもしれません。
校庭にいた誰かが、空を見上げて立ち尽くしたのだと思います。
子どもたちは、その日のことを、何十年経っても忘れなかったそうです。
大人になってから、ふとピアノの音を聞くたびに、あの放課後を思い出した人もいたでしょう。
今でも、あのときのピアノは、鳥栖小学校に大切に保管されています。
戦火をくぐったピアノは、静かに、あの日の音を覚えているようです。
鍵盤に触れた指の温度は、もう残っていません。
それでも、あの日の音は、確かにこの国のどこかに残っていると思うのです。
二十一歳の私は、あの夜、拍手ができませんでした。
けれど今は、あのおじいさんの拍手が、ようやく私の中で鳴ります。
弾いた人たちに向けて、聴いた子どもたちに向けて、手を打ちたいのです。
言葉にならないものを受け取る物語は、祖父は俺の右耳の横を見て話すにも流れています。
静かな祈りを描いた話として、公衆電話の列でいつも順番を譲る人もあわせて読んでみてください。